或る人の言葉

或る人が言った。

君を愛する人がこの世から一人もいなくなったら、その瞬間に君は死ぬ。それは神が定めた法則なのだ。だから、君がいま生きているってことは、この世界の中で、少なくとも誰か一人に愛されているってことなのだよ、と。

僕は或る人に尋ねた。

それは、いったい、誰なのでしょう。僕を愛してくれている人というのは、どこの誰なのでしょう。

或る人が言った。

おや、疑っているのかね。だが、いま君は、こうして生きているではないか。だから、疑ってはいけない。この世界に、君を愛している人が、必ず一人は、いるのだよ。

けれども僕は、信じられなかった。僕を愛している人がいるって?いるわけがない。バカを言っちゃいけない。そんなのは、嘘だ。嘘に決まってる!いったい、どこに、そんなおめでたい奴がいるっていうんだ?!

僕は叫んだ。「そんなバカな奴がいるなら、さあ、ここに連れてきてくれ!」

すると、或る人は、笑って言った。

そこにいるではないか。君自身だよ。

 

モネ 「日傘をさす女」 幸福の一瞬の閃光


この瞬間のためなら死んでもいい。

人生に一度あるかないか、そういう一瞬の光景を、モネはカンバスに写し取った。

日傘をさす女。

モネの最初の妻カミーユが、逆光の影となってモネに悲しげな微笑みを投げかけている。傍らには幼い息子ジャンが無垢な紅い頬をして立っている。風が吹き抜ける。そして青い空。そして輝く白い雲。そして燃え立つ草花。それを見ている画家モネの視線そのままに、その一瞬は切り取られ、カンバスに写し取られた。

 

カンバスから溢れ出る光!

が、その輝く光の影となって画家に視線を投げかける最愛の妻。

貧困にあえぐ画家モネは、この最愛の妻カミーユを幸せにすることができなかった。

苦労をかけっぱなしだった。

そして貧困と病苦のうちに若くしてカミーユは逝った。

何一つとして、いっさい、モネは、彼女の愛に応えてやることができなかった。

無能な男。甲斐性無しのダメ亭主。これに尽きる。

が、この無能な男には、ひとつだけ、希有な才能があった。

光をカンバスに写し取るという、神業を持っていた。

男はその空前絶後の自らの特技を駆使して、妻の姿をカンバスに描いた。描き続けた。男の絵は売れなかった。売れても二束三文だった。それでも男は最愛の妻を描き続け、そうして或る晴れた夏の日の散歩の途中、モネは、生涯にただ一度だけ訪れる至上の一瞬に邂逅し、その一瞬をあやまたず、余すところなくカンバスに写し取った。

天才。という言葉は、この瞬間の画家モネのためにある。

神はこの無能な男に、この一瞬の小さな光景をカンバスに写し取らせるために、ただそれだけのために、画家としての天賦の才を与えたのである。

そしてこの世に生まれたモネ畢生の名画、「日傘をさす女」。

近代絵画の最高傑作と言っていい。

この一瞬の光と影を写し取ったカンバスに満ちあふれる人生の愛おしさと、その反面にひそむ悲しみの深さはどうだ。追っても追っても追いつけず、抱き留めても抱き留めてもすり抜けてしまう、そういう決して永遠に自分のものにはできない、あまりに儚い幸福が放つ一瞬の閃光。いま、まさに今、この手でしっかりとつかんでおかなければ永遠に失ってしまうことがわかっているのに、わかっていたはずなのに、この手でつかんでいたはずなのに、この手からこぼれて永遠に見失ってしまった幸福の遠い記憶。そういう人としての喜びと悲しみとが、一瞬の光と影によってカンバスに写し取られている。

 

この絵の前で、人は立ちつくすであろう。自らが見失ってしまった一瞬の至福の記憶を脳裏に探し求めて、モネの視線でカミーユのベールの奥の悲しげな瞳をじっと見つめるであろう。そして幸運な人は、脳裏にかすかに残っていたその一瞬の記憶の残像に回帰するであろう。懐かしい人、こよなく愛した人の笑顔をはたと思い出すであろう。そして彼は思うであろう。「ああ、おれは、なんてバカだったんだ」と。

 

印象派は、19世紀サロンを支配する新古典派、アカデミズムへの反発から生まれた。神話世界の神々を描くのではなく、人間がこの世でこの目で見たものを描くのだ。ビーナスではなく、女を描くのだ。なるほど新古典派の超絶技巧で描かれたギリシャ神話の神々は美しく文字通り神々しい。磨きこまれた大理石のように白く滑らかな肌で完璧なプロポーションの女神が天使とたわむれる光景は見る者をして恍惚とさせる。それにくらべて、印象派の描く女はどうだ。そのへんにいるふつうの女じゃないか。そう。そのとおり。そのへんの女そのままなのだ。モネの妻カミーユも、無論、ふつうの女だった。が、女神を描く新古典派の画家には、このカミーユの微笑は描けない。この瞬間のためなら死んでもいいという、そういう「永遠の一瞬」は描けない。なぜならこの人生を生きるのは、神ではなく、人間だからだ。神は、「永遠の一瞬」を知らない。「永遠の一瞬」を知るのは、その深い喜びと悲しみとを知るのは、この娑婆苦土で愚かな煩悩に苦しみもがきながら懸命に生きる惨めな人間にのみ許された特権なのだ。

 

カミーユが逝った後、モネは元パトロンの妻を後妻にする。カミーユの存命中から関係をもっていたとも伝わる。モネは、その後、「日傘をさす女」と同じモチーフの絵を数枚描くが、いずれも習作に終わった。そのいずれも、モデルの顔は描かれていない。モネは、もはや二度と、死ぬまで、あの日の一瞬のカミーユに出会うことはできなかったのである。

いや。訂正しよう。その人生の最期の時に、すでに失明して光を失っていたモネの目には、あの晴れた日のカミーユが見えていたであろう。きっと、そうであろう。あの逆光の影となって悲しげに微笑んでいたカミーユが。

・・・・・

そしてあの夏の日から150年後の日本で、僕は、「日傘をさす女」を、パソコン画面で見ている。まるでこの目で見た光景であるかのように。

山下達郎僕らの夏の夢」を聞きながら。

 

 

 

魔術師

そのいかにも怪しげな魔術師は僕に、こう言った。

「君は、夢を見るだろう。」

「そりゃ、もちろん」と僕は答える。

「では、君は、夢の中で、ああ、これは夢だな、と気が付くことがあるかね。」

「まあ、そういう時もあれば、気が付かないときもあるよ。」

「気が付かない時、君は、夢の中の自分を生きていることになる。」

「夢の中の自分ね。まあ、そういう言い方もできるかな。夢の中では全くの別人格になっていることは、よくあることだからね。」

「とすると、眠っている君と、夢の中で生きている君と、君が二人いることになる。」

「二人? いやいや。僕自身は、あくまで眠っている方の僕だよ。」

「夢の中の君は、君ではないのか。」

「そりゃ、違うでしょ。所詮、夢ですからね。現実の僕は、眠っている。」

「夢? 現実? 君は、夢と現実の区別がつくのか?」

「そりゃ、つくさ。目が覚めれば、ああ、夢だったか、って気が付くよ。リアリティが全然違います。あたりまえだよ。」

「いや。あたりまえではない。君が、目が覚めて、ああ、夢だったか、と気が付くのは、君がまさに、『目が覚めた』からだ。『こっちの世界』に来たのだから、『あっちの世界』の現実感が薄らいでいるだけだ。逆に、夢の中の君は、夢の中の世界こそが現実と考えて生きているから、いわゆる現実の世界で眠っている君のことなど、気にもしていないはずだ。世界のリアリティなんてものは、君の意識が今どちらにあるかという偶然に依存しているに過ぎない。」

「じゃ、僕は、僕という意識は、現実と夢の間を行ったり来たりしてるってわけ?」

「行ったり来たり? なるほど、君の意識は、今、こっちの世界に来ている。では、あっちの世界の君は、存在しないのか? 君の意識がこっちに来ると、あっちの世界は消滅するのか? そうではないだろう。君が夢を見て、夢の中の自分を生きている間でも、現実世界の君は、すやすやと眠っているはずではないか。夢の中の自分と、すやすや眠っている自分は、どちらも存在する。とすれば、結局、眠っている君と、夢の中で生きている君と、君が二人いることになるし、夢の中の世界と、現実の世界とが、同時に存在していることになる。というか、存在せざるを得ない。」

「夢の世界と現実の世界とが、同時に存在するって?」

「そう考えざるを得ないと言ってるのだ。そうして、困ったことに、すやすや眠って夢を見ている現実世界の君もまた、別の世界の君が見ている夢かも知れないということだ。そうして、その君もまた、夢かも知れない。というふうに、夢と現実とが、無限に連鎖していく。となると、夢と現実の世界は、それこそ無数にあり、しかもそれらは同時に存在することになる。」

「無数の世界が、同時に存在する?」

「そう。世界は無数にあり、しかも同時に存在する。そして、君は、つまり君の意識は、その無数の世界のうちの一つの世界に、たまたま偶然『目覚めている』というわけだ。どの世界に『目覚める』かは、偶然に過ぎない。今、君が現実と思っている世界は、たまたま偶然、君の意識が『目覚めている』世界に過ぎない。」

「そうかな。だって、僕は、この世界で生きてきたという実感があるんだよ。小さな頃から今までの思い出もあるし、親兄弟だってあるし、この世界こそが、僕の本当の世界だって実感があるんだよ。」

「さっきも言っただろう? それは、君が、『こっちの世界』にいるから、そういう実感があるのは、ある意味、当然なのだよ。『こっちの世界』には、『こっちの世界』のストーリーがあるのさ。夢の中の君にだって、夢の中のストーリーがあるはずだ。『こっちの世界』に意識がある時は、君は、『こっちの世界』のストーリーに従って生きているんだよ。君の幼少期からの思い出も、君の親兄弟も、友人も恋人も、ぜんぶ、ストーリーだよ。『こっちの世界』という映画のシナリオなんだよ。君は、そのシナリオに従って生きているだけさ。で、そのシナリオってのは、『こっちの世界』だけのもので、『あっちの世界』には『あっちの世界』のためのシナリオがちゃんと用意されている。そうして面白いことに、『こっちの世界』にいながら、『あっちの世界」のシナリオを思い出そうとしても思い出せない。目が覚めた後に、かすかな脳裏の残像を頼りにして、夢の中の自分を思い出そうとしても思い出せずに、もやもやして、もどかしい思いをすることがあるだろう。あれだよ。」

「『あっちの世界』とか『こっちの世界』とか、ややこしいな。どこの世界にいたって、僕は僕じゃないのかね。」

「そう。君は、君だ。けれども、それは、『君の意識』という意味における『君』ではない。君の意識の奥底にある『根源的な君』だ。そういう『根源的な君』というものを適切に表現する名詞を、残念ながら未だかつて、人類は手にしたことが無い。だから、『根源的な君』などという表現しかできないが、つまり、そういう意味では、君は君だ。無数に、かつ同時に存在する、いっさいの『君』という意識の奥底には、『根源的な君』が、『あらねばならない』。けれども、それは、この世界の『中』では『あり得ない』。それは、世界の『外』で『あらねばならない』。すなわち、君は、君の奥底にあるであろう『根源的な君』を永遠に知ることができないのだ。」

と、そこで、僕は目が覚めた。

玉手箱の話


 人生は、夢かうつつか。よく聞くセリフだ。でも、夢かうつつか、って区別じゃないと思うんだ。そもそも、うつつなんて、どこにもないんじゃないかって思う。

 たぶん、全部、夢なんだ。たくさんの夢が、いくつもいくつも無限に重なっていて、その夢と夢の間を、人は、気が付かないままに行ったり来たりしているんじゃないのか。そうして、たまたま一瞬の間に通り過ぎる夢の中で、これが現実、僕の世界、と思い込んでいるだけじゃないのか。でももう、次の瞬間、僕は別の夢の中へと落ち込み、その夢の中で、別の人間として生きて、死ぬ。死んで、そうして、また夢の中へ・・・前世・現世・来世、邯鄲の夢、パラレルワールド、世界の同時存在、呼び名はなんでも構わない、とにかく世界は、無数にある。

 それぞれの夢がすべて、僕の世界だった。それぞれの夢の中で、たいせつな家族があり、恋人があり、友がいた。僕は僕の世界を生きて、無数の人々と出会い、無数の人々を愛し、無数の人々から愛された。

 けれども、その人生という夢の中でもらった愛は、次の人生の夢には持っていけない。愛の記憶の蓄積を、神は禁じた。前世でもらった愛、それがどういう愛だったのか、その愛をくれた人たちが僕にどういう笑顔を見せてくれていたのか、その時の僕の名前が何だったのかさえ、もう何も覚えてはいないんだ。そしてこの現世の人生で多くのたいせつな人々から受けた愛も、来世に持って行くことはできないんだ。忘却。それは、神の優しさだ。それは、神が人に許した唯一の救いだ。ただの一度の人生の思い出さえも抱えきれない僕に、無限の数の人生の思い出を抱えきれるはずがない。ただの一人の恋人との離別の悲しみさえも耐えきれない僕に、無限の数の人々との離別の悲しみを耐えられるはずがない。愛の記憶の蓄積を、神は禁じた。忘却という救いの箱を、僕に手渡して。無限に生きることの苦しみに耐えられなくなったとき、僕はその箱を開けるだろう。そうして僕は再び、そして幾たびも、絶対の孤独へと回帰しなければならない。

三島由紀夫「金閣寺」 「究竟頂」の扉をめざす文学的系譜

三島由紀夫金閣寺のラストを書くために生まれた。」と、言っては、言い過ぎだろうか。あたりまえだ。言い過ぎだ。と、えらい人たちに叱られる。では、こう言っては、どうだろう。「金閣寺」のあとの三島の作品なんて、あれは、ぜんぶ、おまけみたいなものです、と。それこそ、袋だたきである。きさまは、あの大作「豊饒の海」をおまけだというのか!と、烈火のごとき怒声が飛ぶ。すると、僕はひるまずに答える。いや、相当ひるんでいるが、震える足をかくしつつ、答える。はい。おまけです。壮大なおまけです。三島は、疑いなく、「金閣寺」のラストの数枚を書くために生まれたのであり、その作家としての天才は、その数枚にすべて注ぎ込まれて尽きたのです、と。

 ああ、この作家は天才だ、と心の底から思える小説との出会いというのは、人生において、そんなにあるものじゃない。「金閣寺」のラストは、まさにそういう出会いの一つであった。言うまでもなく、そのラストとは、金閣に放火した主人公の「私」が、煙にまかれながら、「究竟頂」の扉を開けようとして開かない場面である。「扉は開かない。」三島は、この数文字の短い一文を、三度、繰り返す。この数文字を三度、読んだ時、僕は三島の天才を確信して震えた。金閣の最上階、金箔がはりつめられた金色の小部屋「究竟頂」の扉は、開かないのだ。どうしたって、開かないのだ。人間の限界。神の世界に、人間は、決して入れない。そのどうしようもない人類の絶望を、わずか数文字で余すところなく描き切った三島が天才でなければ、この世に天才などいないであろう。

 三島の「金閣寺」と同じく、どうしても開かぬ扉、というモチーフのラストシーンで戦慄させられた天才が、もう一人いる。安部公房だ。安部の「けものたちは故郷をめざす」のラストでは、敗戦後の満州から故郷日本をめざして苦心惨憺たる逃避行をしてきた主人公が、密航船でようやく日本の港にたどりつくものの、船倉に監禁されていて上陸することができず、船倉の鉄板をたたいて声の限りに叫ぶという場面がある。が、やはり扉は開かないのだ。テーマは「金閣寺」と同じである。神に敗北した二十世紀の人類の救いようのない絶望を、この二人の天才は、わずか数行の言葉で描き切ったのである。僕は、ああ、この作家は天才だ、と心の底から思った。それは文学ファンにとってまことに幸せな瞬間である。

 燃え上がる金閣を逃れ出てきた「私」は、「獣のように」傷口をなめると、煙草を吸って、「生きよう」と思う。その姿にはもはや、神と対等になろうとした人類の不遜な意志と自信はどこにもない。罪なき動物の姿である。神の造った世界の理に従順なる生活者。熱狂と絶望の果ての日常的静穏。安部公房もまた、「どうしても開かぬ扉」のモチーフを、後作の「砂の女」では「逃れられない砂の穴」というモチーフに変換して、もはや砂の穴から逃げようともせずに砂の女とともに生活していくことを選ぶ主人公を描き、神に敗北した二十世紀の人類の「絶望の中の生」を取り出して見せた。この三島と安部の描いた人類の絶望の姿は、太宰治の「人間失格」のラストで、「ただ、一さいは過ぎて行きます。」と独白する主人公・大庭葉蔵の絶望の姿に他ならない。

 芥川龍之介以来、日本文学には、キリスト教の教義・伝統に縛られることなく神と人類の葛藤を追究してきた日本独自の世紀末文学の系譜がある。極東の小島に過ぎぬ日本の文学が、シェークスピアにもドストエフスキーにも負けない人類普遍の輝きを放っているのは、ひとえにこの系譜の作品群の存在があればこそである。この文学的系譜は、芥川、太宰、三島、安部と受け継がれ、そして三島由紀夫の「金閣寺」と安部公房の「砂の女」を最後に、ついに絶えた。千数百年の日本文学史における、わずか五十年間の系譜であった。が、その五十年間に、日本文学は燦然と輝いた。そして、燃え尽きた。一瞬の花火のようであった。二十世紀という人類にとって厳冬の世紀の闇空を走る閃光であった。そして、芥川龍之介はぼんやりした不安で毒をあおり、太宰治は女と身を投げ、三島由紀夫は腹を切り、安部公房は世捨て人になって世を去った。ドストエフスキーが「罪と罰」のラストで後世の作家に託した、人類の新しい希望を見せてくれる続編を、結局、誰も書き残すことはできなかった。

 本は、本屋に山ほどある。毎日何千という本が生まれている。ネットにはテキストがあふれている。この瞬間にも、幾千幾億の言葉が生み出されている。その中に、人類の絶望を救う天才の言葉があるのだろうか。いや、きっとあるのだろう。あるに決まっている。人類はまだ、戦える。神はなお、人類を試している。けれどまだ、不幸にして、その言葉たちに出会っていない。

中勘助 妄執の純愛 絶対孤独の文学

 愛しても愛しても愛するひとのすべてを愛することができないとき、叫んでも叫んでもその声は愛するひとのこころには届かないとき、探しても探してもその手は愛するひとのたましいには触れることができないとき、ついにひとは絶望し、神を憎み、運命を呪い、絶対孤独という無限奈落の闇を永遠に落下し続ける。永遠の地獄。どこにも救いはない。おのれのたましいが滅びるまで、この永劫の地獄の業火に焼かれて苦しみ続ける。それでもひとは愛を求める。愛を求めてみずから地獄に落ちる。なに故に? なぜなら、このたましいが愛を求めるが故に。絶対孤独の闇の中で、このたましいが愛を求めて彷徨するが故に。如是我聞。五蘊皆空。この世界は所詮、不確定な確率的存在にすぎない。目に見えるもの、耳に聞こえるもの、この手にふれるもの、そのいっさいは所詮、たましいが認識として生み出しているだけの無秩序で猥雑な一瞬の幻覚に過ぎない。絶対孤独の闇の中で、たましいは無数の世界の幻覚を生み出しては消している。幻覚に過ぎない世界が一瞬ごとに明滅する。その無数の幻覚の中で、ひとは無数の人生を経験する。無数のひとびとと出会い、無数のひとびとと別れる。そのひとびととの無数の思い出とともに。けれどもそれもまた所詮、たましいの生み出している幻覚に過ぎない。父も母もきょうだいも友も恋人も、そういういっさいのひとびととの記憶も幻覚に過ぎない。無限の闇の中に、たましいだけがひとり、ただひとりで、みずからの作り上げた幻覚の世界を観ている。人生とは、言わば、他に誰も観客のいない真っ暗な映画館で、ただひとりで、スクリーンに映し出された自作自演の映画を見ているということに過ぎない。次から次へと人生という名の映画は映し出される。ひとつの人生など一瞬に過ぎない。次の瞬間には別の人生を観ている。一瞬前の人生のことなど、もはや覚えていない。けれども、たましいは求め続けているのだ。他のたましいを。おのれと同じたましいとの出会いを!この永遠の絶対孤独の闇の中でたましいは叫ぶ。誰かいないか、と。そうして、たましいは、他のたましいを探し求めて、自らが生み出した幻覚に過ぎない世界を彷徨する。そのけっして報われることはないであろうたましいの苦しみに満ちた彷徨のことを、愛という。神は、愛という永遠の苦役をひとに与えた。たましいは愛を求めてやまず、そして愛はたましいをついに滅ぼす。それでもなお、ひとは愛を求める。報われないことを知っていながら。なに故に?なぜなら、このたましいが、絶対孤独の幻覚に過ぎない世界の嘘には耐えられないが故に。たましいは、出会うべくしてまだ出会っていないもうひとつのたましい、すなわちゼウスに引き裂かれたおのれの半身を求めてやまぬが故に。だから愛は、幻覚であってはならぬ。愛は絶対でなければならぬ。それ故、愛はいっさいの妥協を許さない。愛は数多くの中の一番であってはならない。そのような相対的な順位に過ぎない性愛的感情を愛とは言わぬ。絶対の愛とは唯一でありかつ必然でなければならぬ。ひとの認識を超越していなければならぬ。いっさいの合理化も言い訳も許さぬ。その愛はこの世界のはじまる前から定まり、かつたとえ世界がおわろうとも不滅である。然り。愛は運命である。そしてひとは問うであろう。はたしてそのような愛が本当にあり得るのか?と。けれども愛は、問うてはならぬ。愛を問う者は、愛を捨てよ。愛を疑う者に、愛を語る資格はない。愛を疑うくらいなら、永劫の闇の中でひとり、おのれの作った幻覚に過ぎぬフィクションの愛を礼賛する夢を見続けているがいい。おのれの作り出した幻覚に過ぎぬ世界の中で、相対的な順位に過ぎぬ性愛的感情を愛と呼んで満足している者たちにとっては、そのほうがよほど幸せであろう。なぜなら、真実の愛を求めれば、そのたましいを地獄の業火に焼かれねばならないのだから。愛はかくも容赦なくひとを苦しめる。神はかくも酷烈なる試練をひとに課した。けれども愛の名のもとに神に選ばれたひとびとは、絶対の愛のためならば永遠の地獄をも恐れぬ。そして、かれらは言う。絶対の愛をこの手にできないのであれば、たとえ愛情に満ちた安逸の人生の夢を約束されたとしても、そのような虚構に過ぎぬ人生にいったい何の意味があろうか。と。かくして、およそこの世でもっとも不幸な者とは、愛の名のもとに神に選ばれてしまった者たちのことである。

 そしてここに、不運にして神に選ばれたが故に愛を求めて永劫の闇を彷徨したひとりの作家がいる。中勘助。絶対の愛を求めて、文字どおりの地獄のごとき人生を生きた男である。それほど有名な作家ではない。が、夏目漱石の弟子。その漱石に未曽有の小説と高く評価された「銀の匙」の作者。と言えば、ああ、あの「銀の匙」の作者のことか、とその名を思い出す文学ファンも多いだろう。けれどもこの作家のすごみは、代表作とされる「銀の匙」を読んだだけでは、わからない。男女の性愛の苦悩と妄執を描いた「提婆達多」「犬」「菩提樹の蔭」の三部作、あるいは義姉末子、少女妙子への恋情を文学的に昇華させた一連の日記体小説群を読むとき、この作家の苦悩の深さと妄執の壮絶さに、僕は戦慄する。その苦しみは「人間失格」を書いた太宰の苦悩に匹敵する。いやむしろ太宰の苦悩の深淵よりもなお黒々と澱んでいる。太宰もまた絶対の愛を求めて彷徨した。が、太宰はその苦しみを受け止めることができず、それを「古代の荒々しい恐怖感」とだけ表現して、ついに神との戦いを避けた。いや、神と戦うことなく敗北を認めたと言っていい。が、勘助は、その苦しみから目をそらすことなく、おのれのたましいを捧げて真正面から受け止めようとした。勘助は仏陀とさえ戦わねばならなかった。静かに微笑んで五蘊皆空を説く仏陀の前に、勘助は煩悩三毒にただれる自身の剥き出しのたましいを突きつけた。おのれの絶対の愛を守るために。その人生はまさに地獄であったろう。この男が自殺することなく生きたこと自体がほとんど奇跡である(昭和40年没、80歳)。いや、勘助は生きたのではなかった。死ねなかったのである。旧藩主家令をつとめた厳格な士族の家に生まれた勘助は、東京帝国大学英文科に進んで漱石の教えを受ける。勘助には年の離れた兄がいた。長兄の金一である。東京帝国大学医科を卒業後、ドイツ留学を経て京都帝国大学福岡医科(後の九州帝国大学医科)教授となっていた。この長兄金一との確執が勘助を生涯苦しめるのである。金一は勘助の幼少期から、性質惰弱な勘助を教育と称して虐待した。勘助にとって金一は生涯の仇敵であった。「銀の匙」で勘助は、長兄について「あわれな人よ。なにかの縁あって地獄の道づれとなったこの人をにいさんと呼ぶ、、、」とまで描写している。その描写は当然、長兄も目にするのである。それでも書いたのだ。その確執の深さが良くわかる。そもそも「銀の匙」は、どういうわけか世評として、「子どもの純粋な気持ちを描写した美しいメルヘン」といった評価が一般化している。通説と言って良い。僕はこのような世評の流布が不思議でならない。はたしてこのような評価を口にしているひとたちは、ほんとうに「銀の匙」を読んだことがあるのだろうかと疑わざるを得ない。「銀の匙」は、純粋な童心を描写したメルヘンなどではない。断じて違う。「銀の匙」は、東京帝大を卒業して文筆家として生きる道を模索していた若き勘助が、おのれの呪われた人生の原風景をたどった心象スケッチである。それは、自分が決して報われることのない愛の彷徨に陥ることへの確信的な不安、蒙昧愚劣な大衆への抜きがたい嫌悪、そして長兄金一に代表される不条理な運命へのレジスタンスと諦念、そういう勘助の悲痛な怨嗟と恐怖の声に満ちている。「銀の匙」を書くことで自らの呪われた人生を見極めた勘助は、漱石の強烈な支持を受けて、作家としてデビューする。が、その後の勘助の作家活動は決して華々しいものではない。その活動はむしろ細々として常に危うさに曝されている。その大きな要因が、仇敵である長兄金一が脳溢血により再起不能になったことであった。後遺症により言語機能を失い身体機能にも障害を負った金一はいっさいの社会的地位と収入を失い、家長としての地位から一転して家族の介護を受ける一被扶養者となった。中家の経営はすべて勘助ひとりの肩に重くのしかかった。老いた母と、生活不能者となった長兄と、そして長兄の妻である義姉末子の三人が生きていくための道筋をつけなければならない。勘助は文学に専念するどころか、家計のやりくりと長兄の介護に心労を重ねた。自らの苦悩に殉じて自殺するどころではないのである。死ねないのだ。おのれが死ねば、この生産力のない三人もまた死なねばならぬ。勘助は生きた。けれどもそれは、幼い自分に母としての愛情を注いではくれなかった実母のためではなく、無論幼少より自分を虐待し続けた長兄金一のためでもなく、義姉末子のためであった。

 末子。勘助の人生はすべて、勘助より二歳年上のこの女性ひとりのためにあったと言っていい。野村子爵家の令嬢であった末子は、十九歳で長兄金一と結婚した。が、実は、末子は、華族女学校に通っている当時から、中学生の勘助にとって憧れのひとであった。その憧れの人が、選りにもよって仇敵である長兄の妻として中家の家族となった。勘助は言う。「私はそこにいまだかつて夢想したこともない善良無垢な人を見出した」と。末子は、勘助にとっての理想の人であった。女神であった。勘助は末子を惜しみなく礼賛する。「よしんば私が道徳的に癩のごとく爛れながら救いを求めて歩みよっても慈悲の双手をさしのべて迎えてくれるのは姉だけであろう」「真に貴い。真に美しい」と。けれどもその理想の人は、おのれが最も憎む長兄の隷属物としての妻であった。無論、妻はその夫に、性愛の対象として毎夜凌辱される。そして妻は、その凌辱にさえも思わず歓喜の声をもらすであろう。おのれの憧憬する女神が、おのれの最も憎むべき男に毎夜凌辱されて歓んでいる!およそ男としてこれ以上の苦しみはこの世にあるまい。絶対の愛を求める勘助の彷徨はこの時から始まったのである。勘助は性愛を全否定し、動物的な本能を全否定し、愛を精神的なものとして徹底的に純化しようとする。おのれの女神への絶対的な愛を守るために。勘助は、仏陀と対立して独自の教団をつくろうとした提婆達多の口を借りて、世界に向かって叫ぶのだ。「汝ら愚痴の者よ。罪業の淤泥にまみれ、淫楽の悪臭をはなちつつ蛆のごとくに人界を匍匐いまわる。汝らは猿のごとくに交尾み、猿のごとくに生み、猿のごとくに群居する。しかして色慾の肉縄につながれたる互いを夫とよび、妻とよび、親とよび、子とよぶ。汝らはまさに畜生道に堕ちるであろう」と。この提婆達多の叫びは、勘助自身の叫びである。毎夜くりかえされる「半痴半狂の凶暴な夫」との性愛の玩具として弄ばれ凌辱される末子のこころに届けとばかりに勘助は声を限りに叫ぶのだ。そのようなけものの淫楽とは無関係の純粋な愛こそが真の愛である、と。それは、末子という女神に勘助が捧げた祈りの言葉であった。この世においては、決しておのれの手の届かぬひと。愛しても愛しても、そのすべてを愛することができないひと。そのひとのために、そのひとに読んでもらいたいという、ただそれだけのために、勘助は「提婆達多」を書いたのである。そしてその思いは末子にも通じていた。勘助は言う。末子は、勘助の書いた「提婆達多」をくりかえし読んでは泣いていた、と。末子にとっても勘助は「暗黒の中のただひとつの光」であった、と。

 そして絶対の愛を求める勘助の戦いはさらに激しく悲壮になる。憎むべき兄の妻という現実世界の鎖につながれた末子は、勘助ひとりがその愛をいかに純化しようとも、所詮はその肉体を兄の性愛の玩具として凌辱にまかせるほかはない。凌辱されて歓喜の声をもらしている末子の姿を目の前にしながらなお、末子を愛していると言えるのか。動物として「猿のごとくに交尾んでいる」末子の姿を許すことができるのか。いや、許さなければならない。許すにはどうすれば良いのか。方法はひとつしかなかった。おのれもまた、「猿のごとくに交尾んでいる」けものになるしかないのである。勘助はそれを作品「犬」の中で実践した。美しく若い娘に恋い焦がれる醜い中年の修行僧は勘助自身にほかならない。修行僧は、秘法をもっておのれと娘とを犬に変身させて、狂気したように娘犬と交尾する。それは、作品中で犬となり、憧憬する末子との愛なき性交を堪能する勘助の姿である。勘助は、おのれの作品の中で末子をけものとして凌辱することで、兄との性愛に毎夜肉体をまかせる現実の末子を許すことができると考えた。末子を許すにはその方法しかなかった。すなわち勘助は、おのれもまた醜悪なる淫獣の汚らわしい性愛に耽溺することによって、末子が毎夜夫の前に曝しているであろう淫猥な痴態を責めようとするおのれの「道徳的資格」を自ら剥奪したのである。それ故、勘助は汚らわしい淫獣となった娘犬と僧犬との性愛の営みを細密に執拗なまでに描写し、そこから逃げることなく、その動物的な肉体的情欲の歓喜と救いのない醜悪さとを徹底的に凝視する。そして勘助は、ひとつの結論にたどりつく。たとえ肉体は汚らわしい淫獣に堕ちようとも、ひとのたましいは純粋な愛を探し求めてやまない。けれども、ひとの探し求める純粋な愛が神の祝福を受けることは決してないのだ、と。なぜなら、純粋な愛など、所詮、ひとが勝手に創っただけのフィクションに過ぎないのだから。娘犬が恋い慕う初恋の異教徒兵は、娘のことなど戦場での慰み物程度にしか記憶していない。異教徒兵との愛は、娘犬が見ている幻覚に過ぎないのだ。幻覚に過ぎぬ虚構の愛を絶対化するなど、神を裏切る偶像崇拝にほかならない。神の祝福があるはずがないのである。「犬」の結末では、娘犬は僧犬をかみ殺し、初恋の異教徒兵と再会することを神に祈って犬から人間の姿に戻ることができる。が、「その時、大地がかっと裂けて彼女は倒に奈落の底へ堕ちて」いくのだ。そこに神の救いはない。絶対の愛を求める彷徨の果てにあるのは無限奈落の闇である。それでもなお、ひとは絶対の愛を求めてやまない。娘を無限奈落に堕とすことで、勘助は、末子をおのれの無限奈落の地獄の道連れにしたのである。

 末子との絶望的な愛の彷徨に苦しむ一方で、勘助は、ひとりの美少女との密かな恋をはぐくんでいる。美少女とは、友人江木定男の娘妙子である。妙子は勘助を実の父のごとく慕い、勘助もまた妙子をこよなく可愛がった。が、勘助の日記体小説に登場するふたりの間には、父娘としての愛情だけでなく、男女の愛情の匂いが濃厚に漂っている。もっとも、それは、性愛の生臭さではない。末子との絶対の愛を求める勘助は、妙子にもまた絶対の愛を求めたのである。そして幼い妙子は、末子とはちがって、まだ誰の隷属物でもない処女である。勘助にとって、妙子は、華族女学校に通っていたころの汚れのない末子の身代わりであったのだろう。けれどもその妙子もまた、お茶の水女学校卒業後、東京商科大助教授と見合い結婚した。勘助にとって、妙子の結婚は、末子の結婚同様に、所詮「猿のごとくに交尾んでいる」だけの意味しかなかったであろう。絶対の愛など、どこにもないのだ。勘助は妙子のために「菩提樹の蔭」を書く。早世した恋人チューラナンダの石像を磨いた石工のプールナは、自らのいのちと引き替えに、チューラナンダの石像にいのちをふきこむように神に祈る。ギリシャ神話のピグマリオンと同じテーマである。ピグマリオンの願いは、女神アフロディーテに祝福されて、石像から人間となったガラテアを妻に迎える。が、勘助は、プールナの願いを成就させない。神の怒りにふれたプールナは死に、チューラナンダは石に帰る。そしてふたりの間に生まれていた子どもも死ぬのである。どこにも救いはない。いや、救いがあってはならないのである。なぜなら、末子を求める自分がそうであるように、いのちをかけても惜しくないという愛を求める人間の願いが神の祝福を受けることなどはないのだから。絶対の愛を求める者は、永劫、無限奈落を堕ち続けなければならないのだから。そしてそれでも、たましいは、絶対の愛を求めて永遠の闇を彷徨するのだから。真の愛を求める者には、苦しみだけがある。妙子は、病を得て三十五歳で早世する。勘助は自分より早く世を去ってしまった「娘」の妙子に言う。「妙子や 三十五年は長かったね」と。確かに、絶対の愛を探し続ける人生の苦しみは、三十五年でも長すぎたであろう。

 妙子と同じ年、末子も死んだ。五十九歳であった。勘助は、一度にふたりの女神を失ったのである。あとには、仇敵である老いた長兄だけが残った。妙子も末子も失った勘助は、五十七歳にしてようやく、結婚しようと思った。長兄の介護のためである。相手は、お茶の水女学校を卒業後、東京帝大で美術史を学んだという書道家で、十五歳下の嶋田和である。そして、この和との結婚式当日に、長兄金一が「急死」している。勘助は運命の定めた人生の桎梏からようやく解放された。が、すでに、愛する末子はこの世にいない。晩年、勘助が、友人に言った言葉がある。「(和は)姉に似たところのある人でしょう」と。勘助の目には、最期まで、末子しか映っていなかったのである。

 病弱に生まれて、銀の匙で苦いくすりを飲まされて始まった勘助の人生は、末子との絶対の愛を探し求める苦しみにのみ捧げられた。勘助の作品はすべて、その苦しみを乗り越えるための文学的昇華であり、おのれのためだけに書かれた救いのための祈りと言っていい。神が沈黙して救いを与えてくれぬ以上、愛を求めてやまぬ人間のたましいは、自らの祈りで自らを救うのである。たとえ、そこに救いなどないとしても!たとえそれが、神に逆らうことになろうとも!勘助のたましいはなお末子を探し求め、無限奈落の地獄の業火に焼かれているであろう。永劫。救いはない。それでもなお、勘助のたましいは、末子のたましいを探して闇を彷徨し続けるのだ。

少数者への手紙

 

      一 魔術師

 

 昨夜遅く、彼は、僕の部屋を訪れた。何の前触れもなしに、だ。むやみに蒸し暑い夜だった。僕は眠れずに転々していた。玄関で物音がした。ドアが開き、そして閉まる音。戦慄。息を殺して、じっとしていた。強盗?こんな安アパートに?まさか。が、確かに、人の気配が近づいてくる。近づいてくる!もはや我慢の限界。攻撃こそ最大の防御。先んずれば制す。布団をはねのけ、がばっと立ち上がる。真っ暗闇に向かって叫んだ。

「おい!何の用だ!」

闇は応えなかった。気のせいか?いや、確かに、何かが、いた、はず。動悸が激しく、一気に冷や汗が吹き出て、ふわりと気が遠くなった。両足の力が、ふにゃふにゃと抜けた。そのまま、ぺたりと、座り込んだ。

「腰が抜けたのかい?」

闇の中で、低い声が響いた。僕の心臓は、その時、確かに、一瞬止まった。

 立ち上がろうとしても、下半身に力が入らない。なるほど、腰が抜けたのだ。闇に向かって声を上げようともがいても、かさかさと喉が鳴るだけだ。

「まあ、落ち着きたまえ。」

闇が、言った。

「生憎だったね。私は、まだ、ここにいるよ。逃げやしない。頂きたいものがあるからねえ。」

「な、なんだ!おまえはなんだ。なんだあ!」

かさかさと叫ぶ。

「え?なに?よく聞こえないが。私が何者か知りたいのかい?もっともな質問だ。君は正常だ。まあ、落ち着きたまえ。なにも、取って食おう、というのじゃない。ふふ。ちょっと、お決まりの台詞すぎたねえ。取って食おう、だってさ。うふ。うふふふ。でも、騒ぐと殺すよ。」

僕は黙った。

 闇の中、それでも、カーテンを透けて来る微かな月光のおかげで、彼の黒い影がゆらゆらと動いているのが分かる。大男、というわけでもない。殺す?刃物でも持っているのか。まさか拳銃、じゃないだろう。拳銃を持っているような凶悪な強盗が、こんな一人暮らしの安アパートに入るわけがない。包丁だな。そうに決まった。ああ、こういう時のために、武術でも修行していればよかった。包丁なんか、手刀でポンと打ち落として、手をねじ上げて御用だ。テレビの時代劇でよくやってるじゃないか。ちくしょう!

「さて。」

「なんだ!」

「おや。元気が出てきたようだねえ。騒ぐと殺すよ。静かにしたまえ。」

「なんだ・・・」

「そうそう。それくらい小さい声で、ね。さて、私がここに来たのは、他でもない。おや。うふふふ。他でもない?またまた、慣用句の登場だ。他でもない、だってさ。うふふふふ。こりゃいい。おっと、いや、失礼。実はだね、君の、寿命、を頂きたくてねえ。」

「こ、殺すってのか!」

「うーん。分かってないなあ。殺すのじゃなくて、寿命が欲しいわけ。つまりだねえ、君の命を、十年ほど、欲しいんだよねえ。分かる?」

「・・・」

「分からない、か。むむっ!君、いま、私のことを、異常者とでも思っていないかね?え?どうだ?異常者と思っただろう!」

「・・・」

一点の疑いもなく、異常者だ。早く逃げなきゃ、まずい。まずいぞ。ひどく、まずい。

「そうかね。私を異常者と思っているわけだねえ。ふうん。まあ、それならそれでいいんだ、べつに。しかし、だ。私がこう言ったらどうだろう。私は、実は魔術師で、人の寿命をコントロールする魔法を知っている、と。どうかね。」

「・・・」

「だめかね。まあいい。しかしね。これは本当なのだ。私はね、インドの山奥で千年にわたり修行した魔術師なのだ。つい先日、免許皆伝になって、鷲に乗って日本に来たのだ。ただ、魔術師には決まりがあってねえ。千年の修行をした者は、千年分の寿命を集めなきゃならんのだよ。わかるかね。そうしないと、私は、たちまちミイラになってしまうのさ。だから、人様から、寿命を分けてもらおうというわけ。勿論、タダ、とは言わない。ちゃんと対価はお支払いしますよ。払いますとも。一年につき百万円。十年分なら一千万円。どうです。つまり、君の寿命を、十年分、一千万円で売って欲しいわけだ。」

「こ、断る・・・」

「え?どうして?いい話じゃないか。」

「早く、出て行け・・・」

「君!どうも、立場が分かっていないようだねえ。今説明したように、私はね、寿命を集めないとミイラになっちゃうんだよ。分かる?私も必死なわけだよ。生きるか死ぬか、という切羽詰った状況なわけだよ。今、君から無理やりに寿命を奪い取ったって、緊急避難というやつで、罪にもならんわけだよ。それをだね、売買契約によって穏便に済まそうと言ってるんじゃないか。しかも、好条件で、だよ。それを君、出て行けとは何だい。出て行けとは。」

「ぼ、僕は売りたくないんだ。他の人から買ってくれ・・・」

「ほほう。つまり、君は、条件に不満なわけだね。」

「ちがう!」

「いやいや。君は、条件に不満なのさ。では、こうしよう。私はインドの山奥で千年も修行してきたからね、お金を作るくらいは簡単なんだ。そこで、奮発して、一年につき五百万円、十年分で五千万円でどうだろう。え?」

 一年、五百万?悪くない。違う違う!馬鹿馬鹿しい!そんなことより、早く、逃げるんだ。ちくしょう。今、何時だ。朝になったら、こいつ、どうするんだ。居座るつもりか。結局、僕を刺し殺すつもりか。いや、待てよ。こいつは、要するに、いかれた契約を結びたいわけだ。それなら、契約を結んだらどうだろう。おとなしく帰るんじゃないか?うん。帰るぞ。間違いなく、おとなしく帰る。そうに違いない。

「はい。分かりました。契約します。」

「え?」

「契約します。十年分五千万円で、寿命を売ります。」

「本当かね?」

「本当です。」

「嘘だ。」

「はあ?」

「君は、嘘をついている。契約すれば、私がうれしがって帰るとでも思っているんだろう?そうだろう?」

「・・・」

「ほうら見ろ。やっぱりそうだ。君は私をちっとも信じていないのだ。信じていない者からは寿命をもらえないのだ。インドのお師匠様から注意されているのだ。不信心の者から寿命をもらうと、たちまちミイラになってしまうのだ。君は、私をミイラにするつもりか。人殺しめ!危ないところだった。」

「じゃあ、どうしろってんだ!」

「信じたまえ。」

「はあ?」

「まず、私が、インドの山奥で千年も修行した偉い魔術師だということを信じろと言うんだよ。そうでなければ、寿命売買契約も成立しないのだ。ということは、私は、この部屋から出て行かないし、君も自由にはなれんのだよ、残念ながら。要するに、全ての原因は、君の頑固な猜疑心にある。」

「それじゃあ、証拠を見せろよ!おまえが魔術師なら、その証拠を見せろ!」

「やれやれ。君は証拠を見なければ信じないのか。見ずに信じるものは幸いなり、だね。もっとも、既に、証拠は見せたはずだよ。私は、ことごとく、君の心を見抜いただろう。もっと、君の心を読んで見せようか。君は、一年五百万円という私の申し出に、実際、心が動いたね?そうだろう?」

「馬鹿馬鹿しい・・・」

「いいや。ちっとも馬鹿らしくない。これは重要なことなのだ。君は、一年百万円という当初の申し出には、ちっとも心が動かなかった。しかし、一年五百万円では、心が動いたのだ。これは事実だ。事実は事実として受け入れたまえ。そして、私には、その理由も分かるのだ。つまり、それは、君の今の年収がせいぜい三百万円程度だ、ということにある。そうだろう?」

「・・・」

「うふふ。当たったみたいだね。どうせ一年、せっせと働いても三百万円だ。そんなら、一年を私に呉れてやるかわりに五百万円もらっても、たっぷりと、お釣りが来るわけだ。決して悪い話じゃない。そうだろう。君の計算は正しいよ。私が欲しいのは君の命じゃない。君の寿命だ。要するに、君が死ぬのが十年早くなるだけだ。そのかわりに、君は、その若さで、そこそこの大金を手にできるわけだ。金は若いうちに使った方がいいに決まってる。そうじゃないか?」

「・・・」

「うふふ。まあ、物は考えようだ。例えば、君が、明日、交通事故で再起不能になったとする。十分に有り得る話だろう?その時、君に支払われる賠償金だって、結局、君の年収を基に計算するんだ。命の値段、人生の値段なんて、結局、そんなもんさ。その点、私の申し出は、好条件じゃないか。だいたい、君は、いまの仕事が面白いかね?面白くないだろう。いわゆるブラック企業ってやつだ。しぶしぶ働いてるんだろう。朝から晩まで働いて、おまけにサービス残業でくたくたで、家に帰れば、バタンキュー、だ。何の楽しみもない。もちろん恋人もいないし、作る暇もない。ただひたすら、働くために生きている。食うために生きている。それはつまり、ただ生きているというだけだ。それが人として生きていることになるかい?食うために生きるだけなら、人間である必要もないじゃないか。そもそも、なぜ、生きていなくちゃならんのだ。食うためだけに生きるなら、いっそ、生きるのをやめたらどんなものだろう。よほど楽なんじゃないか。そうじゃないか?君は、何のために生きているのだ。生きるために生きる、というのじゃ、答えにならんよ。まあ、せめて、人生の楽しみを少しは味わいたいじゃないか。ああ、このために生きているんだなあ、と思いたいじゃないか。そうだろう。そこでだ。君に、一年五百万、十年分で五千万円を差し上げるというわけさ。人生の楽しみを、若いうちに、存分に味わえるんだ。恋人でも、海外旅行でも、車でも、何にせよ、食うために生きるというのではない、ああ、このために生きているんだ、というものを、楽しめるんだ。五千万円もあれば、存分に楽しめるだろう。どうだね。私の言ってることは変かな?私はそうは思わんがねえ。ふふふ。何なら、一年一千万円でもいいよ。十年分で何と一億円だ。宝くじなみだよ。私は免許皆伝の偉い魔術師だからね。お金なんて作るのは簡単さ。」

「・・・」

 全くだ。こいつの言うとおりだ。あんな馬鹿どもにさんざんこき使われて、残業手当も出ずに、月に三日も休めりゃ有難いくらいで、そのうち三十もとうに越えちまった。いったい、僕は、何のために生きてるんだ。こいつの言うとおり、食うために生きてるのか。生きるために生きているだけか。なるほど、それなら、生きるのをやめりゃいい。あーあ、つまらねえ人生だ。ちくしょう、金さえあればなあ!金さえあれば、せっかく入った大学もやめずに済んだよなあ。あんなつまらねえ会社に入ることもなかったよなあ。きっと今頃は、一流会社に入って、金をガンガン稼いで、そうして、美人でなくとも、まあ可愛いくて優しい嫁さんをもらって、そうして日曜日には子どもを車に乗せて・・・

「どうだい。え?心が動くだろう?」

「一年いちおく・・・」

「え?」

「一年一億だ!」

「おっほほほほ。こりゃまた、大きく出たね!一年一億?十年分で十億円か。君は、自分の寿命がそんなに価値のあるものだと自惚れているのかい!」

「いやならやめろ!契約だろう。これは契約交渉だ。一年一億なら売ってやる。いやなら契約不成立だ。金を作るのは簡単なんだろう。そんなら、いくらだっていいだろう。一年一億!ビタ一文まけない。」

「ふうむ。一年一億か。年収三百万円の君に、一億か。ちょっと、バランスがとれないなあ。暴利だよなあ。あまり欲張りの寿命をもらうと、たちまちミイラになっちゃうんだよなあ。インドのお師匠様に注意された・・・」

「またそれか!じゃあ、いくらまで出せるんだ。年収三百万の僕の命の値段はいくらだ!」

「まあ、そう怒らずに。一年一千万円が限度だね。これで我慢してくれなくちゃねえ。それでよければ、すぐにでも契約して、お金をお渡ししますですよ。そのかわり、君は、寿命が十年縮まるよ。それは承知しておいて欲しいね。」

「十年か・・・」

「そう。十年。締めて、一億!」

 

      二 天命

 

 待てよ。こいつは、さっきから、十年十年と言ってるが、いったい、僕は、何歳まで生きるんだ?百歳まで生きるなら十年って言っても我慢もできるが、五十くらいで死ぬのに更に十年早まったりしたらたまらんぞ。べつに十年でなくても、一年でもいいじゃないか。なんで、こいつは十年にこだわるんだ?

よし、一年だ。一年一千万。ふむ。悪くない。

「おい。」

「ん?」

「一年分だけ、売る。」

「だめ。十年分だ。」

「なぜ!」

「だって、君、私は千年分の寿命を集めなきゃいかんのだよ。一年分しか売ってもらえなかったら、千人もの人から売ってもらわなきゃいかんじゃないの。」

「そうすりゃいいだろう。」

「だめなのだ。寿命を売ってくれる人は百人までと、決まってるんだ。」

「インドの師匠がそう決めたってのか。」

「そう。」

「馬鹿らしい。とにかく、一年分しか売らん。残りの九年分は、他の奴から余計に売ってもらえばいいだろう。」

「それじゃ、不公平になる。不公平な方法で寿命を集めると、たちまちミイラになるとインドの・・・」

「分かった分かった!インドの師匠はもういい!要するに、十年分じゃないとだめなんだな。それじゃ聞くが、おれの寿命はいったい何歳だ!」

「・・・」

「何歳なんだよ!分からないのか?とんだ魔術師だな。インドで千年が聞いてあきれる!」

「君。」

「何だ。」

「君、自分の寿命を、本当に知りたいかね?」

「ああ、知りたいねえ。」

「本当に?知らないほうが幸せなこともあるんじゃないかな。」

「何だ。駅裏の占い師みたいなこと言いやがって!その手に乗るか!寿命が分かんなきゃ、十年分売れと言われたって、はい売ります、とは言えんじゃないか。今からぴったり十年後に死ぬ運命だったら、おまえに寿命を売った途端にポックリ死ななきゃいかんじゃないか。」

「ごもっとも・・・」 

「ごもっとも、じゃないだろう。じゃあ、分かった。こうしよう。僕は長生きするのか、しないのか、それだけ聞こう。どうだ。」

「長生きってのは、いったい、何歳を基準に?」

「そうだな。八十くらいでどうだ。僕は八十より長く生きるのか?」

「生きます。今のところ。」

「ん?ちょっと待て。今のところってのは何だ?」

「えー、つまり、今この瞬間の君の運命では、八十より長く生きるというわけで、だから、次の瞬間の運命では五十までかも知れない、ということ。」

「はあ?瞬間瞬間で運命が変わるってのか?」

「そう。」

「いい加減なことを・・・」

「いい加減なことではない。本当にそうなのだ。人の運命は、常に変動しておるのである、とインドの山奥で習ったのだ。」

「ああそうかい!じゃあ、結局、分からねえんだな。分かりもしない寿命から十年分をもらうってのは、どういう理屈かねえ。説明してもらおうか。」

「えー、それはつまり、寿命の変動曲線がですね、十年分、下方に平行移動するというわけでして、つまり・・・」

「もういい!寿命の変動曲線?インドの山奥で変動曲線ねえ。」

「何ですか。ご不満ですか。」

「大いに不満だね。千年も修行した魔術師ならもっと、こう、宇宙の真理を突くようなことを言ってほしいもんだね。何が変動曲線だよ。馬鹿らしい。まあ、とにかく、僕がいつ死ぬかも分からんなら、十年分の寿命を売るなんてことも無理な話だ。ふん。もっと勉強して出直してきなさいよ。」

「ちょっと、君、ずいぶんだね。私はミイラになるかどうかの瀬戸際なんだよ。必死なんだよ。それに、ついさっき、一年一千万円で納得してくれたくせに、何だってそんなに、急に、ゴネるんだ。君の寿命が何歳だろうと、どうだっていいことじゃないか。そんなに長生きしたいのか。長生きしたらどうだって言うんだ。何かいいことでもあるのかい。長生きしたって、べつに、いいことがあるわけもない。それとも、ただ単に、生きていたいのかい?死にたくないから生きるのかい?さっきも言ったじゃないか。ああ、このために生きているんだなあっていう、そういうものを見つけることが、生きるってことだろう?寿命の長短なんて、ちっとも重要な問題じゃないんだ。ただ生きているだけでいいというなら、植物にでもなればいい。神社の杉の木は千年も生きているよ。千年も生きれば、後世の人に神様として大事にしてもらえるよ。私は魔術師だからね、君を杉の木に変身させることだってできる。お望みなら、杉の木にしてあげる。してあげるとも。そうして、どこかの大きな神社の森に植えてあげる。君は、千年、生きるだろう。そうして、巨木となった君の幹にはシメ縄が張られて、御神木として大切にされるだろう。君は、それでいいのか。それでいいと言うなら、君は大したものだ。尊敬するよ。でもね、人間はそうはいかないのさ。そうだろう。ああ、このために生きてるんだなあっていうものが、やっぱり、欲しいじゃないか。そういうものを見つけられれば、寿命の長短なんて、どうでもいいのさ。朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり、だよ。昔の人は良いことを言ったもんだ。ああ、このために生きてきたんだっていう感動があれば、そのまま死んだって悔いはないじゃないか。それが人間だろう。違うかい?それが人間じゃないか。それとも、杉の木になるかい?」

「いや、杉の木は・・・勘弁してくれ。」

「そうだろう!そうだとも。だからこそ君は人間なのさ。第一、杉の木になりたいなんていう変人から寿命をもらったら、たちまちミイラになっちゃうからね。まったく、危ないところだった。」

「おい。魔術師。」

「何でしょう。」

「ずいぶん得意になって、べらべらとしゃべってたがね、僕は、べつに、百歳、二百歳まで長生きしたいと言ってるんじゃない。そうじゃなくて、おまえに寿命をやったら、それこそ、その、ああ、このために生きていたんだなあっていうもの、そいつを見つける暇もなく、ポックリ死んじゃうこともあるんじゃないかって心配してるんだよ。」

「ああ、そういうことか。ポックリが嫌だってわけね。」

「どうなんだよ。おまえの言うことは分かった。僕は杉の木にはなりたくない。千年の寿命なんか欲しくない。でも、死んでも悔いがないくらいの、すごい感動だか喜びだか、そういうものがない限りは、やっぱり、死にたくはない。そうだろう。それが人間なんだろう?」

「そりゃそうだけど、人生の感動なんてものは、べつに、長生きとは関係ないわけで、つまりその、短い人生でも、一生懸命に頑張れば、見つかることもあるわけで、よく言うじゃないか、太く短く、とか何とか、あれさ。」

「太く短く、が、細く短く、になっちゃかなわんと言ってるんだよ。」

「うーん。それは君次第だろう。君の人生を太くするために、十年分一億円をあげるんだから。もしだよ、もし、君から十年分の寿命を取ったら、君が残り一日しか生きられないとしよう。まあ、最悪の場合、そういうことだって有り得るからね。それでも、君が、毎日を精一杯に生きていれば、悔いはないはずだ。悔いが残るのは、要するに、その日をいい加減に生きていたからだろう。ああすればよかった、こうすればよかった、という後悔があるから成仏できないのさ。今日できることを明日に延ばすから、そういう目に遭うのだ。今日できることは断固として今日やる。明日にならなきゃできないことは、どう頑張ったって無理なんだから仕方がない。諦めるしかないさ。」

「また説教くさいゴタクを並べやがったな。それじゃあ、その残された一日を精一杯生きれば、死んでも悔いがないくらいの感動とか喜びを経験できるのか?たった一日で一億円を使い切って大満足して死ねるのか?一生懸命に金をばらまいて、その日一日をどんちゃん騒ぎで無理矢理遊びまわって、やれやれくたびれた、というだけなら、今の生活とべつに変わらんじゃないか。くたびれ果てて、バタンキューだ。それこそ、何のために生きてるのか分からんままに死ぬことになるじゃないか!」

「ちょっと待ってよ。君。すると何かい、君は、何のために生きているかが分かれば、それこそ明日死んでも悔いはない、と言うわけ?」

「明日死んでも悔いがないくらいの、ものすごい感動がないとダメだよ。」

「でも、感動するかどうかは、君の心持ち次第なんだよなあ。他人にはつまらんことでも、君にとっては死んでもいいと思えるほど感動するものがあるかも知れないしね。君、天命、という言葉を知ってるだろう。人はね、この世に生を受けるときに、天の神様から一つずつ天命をもらうのだよ。この天命が、その人が何のために生きているか、という問いの答えというわけだよ。でも、天命ってのは、もちろん、人それぞれに違っていて、ある人の天命は、他の人から見れば、どうでもいい、ひどくつまらんことだっていう場合もある。逆に、誰から見ても、すごい天命を与えられる人もいる。でも、その天命に気がつかずに死んでいく人だってたくさんいるし、全然天命とは関係ないことを天命だと勘違いして大いに人生を謳歌している幸福な人もいる。あるいは、たまたま自分の天命に気がついても、なんだこりゃ、つまらねえ天命だ、と、大いにがっかりして、自力で感動できる人生を追い求める人だってたくさんいるんだ。つまりは、ああ、このために生きているんだなあって感動できるかどうかは、その人の心持ち次第というわけさ。」

「心持ち次第と言ったって、残りの人生が、たった一日しかないんじゃ、気持ちの準備だって間に合わんじゃないか。」

「やれやれ。どうにも君は、たった一日しか残りがないっていう、最悪のことばかり心配するんだねえ。寿命を売らなくっても、交通事故で明日死ぬかも知れないくせに。いつ死ぬかなんて、心配してちゃ切りがないだろう。みんな、けっこう、一か八かで生きてるのさ。おや、今日は生きている、ラッキーだ、というくらいの、不安定で不確実なものじゃないかね、命なんてさ。テレビのニュースを見てみなよ。交通事故は無数にある、通り魔はぞろぞろ歩いてる、強盗なんて日常茶飯事、会社をクビになれば即自殺。まったく、生きてる方が不思議なくらいだ。政府は何をやってるのかねえ。」

「政府のことなんぞどうでもいい!とにかく、僕は最悪のことが気になるのだ。たった一日しか残りの寿命がなかったらどうするんだ。それでも僕は、自分の人生の意味を知って、感動して喜びに包まれながら死ねるのか?答えろ!」

「やれやれ。つまり、どうしてほしいわけ?今すぐに、ここで、君の天命を教えろとでも言うの?」

「ほう。できるもんなら、教えてもらおうか。」

「そりゃ、できますよ。私は、千年も修行してきたんだから。でもねえ、たとえ、それが、君の期待に沿えないものであったとしても、がっかりしちゃいけませんよ。希望を捨てちゃだめだよ。天命に感動するかどうかは、君の心持ち次第なんだからね。いいね?」

「何だ。そんなにひどい天命なのか。」

「そうは言ってない。天意をお伺いしてみないと分からんからね。もしかすると、君の天命は、例えば、維新回天の志士みたいな、歴史に名を残すようなすごいものかも知れない。」

「ほう。維新の志士ねえ。」

「おやおや。うれしそうだね。日本人てのは、これだから困るんだよ。自分が維新の志士みたいな巨大な天命を背負ってると、勝手に独り決めしちゃうんだよなあ。みんながみんな、維新の志士になったんじゃあ、国が目茶目茶になりますよ。そういう壮大な天命を受けている者は、いないわけじゃないが、いてもほんの一握りさ。あとはまあ、単なる脇役だよ。歴史に名を残した維新の志士がいる一方で、ええじゃないか、ええじゃないかって踊り狂ってただけの庶民の役割を与えられた人々もたくさんいたわけで、それでも、そういう庶民だって、立派に維新の役には立ったわけだ。役割の重要性から言えば、差はないんだ。脇役のいない主人公なんて意味がないからね。だから、みんな、自分の役割に満足するのが当たり前なんだけど、そうはいかないんだよねえ。ええじゃないかって踊るだけの役は嫌だってゴネる連中が多くて困るんだなあ。まあ、でも、その責任の一端は歴史家にあるね。志士たちのことは私生活の行状までやたらと詳しく調べ抜くくせに、庶民のこととなると、名前も残らない。せめて、名前くらい残せばよかったのにねえ。ええじゃないかに参加した庶民の名前一覧、熊さん、八公、オヨネさん、云々といった感じでさ。」

「すると何か。どうせ僕も、ええじゃないかの組だってのか。」

「もしそうだったとしても、がっかりしちゃだめだよって言うのさ。」

「がっかりするよ!」

「心持ち次第だって言ってるじゃないか。どんな有名な主演俳優だって、地味な脇役がいてこそ引き立つのさ。かえって、そういう地味な脇役の方が、演技力が要求されるんだ。そういうのを、本物、というんだね。たとえ歴史の主役でなくったって、本物の人生を歩めばよろしい。名脇役っていう言葉があるだろう。アカデミー賞だって、助演男優賞とかあるじゃないか。」

「でも、単なるエキストラは、所詮、エキストラじゃないか。アカデミー賞だって、エキストラ賞なんかないじゃないか。」

「ないね。」

「不公平じゃないか。」

「そう。不公平だね。だから言ったじゃないか。ええじゃないかに参加した庶民の名前一覧、熊さん、八公、オヨネさん、といったことをやればよかったのにって。」

「そんな面倒なこと、誰がやるんだよ。」

「さあ。」

「さあ、じゃないだろう。そりゃ、名脇役なら、助演男優賞だってもらえるだろうさ。でも、エキストラはどうなんだ。立場がないじゃないか。エキストラがいなきゃ、主役一人じゃ何にもできないくせに、おかしいじゃないか。そんな不公平な人生に、納得しろってのか。庶民を馬鹿にするなってんだ。一寸の虫にも五分のたましいだ。そうだろ!」

「おやおや。てっきり、自分を庶民と決めつけちゃってるみたいだね。」

「だって、どうせ、庶民なんだろ?だいたい、三十過ぎても、ちっともウダツがあがらないんだ。大した天命じゃないに決まってる。知りたくもねえや。ああそうさ。僕は、どうせ、貧乏人の子せがれで、やっと受かった三流大学も金欠で中退して、最低のブラック企業でこき使われて人生を終えるだけの男さ。あーあ、つまらねえ人生だ。食うために生きるだけの人生だ。そしてそれが僕の天命ってわけだ。うれしいねえ。おまえから金をもらったところで、どうせ何の役にも立ちゃしないのさ。くだらん。もういいから、さっさと帰れよ!もっと、華々しい天命を持ってる奴のところにでも行きゃいいだろう!一億なんか、いるか!」

「まあまあ。落ち着きたまえ。」

「うるさい。いつまでもぐずぐずしてるとぶん殴るぞ。」

「静かにしろったら。こんな安アパートなんだから、隣の人に聞こえちゃうだろ。」

「安アパートで悪かったな。隣の人?ふん。隣はお水のお姉ちゃんで、朝まで帰って来ないよ。下の階は空き部屋さ。」

「ほう。それは、いいことを聞いた。」

「はあ?」

「と、いうことは、朝までは、君は、誰の助けも期待できないわけだ。」

「ふん。だから何なんだよ。僕を殺すってのか。殺せよ。どうせつまらねえ人生だ。そのかわり、おまえの契約もパーだ。ざまあみろだ。」

「やれやれ。こりゃ困ったな。手がつけられないとはこういうことだな。」

「帰れ。早く!」

「うーん。その、つまり、君の不満は、エキストラ賞がないということにあるのかな。」

「か、え、れ!」

「よし。分かった。エキストラ賞を作ろうじゃないか!」

「はあ?」

 

      三 エキストラ賞 

 

 魔術師の影が、ふいに小さくなった。その場にかがみこんだらしい。闇の中で、がさがさと、なにやら物音がする。

「何だ。何を始めようってんだ。」

「え?だから、その、エキストラ賞を作るんだよ。わがままな君のために。」

「どうやって?」

「もちろん、魔術だよ。君。私を誰だと思ってるんだね。インドで千年も修行した魔術師ですよ。これからね、魔術でもって、政府にエキストラ賞を作らせるから、まあ、楽しみにしていたまえ。」

「政府に?」

「そうだよ。政府以外に、誰が賞なんかくれるんだね。政府にね、まあ、つまり、エキストラみたいな損な役回りしかない庶民にも、せめて名前くらいは残せるような、そういうシステムを作らせるのさ。」

「だから、どうやってさ。具体的にどうするんだよ。」

「そんなこと、総理大臣にでも聞いてくれ。私は、政府にそういうシステムを作らせるように魔術をかけるだけさ。いわゆる動機付けだよ。具体的にどういうシステムになるかまでは知らんよ。」

「そんなの、無責任じゃないか。」

「何が無責任なのだ。本来、魔術とはそういうものなのだ。君は、魔術と言うのは、棒を一振りしてカボチャを馬車に変えるような、そんな単純なものとでも思っていたのかね。残念でした。正統派の魔術ってのはね、もっと、こう、地味な、玄人好みの心理学的な高等技術なのだ。人の深層心理に働きかけて、人を思いのままに操るのだ。それこそが魔術の王道であり、醍醐味でもあるのだ。お伽噺のカボチャ魔術と同列にしないでもらいたいね。」

「ふうん。そんなもんかね。」

「そうさ。私はこれでも、免許皆伝だよ。魔術に関しちゃ、私は、プロだよ、プロ。素人は黙って見ていたまえ。」

 魔術師は、相変わらず、がさがさと何やらかきまわしている。時々、舌打ちなどしている。

「何だい。うまくいかないのかね。」

「え?いや・・・」

「だって、さっきから、がさがさやってるだけじゃないか。」

「だってさ。その、呪文がさ・・・」

「呪文がどうしたんだ。」

「こう暗いと、呪文が読めないじゃないか。」

「はあ?」

「こりゃ、だめだ。呪文が読めないんじゃ、お手上げだ。やれやれ。」

「な、何を言ってんだ。おまえ、本当に免許皆伝なのか。呪文が読めないからだめだとは何だ。馬鹿馬鹿しい。じゃあ、電気つけろ!」

「電気?だめです。そんなことしたら、君に姿を見られちゃうじゃないか。」

「べつに、いいじゃないか。」

「だめなのだ。姿を見られるとミイラになる。」

「なんだって?」

「君に姿を見られるとミイラになっちゃうんだ。」

「ほほう。そりゃ、いいことを聞いた。」

「え?」

「電気をつけた途端、おまえはミイラになっちゃうんだろ?なあんだ。おい。イカサマ師。さっさとこの部屋を出て行け。さもないと電気をつけるぞ。」

「・・・」

「早く出て行け。電気つけるぞ!」

「ねえ、君。」

「何だ。」

「私がここでミイラになったら、困るのは君だよ。ミイラと言うのは、つまりは、人間の死体だよ。下手すると、君、殺人犯と勘違いされて逮捕されるよ。」

「・・・めんどくさい奴だ。」

「納得したらしいね。賢明な選択だ。とにかく、呪文さえ読めれば問題ないんだ。君、ちょっと、懐中電灯でも貸してくれよ。」

「やれやれ。玄関にあるだろう。自分で持って来いよ。」

 魔術師は、こちらに背を向けて、用心深く懐中電灯を点けた。丸めた背中が黒く浮かび上がった。相変わらず、がさがさと手元で何かかきまわしていたが、ふいに、動きを止めると、じっと動かなくなった。呪文を書いた紙でも見つけたのだろう。読み耽っているといった様子だ。もう、勝手にしろ。エキストラ賞ねえ。エキストラ賞。こりゃ、いったい、どういう賞だ。ふざけた話だ。馬鹿らしい。いや、待てよ。エキストラ賞?待て待て。ちょっと待て。

「おい!」

「何だよ。もう。呪文が分からなくなったじゃないか。邪魔しないでくれ。難しいんだから!」

「ちょっと待て。おまえ、今、エキストラ賞の魔術をかけてたんだよな。」

「そうですよ。あたりまえじゃん。」

「そりゃ、いったい、どういう賞だ。」

「もう。何べん言えばいいのかなあ。君、頭が悪いのかね。具体的にどんな賞になるかは、総理大臣が決めることであって、私の知ったことじゃないって言ってるじゃないか。」

「だから心配なんだよ。そりゃ、つまり、あれだろう、要するに、政府の役人がだね、ある日、僕の部屋に来て、あなたの人生は実につまらないものだったから、それじゃあんまりだというので、ここにエキストラ賞を与えます、はいどうぞ、おめでとう、よかったね、みたいなことになるわけだろう。」

「まあ、そうかもね。政府のやることだから、まあ、そんなところじゃないのかね。役人から賞状一枚もらって、はい、おしまいって感じ?それとも何か、副賞でも欲しいの?金メダルとか。」

「そうじゃない。つまりだな、僕の人生がつまらんものだってことは、それはそれで覚悟の上だがね、そういうつまらん人生を送っている人間なんて、それこそ掃いて捨てるほどいるわけだよ。そういう中から、どうやってエキストラ賞受賞者を選ぶわけ?」

「知るもんか。選考基準なんて、役人が考えるでしょうよ。」

「そうだろう?要するに、役人の基準で選ぶわけだ。こいつの人生は実につまらんけれども、まあ、とりあえず、世のため人のために少しは役に立ったみたいだから、エキストラ賞をあげましょうってな感じで。」

「まあ、そうだろうね。そんな感じだろう。多分。」

「じゃあ聞くが、役人ってのは、何が世のため人のためか、知ってるわけ?」

「私に聞かれてもねえ。まあ、知ってるんじゃないの?クソ難しい国家試験をパスした秀才ぞろいなんでしょうから。まあ、君よりは優秀・・・」

「うるさい。まあ、役人が秀才だとしよう。すると何か。秀才は、何が世のため人のためか、知ってるわけ?」

「くどいね、君も。あのねえ、何が世のため人のためか、なんてことはね、べつに正しい答えがあるわけじゃないのよ。頭のいい人が、いろいろ知恵を絞ってだね、これこそ正義、とか、これこそ真理、とか言ってるだけなわけよ。君の好きな明治維新だって、そりゃ、日本人の多分九十九パーセントが、いいことだったって思ってるだろうけど、それは、後世の頭のいい人たちが、封建主義を打破しただの、洋式近代化に成功しただのと、いろいろ理由付けしたからであって、幕府側の人間から見れば凶暴なテロ行為だったわけだろう。フランス革命だって、ロシア革命だって、デモクラシーだのマルキシズムだのといった、それ相応の正当化の理屈があるおかげで、王様も貴族も泣き寝入りするしかなかったわけさ。で、そういう理由付けは、みんな、頭脳明晰な秀才たちが考え付いて、君たち庶民に与えてきたものじゃないか。そうして、それこそが、人類の進歩、というわけだよ。何が世のため人のためか、なんてことはね、庶民の心配することじゃないのさ。秀才に任せときゃ、いいように取り計らってくれるんだから、庶民の皆様は心配御無用ってわけ。」

「ちっとも心配御無用じゃない。大いに心配だよ。」

「どうして?」

「だって、どんなに頭脳明晰な大学者だって、神様じゃないんだから、間違えることだってあるだろう。間違えてたらどうするんだよ。見当違いなトンチンカンなことを世のため人のためだって思い込んでたらどうするんだよ。どう責任とってくれるんだよ。」

「責任なんかとらんよ。誰にどんな責任取ればいいわけ?そりゃ、大学者だって大天才だって間違えることはあるかも知れないがね、その時は、大先生いわく、これが我々人類の進歩の限界でございます、もっと勉強して出直してきます、さらば御免、というわけで、あとは知らんぷりさ。」

「それじゃあ、僕たち庶民は、秀才どもの屁理屈に好き勝手に引きずり回されるだけじゃないか。それって、要するに、奴隷じゃないか。」

「やれやれ。何かって言うと、すぐにそんな極端なことを言うからいけない。いいかね、そりゃね、大先生の御高説が間違ってるかも知れないにしてもだね、それが間違いだ、と言える資格があるのは、これまた大先生だけなのさ。決して庶民ではないのだよ。庶民が、自ら、あの大先生の考えは間違ってんじゃねえか、なんてことを理路整然と主張することができますか?庶民なんてものは、大先生の考えを神の啓示のごとく押し頂いて有り難がるだけさ。そのくせ、もっと若々しい大先生が現れて、あいつの考えは間違ってる、おれの考えの方が正しい、と大声で言い出したら、ころりと考えを変えて、先を争って、その若い大先生の信者になるんだ。そうして、それだけでなく、古い学者の考えを信じ続ける者たちを迫害し始めるんだ。そんな庶民が奴隷だって?馬鹿を言っちゃいけない。奴隷どころか、庶民は暴君だよ。凶悪な独裁者だよ。そういう凶暴なる庶民様のために、世の秀才どもは、戦々恐々、冷や汗かきながら、何が世のため人のためかってことを判断する基準を献上しているわけだよ。だから、庶民の皆様は心配御無用だというのさ。」

「・・・」

「納得したかね。」

「するもんか。」

「おやおや。君も頑固だね。合理的精神というものがない。それじゃあ、人類の進歩も何もあったもんじゃない。」

「人類の進歩?ふん。よく言うよ。つまりは、秀才どもが自分たちの都合にあわせて作っただけのムシのいい基準じゃないか。そんなもん信用できるか。」

「ふう。困ったもんだ。それじゃ、どういう基準なら信用するわけ?」

「絶対に正しい基準だ。」

「だからね、正しい基準なんてものは、ないんだってば。分からん人だな。」

「じゃあ、おまえが、魔術でどうにかしろ。」

「え?」

「どうにかしろ!今すぐに、だ。そうでなきゃ、寿命は売らん。売るもんか。絶対に売らんから、そう思え。」

「もう。ちょっと待ってくれよ。絶対に正しい基準だって?まったく、論理を無視してるよなあ。ついていけないよ。これだから庶民は困るんだ。まさしく暴君・・・」

「うるさい!早くやれ。おまえ、魔術のプロなんだろう。」

「もちろん、プロ中のプロですよ。うーん・・・そうだねえ・・・あ。そうだ。うん。」

「何だ。もうできたのか。」

「まあね。プロだからね。」

「ほほう。さすが、免許皆伝だ。インドの山奥で千年修行しただけのことはあるじゃないか。見直したよ。で、どうする?」

「神様に頼めばいい。」

「はあ?」

 

      四 少数者

 

 魔術師は、懐中電灯の明かりの下で、またもや、がさがさと何かを引っ掻き回し始めた。例によって、呪文を探しているわけだ。それにしても、何だか、いかにも頼りない後姿だ。インドの山奥で千年修行しただって?どうだか。怪しいもんだ。どうせ、よっぽどの落第生だったに違いない。千年修行したんじゃなくて、千回落第したんだろう。で、成績があんまり悪いもんだから、本場インドでは就職先もなくて、はるばる日本に来たわけだ。きっとそうだ。そうに違いない。

「君!」

「え。はい。」

「いま、私の悪口を考えていただろう。」

「まさか。」

「いいや。私は君の心が読めると言っただろう。誤魔化してもだめだ。失敬な。これでも私は、お師匠様から後継者になってくれと頭を下げられたほどなのだ。」

「へええ。それが、また、どうして、こんな極東の果ての島国に?」

「・・・」

「お返事がないようですが?大先生?」

「だ、黙りたまえ。じ、呪文を間違えるじゃないか。」 

「どんな呪文だよ。僕にも教えろよ。」

「馬鹿だな、君は。企業秘密だよ。門外不出なのだ。」

「こりゃまた、懐中電灯がなきゃ呪文も読めんくせに、ずいぶんな威張りようだな。いったい、何をやらかそうってんだよ。」

「聞いて驚くなよ。」

「そんな慣用句はいいから、早く言え。」

「むむっ。では言おう。いいかね、これから私がやろうとしているのはだね、まさに、魔術の奥義を極めた者だけが許されるところの秘儀、神通力の術である。」

「神通力?」

「その通り。」

「ふうん。」

「ふうん、ではない!まったく、感動のない人間は生きる資格もないよ、君。神通力の術とは、神と直接対話を試みるという超絶の荒技なのだ。未熟な魔術師ならたちまちミイラになって即死するという恐るべき秘術なのだ。」

「ほほう。すると、おまえ、危ないんじゃないか?」

「し、失敬な!そんなことより、君の宗旨は何だ。」

「シュウシ?」

「そう。宗旨だ。分からんのかね。何を信仰してるのかってんだよ。」

「ああ、そのシュウシか。いや、べつに何も。」

「べつに何もって、馬鹿か、君は。それじゃ困るんだよ。神通力は、君の信じている神様と対話するんだから。」

「ああ、そういうことか。べつに何でもいいよ。神様でも仏様でも。適当にやってくれ。」

「だから、それじゃ困るんだったら。いいかね、私がいまからやろうとしていることはだね、君の信じている神様を呼び出してだね、君の言う、その、絶対に正しい基準とやらを啓示してもらうことにあるわけだよ。だから、その当然の前提としてだね、何でもいいから君が信仰を持ってなきゃいかんわけだよ。そうでなきゃ、いくら神様の啓示があったって、君はちっとも有り難がらないじゃないか。つまりだね、君の信じる神様にね、特別に、君だけに、いいかい、君だけにだよ、ああしろ、こうしろって、手取り足取り、君の今後の生き方を細かく指示してもらうわけだよ。何せ神様の啓示なんだから、絶対に正しい基準でしょ?君は、その基準に従って生きればいいわけさ。それだけで、天国だか極楽だか、とにかく君の望む目出度い後生が特典として約束されるというわけ。そうすれば、満足して死ねるでしょ?自分の敬愛する神様に祝福されて死ぬんだから最高じゃん!神様が君だけにくれる唯一最高のエキストラ賞ってわけさ。我ながらグッドアイデアだろ?」

「そんな屁理屈を、よくも考えついたもんだな。」

「でしょ?プロだからね。」

「おまえのアイデアは分かったがね、僕は、べつに、神様も仏様も信じちゃいないんだ。残念でした。企画倒れもいいところだな。」

「だから困ってるんじゃないか。一切の責任は、君の不信心にある。まったく、神も仏も信じてないなんて、よくも恥ずかしげもなく言えるもんだ。べつに聖書やお経を読んだことがなくってもいいんだよ。何というか、たとえば、そうだな、ああ、やっぱり神様っているんだなあ、みたいな気持ちになったこととかないのかね。感動したことがないかなあ。体中を霊感が走りぬけるような経験はないかね?そういう経験がないとしたら、君は人間とは言えんよ。」

「ないね。ただの一度も。」

「なんてつまらん男だ、君は。まったく、だからいつまでたっても庶民なんだよ。面倒見切れんよ。」

「何言ってやがる。今時、そんな神秘体験なんて、経験したことあるって人間の方が珍しいだろう。現代にゃ、神も仏もないのさ。」

「そんなことはない。私が修行してたインドの山奥では・・・」

「待て待て。残念ながら、ここは、二十一世紀の日本なんだよ。困った時の神頼みってやつで、まあ、せいぜい、正月に初詣に行くぐらいのもんさ。」

「初詣か。いくら不信心の君も、初詣には行くのか。」

「それくらいはね。お決まりだからね。」

「よし。じゃあ、それで行こう。」

「それで行こう?」

「そう。それで行こう。ちょっと無理があるけど、この際、目をつぶろう。君の初詣する神社の神様のお名前は?」

「はあ?何言ってんだ、おまえ。べつに僕は神道を宗旨にしてるわけじゃないし、初詣に行く神社の神様なんて知るわけないだろう。」

「何とまあ。君は、その神社の神様が誰かも知らずに、初詣してるわけ?」

「ふつう、そうさ。誰も気にしちゃいないよ。」

「やれやれ。じゃ、何かね。君たちの初詣というのは、神社に出かけて賽銭箱に小銭を放り込むだけというわけか。」

「そういうこと。」

「それって、いったい、何なの?何か意味があるの?」

「べつに意味なんてないよ。お決まりのことだからやってるだけだよ。」

「お決まりのことか・・・お決まりのことねえ・・・」

「どうした、先生。もう、お手上げか?」

「ふうむ。分からないな。なんで、お決まりのことに満足できるのかな。例えばだよ、君の人生が、ろくでもない天命の下で、恋人も無く、年収も三百万そこそこのままで、毎日くたびれ果てるだけの人生を浪費するだけだとする。その場合、君は、その日その日を、お決まりの日課に従って、ただ黙々と死ぬまで反復するしかないわけだ。そうだろう?」

「ふん。そんな人生だけは御免だがね。」

「ほら、君は、いま、抗議したね。そんな退屈な反復人生は嫌だろう?」

「あたりまえだ。」

「そう。当然だ。でも、不可解なことに、君は、既に、自ら、退屈な反復人生を選択しているじゃないか。さっき、君は、合理的精神による人類の進歩なんか、ちっとも信用できないと言った。かと言って、信仰を持ってるわけでもない。そうして、お決まりの無意味な初詣を毎年反復することには何の疑いも抱かずに満足して生きているじゃないか。ブラック企業の件だってそうだ。君は、あれこれと不満を言いながらも、毎日同じ時間に起きて会社に行き、毎日夜中に帰ってきてコンビニ弁当を食べてバタンキューの生活を繰り返してる。君は、言葉では反復人生を拒否していながら、実際の生活では何の抵抗もなく無意味な反復人生を受け入れているんだ。おかしいじゃないか。言ってることとやってることが違うんだよ。君は、本当に、本心から、反復人生を嫌悪しているのかい?君の心は、べつに反復人生でも構わないと思ってるんじゃないか?ただ、言葉の上だけで、つまり、理屈の上だけで、まるで学校の先生に教えられたことを意味なく繰り返すみたいに、反復人生なんてくだらん、と言ってるだけじゃないのか?そうでなきゃ、おかしいよ。言ってることとやってることがちっとも一致してないなんて、医学的治療の必要があるよ。」

「まあ、そういわれて見れば、そうかもね。」

「まったく、不可解な話だよ。いいかね。進歩や信仰というのはね、言わば、人間が人間として生きていくために、やっとの思いで手にした希望なんだ。この希望のおかげで、人間は、食うためだけに生きることからようやく逃れることができたんだ。反復の呪縛から逃れることができたんだ。しかし、君は、進歩も信仰も拒否している。それが日本人なのか?だとすれば、君たちは、進歩も信仰も捨てて無意味な反復だけを繰り返すだけの異常な民族だということになるよ。君たちに救いはないということになる。救いもなく、ただ黙々と反復しつつ滅亡を待っているのかね。君たちはどこへ行くつもりだ。いや、そもそも、君たちは、どこから来たんだ?君たちは、いったい何者だ?魔術界に伝わる古伝説にね、流浪の民というのがあるんだ。天地開闢の昔に、人間が天と地の二つの種族に分かれた時、どちらも嫌だと逃げ出して永遠に流浪することになった人々がいたというんだ。君と話していて、その流浪の民のことを思い出したよ。おそらく、君たちの先祖は、太古の昔、どういうわけか、進歩や信仰といった人間としての希望を、自ら捨てたんだ。そして、君たちは、絶望の世界をさまよい歩き、ようやくこの極東の島にたどり着いたんだろう。けれども、長い年月の経つうちに、いつしか、その流浪の記憶さえも失ったんだ。そして、進歩も信仰もない、反復するだけの民族になったんだ・・・」

「おいおい。大丈夫か、先生?」

「しかし、不思議なのは、なぜ、君たちが、進歩も信仰も拒否したのかということだ。何があったんだ?進歩や信仰にも勝る何かがあったのか?反復の呪縛から人間を解き放つ第三の方法があるというのか?第三の方法!分からないな。分からん!多分、君たち自身にも、もはや分からなくなっているんだろう。その知恵は永遠に失われたんだ。失われた?いや、そうではない・・・失われてはいない・・・君たちの心の底に残っているはずだ。だからこそ、君は、進歩も信仰も拒否したんだ。君たちは、依然として、流浪の民なんだ。君たちは、異端だ。人類の少数者だ・・・」

「分かった分かった。少数者でも何でもいい。べつに多数派になって世界制服するつもりもないよ。で、神通力はどうするんだよ。もうお手上げか?」

「・・・そのようだ。さすがの私も、万策、尽きた。」

「そりゃ、残念だったな。じゃあ、さっさと帰ってくれ。」

「・・・ねえ、君。」

「何だ。」

「ちょっと、煙草くれよ。」

「何だって?」

「煙草だよ。切らしちゃったんだ。」

「魔術師が煙草を吸うのか?」

「吸っちゃ悪いか。伝統的に、どうにもこうにも行かなくなった時には、取りあえず一服するものと決まってるじゃないか。」

 魔術師は、煙草を吸い終わると、両手を組んで、伸びをした。ポキポキと、骨の鳴る音がした。実に、さえない。スナックの女の子にちっとも相手にされない中年男のくたびれた後姿に似ている。もっとも、僕もそうだが・・・

「おい、魔術師。」

「何だね。」

「おまえ、ミイラになるのが嫌か?」

「あたりまえじゃん。」

「だって、千年も生きてきたんだろう?」

「あのね。私はね、千年間、ぶらぶら遊んでたわけじゃないんだよ。魔術師の免許皆伝を受けるべく、インドの山奥で刻苦勉励、それこそ筆舌に尽くし難い荒行をして来たわけだよ。で、ようやくにして、免許を得たわけだ。私の魔術師としての人生はこれから始まるのだよ。今から、実りに満ちた収穫の日々が始まるのだ。それが、今、ミイラになっちゃったりしたら、何のために千年も馬鹿みたいに苦労してきたのか分からんじゃないか。」

「そりゃそうだが、おまえ、自分はミイラになるのが嫌なくせに、僕には、さっきから、天命に満足するのは心持ち次第だの何だのと、ずいぶんと偉そうな説教を垂れてたよな。」

「ふん。そうでしたっけね。まあ、こっちも必死だからね、相手を説得するためなら何でもしますよ。まあ、しかし、ついに万策尽きた今となっちゃ、もう、どうでもいい気分だな。君には負けたよ。くたびれた。」

「ふん。だらしのない奴だ。あと何年分集めるんだよ。」

「あと千年分。」

「なんだ。まだ全然じゃないか。で、いつまでに集めなきゃならんのよ。」

「明日の朝・・・」

「はあ?馬鹿か、おまえ。百人から十年分ずつ集めるんだろ?こんなところでのんびりしてちゃ、間に合わないじゃないか。」

「そうだね。」

「馬鹿。急がなきゃ、ミイラになっちゃうだろ!」

「もう、いい。君と話していて分かった。日本人から寿命を売ってもらうなんて、やっぱり無理だったんだ。私はね、ほんとはアメリカが良かったんだ。それなのに、お師匠様が、おまえは日本にでも行きなさいなんて意地悪を言うから、こんなことになったんだ。なんで、あんな意地悪を言ったのかなあ。お師匠様に嫌われてるのかなあ。ひょっとして、私がミイラにでもなればいいと思ってるのかなあ。ああ、きっとそうだ。きっと、私のことが死ぬほど嫌いなんだ。毛虫みたいに嫌ってるんだ。ああ、もう、ミイラにでもなって死んだ方がましだ・・・」

「何だ?この野郎。じめじめとくだらねえこと言いやがって。師匠に嫌われたから死にたい、だと?情けない。さっきまでの勢いはどこに行ったんだよ。おまえ、プロ中のプロなんだろう?神通力だってやれる免許皆伝の魔術師なんだろう?どうにかしろよ。プロなら意地ってもんがあるだろうが。死ぬなら、その前に、魔術師としての意地を見せてからにしろ!」

「意地・・・」

「そうとも。僕はまだ、おまえの魔術なんてちっとも見せてもらってないぞ。このイカサマ野郎。神通力だ?笑わせるな。やれもしねえくせに。」

「や、やれます!」

「じゃあ、やれよ。早くやれ!」

「何のために?君は神様を信じてないんでしょ?」

「この馬鹿。誰が僕のためにやれと言ったんだよ。おまえのために神通力をやれってんだよ!おまえの神様に助けてもらうんだよ。」

「私のために?」

「そうだよ。おまえの信じる神様は何だ。早く呼び出せ!呼び出して、奇跡を起こしてもらえばいいだろう。千年分の寿命をもらえよ。」

「でも、私は魔術師だし、信じる神様と言ってもべつに・・・」

「はあ?信じる神様はいないってのか?」

「うん。」

「この馬鹿。あれほど僕のことをクソミソに言ってたくせに。よし、分かった。じゃあ、おまえのお師匠様とやらはどうなんだ。お師匠様は、おまえの神様みたいなもんだろうが。」

「そりゃ、もちろん。お師匠様は、生き神様です。」

「じゃあ、お師匠様を呼べ。ここに呼べ。」

「そんな無礼なこと・・・」

「うるさい!命の瀬戸際に、無礼もヘチマもないんだよ。さあ、神通力だ。やって見せろ!おまえの師匠をインドの山奥からここに呼び出せ!」

「無茶苦茶だ・・・」

「そうとも。庶民様は無茶苦茶なんだよ。暴君だからな!どうせミイラになるなら、その前に、免許皆伝の腕を見せろ。そのために千年も頑張ったんだろう?おまえは、そのために生きてきたんだろう?」

「・・・」

「さあ、やって見せろ!」

「で、でも、私は、ほんとは、神通力なんて、やったことがない・・・」

「はあ?おまえ、さっき、自信満々で神通力やろうとしてたじゃないか。」

「あ、あれは、実は、その、幻術で、君をだますつもりで・・・」

「この馬鹿。やっぱりか。まあ、いい。どうせ、ミイラになるんだ。神通力を失敗してミイラになっても本望だろう。秘儀に初挑戦というわけだ。おまえの腕を師匠に見せてやれ!一世一代の大勝負だ。僕が責任もって見届けてやる。たとえミイラになっても、ちゃんと燃えるゴミで捨ててやるから心配するな。何だ、この野郎。めそめそしやがって。泣くな、馬鹿!さあ、やれ!免許皆伝の意地を見せろ!」

 

      五 神通力

 

 魔術師は、鼻水をすすりながら、懐中電灯の明かりの下で、がさがさと呪文を引っ掻き回していたが、そのうち、静かになり、ピクリとも動かなくなった。そうして、ぶつぶつと呪文を唱え始めた。懐中電灯の明かりに黒く浮かび上がった魔術師の後姿は、さすがに、話しかけることを許さない厳粛な気配につつまれた。なるほど、この男は、確かに、魔術師だった。

 ひどく長い呪文がようやく止んだ。魔術師が、懐中電灯の明かりを消した。部屋が、再び、闇に満たされた。闇の中で、魔術師は、何か激しい動作をしているらしかった。時折、シュッシュッと、空気を切る音が聞こえた。

 どれほど経ったのだろう。

「終わった・・・」

闇の中で、魔術師の疲労し切った声が聞こえた。

「やっと終わったか。うまくいったか?」

「いや・・・まだ分からない。でも、ミイラになっていないから、うまくいったはず・・・」

魔術師がそう言い終わらないうちに、闇の中で、突然、玄関のブザーが鳴り響いた。

「な、なんだ?」

「・・・君、玄関に出て見てくれ。」

「何だって?おい。まさか、おまえの師匠が来たんじゃないだろうな。」

「・・・分からない。」

 僕は、闇の中を手探りで、玄関に向かった。途中、魔術師の脇を通り抜ける時、彼の荒い息遣いだけが聞こえた。

 玄関の前で、僕は、立ち止まった。このドアの向こうに、僕の見知らぬ何者かが確実に立っているのかと思うと、腰からするすると力が抜けるようだった。 

僕は、ノブに手をかけると、ドアをほんの十センチほど開けて、外を覗き見た。

 何だ?セーラー服を着た中学生くらいの少女が立っている。青白い月の光に照らし出されたその顔は、瞬きを忘れるほど美しい。

「はい?ど、どなた?」

「・・・あなたこそ、誰?」

少女は、そのくすぐったいほど愛らしい声で、けれども、ひどくつっけんどんに言った。

「は?あの、僕は、この部屋に住んでるんですけど・・・」

「あ、そう。じゃ、入るわよ。」

そう言って、少女は、ドアの隙間に両手を突っ込むと恐ろしい力でドアを引き開けた。そうして、呆然としている僕を片手で押しのけて、靴も脱がずにそのままずんずんと部屋の中まで上がり込んで行く。

「あの、ちょっと待って・・・」

僕はあわててその後を追った。

と、その時、闇の奥で魔術師が叫んだ。

「お、お師匠様!」

「え?お師匠様?こんな子どもが?」

僕は思わず声を上げた。すると、「お師匠様」は、暗闇の中で、やはり愛らしい声で、つっけんどんに答えた。

「そうよ。小娘で悪かったわね。あたしが、この馬鹿の師匠よ!」

そうして、「お師匠様」は、うずくまる魔術師の影に向かって詰問の声を投げつけた。

「まったく、ろくでもない弟子だわ!あんた、神通力を使ったわね!そうでしょう!」

「は、はい。申し訳ありません。お師匠様・・・」

「謝って済むと思ってるの!この馬鹿!神通力で自分の師匠を呼び出すなんて、呆れた馬鹿だわ!この馬鹿!」

あまりの剣幕に、魔術師が哀れになった僕は声をかけた。

「まあまあ、お師匠さん。そう怒らないで。彼も事情があって・・・」

「あなたは黙ってらっしゃい!部外者のくせに。ああ、そうか、あなたが、この馬鹿をそそのかしたのね。そうでしょう。」

「・・・そうです。」

「ふん。どうせ、千年分の寿命が集まらなくて、どうしようもなくなって、やぶれかぶれで神通力をやったんでしょう。まったく、千年も修行してたくせに、いったい全体、何を勉強してたのかしら!折角、お情けで免許をあげたのに、案の定、このザマよ!いっそのことミイラにでもなっちゃえばよかったのよ!」

「ちょっと、そりゃ言い過ぎだと思うけど。」

「何ですって!部外者は黙ってなさい!」

「いや、でも、この馬鹿だって、いや、こいつだって、立派に神通力をやって見せたじゃないか。命懸けでやったんだよ。大したもんじゃないか。僕は、正直、感動したね。立派な免許皆伝だよ。」

「感動したですって?素人の分際で、お黙りなさい。あんなヘタクソな神通力じゃ、とても免許皆伝とは言えないわよ!」

「そりゃ、僕は素人だから、テクニックのことは分からんがね、でも、成功したんだろ?いや、成功、不成功なんかどうでもいいんだ。とにかく、こいつは、命懸けで免許皆伝の意地を見せたんだ。いいものを見せてもらったよ。僕が女ならコロリと惚れるところだ。」

「惚れる?ば、馬鹿馬鹿しい!」

「そうかな。ちっとも馬鹿馬鹿しくないけどな。まあ、とにかく、この馬鹿、いや、こいつにとっては、あんたは、生き神様なんだってさ。どうにかしてやるのが人情ってもんじゃないか。」

「じゃあ、何よ。千年分の寿命を、この馬鹿にやれとでも言うの?」

「生き神様ってのは、人を救ってくれるんだろう?血の通った、この世の神様なんだろう?そこが、何にもしてくれない天の神様と違うところじゃないか。千年分の寿命くらい、あんたなら何てことないんだろう?何とかしてやってくれよ。」

すると、うずくまって丸い影になっている魔術師も泣き声で哀願した。

「お願いします。お願いします。お師匠様・・・」

「ああ、もう!嫌になっちゃうわね!いい年して、そんな情けない声を出さないでちょうだい!まったく、世話を焼かせないでよ。寿命千年分ね。はいはい、分かったわよ。やるわよ。そのかわり、おまえ、もう一回、あたしのところで、徹底的に修行し直すのよ。いいわね?三千年くらい死ぬほどしごいてやるから覚悟することね。」

「さ、三千年ですか・・・」

「何よ!文句でもあるの!」

「と、とんでもない。お師匠様。有難うございます。」

「じゃ、もう、こんな国に用はないわね。一緒に帰るわよ。」

「はい。お師匠様。えへへ。」

「えへへ、じゃないわよ。うれしそうな声出して、馬鹿じゃないの?いやらしい。じゃ、行くわよ。準備はいいわね。えい!」

少女の掛け声とともに、別れの言葉もないまま、二人は唐突に消え去った。

 部屋は、しいん、と闇の中に静まり返った。

 時計の音が、コチ、コチ、聞こえる。

 はて。夢だったのか?

 外の通路を歩く靴音がした。隣のお水のお姉ちゃんが帰ってきたらしい。と言うことは、もうじき、夜明けじゃないか。こりゃまずい。少しだけでも、眠っておこう。今日も、つまらない仕事でくたびれるだろうから。

                               了

 

太宰治「人間失格」とドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」の関連性

 おやおや。ずいぶん大げさな記事だ。太宰とドストエフスキーだってさ。しかも「人間失格」と「カラマーゾフの兄弟」とはね!どうせ生かじりの浅薄な文学史の知識でもって、チンプンカンプンなトンデモ論をぶつぶつ唱えようってんだろ。やめろ、やめろ!馬鹿につける薬はないぜ・・・みたいな拒絶反応をする人たちに、僕は反論する術を持たない。なぜなら、その通りだからだ。この二人の超有名作家が自らの命を削りながら一字一字刻むように書いたであろう代表作の関連性だなんて、それこそ象牙の塔奥の院に何十年もこもって研究している大先生でさえ言葉にすることを躊躇するような深淵なるテーマについて、僕ごときが論評するなんて、そんなおこがましいことが、それこそ狂気の沙汰、暴挙妄言と言うべき愚行が、許されるはずがない!と思うことは、良識ある教養人であれば当然の反応であります。難しい話は、大先生にお任せしましょうよ。私らは、大先生のお話を、お説ごもっともと有り難く頂戴すればよござんすよ。

 と、まあ、世の中の良識ある人々からいかに諭され、なだめられようとも、僕は、その愚行をやるのである。何と言われようが、やる。断固やる。なぜかって?なぜなら、大先生のご高説に不満だからに決まってる。そもそも、大先生の説にひれ伏す必要などどこにもないわけで、小説というものは、読者が好きに読めばよろしい。と言ってるそばから、ほらほら聞こえるじゃないか、大学の講義棟の奥から自信と威厳に満ちた声が・・・いいかね、諸君、これが正しい解釈なのだよ、君の読み方は間違っている、根拠がないんだよ、根拠を示したまえ、直感なんかで小説を読むんじゃないよ、大作家に失礼じゃないか、まったく素人はこれだから困るよ!そんなレベルじゃ、単位はあげられないな!

 前置きが長くなった。大先生の悪口はもうやめよう。要するに、僕のおろかな行為を笑って許してやってください、というわけだ。単位なんかいらないから、好きに読ませてくださいよ。無論、根拠なんて、何もありません。参考文献も先行研究も全然読んでません。だって、研究論文じゃないもの。一読者の素直な感想文に過ぎない。あれとこれは、ほら、ここが似てるでしょう、ね、これって面白くないですか、って程度のつまらない感想文ですよ。そんな素人の感想文に目くじら立てることもないでしょう。

 で、ここからようやく、人間失格と、カラマーゾフの話になる。実に長かった。でもまあ、それぐらい用心するに越したことはない。さて、人間失格。太宰が、ドストエフスキーとの関連性を念頭に置いていたことは、これはもう疑う余地はない。だって、小説の中で、大庭葉蔵に「罪と罰」に関する会話をさせているんだから。で、たいてい、解説書では、人間失格は、ドストエフスキーの「白痴」と似ている、という話になるのが相場だ。通説と言って良い。そこで、僕は、こう思わざるを得ないのだ。似てるか?と。どうにも、似ていないのである。そりゃ、大庭葉蔵という主人公のダメっぷりが白痴のムイシュキン公爵に似ているじゃないか、と言われれば、そりゃそうなのだが、どうにも、しっくりこない。「白痴=無垢の人=ムイシュキン=葉蔵」という連想は、「無垢の信頼心は罪なりや」という葉蔵のセリフに引っ張られ過ぎてしまった印象を否めないのである。葉蔵自身はべつに、無垢の信頼の徒などではないし(無垢の信頼の徒は葉蔵の妻ヨシちゃんである)、無垢の信頼のすがすがしさを守ろうとして守れずに傍観するしかなかったのであるから、葉蔵は「白痴=無垢の人」というよりも、もっと複雑な存在であろう。僕は、葉蔵の中に、ムイシュキン公爵のような白痴性だけでなく、「罪と罰」のラスコーリニコフのような破滅的な無神論的近代合理性をもあわせて感じるのである。また、葉蔵が無垢の信頼の徒であったとしても、それだけでは作品ラストの「あの人のお父さんが悪いのですよ」というマダムのセリフが効いてこない。僕は、このマダムのセリフこそが、人間失格の中心テーマだと思っている。それは何も「金木の殿様」の子として育った太宰の実際の生い立ち云々の作家論の話ではなく、そういうことではなく、文学的な象徴として、このセリフが作品のキーとなる重要な意味を持たされているという意味である。なぜ、作品のラストが「お父さん」なのか。「お父さん」とは何なのか、という問題である。まさか、ここで太宰が、自分の性格破綻は実父の愛情不足のせいだったのです、などと発達心理学の解説みたいなことを述べているわけがない。そんな馬鹿な話ではない。では、この「お父さん」とは何なのか。なぜ、太宰は、最後の最後に「お父さん」を登場させたのか。この問題に解答を与えない限り、名作「人間失格」は、ラストで宙ぶらりんになってしまう。

 そうなると、僕としては、「人間失格」は「白痴」に似てますねとか、「罪と罰」に似てますね、といった話ではないと思わざるを得ないのである。むしろ、「人間失格」はドストエフスキーの作品群の混合物みたいですね、と言う方がしっくりする。そこで、はたと思いあたるのが、「カラマーゾフの兄弟」なのである。カラマーゾフの登場人物は、父親のフヨードルと、三兄弟(ドミトリー、イワン、アレクセイ)であり、特にこの三兄弟は、ドストエフスキー作品群の主人公たちの面影といちいち重なる。長兄のドミトリーは、ロシア的呪縛から脱しきれない半ヨーロッパ的知識人として「悪霊」のスタヴローギンと重なるし、次兄のイワンは、無神論的近代合理主義の化身として「罪と罰」のラスコーリニコフと重なり、そして同作の主人公と言っても良い三男坊のアレクセイは、無垢な存在としての「白痴」のムイシュキン公爵に重なるのである。要するに、カラマーゾフは、ドストエフスキーの長編小説群の集大成である。僕は、他の長編小説群は、カラマーゾフの登場人物を具体化・典型化するための習作に過ぎなかったとさえ思っている。

 すると、ここで問題なのが、親父のフヨードルである。この人物は、いったい何者なのか。何の象徴なのか。が、その答えは、すでにドストエフスキー自身が、カラマーゾフの中で暗示している。フヨードルは、「ローマ式の鼻」の持ち主だった。すなわち、フヨードルは、古代ローマ文化の象徴であり、ロシアの土着文化に対置される近代ヨーロッパの「非キリスト教的人間中心主義」の象徴なのである(なお、僕としては、親父の名前「フヨードル」が、実はドストエフスキーの名前であることにも注目しているのだが、それはおいといて)。そしてもうひとり、カラマーゾフでは、象徴的な人物が登場する。悪女グルーシェニカだ。「ミロのヴィーナス」のような体を持つこの美女を、親父のフヨードルと長兄ドミトリーが奪い合うのである。では、なぜ、「ミロのヴィーナス」なのか。これも単なる美しさの修辞ではないと僕は思う。グルーシェニカが「ミロのヴィーナス」でなければならない理由があるのだ。意味のない比喩など小説には存在しない。比喩には必ずその理由がある。

 近代ヨーロッパにおいて、特に19世紀は、第二のルネサンスと呼ばれるほど、人間中心主義が高まった。いわゆる「天才の世紀」であり(今日天才と称される人々の多くが19世紀に集中している)、文学史で「19世紀ルネサンス」と呼ばれる人類史上最も人類が輝いた時代だ。封建的あるいはキリスト教的な既存の権威はすべて否定され、息の根を止められた。神までも殺された(死んだのではない、殺されたのである)。「非キリスト教的人間中心主義」の全盛期である。人類至上主義の時代と言って良い。人類は、ついに天上界の門をこじ開け、神を殺し、世界を支配した(と思いこんだ)。その思想的基盤となったのが、中世ルネサンスと同様に、古代ギリシャ・ローマの非キリスト教的文化であった。キリスト教がまだ生まれていない古代ギリシャ・ローマの姿こそが人類本来の自由な姿だと礼賛されたのである。

 二十一世紀の今日でも、ヨーロッパの知識人が古代ギリシャ・ローマ文化に抱く崇敬の念は強烈である。教会の支配におびえつつゲルマンの森の奥で無知文盲のままに数百年におよぶ「暗黒の中世」を徒過してきたヨーロッパ人にとって、古代ギリシャ・ローマは今なお燦然と光り輝き、彼らをコンプレックスのどん底に落とし入れるらしい。映画「ローマの休日」は、ローマという自由の都で、ヘプバーン扮する美しい王女が旧弊で伝統的な中世的権威を全て脱ぎ捨て、一人の「人間」の女性として生きる姿を描いた。あの映画のすごみは、ヨーロッパ人の古代ギリシャ・ローマへの憧れを理解してはじめて実感できる。シェークスピアジュリアス・シーザー」の名文句、「ローマに王はいらぬ!」に込められたルネサンスの中心テーマをエンターテイメントとして再構成した名画である。単なるお姫様のお遊び物語ではないのだ。ナポレオンは古代ローマ式の凱旋門をパリに建設した。ヒトラー古代ローマ式の敬礼(ムソリーニが復活させた)をナチスの正式な敬礼として模倣し、パリ占領時にはわざわざ凱旋門を行進した。西洋哲学書の序文なんかでおなじみの“Standing on the shoulders of giants”(「巨人」の肩の上に乗って)の“giants”とは、古代ギリシャ・ローマのことであり、より具体的にはプラトンアリストテレスのことである。僕はむかし、ある教養あるアメリカ人女性とお国自慢の雑談をしていて、僕が「日本は神武以来二千年以上の歴史があるのです。」とつい自慢したところ、そのアメリカ人女性は、「アメリカだって古代ギリシャ以来三千年の歴史があるわ!」とえらい剣幕で反撃されたことがある。たかが建国二百年のアメリカ人が、古代ギリシャを自らの文化的祖先として自慢するのである。それくらい、ヨーロッパ人にとって(そして半ヨーロッパ人であるロシア人にとっても)、古代ギリシャ・ローマへの文化的憧憬は絶対的なのである。19世紀は、その憧れの古代ギリシャ・ローマ文化が眼前に現実化した奇跡の時代だったのだ。そして神からの解放と自由を求める人類の情熱はさらに過熱し暴走し、古代ギリシャ・ローマへの憧憬に飽き足らず、古代ギリシャ・ローマをも超越する近代合理主義を礼賛して巨大なバベルの塔を建設し、またその一方では、民族の血と無意識世界の深淵にまでロマンチシズムの炎を延焼させて人類の身も心も焼き焦した。

 けれども、人類は、ついに神に負けることになる。人類は神になれなかった。それどころか、自らの矮小さ、不完全さを思い知らされて、二十世紀を迎えることになる。「人類の黄昏」、すなわち「世紀末」である。最近は知る人もあまりいないようであるが、「世紀末」という言葉は、本来、絶望に満ちた19世紀末のことだけを指す文学用語なのである。爛熟し退廃する「人類の世紀」の終わりになって、天才たちは、この世の終わりを警告する天の声を聞くことになる。ムンクの耳を貫いた声である。神の座す天界をめざして燃え上がるゴッホの糸杉は嵐のように不気味に渦巻きうごめく闇空に阻まれ、超人を渇仰したニーチェは狂死しなければならなかった。そしてその天の声の警告のとおり、その後まもなく、人類は世界大戦で史上空前の大量殺戮の愚行を繰り広げ、人類ご自慢の合理主義・科学万能主義も不確定性原理によって止めを刺されるのである。そういう世紀末の絶望的情景が舞台の遠景として配置されていることを頭に置いておかないと、「カラマーゾフの兄弟」という世紀末文学の黒々とした深淵はなかなか見えてこない。

 世紀末に生き、世紀末と渾身で戦ったと言っても良いドストエフスキーが、「ミロのヴィーナス」(=古代ギリシャ)であるグルーシェニカを登場させている理由は、まさにこの世紀末という絶望的情景にこそあると僕は思う。親父フヨードル=古代ローマ、悪女グルーシェニカ=古代ギリシャという象徴を配置することによって、カラマーゾフの情景が、一気に、世紀末ロシアの絶望の翳に覆われるのである。繰り返すが、小説に、無駄な比喩などはない。それは、比喩だからこそ、重要なのである。直接的表現で描写するわけにはいかないからこそ、作家は、苦肉の策で、比喩によって、情景の中に象徴を配置するのである。そして、このグルーシェニカを、親父フヨードルと長兄ドミトリーとが奪い合うのである。古代ローマにとっても、古代ギリシャは憧れの対象であった。ローマ人は、ギリシャ人の美と知性をはげしく愛し、そしてはげしく嫉妬した。古代ローマの象徴であるフヨードルが、美しいグルーシェニカにのぼせるのも当然なのである。一方、長兄ドミトリーは、親父譲りの非キリスト教的人間中心主義を引き継ぎつつも、旧弊なロシア的呪縛から脱し切れない当時のロシアのインテリ階級の象徴(=スタヴローギン)であり、親父同様に古代ギリシャの女神グルーシェニカに憧れつつも、その恋が成就することはなく、親父との女神の奪い合いの果てに、親父殺しの疑いで牢獄に入ることになるのである。親父フヨードルの殺害は、すなわち、「古代ローマ=非キリスト教的人間中心主義=19世紀ルネサンス」の死である。ドストエフスキーは、フヨードルを殺すことで、絶望の世紀末が到来した当時のロシアの情景を描こうとしているのである。そこで問題となるのが、では誰が、フヨードルを殺したのか、ということである。

 カラマーゾフの後半部分は、このフヨードル殺しの犯人探しに関する謎解きのような様相となり、法廷推理小説として読むだけでも非常に面白いのであるが(そこがまたドストエフスキーのプロ作家としてのえらさでもあるのだけれども)、ドストエフスキーの死により、真犯人は謎のままである。ドミトリーは逮捕されて裁判にかけられるけれども、ドミトリーがフヨードルを殺したとすると、古代ローマ古代ローマを殺したということになってしまい、小説のテーマが「古代ローマの自殺」ということになってしまう。それじゃ小説として破綻する。フヨードル=古代ローマを殺した犯人とは、言い換えれば、19世紀ルネサンスの人類を敗北させた何者かであり、そうなるともう、犯人は「神」しかいない。が、いくらなんでも、神を殺人犯にするわけにはいかないであろう。ではどうするのか。「神」の代わりに、「人間に内在する限界=神になれない不完全性」を、犯人にするという方法もあろう。古代ローマは神に負けたのではなく、自らの不完全性の故に自滅したのだ、という論法である。その場合、真犯人は、無神論的合理主義の塊のような次兄イワンということになりそうだ。無神論的合理主義は、「古代ローマ=非キリスト教的人間中心主義」が行き着く果ての究極の人間至上主義である(その最終形態が共産主義であり、さらにその先にあるのが「悪霊」に登場する「人神」であろう)。次兄イワンを真犯人にするということは、古代ローマの究極である無神論的合理主義が内在的に不完全であったために人類は自滅した(=神に敗北した)、ということを意味する。が、しかしそれでは、「罪と罰」で描いたラスコーリニコフの犯罪と同じテーマになってしまう。それじゃ、わざわざ苦労して大著カラマーゾフを書いた意味がなくなる。では、最後に残った三男のアレクセイが真犯人なのか?アレクセイは、ロシア正教に身を捧げる「無垢の人」である。そのアレクセイが父親(=古代ローマ)を殺すというのは、いかにも無理がある。むしろ、ドストエフスキーとしては、キリストの正統な継承者と自負するロシア正教が新しく生まれ変わり、瀕死のロシアを救う姿をアレクセイに託したかったのではないか、と僕は思う。それくらい、ドストエフスキーの描写には、アレクセイへの期待と愛情がにじみ出ている。

 では、古代ローマを殺した真犯人は、誰なのか。今さら真犯人探しをしてもはじまらないが、まあ、話のついでということで、続ける。中世ルネサンス以来、「古代ローマ=非キリスト教的人間中心主義」が徹底的に攻撃してきたのは、ローマ・カトリックバチカン)である。バチカンにしてみれば、古代ローマを殺す理由が十分にある。何せ、19世紀ルネサンスにおいて、自らの信奉する神を殺されかけたのだから。ドストエフスキーにしても、「大審問官」の章においてバチカンを手ひどく批判しているくらいだから、フヨードル殺しの犯人役をバチカンに押し付けるという曲芸もあり得ないことではない。あるいは、どうにも救いがたいほど頑迷な土着のロシア的精神(「悪霊」のイワン皇子を象徴とする救世主信仰など)を古代ローマ殺しの犯人に仕立てることもできるだろう。カラマーゾフの登場人物で言えば、フヨードルを父とする私生児と噂されるスメルジャコフ(ヨーロッパ文化に隷属するロシア的精神の象徴)が適役である。実際、小説中でも、スメルジャコフは、ほとんど真犯人あつかいされた挙句に自殺してしまう。スメルジャコフがフヨードルを殺した真犯人だとすれば、スメルジャコフに象徴される陰鬱なロシア的精神が、「古代ローマ=非キリスト教的人間中心主義」の輝きを抹殺したということになる。そして、それは同時に、ドストエフスキー自身が、愛すべき母国ロシアの伝統的精神に絶望し、その近代的再生を既にあきらめてしまっていることをも意味するだろう。スメルジャコフの自殺は、ロシア的精神の絶望の果ての自滅ということになる。が、それでは小説に救いがなくなってしまう。ドストエフスキーは母国ロシアの救いのためにカラマーゾフを書いているのだから、やはり、スメルジャコフの自殺は、ロシア的精神が再生するための儀式として積極的意義づけを与えられるべきであろう。そうなると、スメルジャコフ真犯人説にも疑問符がつく。

 いやいや。犯人捜しはもうやめよう。きりがない。謎は謎のままで良いのだ。ずいぶん長々と19世紀ルネサンスの話をしてしまったが、要するに、カラマーゾフの親父フヨードルは、「古代ローマ=非キリスト教的人間中心主義」の象徴だということを言いたかったのである。さて、そこで、人間失格の話である。小説ラストの、マダムのセリフ「あの人のお父さんが悪いのですよ」の「お父さん」とは何者なのか。無論、太宰の実父である津島源右衛門のことなどではない。そんなわけはない。この「お父さん」は、フヨードルであり、「古代ローマ=非キリスト教的人間中心主義」の象徴なのである。太宰は、言うまでもなく、芥川から強い影響を受けた。芥川は、「19世紀ルネサンス」と、その敗北である「世紀末(人類の黄昏)」に、正面から向かい合った作家である(そういう芥川の系譜につながる作家として、太宰、三島由紀夫安部公房がいるが、その後はどうやら途絶えたようである)。芥川の代表作「羅生門」で、「或る日の暮れ方」に羅生門前でたたずむ下人の姿は、世紀末の「人類の黄昏」にうなだれる敗北した人類の姿そのものなのである。そういう芥川に影響を受けた太宰は、世紀末の超克をめざした。いや、逆に、世紀末を超克しないことをめざしたとでも言うべきだろうか。そもそも、世の中の誰も、世紀末の超克なんて、めざしてなんかいないのである。世紀末だのルネサンスだのと騒いでいるのは、ほんの少数の文学者くらいで、たいていは、日々の暮らしに一生懸命で、そんな貧乏書生の暇つぶしみたいな抽象論には何の興味もないのだ。しかし、19世紀ルネサンスは、そういう生活者の日常の超克をめざしていた。何せ、神を殺して、人類がその座につこうと本気で考えていたのである。人が神になる!おそるべき野望である。一世紀間にわたり、天才たちの悪戦苦闘が繰り広げられた。けれども、人々は、何も変わらなかった。変わったことと言えば、19世紀ルネサンスの「鬼子」である共産主義が世界中で荒れ狂い、それと同根の双生児であるファシズムが不気味に胎動をはじめていたが、そういうことにも大衆は何の危機感も感じていなかった。が、それでいいのである。何もしなくていい。世紀末の超克?ばかばかしい。人間は、生きていれば、それでいいんだ。醜く、矮小で、つつましい生活者。けっこう。それこそが人間だよ。と、これが、太宰の結論なのである。ほとんど、やけくそである。

 けれども、つつましい生活者こそ人間だと結論しながら、太宰自身は、どうしても、そういう人間にはなれなかった。あくまで、新しい人間を求めた。空襲の焼け跡の中から、世紀末を超克し、神と対等に向かい合う新しい人類の出現を期待した。だから、「人間失格」なのである。神と対等になろうとするような不届き者は、「人間失格」の烙印をおされて、神に対する罪人として地獄に落とされるのだ。大庭葉蔵は、そういう太宰の分身である。葉蔵の中には、「古代ローマ=非キリスト教的人間中心主義」を夢見る芸術家(画家)、無神論的合理主義に感化された活動家(共産主義)、そしてキリスト教的な無垢の信頼への憧憬(ヨシちゃんへの愛)のすべてが同居している。これらは、それぞれ、ドミトリー、イワン、アレクセイのアナロジーである。すなわち、葉蔵の中には、カラマーゾフの三兄弟が同居しているのである。そして、葉蔵は、そのすべてにおいて敗北する。敗北して、周囲のまっとうな生活者たちを悲しませ、迷惑をかけ、苦しめるだけの存在である。神に逆らうことは「罪」である。けれども、神に従う従順な生活者として日常生活を送ろうとすればするほど、敗北者として世の中から「罰」をうけ、血を吐き、狂人として監禁されるのである。罪と罰。逃げ場所のないアントニム。もう、葉蔵の中には、何も残っていない。すっからかんである。人間の抜け殻。廃人。葉蔵の何が悪かったのか。いや、葉蔵は、何も悪くない。太宰は何も悪くないのだ。が、ただ、ひとつだけ、彼の責任ではない過ちを犯した。それは、「古代ローマ=非キリスト教的人間中心主義」という芸術上の「お父さん」を知ってしまったということである。太宰は、その身を焼き焦がすような燦然たる19世紀ルネサンスの天才たちの恍惚を知ってしまったが故に、ただそれだけのために、人生を棒に振り、神に対する罪人となった。だからこそ、バーのマダムの言うとおり、「お父さん」が全部、悪いのである。そして、こんなろくでなしの「お父さん」さえいなければ、葉蔵は、神の怒りに触れることもなく、聖書の中の清き人々のように、神の祝福を受けていたであろう。

 と、いうことで、ずいぶん長い話になってしまった。でも、ほら、どうです、こうして見ると、人間失格と、カラマーゾフは、似てるでしょ。え?全然似てない?そんなわけはないんだが。はい。すみません。そんなに怒らないでくださいよ。けれども、僕は、これだけは自信を持って言えるんです。葉蔵の苦しみは、象牙の塔にこもっている大先生よりも、我々のように、若き日の一時の芸術的熱情にまどわされて、せっかくの人生を棒に振った哀れな文学青年くずれの方が、よほど実感していると。

カフカ「変身」 絶望の二十世紀と不条理文学

 しばしば耳にすることがある。地位も名誉もある立派な男が、そうだ、この男は実に社会の模範たるべき人物で、もう、そうとしか言いようのない完璧な人物で、十歳にして近隣で神童ありと騒がれ、十有五にして町始まって以来の英才との名声既に高く、その期待どおり超一流大学に易々と合格して断トツの首席で卒業、旧財閥系の名門企業に就職してとんとん拍子に出世して今や毎日電話一本で数百億円を右から左に動かすような巨大プロジェクトのリーダーとしてバリバリ働き、四十歳を待たずして早くも次期取締役候補との呼び声も高く、もちろん給料は一般人どもの平均年収の軽く五倍、コンシェルジュ付きの高級タワーマンションに居を構え、しかもその人柄たるや謙虚かつ誠実にして廉潔、さらに柔道三段、剣道五段の腕前で文武両道を極め、毎朝一日十キロのジョギングを欠かさず、趣味は現代美術から古典落語まで広範にわたり、そのユーモアたっぷりの豊富な話題で自然と人々の輪の中心となり、おまけに眉目秀麗で長身、均整の取れたスタイルはまるで映画俳優のようで、そしてそういう彼がこよなく愛する家庭はと言えば、名門女子大出身で、学生時代にはミスなんとか日本代表コンテストで準ミスに選ばれ大学卒業後は英国の名門大学に留学、帰国後は母校の女子大の英文科講師をつとめる傍ら現代英文学の翻訳家、評論家としても活動して出版業界での評価も高い才色兼備の賢妻と、お利口で礼儀正しい二人の子供たち、上の小六の男の子は超難関私立中学の受験前で毎日五時間も有名進学塾で勉強して帰宅後も夜中の二時まで自学研鑽、全国模試でも常にトップクラスの成績をおさめ、もはや合格まちがいなし、彼が不合格なら我々はみんな講師を辞めますよ、と塾の講師たちもそろって太鼓判を押し、それでいながら少年サッカーチームにも所属してレギュラーとして県大会に出場し、チームは惜しくも準決勝で敗退したけれども個人として優秀選手賞を受賞、日焼けした顔に白い歯がよく似合う明朗闊達な目元涼しい美少年で、バレンタインデーには肩から下げた大きなスポーツバッグが一杯になるほどのチョコレートを学校中の女の子から渡されるのが唯一の悩みの種、また、下の小三の女の子はクラシックバレエとピアノのレッスンに通っていて、それぞれのスクールの先生、いずれも世界的コンクールで入賞経験のある高名な先生なのだが、そういう先生たちでさえ、ほんとに末恐ろしいわ、と戦慄するほどの溢れる才能の片鱗をすでに見せて、周りの大人どもが、将来はバレリーナだ、音楽家だ、いや宝塚だ、いやいや映画女優だよなどと騒いでいると、本人は泣きべそをかいて「ケーキ屋さんになりたいもん」などと愛らしいことを言っていよいよ周りの大人どもを悶絶悶死させるという、そういう、我々庶民どもとはおよそ生きる世界が違う彼、その彼が、ある日、ある朝、満員の通勤電車の中で、女子高生に痴漢行為を働いて逮捕され、仕事も家庭も一切合財、もう、ありとあらゆる人生のすべてを一瞬のうちに失うという、そういうまことに奇怪な事件を、朝のテレビニュースで耳にして思わず朝飯の箸が止まった、などという経験は誰しも一度や二度ではないはずだ。

 これは、いったい、どういうことだろう。奇怪、としか言いようがない。曰く、不可解。理不尽にも程があるよ。魔がさした、という言葉があるが、まさしくこれは、悪魔の仕業だ。まともな人間のやることではない。まして、人間として最上級の知性と品性を兼ね備えた彼のような人物がやることではない。まったく理屈にあわない。が、事実なのだ。現に、いま、僕の目の前で起こっている事実なのである。この事実を、僕は、事実として受け入れなければならない。完全無欠の彼の耳に、悪魔がささやいたのだ。「さあ、すべてを失え」、と。そして彼は、その悪魔の声に無意識のうちに従ったのだ。そして文字どおり、すべてを失った。駅員たちに取り押さえられ、ホームのコンクリートに顔を押し付けられてはじめて、彼は、悪魔のささやきから目覚めて、はっと気が付くのだ。何だ、なにが起こったんだ? おれは、いったい、何をしたんだ? 痴漢? おれが痴漢だって!?

 おお、何という恐ろしさであろう。こんな奇怪なニュースに接する度に、僕は、戦慄するのである。悪魔がいる、と。いや、しかし、それは悪魔なのであろうか。悪魔も、もともとは偉い天使であったという。ひょっとして、彼の耳にささやいたのは、天使だったのではないか。天使が、神の声を、人生を根こそぎ破滅させる、その恐ろしい聖なる命令を、そっと彼の耳にささやいたのではないのか。そして、もうそれだけで、どんなに完璧な人間でさえも我を忘れて無意識のうちに愚かしい行為に走って、これまで築き上げてきた全てのものを失うのだ。そして、そういう憐れな人間の姿を見て、天使は、冷たい微笑を浮かべながら、こう語りかけるのだ。見よ、おまえたち人間など、所詮、その程度の存在なのだ。合理的精神だの科学的思考だのと言って恰好つけていても、突如として、何の脈絡もなく、まったく無意味に、訳のわからない、何の得もしない衝動的行動に走る、それが、おまえたち人間の真の姿なのだ。おまえたち人間が自慢する知性とやらは、おまえたち自身の不条理な衝動を抑制することさえできないではないか。そんな非論理的な衝動に支配される不完全な存在に過ぎぬおまえたちが、全知全能の神の座を奪おうなんて、何とまあ、恥知らずなことだとは思わないのか。聞くところによると、人間は、神を殺したんだって? 笑わせるんじゃないよ。おまえたち人間なんぞに、神様が殺されたりするものか。バベルの塔の無残な敗北をもう忘れたのか。たった今、おまえたちは見たであろう、この完璧としか言いようのない男の不条理な行動を。この不条理こそは、神様が人類にくだした警告だ。おまえたち人類は、合理的でも科学的でも論理的でもない。非合理的で、非科学的で、非論理的な衝動に支配される不条理な生き物に過ぎない。さあ、もう、自らが建設したバベルの塔を崇拝するのはやめるがよい。自分で自分を崇拝して何の意味があろう。それを偶像崇拝と言うのだ。バベルの塔は倒れた。天に弓ひくような愚かな真似はもうやめて、神様の御もとに戻ってきなさい。神様は、すべてをゆるしてくれる、と。

 そういう天使の戦慄すべき声を不幸にも聞かされた人間の一人が、憐れな愛すべき男、わが友、グレゴール・ザムザ君であった。と言っても、ザムザ君は、満員電車で痴漢をしたのではない。さえない市井の一労働者に過ぎないザムザ君が痴漢をしても、べつに不条理ではないからだ。誰も驚かない。あら、やっぱりね、そういうひとだと思ってたわ、の一言で片づけられてしまう。だから、ザムザ君は痴漢などはしない。ザムザ君を襲った不条理は、そんな生半可なことじゃない。そうではなくて、ザムザ君は、或る朝、目が覚めると、虫になっていた。そこに理由はない。ひとは常に理由を求めるものだ。いかなる現象にも合理的理由があると考える。それは、理由がある方が安心できるからだ。かつて罪無きヨブの不幸の原因を探し出そうとした善良なる人々のように。けれども、ヨブがそうであったように、ザムザ君の変身に、いかなる理由もない。それは天使がささやいた神の警告なのだ。もはや人知を超えているのだ。だから、人間が納得するような合理的理由などあってはならない。繰り返す。理由など、ひとカケラも、ただの一言も、あってはならない。いきなり、虫になっていなければならないのだ。では、なぜ虫なのか。犬や猿ではいけなかったのか。いけないのである。虫でなければならない。人類の知性から最も遠い生き物でなければならない。べつに植物でも良かったのだが、植物はちょっと知的な思索家の雰囲気を持つことがあるから厄介だ。サボテンなんか、けっこう何か考えていそうだ。深山の千年杉は、神々しい威厳さえ漂わせている。植物は、これは、なかなか要注意だ。だから、やはり、ここは、虫。何としても虫でなければならない。それもゴキブリのような、コゲ茶色の外骨格で覆われた、いかにも醜悪な虫。人類とは何の血縁関係もない生き物の象徴としての虫。平凡なるセールスマンに過ぎないザムザ君は或る朝突然、何の理由もなしに、そのような醜悪な怪虫に変身したのである。この不条理!確かにそれは、完璧なるエリートが或る朝突然、理由もなく痴漢をする不条理よりもはるかに恐ろしい不条理だ。神が人類にくだした戦慄すべき警告。かくして、不条理文学の不朽の名作「変身」は生まれた。

 19世紀、人類がキリスト教を知る以前の古代ギリシャ・ローマ文化の燦然たる光が復活し、非キリスト教的人間中心主義が全盛となった。「19世紀ルネサンス」である。人間は神をめざして天高く登り、天界の門をこじ開け、神殿に上がり込んだ。ゴッホの描くひまわりは太陽が生み落とした地上の日輪のように輝き、ニーチェは神が殺されたことを宣言した。しかし、19世紀ルネサンスにおける天才たちの奮闘もむなしく、人類は神にはなれなかった。人類は何も、変わらなかった。天界の神の座に向かって燃え上っていたはずのゴッホの糸杉は、不気味に渦巻く混沌とした闇空に阻まれて行き場を失い、ニーチェは孤独のうちに狂死した。敗北した人類は、暗澹たる世紀末を経て、絶望の二十世紀を迎える。「人類の黄昏」である。バベルの塔は再び倒れたのだ。古代ギリシャ・ローマ文化の燦然たる光は消え去り、世界は闇につつまれる。そして、人類に殺されたはずの神が復活する。いや、復活、と言うべきではない。そもそも死んではいなかったのだから。死んだふりをしていたに過ぎない。人類が神殺しに熱狂した百年間にわたって沈黙してきた神の「復讐」が始まった。神は、絶望に震える人類に警告した。おまえたちは、所詮、不完全な生き物に過ぎぬ、と。おまえたちが悔い改めない限り、世界は恐怖と殺戮に満ちた地獄と化すであろう、と。そしてその後、二十世紀の人類は、その警告どおりの地獄を経験することになるのだ。世紀末から二十世紀初頭にかけて、そういう神の警告を、はっきりとその耳に聞いた一群の天才たちがいた。そして彼らは思い至るのである。人間は、そもそも、19世紀ルネサンスの天才たちが夢見たような完全なる存在などではなく、不気味で得体の知れぬ衝動に突き動かされる不条理な存在に過ぎないのではないのか、と。いや、そもそも、この世界それ自体が、何の秩序も法則も存在しない混沌と偶然の幻影に過ぎないのではないのか、と。19世紀が燦々と輝く太陽の世紀とすれば、20世紀は不気味な得体のしれぬ闇夜の世紀となった。人類は太陽を失った。ピカソは「ゲルニカ」で、太陽を失った二十世紀の人類が電燈の人工太陽の下で殺戮に狂奔する醜悪な姿を容赦なく写し取った。カミュ「異邦人」の主人公ムルソーは、ママン(すなわち聖母マリアである)が死んだ時と同じ灼熱の太陽の下で五発の銃弾をぶっ放して殺人を犯し太陽の下の幸福を自ら永遠に失い、夜の独房で処刑を待つ身となった。そして、憐れなザムザ君は、虫になった。

 虫になったザムザ君は、まことに気の毒な境遇となる。愛する家族には忌み嫌われ、父親に投げつけられたリンゴが背中にめりこんで致命傷となり、夜明け前に独り静かに息を引き取るのだ。そして家族は、平和で幸福な生活を取り戻すのである。人間の本質が非論理的な衝動に支配される不完全な存在に過ぎないということを認めることは、人間にとって苦痛である。とりわけ自分が合理的で論理的な人間であると信じている人にとっては、受け入れがたいことであろう。それは、人間の自由意志の否定に他ならないからだ。自分が知りもしない見たこともない何ものかによって操られている、ということを自らすすんで認める者はいないであろう。みんな、自分は自分の自由意思で行動していると信じている。だから、たとえ非論理的な衝動に突き動かされて意味不明な馬鹿馬鹿しい行動をとったとしても、たいていの人は、自分のその行動に何らかの意義付けをしようとする。損得勘定で合理的に説明しようとする。そして、これは私が自ら決めたことです、そうですとも!これは、私が正しいと信じてやったことなのです、私の意思でやったのです!と主張する。けれども不幸なるザムザ君の場合、そんな合理的な説明の余地がなかった。まさか自分の自由意思で醜怪な虫に変身する人間など、いるわけがないのである。合理化不可能だ。ザムザ君は、疑いようもなく、不条理な何ものかに操られて虫になってしまった。ザムザ君の責任ではない。だからザムザ君自身は、これっぽっちも罪の意識などない。罪? そもそも、罪でさえない。虫になっただけなのだから。が、ザムザ君自身はそれで良いとしても、彼の周りの人間にとっては、そのような不条理は許しがたいことなのである。ザムザ君が虫になった合理的理由がなければならないのだ。そうでなければ、自分たちの世界の秩序が崩れてしまう。愛すべき善良なる市民たちにとって、世界の平和と家族の幸福は、合理的秩序を守ることによって実現されるのである。どんなにささいな不条理も見過ごしてはならぬ。「蟻の一穴」というではないか。この世界全体の合理的秩序が、ほんの小さな不条理を見過ごしたせいでぼろぼろと崩壊し、ついには無秩序の混沌のうちに溶解してしまうかも知れないではないか。とんでもないことだ! グレゴールめ! なぜ、虫に変身したのだ!? 理由を言え! と、いうわけで、父親は、ザムザ君に林檎を投げつけるのである。林檎、すなわち、知恵の実。人間が神と対峙する原因となった知性の象徴。その林檎を、虫になったザムザ君に投げつけるのだ。林檎は、ザムザ君の背中にめり込んだ。が、ザムザ君の変身の理由は、知恵の実をもってしても何ら解明できなかった。林檎は腐り、ザムザ君の体を腐らせ、ついにはザムザ君を死に至らしめる。知恵の実と、ザムザ君の不条理とは両立できなかったのである。傲慢なる人間に対する神の警告として虫に変身したザムザ君は、人間の知性の象徴である知恵の実によって殺された。そして、ザムザ君の家族は、元どおり、いや、以前にもまして、あたたかい幸福の予感につつまれて、カフカ一世一代の名著「変身」は幕を閉じるのである。とすれば、「変身」は、結局のところ、人間が神に勝利したことを描いた小説なのであろうか? 人間の知性は、ついに不条理をも超越できるというのか?! そんなわけがない。ぜんぜん、そうではない。むしろその逆である。知恵の実は「腐った」のである。そしてザムザ君も、傷口の炎症が広がって死ぬ。知性が腐り、不条理も死んで、その後の世界に残されたものが、ほのぼのとした「家庭の幸福」なのである。知性も不条理も、そのどちらも、罪なき生活者の幸福にとって邪魔なものでしかないのだ。人間が神を超越するだの、あるいはその反対に、神が人間への警告として不条理をささやくだの、そんなことは、いずれも、日々を一生懸命に生きる真面目な生活者たちにとっては、元々どうでもいいことなのだ。まさしく、どうでもいいのである。彼らにとって重要なことは、「秩序」である。秩序は、知性ではない。なぜなら秩序は考えることを必要としないからだ。いや、秩序は、考えることを禁止するのだ。秩序とは習慣であり、ルールであり、制服である。だから、父親は、わざわざ制服に身を固めて、かつて息子だったはずの怪虫に林檎を投げつけたのである。彼は、一家の父親として、この世界の秩序を守らねばならないのだ。秩序に従っていれば、幸福が保証される。その秩序を破るものは、それがたとえ息子でも容赦なく殺す。それが罪なき生活者たちの人生の掟なのだ。そして、ザムザ君の死骸を前にしてはじめて、幸福なる一家は、神に感謝の十字を切るのである。ザムザ君の死のおかげで、彼らは神の元に戻ってきたのだ。神の思惑どおりである。自らの不完全性に絶望して闇夜をあてもなく彷徨していた二十世紀の人類は、不条理という「神の罠」(=「奇蹟」)によって、百年ぶりに神の元に戻ってくるのである。

 神に敗北し、世紀末に絶望した人類が太陽を失って闇夜をさまよい、電燈の薄暗い明かりの下で殺し合い、逃げまどい、日の昇らない真っ暗な地平線の果てにようやく光を見つけたと思って近づいてみたら、それはかつて人類の手で破壊し瓦礫と化した神殿に捧げられたろうそくの残り火であったという、そのひどい「徒労感」こそが、二十世紀の文学のテーマであろう。神の「復権」と言ってもよい。それでは再び、世界は神の支配へと戻るのか。人類は、無知文盲の暗黒の中世に戻って、ゲルマンの森の奥で魔女狩りのいけにえを火あぶりにするのか。そうかも知れぬ。所詮、人類は、その程度の愚かしい生き物ではないか。神はすべてをお見通しさ! と天使はささやくだろう。が、そうであろうか。この不条理を超克して、人類が再び、神と対等に対峙する日は来ないのか。ザムザ君は、死の間際、安らかで虚しい物思いの中で教会の鐘の音を聞く。白々とした夜明けを知らせる鐘の音だ。それは決して、暗黒の中世に人々を支配した鐘の音ではなかった。そしてザムザ君は、再び昇る太陽の光を感じながら死ぬ。ザムザ君の死は、絶望の中の死ではない。希望につながる死である。「異邦人」のムルソーもまた、処刑を待つ独房の中で夜のしじまに響くサイレンの音を聞きながら、生き返ったような幸福感にひたる。ザムザ君も、ムルソーも、少しも絶望していない。彼らの魂は、不条理のために陥った死を前にしてはじめて、いっさいの桎梏から解放され、自由となったのである。それは、不条理を身を以て知った者だけに与えられる、この世界の掟(=人間の理性)からの自由であり、そして同時に、運命(=神の支配)からも解放された完全な自由である。

 人類はかつて、神に敗北した。バベルの塔は倒れた。人類は神を殺すことはできなかった。が、人類は、そもそも神と敵対する必要など無かったのであり、また、神のしもべとして罪の意識に苦しむ必要も無かったのだ。なぜなら神は、そもそも人類と戦ってなどいなかったし、そもそも人類を罪深きものとして支配しているわけでもないが故に。神にいかなる理由もない。それ故、神の前で我々は自由であり、いっさいを許されている。運命(=神の支配)から自らを守るための剣(理性)も鎧(信仰)も要らぬ。そういう無防備な生の自覚、いっさいから解き放たれた自由の自覚にこそ、人類の新しい夜明けの可能性がある。そのことを、絶望の二十世紀において、不条理文学は指し示したのである。(了)

高村光太郎 「智恵子 抄」 非情の純愛 絶対孤独への反証

 「そんなにもあなたはレモンを待ってゐた」―日本文学史に永遠に残る愛の絶唱であろう。歌った男の名は、高村光太郎。歌を贈られた女は、妻、智恵子。この日、智恵子は、七年にわたる精神病と肺結核とにより、ついにこの世を去った。世を去った? いや、そんなごまかしはやめよう。そんなお決まりの慣用句で、この夫婦の愛を語ろうというのか。逃げてはいけない。愛は非情だ。その非情さから逃げてはいけない。僕は、非情の言葉で、この夫婦の愛を語らねばならない。正直に語れ。然り。智恵子は、殺されたのだ。誰に? 無論、智恵子の最愛無二のひと、光太郎に。智恵子は光太郎に殺された! なに故に? なぜなら、ふたりは愛し合っていたが故に。夫は妻を狂気させるほど愛し、妻は夫を文字どおり死ぬほど愛した。ふたりは愛し抜いた。そしてふたりが愛し抜いた先には、狂気と死とがあった。その愛を殺人と言わずして何と言おう。然り。愛の究極は殺人と同義である。神は人間に、愛という名の刃を与えた。

 妻、智恵子。福島県二本松の造り酒屋、長沼家の長女として何不自由なく育ち、東京の日本女子大に進学、そこで洋画に出会う。智恵子は洋画の魅力に心を奪われ、芸術生活に没入した。大学卒業後も実家の反対を押し切って東京で洋画の猛勉強を続け、平塚らいてうの婦人運動にも参加し、「青鞜」創刊号の表紙を描くなど、新進気鋭の女流画家として歩み始めていたその時、知人の紹介で光太郎と出会うことになる。当時の光太郎は無頼の放蕩児であった。ニューヨーク、ロンドン、パリに留学し、世界の最新芸術に触れて帰朝した光太郎にとって、木彫の名人とされる父、高村光雲に代表される日本美術界は、超克すべき前時代の旧弊な遺物であると同時に、打てども叫べども微動だにせぬ圧倒的権威であった。自らの無力感から逃避するかのように光太郎の日常は荒廃した。飲んで暴れて、浅草の女給に通いつめ吉原の娼妓に失恋した。智恵子が出会ったのは、そういう時期の光太郎であった。そしてたちまち、ふたりは恋に落ちるのである。それまでインテリ臭いサロンの常識人的な芸術家しか知らなかった智恵子にとって、触れる者の皮膚を切り裂く尖鋭なナイフのような孤高孤独の光太郎の姿は、芸術という観念を粘土にして人の姿に捏ね上げたような芸術の化身に思えたであろう。そして光太郎もまた、その荒廃し汚濁した心身を、智恵子から溢れ流れる無垢の信頼と愛情の奔流によって浄化されるのである。智恵子は光太郎に熱い恋文を送り、光太郎の写生旅行先まで追いかけてきた。光太郎もまた、智恵子に出会えた無上の喜びを歌いあげた。「あなたは私の為に生まれたのだ 私にはあなたがある あなたがある」と。

 旧本郷区駒込林町のアトリエ兼住居で、光太郎智恵子の同棲がはじまる。そのアトリエは、ふたりきりの空間であると同時に、ふたりを外の世界から隔離する言わば「結界」となった。アトリエの壁の中は、ふたりだけの聖なる異世界であった。そこには外界にうごめく愚かで汚らわしい人間どもの姿も、その人間どもの繰り広げる醜悪な痴態愚行も、そういう不愉快なものはいっさい存在しない。その清浄な異空間には、ただふたりの愛し合う男女があり、ふたりだけの高い理想があり、ふたりだけの情熱があり、そしてふたりのめざす芸術があった。光太郎智恵子の生活は芸術に純化した。光太郎は高らかに宣言する。「僕等は高く どこまでも高く僕等を押し上げてゆかないではゐられない 伸びないでは 大きくなりきらないでは 深くなり通さないでは ―何といふ光だ 何といふ喜だ」と。

 もっとも、ふたりの芸術的生活は窮乏した。新しい着物を仕立てることもできなくなった智恵子は、いっさいの装飾をその身から捨てて、髪もおかっぱに短く切り、粗末なセーターとズボンだけで日常を過ごすようになった。けれども、それがかえって智恵子の生来の美しさを際立たせることになった。そのことを光太郎は驚きとともに賛美する。「あなたが黙って立ってゐると まことに神の造りしものだ。時時内心おどろくほど あなたはだんだんきれいになる。」と。光太郎はむしろ窮乏の境遇を喜んでいるのだ。あたかも窮乏こそがふたりの芸術的生活の純粋さの証しであるかのように。そしてそのような窮乏の中でさえも輝きと美しさを増す智恵子を神の造形として礼賛し崇拝するのである。光太郎にとって、純粋な芸術をめざす者は世俗の富貴を享受してはならなかった。窮乏と、その果てにある餓死とが、芸術家のあるべき運命であった。光太郎は、「私達の最後が餓死であらうといふ」不吉な予言を智恵子と語り合って、むしろ幸福を感じている。光太郎は、生涯にわたって、死と隣接する窮乏生活への憧憬を抱き続けた。青年期の北海道移住計画、智恵子とともに半生を過ごした駒込アトリエでの窮乏生活、そして戦後の岩手の山村での独居自炊。光太郎は、生涯を通して常に窮乏している。まるで窮乏しなければならぬかのように。光太郎にとって、芸術は金銭とは両立しないものであった。特に造形作家である光太郎にとっては、この世にひとつしかない作品を売買して金銭に換えることは、すなわちこの世に存在する唯一の美を、金持ちの所蔵庫に監禁することにほかならなかった。光太郎は自分の作品を金銭に換えざるを得ない現実を嘆く。「所有は隔離、美の監禁に手渡すもの、我。」と。けれどもそういう光太郎自身が、智恵子という唯一無二の美を、異空間のアトリエの中に監禁して、誰の目にも触れさせることなく独占して鑑賞する喜びに恍惚としていたのである。光太郎は、智恵子の心身を、おのれの芸術的理想を体現する芸術作品として監禁し、鑑賞し、堪能した。そして智恵子自身もまた、光太郎が求める理想のままに、一個の芸術作品であろうとした。生身の芸術作品である。智恵子は、旧友たちとの交友関係も絶ち、外界との交流を途絶して、光太郎とふたりだけの異空間の芸術生活に一途に献身し続けた。窮乏にあえぐ日常生活をやりくりする主婦として生きながら、同時に光太郎の理想を体現する芸術作品として生きた。

 しかし、生身の芸術作品として生きることの苦悩は、ついに智恵子の心身の限界を超える。いや、いっさいの人間の限界を超えるであろう。「人生は一行のボオドレエルにも若かない」と芸術至上主義を宣言した芥川が自殺したように(昭和2年)、「芸術は私である」と結論して自らを芸術と一体化しようとした太宰が自殺したように(昭和23年)、生身の芸術作品として生きようとした智恵子もまた、昭和7年睡眠薬で自殺を図る(46歳)。智恵子の自殺未遂の原因として、実家の破産、あるいは自らの絵画の才能への絶望等が挙げられることが通説である。光太郎自身も後年の手記でそのように記している。が、僕はそうは思わない。それらは原因の一部であったとしても、主要な原因ではない。智恵子を死ぬほど苦しめたものとは、彼女をおのれの理想を体現する芸術作品として崇拝し、監禁し、一体化しようとする光太郎の芸術的激情であり、すなわち光太郎の智恵子に対する愛そのものにほかならない。その愛は、純粋であり、熾烈であり、過酷であり、そして非情であった。智恵子は、その非情の愛に殉じようとした。生身のままでは芸術作品になれない。そうであれば、生身の体を捨てるしかない。その夜、千疋屋で買った果物をテーブルに配置し、イーゼルに真白のカンバスを立てかけて、智恵子は催眠剤一瓶を飲んだ。死後、生身であるが故の束縛を捨て、自由な魂となって、その静物画を描くつもりだったのだろう。が、智恵子は死ななかった。そうして、その後、精神病(統合失調症)が進行する。智恵子の自殺未遂に衝撃を受けた光太郎は、智恵子の回復のために全力を尽くした。それまで光太郎は入籍という世俗的な婚姻手続を無視してきたが、同棲二十年にしてようやく智恵子を入籍した。ふたりは名実ともに夫婦となった。九十九里浜への転地療法も試みた。父光雲の死去(昭和9年)で得た遺産もすべて智恵子の治療に充てた。ここにおいて光太郎ははじめて、智恵子をおのれの芸術的監禁から解放し、世俗的な夫としての愛情を妻智恵子に注いだのである。九十九里浜の松林の一角に立って「光太郎智恵子光太郎智恵子」と一時間も連呼するようになった智恵子の狂気した姿を見つめる光太郎の目は、妻を愛おしむ夫の悲しみに満ちた目であり、芸術家としての非情の目ではない。が、光太郎の夫としての努力はすでに遅かった。智恵子の病状は悪化するのみで、もはや日常生活を送ることが困難となり、品川のゼームス坂病院に入院するも病状好転せず、昭和13年、智恵子は光太郎がわたしたサンキストのレモンをひと口かじって、この世を去る(52歳)。

 智恵子を失った光太郎は、芸術家としてもはや死んだも同然であった。智恵子は、光太郎にとって、おのれの芸術作品を見せるべき唯一のひとであり、おのれの芸術作品を理解し喜んでくれる唯一のひとであった。そのひとを失ったいま、光太郎の芸術的衝動は行き場を失い、その奔流は民族的情熱と自己犠牲の純粋性へと向かう。戦時下の窮乏する国民生活は、あたかも光太郎が理想とする芸術的窮乏生活が駒込のアトリエから溢れ出て日本国民全体の理想になったかのような幻想を光太郎に抱かせる。大いなる大義のために、日本民族が極限の窮乏に耐え忍びながら至難の戦いの道を歩んでいる! しかも、その戦いは、かつてその圧倒的な文化によってアジアの貧しい留学生に過ぎない光太郎のプライドを完膚なきまでに打ちのめした欧米列強を相手にした戦いであった。帝国の臣民すべてが天皇のもとに一体となり、民族の滅亡を覚悟して至高の芸術的完成をめざして戦っているのだという壮大なフィクション。その虚構の美に没入した光太郎は、大東亜戦争に勝利すべく軍当局の文化政策に惜しみなく協力し、戦意高揚のための戦争詩を量産した。光太郎にとってそれは決して嘘ではなく、日本民族としての真実の美を守る戦いであった。が、光太郎の情熱は虚しく空回りしただけに終わり、愛する母国日本は欧米列強の容赦ない報復を受けて全土を焼き尽くされて敗戦する。智恵子と過ごしたアトリエも空襲で焼失してすべてを失った光太郎は、戦争に仮託していた民族的パッションの幻想から覚醒すると、再び窮乏生活の衝動に追い立てられるかのように岩手県花巻の寒村に移住し、粗末な山小屋を建てて農耕自足の独居生活に入る。

 独居七年。造形作家でありながら一体の彫刻を生み出すこともなく山村の窮乏生活に明け暮れていた光太郎の元に、十和田湖畔の記念彫刻制作の依頼が舞い込む。光太郎は、智恵子の裸像を創る決心をして山を降りた。光太郎最後の作品となる十和田湖畔「乙女の像」である。制作一年。十和田湖畔に立つそのブロンズ像は、同形二体の裸婦が左掌を会わせて相対している。向かいあう二人の智恵子。何故、二人なのか。なぜなら、光太郎にとって、智恵子は二人いたから。一人は、絵画が大好きで、光太郎を旅行先まで追いかけてきた情熱あふれる人間の女としての智恵子であり、そしていま一人は、光太郎を絶望の闇から救い、その荒廃した魂を浄化してくれた神の造形としての智恵子である。この二人の智恵子が影と形のごとく相反しながらも一体不可分となって、智恵子という一個の肉体に宿っていたのだ。光太郎は、粘土とブロンズとによって、智恵子の肉体に宿っていた智恵子の精神の人性と神性の両面性を、二人の智恵子として再びこの世に造形した。光太郎は確信する。「わたくしの手でもう一度、あの造型を生むことは 自然の定めた約束」であると。造形作家である光太郎は、あくまで目に見え手に触れることのできる世界の存在のみを信じた。智恵子の魂と光太郎の魂とは、その互いの血のかようあたたかい肉体をとおしてはじめて触れ合い、共鳴した。智恵子の肉体が滅びた後は、光太郎は自身の肉の内に智恵子の魂の存在を感じていた。光太郎は言う。「元素智恵子は今でもなほ わたくしの肉に居てわたくしに笑ふ。」と。そして、おのれの死後もなお幾千年にわたって智恵子の魂の依り代とすべく、神に替わって自らの手で、再び智恵子の肉体をこの世に造形したのである。

 智恵子の像の完成から三年後の昭和31年、光太郎は世を去り(73歳)、その肉体は「天然の素中」へと帰った。そして光太郎と智恵子という男と女が歩んだ非情の愛の記録は、一冊の詩集「智恵子抄」として結晶した。それは、所詮空虚な確率的存在に過ぎない幻覚の世界をあてもなく彷徨するだけの僕らの魂が、この無明無音の絶対孤独の闇においてもなお、目に見え手に触れる肉体という魂の依り代をとおして、おのれの探し求める半身の魂に邂逅する可能性があるということの稀有な実例であり、それ故それは、僕らの魂は永劫にわたって絶対孤独であるという神の定めた根源的絶望に対して突き付けられた反証であり、すなわち、沈黙する神に替わって人類が自らの手でおのれ自身に啓示した救いの言葉にほかならない。そしてそのような根源的絶望を肉体をとおして超克しようとする人間の意志こそが「愛」であり、そこに「いのち」が創出される。そして、そのあまりにも激しい「愛」と「いのち」の創造的営みに、智恵子の精神は耐えられなかったのである。それは、魂の絶対孤独という神の定めた運命にあくまでも反逆しようとする光太郎智恵子に対する神の嫉妬と怒りであったともいえよう。光太郎と智恵子の愛は神の報復を受けたのである。そしてまた、その神の報復こそが、ふたりの愛が真実であったことの証しとなるのである。

 光太郎は、「智恵子抄」を書き遺すことで絶対孤独の絶望の闇を彷徨するだけの僕ら人類の魂に「愛」という道標を示し、智恵子のブロンズ像を造形することで幾千年にもわたる智恵子の「いのち」の再生を果たした。「愛」の絶唱と「いのち」の創出と。芸術家としての仕事をやり遂げて今生を去った光太郎の魂は永劫の転生をくりかえし、そして再び智恵子の魂と邂逅するであろう。そのあたたかい肉体のふれあいをとおして。たとえそこに神の畏るべき報復が待っていようとも。(了)