或る人の言葉

或る人が言った。 君を愛する人がこの世から一人もいなくなったら、その瞬間に君は死ぬ。それは神が定めた法則なのだ。だから、君がいま生きているってことは、この世界の中で、少なくとも誰か一人に愛されているってことなのだよ、と。 僕は或る人に尋ねた…

モネ 「日傘をさす女」 幸福の一瞬の閃光

この瞬間のためなら死んでもいい。 人生に一度あるかないか、そういう一瞬の光景を、モネはカンバスに写し取った。 日傘をさす女。 モネの最初の妻カミーユが、逆光の影となってモネに悲しげな微笑みを投げかけている。傍らには幼い息子ジャンが無垢な紅い頬…

魔術師

そのいかにも怪しげな魔術師は僕に、こう言った。 「君は、夢を見るだろう。」 「そりゃ、もちろん」と僕は答える。 「では、君は、夢の中で、ああ、これは夢だな、と気が付くことがあるかね。」 「まあ、そういう時もあれば、気が付かないときもあるよ。」 …

玉手箱の話

人生は、夢かうつつか。よく聞くセリフだ。でも、夢かうつつか、って区別じゃないと思うんだ。そもそも、うつつなんて、どこにもないんじゃないかって思う。 たぶん、全部、夢なんだ。たくさんの夢が、いくつもいくつも無限に重なっていて、その夢と夢の間を…

三島由紀夫「金閣寺」 「究竟頂」の扉をめざす文学的系譜

「三島由紀夫は金閣寺のラストを書くために生まれた。」と、言っては、言い過ぎだろうか。あたりまえだ。言い過ぎだ。と、えらい人たちに叱られる。では、こう言っては、どうだろう。「金閣寺」のあとの三島の作品なんて、あれは、ぜんぶ、おまけみたいなも…

中勘助 妄執の純愛 絶対孤独の文学

愛しても愛しても愛するひとのすべてを愛することができないとき、叫んでも叫んでもその声は愛するひとのこころには届かないとき、探しても探してもその手は愛するひとのたましいには触れることができないとき、ついにひとは絶望し、神を憎み、運命を呪い、…

少数者への手紙

一 魔術師 昨夜遅く、彼は、僕の部屋を訪れた。何の前触れもなしに、だ。むやみに蒸し暑い夜だった。僕は眠れずに転々していた。玄関で物音がした。ドアが開き、そして閉まる音。戦慄。息を殺して、じっとしていた。強盗?こんな安アパートに?まさか。が、…

太宰治「人間失格」とドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」の関連性

おやおや。ずいぶん大げさな記事だ。太宰とドストエフスキーだってさ。しかも「人間失格」と「カラマーゾフの兄弟」とはね!どうせ生かじりの浅薄な文学史の知識でもって、チンプンカンプンなトンデモ論をぶつぶつ唱えようってんだろ。やめろ、やめろ!馬鹿…

カフカ「変身」 絶望の二十世紀と不条理文学

しばしば耳にすることがある。地位も名誉もある立派な男が、そうだ、この男は実に社会の模範たるべき人物で、もう、そうとしか言いようのない完璧な人物で、十歳にして近隣で神童ありと騒がれ、十有五にして町始まって以来の英才との名声既に高く、その期待…

高村光太郎 「智恵子 抄」 非情の純愛 絶対孤独への反証

「そんなにもあなたはレモンを待ってゐた」―日本文学史に永遠に残る愛の絶唱であろう。歌った男の名は、高村光太郎。歌を贈られた女は、妻、智恵子。この日、智恵子は、七年にわたる精神病と肺結核とにより、ついにこの世を去った。世を去った? いや、そん…

夕陽さす部屋

ふと目が覚めると、僕は、タオルケットをお腹にかけて、自分の四畳半の勉強部屋で寝転がっていた。夏休みのある日の夕刻だ。窓から橙色の夕陽がさしこんでいる。僕が生まれたころから使っている古ぼけた扇風機がカタカタと鳴りながら風を送っている。台所か…

ある兵士の記録

僕はむかし、学生のころ、大手の進学塾で非常勤講師をしていて、そこには、僕のような大学生のほかにも、元中学校の校長先生だったとか、民間企業の元部長だったとか、いわば定年後の年金の足しにするために非常勤講師をやっているひとたちも何人かいて、授…

宰相と便所のネズミ

楚の人、李斯は、便所のネズミが汚物を食らい人犬におびえる一方、官倉のネズミはたらふく粟を食らい人犬も眼中になかったのを見て、卒然として人生の奥義を悟り、「人の価値はその居場所で決まる」として己れのあるべき居場所を探し求め、ついに始皇帝の治…

清左衛門の嘘

青島清左衛門は、伊東三位入道義祐の侍大将で、三位入道の日向国制覇を支えた武功第一のさむらいであった。が、天正四年、九州統一をめざして猛進する薩摩島津軍による熾烈な反撃がはじまる。その日本最強を謳われる島津兵三万を率いるのは後年、徳川家康を…

ハードボイルド無情

その男は、殺人容疑で緊急手配され、S県T市郊外で警察に追い詰められ逃走車内で拳銃弾をこめかみに撃ち込んで自殺した。男の名は、中村。中村に嫌疑のかかる殺人は少なくとも15件。被害者は、会社社長、医者、弁護士等のいわゆるエリート層の男性がほとん…

極東浪漫座論

一 九州A県の地方紙の社会面の片隅に、その傷害致死事件の記事は掲載された。事件について、その経緯を知っている地元の住民から見れば、記事の扱いは不当なほど小さなものだった。そうして、その事件に関する記事は、翌日には紙面から消え去っていた。 事…

S君の駆け落ち

一 S君、と名を伏せよう。T大学大学院理工学研究科の助手であった友人S君が失踪してから、七年が経った。親族の申立てがあり、家庭裁判所による失踪宣告がなされて、既にS君は、法的には「死者」となった。けれども、S君が現実に死んだかどうかは、無論…

ハッピードリームランド

一 勇者 矢垣一郎は後悔していた。きっと春の陽気のせいだ。こんなゲームソフトに三千円も払って。ばからしいことをした・・・ それは、会社帰りに駅前のゲームソフト専門店で買ったものだった。 店長おすすめ品! 仕事の疲れも癒されます 夢と希望の冒険ロ…

Y氏の弁明

一 昼食を終えて事務所に戻った中村に、電話番をしていた若い女事務員が、「先生。刑事弁護の依頼の電話がありました。」と、いつになく興奮した面持ちで言った。中村は、不機嫌そうに眉間にしわを寄せながら、「ふん。刑事か・・・」と、小さくつぶやいた。…