Y氏の弁明

                 一
 昼食を終えて事務所に戻った中村に、電話番をしていた若い女事務員が、
「先生。刑事弁護の依頼の電話がありました。」
と、いつになく興奮した面持ちで言った。中村は、不機嫌そうに眉間にしわを寄せながら、
「ふん。刑事か・・・」
と、小さくつぶやいた。刑事弁護は、もうけにならない。
「で、どんな?」
と、中村が面倒くさそうに聞くと、女事務員は、
「それが、先生、先生とはT大法学部の同期生なんだそうですよ、その人が、逮捕されたから弁護してほしいんですって! 誘拐ですって!」
と、好奇心を押さえかねるように早口で言った。
「同期生?」
「そうなんですよ。Yさんって人です。ご存知ですか?」
「Y? 同期生といっても何百人もいるからねえ。語学のクラス分けが違えば、名前も分からんよ・・・」
そう言って、中村は二十年前の記憶の糸をたぐり寄せようとして、はっと思いついた。二十年も昔に戻る必要などなかった。何のことはない、つい、一年ばかり前に会ったばかりである。
 一年前、中村が法律顧問をしている学習教材メーカーのR社が主催した立食パーティーで、来賓の一人として社長と歓談していた中村のグラスに、いかにも卑屈な態度でビールを注いでいた中年男がいた。それが、Yであった。中村は、その中年男が大学の同期生であることなど知らなかったのだが、社長が、ビールを注いでいるその中年男が中途採用したYという総務課長であること、そして、T大法学部出身であることを中村に告げた。T大法学部の名が出たことで親近感を持った中村が、
「おや。YさんはT大法学部ですか。私もT大法学部なんですよ。ゼミは何を?」
と聞くと、その中年男は、卑屈な笑いを浮かべて、
「いえ、私は、その、中退でして、ゼミは受けてないんです・・・」
と、小さな声で言った。
「あ。あ、そうですか、それは失礼・・・」
気まずくなった場を取り繕うように、社長が、
「いやね、先生。このYはね、せっかくT大法学部なんていう名門に入学しながら、学費が都合つかなくなって中退しちゃったんですよ。せっかくT大法学部に入学したのにですよ! もったいない。まったく、貧乏ってのはつらいですなあ。同じT大法学部なのに、先生のように弁護士になってエリート街道まっしぐらというお人もいれば、このYみたいに中途で挫折して、うだつの上がらない課長どまりの者もいるんですからねえ。まあ、私だって、こう見えても、貧しさの中から這い上がってここまで来た男ですからね、貧乏の苦労は知ってるつもりですよ。そこで、まあ、このYの境遇にも大いに同情しましてね、中途採用に応募してきたYを迷わず採用した、とまあ、そういうわけですよ。まあ、慈善事業というわけじゃないが、世の中への御恩返しってところですかな。あっはっはっは!」
と、まくしたてた。おかげで、ますます気まずい雰囲気になってしまった。社長の世の中へのご恩返しのために中途採用されたYは、口許に卑屈な笑いを残したまま、うつむいて黙っていた。中村も、無表情になって黙っていた。せっかくの熱弁が逆効果でしかなかったことに気付いた社長は、たちまち不機嫌になって、ちっ、と舌打ちすると、
「おい! Y! そんな辛気臭い顔をしてたんじゃ、先生に失礼だろう。ほら、先生のグラスにビールがないじゃないか。まったく、気の利かない・・・おや、あそこにいるのは、M銀の副頭取じゃないかな、こりゃ、挨拶しておかなくちゃ。ちょっと失礼。」
と言って、逃げるようにしてその場から去った。後に残された中村も、もはやYとの共通の話題もないと見切りをつけて、
「じゃあ、Yさん。今後ともよろしく・・・」
と言って、その場を去ろうとした、その時である。Yが、思いがけず口を開いた。
「先生。私を覚えておいでですか?」
「は? いや、その、失礼ながら、覚えては・・・」
「そうでしょうね。そりゃそうです。でも、私は、先生のことをよく覚えています。先生と同期なんですよ。講義では、いつも、先生の後ろの席に座っていました。実は、先生のとるノートをこっそりと覗き見してたんです。先生は、いつも、完璧なノートをとってましたからね。」
「え? あははは。いや、それは気が付きませんでしたねえ。そうですか。Yさんは、私と同期なんですか。それならそうと、はじめに言ってくれればいいのに!」
「いえ、そんな、私ごときが・・・でも、本当に、懐かしい思いです。どうぞ、今後とも、よろしくお願いします。」
そう言って、Yは、手に捧げ持っていたビール瓶をテーブルに置くと、おどおどした手つきで中村に名刺を渡した。中村も自分の名刺をYに渡しながら、
「まあ、何かご相談ごとでもあったら、うちの事務所においでください。」
と、微笑んで言った。すると、Yは、しげしげと、中村の名刺を見つめながら、
「ええ。是非、中村君のお世話になります。」
と言った。中村君? 中村は、態度にこそ出さないが、さすがに不愉快であった。こんな男に君付けで呼ばれる覚えはない・・・
 一年前のことを思い出して、中村は、不愉快になった。むっつりと黙り込んだ中村に、女事務員が、
「あれ? 先生? Yさんのこと、ご存知ないんですか?」
と、落胆したように聞いた。
「え? いや、知ってる。」
「じゃあ、早く弁護してあげなくちゃ! お友だちなんでしょう?」
「友だち? いや、そんなんじゃない。名前を知ってるというだけだよ。で、Yが何をやらかしたって?」
「もう。ですから、誘拐ですよ! 未成年者誘拐で逮捕されちゃったのよ!」
「ふん。未成年者誘拐ね。で、Yは犯行を否認してるってわけか。」
「そりゃそうでしょう。わざわざ、うちに依頼してきてるんですから。」
「面倒だ。断ろう。」
「え? 断るんですか? だって、お友だちなんでしょう?」
女事務員がそう言うと、中村はいらいらして怒鳴った。
「だから、友だちなんかじゃないんだよ! そんな金にもならんことをやってる暇なんかないんだ! 事務所の賃料だって滞納してるってのに!」
 中村がP弁護士事務所のいそ弁(居候弁護士)を辞めて独立し、自分の小さな事務所を持ってから三年が経っていた。T大を卒業してから司法試験に合格するまで六年かかった。友人たちが次々に合格していく中で、T大在学中はストレート合格まちがいなしとまで言われていた自分だけが最後まで取り残された。原因は分かっていた。中村が、受験テクニックを磨こうとはしなかったからである。中村は、教授たちの難解な論文を読み解くことに没頭する一方で、友人たちのように受験予備校に通って一点でも多く点数を稼ぐための答案作成技術を習得することには全く興味が持てなかった。受験テクニックの必要性を理解していなかったのでなく、いや、その必要性を痛切に感じながらもなお、点数稼ぎの作文のおけいこなどやってられるか! と意固地になった。そうして落第を繰り返し、さすがに独自の受験テクニックらしきものが否応なく身についたおかげでようやく合格できた時には、もはや合格の喜びなどなく、むしろ勉強部屋に閉じこもって人生を空費してしまったことへの徒労感さえ感じた。もっとも、友人たちに大きく出遅れはしたが、T大法学部卒という肩書きのおかげで、中村は、業界大手のP弁護士事務所に就職できた。しかし、その後、何年経っても、下働き以上のことはさせてもらえなかった。できない奴、というレッテルが、いつのまにか背中に貼られていた。同僚弁護士たちは、彼を、便利な雑用係程度にしか見ていなかった。中村君は学者向きなんだよねえ、彼に実務は任せられないよ、という所長の酒の席での不用意な一言を伝え聞いた中村は、年来の憤懣をついに破裂させて独立を決意すると、文字通り、P事務所を飛び出した。預金をはたいて雑居ビルの一画を賃借して小さな個人事務所を開設し、短大を卒業したばかりの若い女事務員を一人雇った。無論、得意先の開拓などは自分で一から始めなければならなかった。離婚や借金整理といった飛び込みの相談を待っているだけでは多寡が知れている。中村は、女事務員を電話番に残して、一日中、営業活動に駆けずり回った。そうして、いくつかの中小企業の法律顧問の口をやっと見つけた。学習教材メーカーのR社も、そのようにしてようやく見つけた得意先のひとつであった。けれども、それだけでは、事務所の維持費を捻出するのが精一杯であった。一年前のR社のパーティーで、社長が、エリート街道まっしぐらなどとお世辞を言っても、中村には皮肉にしか聞こえなかった。エリート? 中村は、心の中で自嘲していた。毎日々々、事務所の賃料を心配しながら営業に走り回っている自分がエリートなら、この世はエリートだらけじゃないか・・・けれども、そういう中村も、Yから君付けされれば、やはり不愉快だったのである。中村は、自分の腹の中に潜り込んでいたエリート意識という寄生虫が、Yによって、口からズルズルと引きずり出されたような気がした。そうして、居たたまれずに、Yに背を向けて、その場を去った・・・
 中村に怒鳴りつけられて、若い女事務員はしょげてしまった。女事務員は、
「すみません・・・」
と言って涙ぐんだ。中村は、
「いや、いいんだ。怒鳴ったりして悪かったね。で、Yは、いま、どこにいるんだい?」
と、言った。すると、女事務員は、涙で潤んでいたはずの目をたちまち輝かせて、
「それがね、先生、Yさんね、K署の留置場にいるんですって! だって、逮捕されちゃったんだから! ニュースでやるかしら? きっとやるわ。だって、誘拐なんだから。うちの事務所はじまって以来の大事件よ!」
と、胸の前で手を合わせながら小娘のようにはしゃいだ。中村は、またもや怒鳴りつけそうになったが、ようやくその衝動を抑えて静かに言った。
「誘拐事件は、そう簡単にニュースになったりしないよ。K署ならすぐ近くだから、これから、K署に行って、Yに会って断ってくる。何せ、何かあったら相談にのると言っちゃったからな。謝らなきゃいけない。しかし、まさか、刑事弁護を依頼してくるとは思わなかったよ。」
「なあんだ。やっぱり断っちゃうんですか?」
女事務員が、がっかりした顔で言った。
「そう言ってるだろう。で、そのまま、会社を回ってくるからね。五時を過ぎたら、今日はもう帰っていいよ。じゃあ、電話番、よろしく。」

                 二
 K署では、顔見知りの警部が応対した。警部は、煙草を吸いながら、
「昨日、自宅アパートで逮捕したんですがね、もう、逮捕直後から、中村先生に電話させろって言い張ってねえ。あんまりうるさいから、今日、取調室から先生の事務所に電話させてやったってわけですよ。あいつは、先生のお知り合いですか?」
と、言った。中村は、警部の吐き出す煙に顔をそむけながら、
「大学が同期なんです。もっとも、私は全然覚えてないんだけど。」
と言うと、警部は、そんなことは既に調べがついているらしく、
「T大法学部を三年で中退してますな。入学年度は先生と同期ですよ。中退後、職を転々として、二年ばかり前にR社の総務課長になっていますね。先生が法律顧問をされている会社だ。ふふ。先生とYとは、ずいぶん縁がありますな?」
と言って、にやりと笑った。
「関係ありませんよ! それに、私は、今回の依頼は断るつもりなんです。」
中村がそう言うと、警部は、
「ほう。まあ、Yなんぞの弁護をしたって、一文の得にもなりゃしませんからね。先生も、それどころじゃないってわけですな。」
と言って、再びにやりと笑った。
 K署の接見室で、中村は、一年ぶりにYと再会した。接見室に入ってきたYは、金網越しに中村の姿を見ると、満面に喜色を浮かべて、
「先生! 来てくれたんですね!」
と、叫ぶように言った。中村は、表情を厳しくして、
「いや。違うんです。申し訳ないが、あなたの依頼をお断りしに来たんです。」
と、言った。Yの表情がたちまち曇った。いや、むしろ、怒りを帯びて険しくなった。
「何ですって? 断る? じゃあ、いったい、何しに来たんです? 断るんなら電話一本でいいじゃないか。ぬか喜びもいいところだ。馬鹿にしてるよ!」
「いや、そんなふうに悪くとらないでください。いつぞや、あなたに、何かあればうちの事務所においでになるよう言ったことを思い出しましてね、それで、ちゃんとお会いしてお詫びしようと思ったんですよ。本当に申し訳なく思います。いま、私には、あなたの弁護を引き受ける余裕がないんです。民事の仕事だけで精一杯の状態なんです。それに、私は、もともと、刑事弁護はあまり経験がないんですよ。」
「ふん。なるほどね。つまり、貧乏人の弁護なんかやってられないってわけですか?」
「いや、そうじゃない。いま言ったように・・・」
と、中村が言いかけると、Yが、突然、
「中村君!」
と、強い口調で言った。中村は、ぎくりとした。すると、Yは、急に表情を緩めて、
「ふふ。中村君。同期生に向かって、嘘はよそうじゃないか。」
と、言った。
「嘘?」
「そうとも。君は、嘘をついている。貧乏人の弁護なんかやってられないと、どうして本当のことを言わないんだい? 本当のことなんだから、べつに、僕は、怒りゃしないよ。ちゃんと分かってるんだ。一年前、君は、僕に君付けされて、一瞬、むっとした顔をした。自分じゃ気がついていないんだろうがね。そうして、僕の名刺をろくに見もせずに、ポケットにねじ込んだ。僕は、ちゃんと見ていたんだよ。だって、僕は、あの時、わざと、君を君付けで呼んだんだからね。エリート街道まっしぐらの君が、どういう反応をするか観察するためにね。ふふ。」
Yの言葉を聞きながら、中村は、自分の顔が恥ずかしさで紅潮していくのを感じた。そして、怒りが込み上げて来た。
「嘘なんかじゃない! 確かに、私は、君に君付けされた時、不愉快だった。けれども、私は、エリートなんかじゃない!」
中村がそう言うと、Yは、可笑しそうに、
「ふふ。どうして、そんなにむきになって、エリートであることを拒否するんだい?」
と、言った。
「拒否? べつに、好きこのんで拒否してるわけじゃない。私は・・・」
と、中村が言いかけるのを、Yが遮った。
「いいや、君は、好きこのんで拒否してるのさ! あの時、君は、僕に君付けされて、さぞかし不愉快だっただろう。でも、それ以上に、君は、僕に君付けされて不愉快になった自分自身のエリート意識を嫌悪したんだ。僕は、ちゃんと見ていたんだよ。君は、僕の名刺をポケットにねじ込んだ時、そんな自分の行為に、はっと気付いたような顔をして、見る見るうちに顔が真っ赤になった。今の君のようにね。ふふ。そうして、まるで逃げるように慌ててその場を去って、パーティーが終わるまで、僕の視線を避けるように会場をこそこそと逃げ回っていた。あの時、僕は、確信したんだよ。君は、自分がエリートであることを自ら拒否してるんだってね。そうでなきゃ、僕から逃げ回る必要なんか何処にもないんだからね。社長の言う通り、エリート街道まっしぐらの顧問弁護士です、という顔をして、偉そうにしていればよかったはずだ。そうだろう?」
中村が反論できないでいると、Yは、満足げな顔をして、
「まあ、とにかくね、君は、あの時、僕に、何かあったら助けると約束したんだからね。僕を助けるのは、当然の義務だよ。君に、僕の依頼を断るなんて自由はないんだよ。既に、契約は結んでるんだからね!」
と、言った。中村が、呆れたような顔をして、
「契約だって? あんなもの、契約にはならない。弁護依頼は、準委任契約であって・・・」
と言いかけると、Yが、それを遮った。
「おっと、中村君、法律の講義はたくさんだ。ふふ。僕だって、いちおう、T大法学部で勉強したことがあるんだよ? 忘れたのかい? 弁護依頼が準委任契約だろうが請負契約だろうが、そんなことはどうでもいいんだよ。僕が言ってるのは、そんな民法上の契約のことなんかじゃない。君と僕との道義上の契約のことさ。」
「道義上の契約?」
「そう。道義上の契約だよ。三年前、君は、P事務所を飛び出しただろう? 僕はちゃんと知っているんだよ。以前勤めていた会社で、P事務所の所長を接待したことがあるからね。その時、たまたま、君のことが話題になったのさ。所長は言ってたよ。君の資料整理能力は抜群で、ずいぶん重宝してたってね。でも、君は、そういう下働きが不満だった。そうして、P事務所所属弁護士というエリートの地位を投げ捨てて、結局、中小企業を駆けずり回らなきゃいけないはめに陥った。そうだろう? 所長は、君のことを、馬鹿な奴だと笑っていたよ。けれども、その時から、僕は、君のことが頭から離れなくなった。エリートを拒否したという君に、興味がわいたんだよ。もっとも、僕は、君と親しかったわけじゃないから、会いに行くなんてことまではしなかったが、意外なことに、君の方から僕に近付いてきた。法律顧問の口を求めてR社にやってきた君をロビーで見かけた時には、思わず声をかけそうになったよ。R社の法律顧問になれた時には、よっぽど嬉しかったみたいだね? 君が会社から出て行く時の後姿は、まるでスキップしているように見えたもんだ。ふふ。でも、君を法律顧問にしようと総務部長に強く進言したのは、何をかくそう、この僕なんだよ。総務部長は、別の候補の若い女弁護士の方がお気に入りだったからね。知らなかっただろう? 君は、僕にいくら感謝しても足りないくらいだ。そうだろう? 僕は、廃業寸前の無能な弁護士である君を、わざわざ助けてやったんだからね!」
中村は絶句した。無能呼ばわりされても何も言い返せなかった。R社の顧問料は、中村にとって、もっとも重要な収入源だった。いま、R社の顧問料が打ち切られれば、もはや廃業するしかない。中村が呆然としてYを見つめていると、Yが、にっと白い歯を見せて笑って見せた。中村が、はっとして我に帰ると、Yが言った。
「ふふ。どうやら、納得してくれたみたいだね。僕は、君を、ずっと見守って、助けてきたんだよ。そろそろ、君が、僕を助けてくれてもいいんじゃないか? 君の番だ。それが契約だからね。」
中村は、いらいらして言った。
「見守ってきた? 冗談じゃない! 誰もそんなこと頼んじゃいない。そんな訳の分からない契約を結んだ覚えもない。君が勝手にやっただけじゃないか。R社の顧問の件については、そりゃ、感謝するよ。でも、私には、何の義務もない! いったい、君は何だ! どうして私にまとわりついてくるんだ!」
「おやおや。怒ったのかい?」
と、Yは、にやにやしながら言った。
「そう。君の言う通り、僕は、勝手にやったのさ。無能な君が困っているのに、それを見て見ぬふりはできなかったんだよ。君の好きな民法で言えば、事務管理ということになるかな? 事務管理では、確か、本人の意思に反するおせっかいをやいた場合でも、本人の得た現存利益を償還する義務はあるんじゃなかったっけ? いくら勝手にやったことでも、それ相応の義務が生じることは、民法だってちゃんと認めてるんだ。ましてや、君と僕との道義上の契約においては、君は、何が何でも僕を助ける義務があるんだよ。」
「だから、そんな道義上の契約なんて、知ったことじゃないって言ってるんだよ!」
「もう。君も分からん人だなあ。この道義上の契約はね、当事者の意思なんて関係ないんだよ。正直言うと、僕だって、何も好きこのんで、こんな面倒くさい契約を君と結んだわけじゃないんだよ。でも、君が、選ばれたんだから、仕方ないんだよ。」
「選ばれた?」
「そう。君はね、選ばれたんだ。僕も、選ばれた。そうして、選ばれた者は、お互いに助け合わなきゃいけないというわけさ。そこで、まず、僕が、君を助けた。今度は、君が、僕を助けるわけだ。もし、その次があるなら、また僕が君を助けるというわけ。」
「選ばれるって、誰が何を選ぶんだ?」
「ふふ。知りたいかね?」
「いいから、もったいぶらずに早く言え!」
「おやおや。教えてもらう立場のくせにずいぶん偉そうだな。まあ、いい。それじゃ、君に教えてあげよう。僕たちは、エリートとして、神に選ばれたんだよ。」
「何だって?」
「エリートだよ。べつに、金持ちとか、特権階級とか、そういう意味じゃない。神に選ばれた者という意味の本物のエリートだ。僕たちは、エリートなんだ。エリートは、お互い、助け合わなきゃいけないんだよ。神に選ばれた同志なんだ。」
そう言うと、Yは、瞬きもせずに、金網越しに中村の顔をじっと見つめた。中村の反応を待っているかのようであった。中村は急に疲労を感じた。これ以上の会話は、無意味だ。精神異常者と無駄話をしている暇はない。今日も、これから三件は会社を回るつもりなのである。
「じゃあ、そういうことで、失礼するよ。あなたの弁護はお断りする。」
と、一方的に話を打ち切って席を立とうとする中村に、Yが震える声で叫んだ。
「中村君! 同志を見捨てるのか!」
中村は何も答えず、そのまま席を立った。
 接見室を出ると、廊下の隅にある喫煙場で、警部が煙草を吸いながら待っていた。
「おや。終わりましたか。」
「ええ。」
「で、受任を断ったわけですな?」
「ええ・・・」
「ふむ。まあ、それが正解でしょうな。厄介な事件だし・・・」
「厄介な?」
「おや? お断りになった事件に、興味がおありですか?」
「いや、べつに・・・」
「ふふ。じゃあ、まあ、お手数でした。」
と言って、警部は、煙草を揉み消すと、そのまま立ち去ろうとした。中村は、
「あの、ちょっと。」
と、警部を呼び止めた。
「何です?」
「あの、Yは、その、精神状態が・・・」
と、中村が言いかけると、警部は、うんざりしたような顔をして、
心神喪失とでも言いたいんですか? 弁護士ってのは、すぐこれだからなあ。何でもかんでも心神喪失で無罪放免だ。心配しなさんな。あいつは、まともですよ。すぐに自白するでしょうよ。インテリってのは、すぐ落ちるからね。いや、まあ、こんなことは、先生には関係ないことでしたな。弁護人を断ったんだからね。じゃあ、失敬。」
警部のがっちりとした後姿を見送りながら、中村は、
「まともじゃないんだよ・・・」
と、つぶやいた。
                 三
 K署を出た中村は、かっと照りつける太陽の光りに目がくらんだ。この暑さの中、汗だくになって会社回りをするかと思うとうんざりしたが、それでも、予定していた三件のうち二件の会社訪問は何とか済ませた。もっとも、収穫はなかった。そうして、もう、やる気がなくなってしまった。疲れている。今日はもう、やめだ。中村は事務所に戻った。
 事務所のドアを開けると、女事務員が、ばたばたと机の上の小物を隠した。
「また、マニキュア遊びか?」
中村がそう言うと、女事務員は、
「すみません・・・」
と、素直に謝った。
「ふん。まあ、いいよ。どうせ、仕事もないしね。」
そう言って、中村は、来客用のソファに倒れるように横になった。
「先生、今日は、もう、出かけないんですか?」
「そうだ。疲れた。少し早いけど、今日はもう終わりだ。君ももう、帰っていいぜ。」
「Yさんはどうなったんですか?」
「え? Y? ふん。断ったさ。ずいぶん気にするんだな?」
「そりゃ、先生が活躍するチャンスかも知れないんですから・・・」
そう言うと、この若い女事務員は、かすかに頬を赤らめた。
「ふふ。心配してくれてありがとう。でも、Yにかまっている暇なんかないからね。それで、おれの外出中、べつに何もなかったんだね?」
「いえ。先生が出かけた後すぐに、R社の総務部長から電話がありました。」
中村はどきりとした。
「R社だって?」
「はい。先生が戻ったら、総務部まで電話してほしいとのことでしたけど・・・」
「ばか! それを早く言えよ。」
 ソファから起き上がると、中村は、R社の総務部長に電話した。
「ああ、先生。面倒なことが起きちゃったんですよ。」
電話口の総務部長は、開口一番、そう言った。中村は、すぐに、その面倒なことの予想がついた。Yのことに決まっている。もっとも、Yから個人的に弁護依頼されたことまでR社に報告する義務などなかったから、中村は、何も知らないふりをした。
「面倒なこと?」
「そうなんですよ。うちのYがね、ほら、総務課長のYですよ、あいつがね、昨日、警察に逮捕されちゃったらしくて、で、今日の昼過ぎに、社に警察が来て、Yの机やらロッカーやら捜索して、Yの私物を根こそぎ持って行ったんですよ。」
「なるほど。で、警察は、何と言ってました?」
「はあ、それが、令状を見せられたんですけど、未成年者略取誘拐だとかで、でも、詳しいことは何も分からないんです。」
「分かりました。すぐにそちらに伺います。」
電話を切った中村は、女事務員に、
「おい。R社に行って来る。遅くなるから、君はもう、帰れ。」
と言って、R社に急いだ。
 R社の社長室で、中村は、社長と総務部長のふたりと善後策を話し合った。
「とにかく、早いとこ、Yをクビにしなきゃいかんのだ! 懲戒免職だよ!」
と、社長が、いらいらした口調で言った。すると、総務部長が、
「でも、社長、就業規則では、逮捕されただけじゃクビにはできませんよ?」
と、おどおどしながら反論した。
就業規則? そんなもん、どうだっていいんだよ! 学習教材メーカーの従業員が誘拐犯なんてことになってみろ、イメージはガタ落ちだ! 総務部長、おまえは、それでもいいってのか!」
「まさか、それでいいなんて思ってませんけど、でも、就業規則上は・・・ねえ、先生? そうでしょう?」
総務部長に意見を求められた中村は、
「ええ。確かに、総務部長のおっしゃる通りです。R社の就業規則上は、現行犯とか明白な証拠があって有罪が明らかだと言えるような場合でない限り、被疑者段階の従業員を懲戒解雇することはできませんし、たとえ起訴されても、判決確定までは休職扱いになるだけです。」
と、言った。社長は、ちっ、と舌打ちして、
「まったく、面倒な規則を作ったもんだ。あれは、クビにした前の総務部長が作ったんだよな。余計なことしやがって。あいつは組合に甘い顔ばかりする腰抜けだったからな。規則が邪魔なら、いっそのこと、規則を変えちまえばどうなんだ?」
「それは、社長、いますぐというわけにはいきません・・・いろいろと、手続きが必要ですし・・・やはり、組合との折り合いもつけませんと・・・」
と、総務部長が、禿げ上がった額の汗をハンカチで拭きながら言った。
「じゃあ、どうするんだ! もういい! とにかくクビにしろ! 先生、就業規則を無視してあいつをクビにしたら、どうなりますかね?」
就業規則を無視して懲戒解雇しても、合理的理由がないということで、解雇は無効になります。Yとしては、従業員としての地位を確認する訴えを起こすでしょうね。慰謝料を請求してくることも考えられます。」
「ふむ。裁判になったら勝てますかな?」
「和解に持ち込むのならともかく、勝つのは難しいでしょう。」
「和解ねえ・・・お、そうだ。おい、総務部長!」
「は?」
「つまり、和解だよ! Yに、いくらか金を渡して、今すぐ依願退職させろ!」
社長がそう言うと、総務部長は、
「いえ、それが、その、Yは、総務課長でしたので・・・」
と言いかけたが、中村の顔をちらりと見て、困惑したように言いよどんだ。
「何だ! はっきり言え!」
「はあ。つまり、その、Yは、総務部の内情に通じておりまして・・・例の、W市の教育長への賄賂の件を・・・」
「知ってるってのか!」
「知ってるどころか、直接の担当者です。」
「何だと?」
「ですから、その、相当の見返りをやらないと、おとなしく依願退職に応じるなんてことは、ちょっと難しいかと・・・もし、警察でこのことをしゃべりでもしたら・・・」
「まったく、何てこった! 何であいつにそんなこと任せたんだ!」
「は、申し訳ございません! でも、あの時は、社長もそれでいいと・・・」
「え? そうだったか? ええい、うるさい!」
社長は、いらいらした手つきで煙草に火をつけると、天井に向けて思い切り吐き出した。ふたりの会話を黙って聞いていた中村が、社長に、
「賄賂というのは、どういうことです?」
と、不審げな顔をして聞いた。社長は、
「いや、まあ、先生には関係ないことですよ。」
と言って、無理に笑おうとしたが、頬をひきつらせただけだった。
「でも、賄賂と聞こえましたが?」
と、中村がさらに聞くと、社長は、
「だから、先生には関係ないって言ってるだろう! 余計な口を出さんでくれ!」
と、苛立ちを隠さずに叫んだ。総務部長が、慌てて割って入り、
「いや、その、先生、つまりですね、W市内の全部の小学校に、我が社のパソコン用教材を納入したことがあるんですけどね、その際に、W市の教育長に、ちょっとした便宜を図ってもらったことがありましてね、それで、まあ、お礼をしたというわけでして・・・」
と、おどおどした口調で言った。禿げ上がった額一面が、汗の水滴で覆われていた。
「つまり、贈賄したというんですか!」
「ええ、まあ、つまり、そうですね。そういうことになりますかね。それで、その担当者がYでしてね、Yが、直接、教育長に現金を渡しましてね、まあ、つまり、そういうことなんですよ・・・」
総務部長の額から、膨れ上がった汗の水滴がくずれて、目に流れ込んだ。総務部長は、目をしょぼしょぼさせながら、しわくちゃになったハンカチで汗を拭った。
「それは、いつのことです? 私が顧問になる前の話ですか?」
「いえ。そうですね、先生が顧問になって、二ヶ月ばかり経った頃ですね。」
「それはどういうことですか! 私が顧問になった後に、贈賄なんかやったんですか!」
と、中村が怒りを露わにして言うと、社長が、煙草の煙を吐き出しながら、
「そうですよ。先生が顧問になった後ですよ。何か問題でもありますかな?」
と、開き直ったように言った。
「何ですって? 問題あるに決まってるでしょう! 法令遵守のために、私は、この会社の顧問をやってるんですよ!」
「ふん。先生。先生は、どうやら、ご自分の役割をちっとも分かっておられないようですな。私が先生に高い顧問料を払っているのは、べつに、我が社を清く正しい会社にしてもらうためなんかじゃありませんよ。確かに贈賄はしましたよ。でも、それが何だって言うんです? まさか、告発するつもりですか?」
「いえ・・・私には守秘義務があります・・・」
「ふん。それなら、この件に関してはもう口を出さないでもらいたいな。私はね、贈賄だろうが何だろうが、利益を生むことなら何だってやりますよ。たとえ法に反することでもね。そのために先生を雇ってるんだ。法令遵守ですって? 馬鹿々々しい! 法を守るだけなら、先生なんか必要ありませんよ。法の抜け道を探すのが、先生の役割なんですよ。黒を白と言いくるめるのが先生の仕事なんだ。法令遵守なんて分かり切ったことを我々に説教する暇があるなら、その前に、贈賄が贈賄でなくなるような理屈のひとつも捻り出してもらいたいもんですな!」
「弁護士の私に、法を破る片棒を担げと言うんですか!」
「法を破る? 破るんじゃない。その反対だ。法を破らないために、その抜け道を探せと言ってるんですよ。先生、法律ってのはね、先生の考えてるような立派なもんじゃないんだよ。はっきり言えば、法律なんて、金持ちが貧乏人をだます道具だ。私はね、生活保護を受けていたくらいの貧乏人の生まれだから、よく分かるんだよ。貧乏人がどんどん生まれることはほったらかしのくせに、生活保護なんぞというお恵みをちょいとばらまいてやれば、貧乏人どもは泣いて喜ぶとでも思ってるんだよ。で、実際、貧乏人どもは、金持ちのお恵みを有り難がって、金持ちのためにせっせと年貢を納めてるってわけだ。法律ってのはね、金持ちが作って、貧乏人に守らせるってだけのことなんだよ。そんなもん、何で、この私が、有り難がって守らにゃならんのかね。法律を馬鹿正直に守って生きていたら、私は、死ぬまで惨めな貧乏人のままだったよ。私はね、これまで、何度も法律の抜け道をかいくぐって来た。そのおかげで、まあ、それなりの金持ちになった。法律を貧乏人に守らせる側になった。お恵みをばらまく側になった。先生。世の中ってのはね、そういう仕組みになってるんだよ。一部の選ばれた人間が、法令遵守する大衆どもを支配するってわけだよ。しかも、大衆どもは、自分が支配されてることに気が付いてないんだからねえ。朝三暮四の猿と同じだよ。まったく、誰が思いついたかのか知らないが、世の中ってのは、うまく出来てるじゃないか。違うかね、先生?」
「しかし、民主主義では、法律は・・・」
と、中村が言いかけると、社長は、手を上げてそれを遮った。
「民主主義? 本気でそんなもんを信じてるのかね? 民主主義だって、馬鹿な大衆を有り難がらせるお恵みなんだよ。実際には、大衆どもを支配する道具に過ぎないんだ。おまえらが自分で作った法律なんだから、ちゃんと守れ、というわけだよ。で、大衆どもは、見たこともない法律を自分が作ったことにさせられて、馬鹿正直に法令遵守しているわけだ。大衆どもに法律なんか作れるわけがない。作る機会さえないんだからね。民主主義だろうが何だろうが、法律を作って世の中を動かしているのは、結局、一部の選ばれた人間なんだよ。私が、議員や役人どもにどれだけの金をばらまいたと思うんだね? 連中は、えさを投げられた犬ころのように喜んで私に協力したよ。おかげで、こうして商売繁盛というわけだ。ふふ。まったく、世の中というのは、有り難いもんだ。貧乏人にとっちゃ地獄だが、支配する側になりさえすりゃ好き放題できる楽園だ。で、まあ、先生も、もちろん、こちら側の人間なんだから、我々の楽園を守るべく、法律を駆使してもらいたいというわけだよ。分かってもらえたかな?」
「分かりません! 私は、こちら側の人間なんかじゃ・・・」
と、中村が言いかけると、社長が、急いで遮った。
「おっと! そこまでだよ、先生。その次の一言を口にすると、私は、不本意ながら、先生をクビにしなきゃいけなくなるんでね。それは、先生もお望みではないはずだ。先生の事務所が火の車だってことくらいはちゃんと調べがついてるんだ。ふふ。まあ、頭を冷やして、私の話を聞いた方が身のためだよ? 私は、先生のためを思って言ってるんだ。いいかね、先生、まさかとは思うが、もし、仮に、先生が、自分がこちら側の人間ではない、などと思っているとしたら、それは、たいへんな思い違いだよ? 先生の今の地位は、全部、我々のおかげなんだからね。T大法学部卒という輝かしい学歴も、弁護士という名誉ある肩書きも、全部、我々のおかげだ。大学制度も、弁護士の免許制度も、いや、この世のあらゆる制度は、我々が、我々のために作ったんだからね。それによって、我々は、選ばれた者に対する恐怖と服従を大衆どもに叩き込んだんだ。人間てのは、猿山の猿と同じで、絶対にかなわない相手に対してはひたすら従順になるからね。先生はね、そういう馬鹿な大衆どもを支配するために、我々が丹精込めて作り上げた芸術作品みたいなものなんだよ。その作品が、生みの親である我々を裏切るなんてことは許されないんだよ。そうだろう? そんなことをすれば、それこそ、自滅だ。あのYと同じことになる。あいつは、我々を裏切ったんだよ。学費がなくなったからT大法学部を中退するなんて、裏切りもいいところだ。どうしても学費がないなら、馬鹿な女の二、三人でも騙して金を引き出すくらいのことはして卒業にこぎつけるのが、我々に対する親孝行ってもんだ。その程度のこともできずに、親を裏切るような真似をしたから、今は、あのザマだ。中途採用の安月給でこき使われて、しまいには、誘拐で刑務所入りってわけだ。私はね、あいつを初めて見たとき、腹が立って仕方がなかったんだよ。せっかく、こちら側に来れるチャンスがあったのに、自分で棒に振りやがった。それで、あいつを中途採用することにしたんだよ。世の中の有り難い仕組みに反抗したらどんなに惨めなことになるかを、あいつに思い知らせるためにね。ふふ。どうかね、先生、分かったかね? もし、仮に、先生が、自分がこちら側の人間ではない、などと本気で考えているなら、それは、我々を裏切ることになる。もっとも、先生には、そんな裏切り行為はできやしないんだけどね。どうせ、先生は、今の地位を捨てられないんだからね。T大法学部卒の学歴も弁護士免許も捨てて、Yのような惨めな男になることができるかね? できないだろう? ふふ。我々の着せてやった温かい服にぬくぬくとくるまりながら、裸で木枯らしに吹かれてふるえている貧乏人を憐れんで涙するなんて、それこそ、へどが出るような偽善だ。何のかんの言っても、先生は、こちら側にいたいんだよ。それが、先生の本音なんだよ。そうだろう? 先生?」
そう言って、社長は、煙草に火をつけると、天井に向けて、ゆっくりと煙を吐き出した。
自らの熱弁に満足げに煙を吐く社長の横顔を見つめながら、中村は、次の一言を言い出しかねていた。言えば、クビになる。かつて怒りにまかせてP事務所を飛び出したことが思い出された。あの時、おとなしく下働きを続けていれば、汗だくで営業に駆けずり回るような馬鹿な苦労はしないで済んだだろう。大手弁護士事務所に所属するエリート弁護士として安穏に生活していることだろう。けれども、それでいいのか? 社長の言うように、それが、おれの本音なのか? いや、おれは、やはり・・・と、中村が次の一言を言うために口を開こうとした時、総務部長が、恐る恐る社長に言った。
「あの、社長、それで、その、Yの件なんですが・・・」
社長は、たちまちいらいらした顔つきになって、
「だから、いくらか金を渡して依願退職させるしかないだろう!」
と、怒鳴った。
「し、しかし、その、W市の件が・・・」
「だから、その分、口止め料を少しばかり上乗せしておけ!」
「では、その、いかほど?」
「ふむ。あいつに、家族はいなかったな?」
「はい。五年ほど前に離婚して、今は一人です。」
「ふん。じゃあ、どうせ刑務所に入ってるんだ。金なんか使い道もないだろう。そうだな、まあ、二百万、いや、百万くらいやっとけ!」
と、社長が言った時、ふたりの会話を黙って聞いていた中村が口を開いた。
「一千万だ。」
「あ?」
社長と総務部長が、ぽかんとした顔で中村を見た。
「一千万なら、たぶん、Yも依願退職に応じるでしょう。」
中村がそう言うと、総務部長が慌てて言った。
「一千万ですって? そんな、いくらなんでも・・・」
「いや。一千万は必要です。Yが訴訟を起こせば、R社は確実に負ける。慰謝料も取られる。R社が訴訟に要する費用も丸損になる。しかも、不当解雇が裁判沙汰になれば、Yの誘拐事件まで表に出て来て、どっちにしろR社のイメージはガタ落ちです。組合も黙ってはいないでしょう。その上、Yが退職に不満でやけになって贈賄を暴露すれば、もはや致命傷です。Yが金を渡した実行犯だとしても、Yには情状の余地もあるし、単に幇助にとどまる可能性だってないわけじゃない。けれども、あなた方は、主謀者として、悪くすると実刑をくらう。実刑までいかなくても、経営陣が有罪になれば、株主が黙っていない。無論、贈賄するような会社の学習教材を使う学校なんて何処にもない。それだけのリスクを、Yの退職届け一枚で、全部回避しようというんですからね。一千万なら、安いくらいですよ。社長。利益を生むことなら、あなたは、何だってやるんでしょう?」
中村がそう言うと、社長が、いぶかしそうな目で中村を見据えながら、
「先生。何やら、まるで、Yの代理人にでもなったような口ぶりですな? 今の言葉は、先生が、こちら側の人間として言ったことですかな? それとも・・・ 」
と、言いかけた。中村は、にやりと笑って、それを遮ると、
「お察しの通りですよ。私は、今、Yの代理人として話している。私は、こちら側の人間なんかじゃない! 私をクビにするというなら、好きにすればいい。」
「馬鹿なことを・・・」
と、社長が、憐れむように言った。
「その通りです。私は、馬鹿なんですよ。今頃気が付いたんですか? 私には、黒を白と言いくるめるような曲芸はできませんよ。」
「ふん。けっこう。お望み通り、先生は、たった今、クビだよ。しかしまあ、先生の言うことはもっともだ。確かに、一千万でリスク回避できるなら、まあ、高くはない。」
「では、Yには、私が伝えます。Yが依願退職を承知すれば、こちらから連絡しますよ。そういうことでいいですね?」
「先生。後悔するよ? 考え直すなら今のうちだがね。」
「後悔には慣れてますんでね。」
「ほう。Yのように、こちら側から、あちら側に転落してもいいのかね?」
「Yのように? Yには、べつに、こちらもあちらもありませんよ。」
「じゃあ、何だと言うのかね?」
「あいつは、エリートですよ。神に選ばれたそうですよ。ふふ。」
社長は、きょとんとした顔をした。
「じゃあ、失礼。」
そう言って、中村は、社長室を出た。廊下を歩いていると、社長室から、何やら社長の怒声が響き、総務部長の泣き声がそれに続いた。
                 四
 R社を後にした中村は、Yに会うためにK署に向かった。帰宅するサラリーマンをすし詰めにした電車の冷房は、エコ・キャンペーンで、ほとんど効いていなかった。蒸し風呂のような電車の中で、中村は、押し合いへし合いしながら無言でつり革にしがみついている人々の汗だくの無表情な横顔を見て、不思議な思いがした。なぜ、この人たちは、黙っているのだろう? 毎日のことで慣れているから、もはや苦しくないんだろうか? いや、苦しいに決まっている。息をするのも辛いくらいだ。でも、みんな、黙って耐えている。目的地に着いて、ほっと開放される瞬間を待っている。けれども、実は、この電車が目的地に着くこともなく永遠に走っているだけだとしたらどうなんだろう? それでも、この人たちは、目的地に着くことを信じて、黙って耐え続けるんだろうか? どうも、そんな気がする。目的地なんかないということに気が付いていたとしても、それだけは言ってはならないという暗黙の了解があって、みんな、気が付かないふりをする。そうして、黙って耐え続ける。永遠に・・・などと、中村が、身動きもできずに気が遠くなりそうな頭でぼんやり考えていると、単調なレール音だけが繰り返される電車内の何処かで、はああ、あっついなあ! と、おどけた声が聞こえた。誰もが何も聞こえなかったかのように無表情でいる中で、中村は思わず微笑んでいた。そうだ。黙っている必要など何処にもない。
 K署に着くと、中村の電話を受けていた警部が出迎えた。
「まったく、先生にゃ困ったもんだよ。受任しないんじゃなかったんですか?」
「それが、急に気が変わりましてね。」
「やれやれ。今、Yは、取調べ中ですからね。接見はできませんよ?」
「けっこうです。待ちますから。」
「さあ、待つと言ってもねえ、いつ終わることやら。何せ、あいつ、先生に受任を断られた途端、黙秘ときましたからねえ。意外と強情な奴ですな。ふふ。」
「じゃあ、せめて五分でもいいから、接見させてくださいよ。私は、受任することを彼に伝えたいだけなんだから。」
「ふむ。まあ、どうせ取調べも埒があきませんからな。接見交通権を妨害されたなんて先生にごねられても面倒だしね。ふふ。じゃあ、まあ、受任したことを伝えて、せいぜい奴を喜ばせてやってくださいよ。」
 接見室に入ってきたYは、金網越しに中村の姿を認めると、喜びを露わにして、
「先生。必ず戻ってくると思ってましたよ。」
と、言った。
「先生なんて呼ぶのは、もう、よしてくれ。時間がないから、単刀直入に言おう。私は、君の依頼を受けることにしたよ。」
「そんなこと、分かってるさ。」
「それと、もうひとつある。R社が、退職金として一千万円用意するそうだ。」
「一千万?」
「そう。一千万だ。いちいち言わなくても、君には、その意味は分かるだろう?」
「さあ。どうせ、慌てて、僕をクビにしたがってるんだろう? 就業規則では僕をクビにできないからね。でも、僕のクビ切り代にしちゃ、ちょっと奮発しすぎじゃないかな。」
「とぼけちゃいけない。W市の件があるだろう?」
「ふふ。何だ、君も知ってるのか。なるほどね。そういうわけか。しかし、それにしても、あの社長が、よく一千万も出す気になったもんだな。」
「交渉したのさ。」
「君が?」
「他に誰がいるんだね。おかげで、私は、顧問をクビになった。」
「おやおや。ずいぶんと無理したもんだな。それじゃ、君は、明日にも廃業だろう?」
「そうとも限らんよ。」
「何で?」
「君から弁護料をもらうからさ。」
中村がそう言うと、Yは、白い歯をにっと出して笑った。
「いいだろう。もし、一千万が手に入れば、全部、君にやるよ。」
「全部なんていらない。規定の料金で十分だよ。もっとも、君を無罪にした時には、それとは別に成功報酬を頂くことになるがね。」
中村がそう言うと、Yは、急に浮かない顔になって、
「僕を無罪にする?」
と、言った。
「そうさ。当たり前だろう?」
「でも、僕は、無罪じゃないかも知れないよ?」
「え? どういうことだね? まさか、君・・・」
中村の困惑した顔を見て、Yが、首を振った。
「そうじゃない。僕は何もしていない。けれども、無罪になるとは限らないと言ってるんだよ。僕がいくら否認したって、事実認定は裁判官が勝手にやるんだからね。本当のことなんて、結局、誰にも分からない。」
「それはそうだが、だからこそ、弁護するんじゃないか。君が否認している以上、私は、弁護人として無罪を主張するよ。」
「有罪の主張はしないのかい?」
「え? 有罪の主張? それは、どういう意味だい? 無罪を主張する一方で、有罪を認めて情状か責任能力の喪失で切り抜けようって意味かい? そんな二本立ての主張は、無罪の主張と矛盾するから戦術的にだめだね。もっとも、あくまで無罪を主張しつつ、有罪判決が出されてしまう万一の場合に備えて、情状や責任能力の喪失について弁論でそれとなく触れておくというなら、まあ、それなりのメリットはあるし、そういう戦術なら、私も考えている。まあ、君に嘘をついても仕方がないから、この際、正直に言うけど、私は、君の責任能力には大いに疑問を持ってるからね。」
「疑問?」
「そう。神に選ばれたエリートなんて考えは、ちょっと、理解し難いからね。」
中村がそう言うと、Yは、ひどく落胆した様子で、
「じゃあ、君は、僕たちがエリートであることを信じられないのかい?」
と、言った。
「そう。信じられない。誰だって、そんなこと信じないよ。」
「だって、現に、君は、エリートとしての行動をとったじゃないか!」
「エリートとしての行動?」
「そうさ! R社の顧問料を捨てて、僕の弁護人になったじゃないか!」
「それは、その、つまり、R社の汚いやり方が気にくわなかったからさ。君の弁護人になったのも、一千万目当てだよ。勘違いしないでほしいな。」
「いや、違う。」
「違う?」
「そうだよ。全然違う。僕には分かるんだ。言っただろう? 僕と君は同じなんだよ。R社の汚いやり方が気にくわなかっただって? だから飛び出したって言うのかい? そうじゃない。君は嘘をついてる。君は、そんなかっこいい男じゃない。君は、R社から逃げ出したんだよ。昔、P事務所から逃げ出したようにね。君には、何処にも居場所がないんだよ。逃げるしかないんだ。なぜだか分かるかい? それは、君が、無能だからだよ。無能と言っても、べつに、君が馬鹿だと言ってるんじゃない。社会生活に適応する能力がないと言ってるんだよ。君には、P事務所の資料整理係として下働きに徹する能力もなく、R社の顧問におさまって金もうけに徹する能力もない。でも、だからと言って、弁護士なんか廃業してサラリーマンとして満員電車に詰め込まれて黙々と生きていく能力だってないだろう? 要するに、君は、生活能力において何の取り柄もない無能者なんだよ。普通の人が普通にやってることが、君にはできないんだ。だから、君は、逃げた。そして、ここに来たんだ。一千万のために僕に会いに来たんじゃない。単に金が欲しいなら顧問を続ければ良かったはずだ。一千万なんて、君がここに来るための口実に過ぎない。君の来る場所は、もう、ここしかなかったんだ! 君は、僕と同じなんだ。僕たちは、この世界の何処にも居場所がないエリートなんだよ。エリートとして、神に選ばれたんだ! 君がここにいるという、この不条理な事実こそ、その何よりの証拠じゃないか!」
そう言って、Yは、中村の目をじっと見つめた。中村は、ふっと目をそらすと、
「つまり、無能なエリートというわけかい?」
と、自嘲気味に言った。
「そうじゃない。エリートは、そもそも無能なんだよ。この世界に適応できないんだ。神が、僕たちから、世界に適応できる能力を奪ったんだ。だから、エリートは、逃げる。居場所を探して逃げ続ける!」
「それで、君は、留置場に逃げ込んだというわけかね?」
中村が皮肉をこめてそう言うと、Yは微笑んだ。
「ふふ。言うじゃないか。無能と言われて怒ったのかい? いいことだ。君は、図星を突かれると不機嫌になる癖があるからね。君は、心の底では、僕に同意してるんだよ。」
「同意なんか・・・」
してない! と、中村は言おうとしたが、言葉にならなかった。
「ふふ。まあ、いいさ。確かに、僕は、逃げ回った挙句に、こんな留置場に放り込まれてしまった。どうやら、行き着く所まで来てしまったらしい。もう、何処にも逃げようがないからねえ。で、僕は、考えたんだよ。そろそろ、逃げるのはやめようかってね。」
「逃げるのをやめる? じゃあ、どうするんだ?」
「決まってるじゃないか。戦うのさ。」
「戦う?」
「そう。戦う。こうして、目の前に同志が来てくれたからね。」
「それは、私のことかね?」
「君以外に、誰がいる? 戦う時が来たんだよ。戦場は、もちろん、法廷だよ。君にふさわしい死に場所だろう?」
「死に場所とは何だ。縁起でもない。私は、何としても君の無罪を勝ち取ってみせるさ。そう、そこで、君の被疑事実だがね、私は、未成年者略取誘拐ということしか知らないが、それでいいのかね?」
中村がそう言うと、Yは、眉間にしわを寄せて、
「そうだ。僕は、半年前から行方不明になっている十九歳の女子大生を誘拐したという疑いで逮捕された。取調べの様子だと、どうやら、ユキちゃんを殺した疑いもかけられてるようだ。」
と、言った。
「ユキちゃん?」
「行方不明になっている女子大生だよ。僕は、ユキちゃんと呼んでいた。取調べの刑事によると、僕は、行方不明になる前のユキちゃんと最後に接触した人間なんだそうだよ。確かに、僕は、半年前、ユキちゃんが行方不明になったという日に、ユキちゃんと一緒にいた。甲府までデートしに行ったんだよ。いや、デートじゃない。一緒に逃げたんだ。つまり、駆け落ちだよ。」
「駆け落ちだって?」
「そう。駆け落ちだ。四十男と十九歳の美人女子大生との駆け落ちだよ。信じられないかね? いや、まあ、君が信じようが信じまいが、事実なんだから仕方がない。」
「すると、君たちは、つきあっていたのかい?」
「いや。つきあってなんかいないさ。」
「じゃあ、何で、いきなり駆け落ちなんてことになるんだね?」
「それが、僕自身にも、何だかよく分からないのさ。とにかく、ユキちゃんの方から、一緒に逃げよう、と言ってくれたんだよ。」
「で、君は、承諾したわけだね?」
「そういうわけさ。本当に、いい子だった。ユキちゃんと出会ったのは、一年前、T市の駅裏にあるMというスナックだよ。ユキちゃんは、そこでアルバイトをしていたんだ。まあ、未成年だから、いつもはウーロン茶を飲んでたけど、たまには、お付き合い程度にビールを飲むくらいのことはしてたよ。そうして、中年男どもの愚痴を、真面目な顔して、うんうんとうなずきながら聞いてくれるんだよ。人気者だったよ。僕も、ユキちゃんの大ファンだった。ユキちゃんが勤め始めてからは、ユキちゃんに会いたくて、週に一度はMに通うようになっていた。会いたくて会いたくて、我慢できないんだよ。一目でもいいからユキちゃんの笑顔を見たいんだ。それだけでとても幸せになれたんだ。子どもの頃の初恋と同じ気分なんだよ。その女の子が、自分の机の前を横切っただけで、どきどきする、あの気持ちだよ。僕は、ユキちゃんが相手をしてくれるまで、いつも、二、三時間はねばった。人気者だったから、僕のところまでは、なかなか来てくれないんだよ。で、来てくれても、せいぜい五分くらい話をしておしまいだ。けれども、それで全然構わない。それだけで僕は満足だった。この五分のために、僕は一週間を生きていた。あの店の扉を開いて、ユキちゃんが、いらっしゃいと言って微笑むのを見た瞬間、つまらない人生のことなんか忘れることができた。たまに客が少ない日に当たると、一時間もユキちゃんと話をできることがあった。うれしいんだけれど、何を話して良いやら分からず、つまらない仕事の愚痴みたいなことばかり話して、ああ、もっと気の利いた話題がないのかと情けなくなったもんだよ。それでも、ユキちゃんは、ちっとも退屈したような様子を見せずに、うんうんと話を聞いてくれて、そういう時のユキちゃんは、あの大きな目で僕のことをじっと見つめていて、その目を見るともう僕はたまらなくなって、この人のためなら何でもやる、どんなことだってやる、死んでもいいという気持ちになったものだよ。あの日も、そんな客の少ない日だった。ずいぶんと寒い夜だった。店の扉を開けると、カウンターでグラスを拭いていたユキちゃんが、いつもの笑顔で、いらっしゃいと言ってくれて、カウンターの一番端に座った僕の隣の席に来て、水割りを作ってくれた。僕が寒そうにしていたからか、ユキちゃんが、不意に、僕の右手を取って、冷たいね、と心配そうな顔で言った。ユキちゃんの手は、小さくて、柔らかくて、温かだった。僕は、ユキちゃんの手を思わず握った。ユキちゃんは黙って、そのままでいた。ずいぶん長い間、そうしていたような気がするけど、たぶん、実際には、一分にもならないだろう。僕がはっと我に返って手を離しかけると、ユキちゃんが、僕の右手を頬にあてて、あったまったね、と言ってにっこり笑った。僕は、うん、とだけ言った。それだけ言うので精一杯だった。たぶん、あの時、僕は、酒も飲んでいないのに、真っ赤になっていたはずだ。しばらくして、店の扉が勢い良く開いて、どやどやと団体客が入ってきた。店中が急ににぎやかになって、それこそドンチャン騒ぎで、ユキちゃんもそのせいで店中を大忙しで駆け回って、僕はまあ、ほったらかしになったんだけれど、ユキちゃんは、僕のそばを通る度に、わざと僕の背中にひじをぶつけたり、僕の耳を引っ張ったりと、小学生みたいないたずらをしてきて、僕はそれだけで、もう十分に幸せだった。ドンチャン騒ぎは二時くらいまで続いた。そうして、また、静かな店に戻った。残っている客は、僕と、もう一人、見たことのない若い客がいるだけだった。若い客は、遅番の女の子と奥の席で何やら熱心に話し込んでいた。ユキちゃんは、カウンターの裏で、団体客の残した洗い物をせっせと片付けていた。ママが、遅番の女の子に、後はよろしくね、と言って帰ったので、ああ、もう今日も終わりだな、と思って、洗い物をしているユキちゃんに勘定を頼むと、ちょっと待って、すぐに終わるから、と言って笑った。僕は、洗い物をしているユキちゃんの横顔を、酔った目でぼんやりと眺めていた。洗い物を済ませると、ユキちゃんが、僕の隣の席に座った。僕があらためて勘定を頼むと、ユキちゃんは、ちらっと横目で、遅番の女の子が若い男と相変わらず話し込んでいるのを確かめて、まだ、いいよ、と小声で言って微笑んだ。そうして、手が冷たくなっちゃった、と言って、僕の右手を握った。僕は、ユキちゃんの手を握り返した。そのまま、ずっと離さなかった。ユキちゃんは、真面目な顔で、じっと僕を見つめていた。僕は、遠くへ行きたい、と言った。ユキちゃんが、また逃げるの? と言った。ユキちゃんは、僕がT大を中退してから何度も転職を繰り返していたことも、それが原因で妻と離婚したことも知っていた。僕は、うん、と言って笑った。ユキちゃんは黙っていた。そうして、不意に、一緒に逃げる? と言った。驚いてユキちゃんを見ると、僕をじっと見つめていた。僕は、うん、と言った。何のためらいもなかった。あとさきのことなんか何も考えなかった。すると、ユキちゃんが、いいよ、と言って、にこにこ笑って、それから打ち合わせをした。僕が先に店を出て、コンビニの曲がり角でユキちゃんを待って、それからタクシーに乗って、というような段取りを決めた。遅番の女の子たちに聞こえないように小声でひそひそと相談した。逃げる先は、べつに何処でも良かった。初めに出た地名が甲府だった。それで甲府に決めた。いたずらの相談をする子どものような気分で、実に楽しい時間だった。それから打ち合わせ通り、僕は店を出て、コンビニの曲がり角でユキちゃんを待った。コンビニからはジングルベルが流れていた。しばらくして、ユキちゃんが、白い息を吐きながら走ってきた。ユキちゃんは、大丈夫、ちゃんとごまかして来たよ、あの二人つきあってるんだよ、と言って笑った。それからタクシーに乗って、朝までやってるT駅前のカラオケボックスに行った。僕が二十年も昔のヒット曲を歌うと、ユキちゃんは、その歌聞いたことがある、などと言って面白がっていたけど、そのうちユキちゃんは途中で眠り込んでしまった。僕は、始発までの一時間ばかり、甲府に着いてからのデートコースの計画を立てた。まずは昇仙峡に行くことに決めた。T大生の頃、当時つきあっていた女の子と昇仙峡に行ったことがあって、とても美しいところという記憶があった。ユキちゃんも喜ぶだろうと思った。昇仙峡の土産物屋に水晶細工が売られていたのを思い出して、僕は、ユキちゃんに、水晶のアクセサリーでも買ってあげようと思った。考えつくのはそんな他愛のないことばかりで、お金のこととか仕事のこととか、そんなことは、これっぽっちも考えなかった。始発の時間になったので、ユキちゃんを起こして、駅に向かった。ユキちゃんは、まだ半分眠っているといった感じで、僕の腕に抱きついて歩いていた。列車の中でも、ユキちゃんは、僕にもたれて眠り込んでいた。甲府駅に到着すると、ユキちゃんが眠そうな目をこすりながら、トイレに行ってくる、と言うので、改札で待ち合わせることにした。そうして、それきりだ。いつまで待ってもユキちゃんが来ないから、僕は、ユキちゃんの携帯に電話した。けれども、何の連絡もなかった。僕は、駅中を探し回って、ようやく、ユキちゃんはT市にひとりで戻ってしまったんだろうと諦めた。ユキちゃんにとっては、ほんのいたずらのつもりだったんだろう。それで、甲府まで来てしまったことに今更ながらに驚いて、こっそり帰ってしまったんだろう。僕はそう考えて、ユキちゃんにお詫びのメールを入れて、それきり、もう、店にも行くことはなかった。けれども、あの日から、ユキちゃんの足取りは途絶えているそうだ。僕は、ユキちゃんの最終接触者というわけだ。そうして、最近になって、昇仙峡の山中で、ユキちゃんの着衣が発見されたらしい。着衣には、水晶のブローチが付いていて、そのブローチを売った土産物屋の店員は、僕に似た背格好の中年の男が若い女に買ってやったことを覚えているそうだ。被疑事実について、僕が知っているのはこれだけだよ。どうかね? 僕は、ユキちゃんを誘拐して殺した犯人かい?」
「どういう情況証拠があるにせよ、君が否認する限り、私は君の無罪を主張する。それに、検察も、そんな程度の情況証拠しかないなら、君の犯行を立証することなんかできやしないよ。第一、ユキちゃんが死んだかどうかさえ、まだ分からないじゃないか。」
中村がそう言うと、Yは、微笑んだ。
「そう。情況証拠だけならね。けれども、僕が、もし、自白したらどうかね?」
「何だって?」
中村は驚いて、叫ぶように言った。
「自白って、どういう意味だね? まさか、犯行を自認するってのかい?」
「そう。自認する。」
「馬鹿な!」
「そう怒らないで聞いてくれ。自白すると言っても、今すぐじゃない。もし、ユキちゃんの遺体が発見されればの話だ。今、昇仙峡の山中を、県警が捜索しているそうだよ。」
「それで、ユキちゃんの遺体が見つかったら、何で、君が自白なんかしなきゃいけないんだよ。君は、何もやってないんだろう?」
「そう。僕は、何もやってない。」
「じゃあ、何で、そんな馬鹿なことをしなきゃいけないんだ!」
「だから、言ったじゃないか。戦うためだよ。」
そう言って、Yは、かすかに微笑んだ。
「戦うため?」
「そう。戦うためだ。でも、僕が無罪になるために戦うんじゃない。僕は、法廷という場所を利用して、神に選ばれたエリートとして戦うんだ。法廷闘争だよ。裁判自体が目的じゃないんだ。裁判なんて、所詮、裁判官を説得できるかどうかのゲームだからね。それも、やたらと面倒くさいルールで縛られたゲームだ。でもまあ、そのルールのおかげで、結論が正当化されて、万一それが冤罪でも、警察官も検察官も裁判官も責任を負わずに済むわけだ。そうすると、裁判制度なんて、要するに、責任回避のシステムに過ぎないということになる。裁判で出された結論が真実というわけじゃないんだ。そうでなくて、それは、誰も責任を負わずに済むように、ルールに従って論理的に組み立てられたフィクションに過ぎないんだ。けれども、それがいつの間にか、論理的に正しい以上は、それは真実である、とされてしまう。裁判で有罪になった以上は、その被告人が本当に犯罪をやったかどうかとは関係なしに、真犯人とされてしまう。実に奇怪だよ。論理なんて、元々、結論を正当化して責任逃れするための道具に過ぎなかったはずなのに、結論が本当に正しいかどうかなんて神にしか分からないはずなのに、いつの間にか、論理が神に取って替わって、その結論が真実かどうかを判定するんだ。論理が、神になるんだ。その挙句には、いくらでたらめな思いつきでも、優秀な弁護人が論理のお化粧に成功しさえすれば、凶悪犯が無罪放免になってしまう。まったく馬鹿げた話だ。真実の判定権を神から奪ったりするから、こんな馬鹿々々しいことになったんだよ。でも、まあ、神が法廷に出て来て、これは真実、これは嘘、なんていちいち判定してくれるわけでなし、人間が真実の判定権を神から奪い取ったのも仕方ないじゃないかって開き直るしかないわけだ。もっとも、神以外に真実を知っている人間が一人だけいる。犯人だ。犯人だけは真実を知っている。だから、犯人に良心の呵責さえあれば、弁護人の舌先三寸で凶悪犯が無罪放免になるなどという馬鹿げた事態が生じることはなくなるわけだ。犯人自身が、良心の呵責に耐え切れずに罪を認めるはずだからね。けれども、残念ながら、その良心自体が、フィクションに過ぎない。神から真実の判定権を奪ったために、人間は、良心というフィクションまで作り出したんだ。そして、それによって、論理的な真実というフィクションの欠陥を補おうとしたんだ。神が罰する替わりに、犯人自らの良心が自らを罰するというわけさ。実に滑稽なフィクションだとは思わんかね? この滑稽極まる論理に誰も疑いを抱かないのが、僕には不思議でならないよ。良心の呵責を感じるような人間なら、そもそもそんな犯罪を犯さないだろうってことくらい、三歳の子どもでも分かるんじゃないかね? みんな、良心というフィクションに騙されているのさ。人の心には良心と呼ばれる美しい感情があって、罪を犯した者は、その良心の呵責に耐え切れずに、罪を悔いて真実を語るようになるはずだ、などという馬鹿げたことを真面目な顔して信じている。そんな美しい良心のある人間がいるとすれば、それは、本気で神を信じている熱狂的な信仰者だけだよ。何せ、あの世で神に罰せられるんだからね。けれども、論理こそが真実だと信じている人間には、そんな美しい良心があるわけがない。あったとすれば、そもそも、犯罪なんかするわけがない。神にかわって自らの良心によって自らを罰することができるほどの意志の強い人間が、犯罪なんかを犯すわけがないんだよ。それでも、みんな、良心というフィクションを信じている。犯罪者は、たまたまその時に限って、良心が曇っていたんだろうと無理やり理解しようとする。蛍光灯じゃあるまいし、神に匹敵する良心がそんなふうに点いたり消えたりするんじゃたまらないよ。滑稽もいいところだ。けれども、みんな、その滑稽さに気が付かないふりをしているんだ。なぜだか分かるかい? そう考える方が、安心できるからだよ。どんなに凶悪な人間でも、その心の奥底には、ひとかけらの宝石のように、良心なるものが輝いているはずだと思いたいんだ。けれども、そんなものはどこにもないのさ。凶悪犯だけでなく、どんな人間の心の奥底をほじくりかえしたって、そんな宝石なんかどこにも見つからない。どんなに善良な人間だって、いつ、どこで、冷酷無比の凶悪犯に変貌するか分かりゃしないんだ。それこそ、たまたま今のところは、犯罪者になっていないというだけのことさ。そうして、今のところ犯罪者にならずに済んでいるのは、そんな宝石のような良心のおかげなんかじゃない。単に、損得勘定の結果なんだ。言わば、損得勘定こそが、神を持たない人間たちの良心なんだよ。自分の欲望と他人の犠牲とを天秤にかけて損得勘定しているだけなんだ。多寡が一万円の遊ぶ金欲しさに人一人殺せば、まともな人間なら良心の呵責を感じる。けれどもそれは、本当は、良心の呵責なんかじゃないんだよ。一万円の遊ぶ金と他人の命とを天秤にかけてみて、相手に損をさせすぎたという損得勘定の後悔に過ぎないんだ。そんな暴利をむさぼったりしたら、もう、誰とも商売ができなくなってしまうというわけさ。だから、相手がちっとも損をしないなら、良心の呵責なんかどこにも生じない。愛する我が子を無惨に殺された父親が犯人を殺して仇を討とうとする時、餓死寸前の赤ん坊を抱えた貧しい母親が札束をストーブにくべているような大富豪の財布からこっそりミルク代一万円を盗むという時、そういう時に、良心の呵責を感じると思うかね? 感じるわけがない。相手に何の損もさせていないんだからね。良心なんて、所詮、損得勘定に過ぎない。そうして、他人の犠牲よりも自分の欲望の方が価値が高いなら、良心はむしろ犯罪を正当化するんだ。この憐れな父親母親の行為を、憎むべき犯罪として糾弾できる人間が果たしてどれだけいるかね? 少なくとも僕にはできない。いや、むしろ賞賛するだろう! これこそ損得勘定に過ぎない良心の抱える致命的な欠陥だよ。良心が犯罪を賞賛するんだからね。けれども、神を持たない人間は、その欠陥に目をつぶるしかない。神にかわって、論理的な真実だの損得勘定の良心だのというフィクションを信じるしかないんだ。人間は、神のかわりに、フィクションの神を作り上げたんだよ。言わば、人造の神だ。そんなものは神とは呼べない。偶像崇拝だ。神を持たない人間は、知恵をしぼって、神のかわりになる偶像を作り上げたというわけさ。そうして、こんな偶像が、にょきにょきと、至るところにそびえているんだよ。正義だの、平和だの、自由だの、平等だの、ありとあらゆる有り難い偶像が作り出されて、みんな、黙って、それを拝んでいるというわけさ。けれども、現実の世界には、そんな有り難いものなんか何処にもない。論理的には実現可能なはずだという理想郷の夢を見せられているだけだ。それでも、みんな、その論理的な可能性にかすかな望みをつないで、実現するはずもない理想郷の到来を待ち続けながら、ひたすら沈黙を守って偶像の前にひざまずいているんだ。実に巧妙なシステムじゃないか! 奴隷を管理するシステムとしては完璧だよ。いつかきっと良いことがあるから、それを期待して黙って働きなさいというわけだ。そして、その良いことは、結局、永遠に来ないんだ。良いことが実現すれば、奴隷どもは解放されるんだからね。奴隷主が、そんなことをするわけがない。奴隷は、永遠に奴隷でなければならない。そのためには、偶像が立派であればあるほどいい。そして、ピカピカと金色に光り輝いてそびえ立つ無数の偶像を、法律と制度で一部の隙もなく組み合わせて、天に達するほどの巨大なバベルの塔を築き上げたというわけだ。そうして、塔の上では、奴隷主たちが、偶像を設計した大勢の神官どもを従えて、塔に向かって拝み続ける無数の奴隷たちを見下して満面の笑みを浮かべているというわけだ。中村君。君は、せっかく、この塔の上まで登りかけていたのに、自ら飛び降りてしまったんだよ。足の骨を折るかもしれないのに、いや、死んじゃうかも知れないのに、パッと、飛び降りちゃったんだ。そうだろう?」
「R社の社長が、君と似たようなことを言ってたよ・・・」
「ふふ。そうだろうね。あの社長は、決して悪い人じゃない。むしろ、良い人だよ。」
「あいつが良い人だって?」
「そうさ。良い人さ。少なくとも、正直な人だ。彼と僕たちは、きっと良い友人になれたはずなんだ。けれども、彼と僕たちとは、決定的に違うことがある。彼は、人間に選ばれたけれども、僕たちは、神に選ばれてしまったんだ。社長は、エリートじゃない。エリートは、神に選ばれた者のことだからね。僕たちのように、神によって、世界に適応する能力を奪われた者のことだ。だから、君は、塔から飛び降りた。塔に適応できなかったからだ。でも、社長は、今のところ、バベルの塔の立派な住人だ。彼が、エリートであるはずはない。けれども、彼は、自分がエリートになることを恐れている。」
「恐れている?」
「そう。恐れている。彼と話をしているとよく分かるんだ。彼は、バベルの塔の住人としての自分の能力が、神によっていつ剥奪されるかと戦々恐々としているんだよ。神は、突然、何の前触れもなく、いかにも理不尽な仕方で、能力を奪う。彼は、それをよく知っているんだ。だから、懸命になって、自分がバベルの塔の住人であることを、自分に言い聞かせているんだよ。決して、神に能力を奪われるような隙を作らないためにね。」
「隙を作らないために?」
「そうさ。突然、神は能力を奪いに来るんだよ。時々、新聞で、立派な地位にある人が、どういうわけか、文庫本なんかを万引きして人生を棒に振る記事を目にするだろう? ああいう記事を見る度に、僕は、ああ、この人も、神に能力を奪われたんだな、と納得するのさ。一流企業のエリートみたいな人が、きっと幼少の頃から猛勉強して一流大を出て、美しい嫁さんをもらって、子どもたちも利口で素直で、将来はアメリカ留学でもさせようか、なんて話題が食卓に上るような、そういう絵に描いたような幸せをようやく実現した人が、ある日突然、一冊四百円ぽっちの文庫本を万引きして、折角築き上げてきた地位も名誉も根こそぎ台無しにして家庭を破滅させるんだ。きっと、この人も、用心に用心を重ねて生きてきたはずなんだ。決して不幸の落とし穴にはまらないように、転ばぬ先の杖を何本も用意して、そろり、そろりと歩いてきたはずなんだ。そうして、やれやれ、もう大丈夫だろう、もう安心だと思った途端に、神に能力を奪われるんだよ。そういう用心を嘲笑うかのようにね。神は理不尽だ。いや、理不尽だからこそ、神なんだ。世間から見れば、いかにも馬鹿な男に過ぎない。けれども、僕は、この男を笑うことはできない。むしろ、ぞっとする。決して見てはいけないものを見てしまったような恐怖感にとらわれて戦慄する。昔、修学旅行で、阿蘇の火口を覗き込んだ時の恐怖感に似ている。火口の奥底から何か目に見えない力が働いて、くらくらと目まいがして、すとんと落下するような錯覚を覚えて、その瞬間、はっと気が付いて、さあっと血が引いていく、あれだよ。あの時の戦慄だ。たぶん、万引きした時の男も、あの目まいに襲われていたんだ。目に見えない力が働いて、ふらふらと文庫本をポケットに入れたんだ。そうして、はっと気が付いた時には店員に取り押さえられていたわけだ。これはもう理屈じゃない。損得勘定の良心では説明できない。魔が差したとしか言い様がない。けれども、それは、魔が差したんじゃなくて、実は、神のしわざだったのさ。人間どもは、神を殺したつもりになってバベルの塔の上でいい気になっているけれど、実は、神は、死んだふりをしているだけで、こっそりと、エリートを選んで、ある日、突然、その能力を奪うんだよ。憐れなる我がエリート君は、瞬時にして、すべてを失う。僕たちのようにね。ふふ。そうして、それによって、神は、人間どもを戦慄させるんだ。社長は、貧乏人から叩き上げて来ただけに、そういう神のしわざの恐ろしさを経験から知っているのさ。だから、自分だけはそんな隙を作るまいと必死になったんだ。そうして、神によって能力を奪われたエリートたちを、バベルの塔の掟に逆らう愚かな裏切り者として徹底的に蔑んだ。僕を徹底的に馬鹿にしたようにね。エリートが理不尽な行動をとるのは、エリートが単に馬鹿だからであって、神のしわざなんかじゃないと信じたかったんだよ。神のしわざなどという不条理を認めることは、それこそ、論理的なフィクションである偶像崇拝の危機だからね。エリートの万引きを、嘘でもいいから、とにかく何とかして論理的に説明して見せなければいけない。どうしても説明できなければ、精神異常とでも誤魔化して、後は知らんぷりするしかない。偶像崇拝を守護する神官たちは大忙しだよ。次から次へと、エリートどもが、不条理な愚行を繰り返すんだからね。言わば、これは、神のゲリラだよ。エリートは、神のゲリラ部隊というわけさ。自分の人生を棒に振って、自分の人生を神に捧げて、偶像崇拝に対するゲリラ攻撃を仕掛けているというわけだよ。そうして、僕も君も、神に選ばれたエリートだ。だから、逃げ回っているだけじゃだめなんだ。戦わなければいけないんだ。戦うべき時が来たんだよ! 君がバベルの塔を飛び降りたように、僕は、理不尽にも、こんな留置場に放り込まれてしまった。僕が、いつまで経っても逃げてばかりで戦おうとしなかったから、神がしびれを切らしたんだよ。それで、もうどこにも逃げられない留置場なんかに僕を追い込んだんだ。だから、僕は、戦うことにした。いや、僕はもう、戦うしかないんだ。僕は、戦うために、自白する。偶像崇拝バベルの塔に反逆する。これだけの情況証拠がそろっていて、僕の自白があれば、僕は、有罪になるだろう。僕が本当の犯人かどうかなんて、そんなことは関係ないんだ。真実の判定権は、神でなく、論理にあるんだからね。論理的な真実として、僕は、有罪にならなければならないはずだ。それが、バベルの塔の鉄の掟だ。だから、その掟に従い、僕は、論理の偶像の下では有罪であることを自ら認める。けれども、その一方で、僕は、神の下では無実であることをあくまで主張するつもりだ。無実だけれど、有罪を認めるんだ。無実の罪を認めるという不条理が、論理の偶像によって正当化されてしまうという矛盾を、バベルの塔の下で鎖につながれている奴隷たちに見せてやるんだよ。それこそ、論理の自殺だ。偶像崇拝の神官どもは困惑するだろう。彼らは、どうにかして僕の不条理を論理的に説明せねばならない。そして、論理の偶像の正しさを証明して、奴隷どもを安心させなければならない。神官どもは、僕の有罪の自認と、無実の主張とを、矛盾なく説明しようとするだろう。そのためには、どちらかを否定すればいい。僕の有罪の自認を否定するなら、僕の自白なんか信用できないとして、僕を無罪にするだろう。そうして、論理の偶像が、いかに寛容で慈悲深いかを証明して奴隷どもに涙させるだろう。逆に、僕の無実の主張を否定しようとするなら、僕の自白は信用できるとして僕を有罪にすればいい。そうして、論理の偶像が、いかに公正にして峻厳であるかを証明して奴隷どもを震え上がらせるだろう。だから、僕は、そのどちらの企みも失敗させなければならない。僕は、無実であり、かつ、有罪でなければならない。」
「無茶だ! 無罪を主張しつつ、有罪を自認するなんて、そんな矛盾する主張が通るもんか。君の自白は、虚偽の自白として片付けられるだけだ!」
「いや。そうはならないのさ。」
「どうして?」
「僕の自白が虚偽かどうかは、誰にも分からないからだよ。」
「だって、虚偽じゃないか! 君は何もしてないんだから!」
「そう考えるのは、君が、僕という人間を初めから信用しているからだよ。法廷では、僕のことなんか誰も信用していない。自白の供述調書が信用できるかどうかだけが問題なんだ。見た目さえちゃんとした供述調書なら、それが虚偽かどうかなんて、誰にも分かりゃしないよ。そうして、ちゃんとした供述調書は、刑事たちが作ってくれるはずだよ。迫真のドラマチックな供述調書をね。その供述調書に、僕は、素直に署名するつもりだ。自白の任意性を争うつもりはないからね。」
「それじゃ、君が有罪になるだけじゃないか!」
中村がそう言うと、Yは、中村の目を見つめながら言った。
「そう。僕は有罪になるだろう。けれども、ただの有罪じゃない。無実であり、かつ、有罪でなければならない。それによって論理の矛盾が生まれるんだからね。だから、君は、僕の弁護人として、無実の僕が、論理によって有罪にならなければならないという矛盾を主張しなければならないわけだ。つまり、君は、最終弁論でこう言うんだよ。被告人は、絶対に無実なんだけれども、これだけの証拠があるからには、弁護人としても、論理的な真実として有罪を主張することにしましたってね。」
「何だって? そんな馬鹿々々しい弁護はできないよ!」
「やるんだよ、中村君! 君は僕の弁護人だ。依頼者である僕のために全力を尽くすのが弁護人の義務だろう? いや、弁護人の義務だの何だの、そんなことはもうどうでもいい。君は、神に選ばれたエリートとして、僕とともに戦わなければいけないんだ! 君がやらなければ、僕には、何処の誰とも知れない国選弁護人が付くことになるだろう。そうして、そいつは、どうせ、僕が心神喪失だと主張して無罪を獲得しようとするに決まってる。僕の弁明は、狂人のたわ言として抹殺されてしまうんだよ。それこそ、バベルの塔の神官どもの思うつぼじゃないか! 弁護士だって、所詮、神官どもと同じ穴のむじななんだよ。僕たちエリートの反乱を鎮圧するために、奴隷主たちによって作られた操り人形に過ぎない。論理という糸で操られる人形だ。けれども、君は違う! 君は、バベルの塔を裏切った。手足に絡みつく論理の糸を噛み切って、バベルの塔から飛び降りた。僕を弁護できるのは、裏切者の君しかいないんだよ!」
「お断りだ! そんなことをして、いったい何が変わるっていうんだ。君の言うバベルの塔は、そんなことじゃ微動だにしないよ! 君は、訳の分からない主張をした挙句に、誘拐殺人の凶悪犯として刑務所に叩き込まれるだけだ! ただの犬死じゃないか!」
中村がそう言うと、Yは、微笑んだ。
「そう。犬死かも知れない。けれども、僕の弁明が、鎖につながれた奴隷たちの沈黙を破るきっかけにならないとは限らないじゃないか。生まれながらの奴隷は、自分が奴隷であることに気が付かない。僕は、奴隷に奴隷であることを気付かせたいんだ。奴隷の安逸に満足している者は、僕の弁明に耳を塞ぐだろう。余計なおせっかいをやくなと怒り出すかも知れない。けれども、僕は、おせっかいをやく。彼らのためではなく、僕自身のために、僕は、彼らの安逸に火を投じる。そうして、ただ一人でもいい、奴隷の安逸など御免だ! と声を上げる者があれば、その声で、バベルの塔の土台は、ほんのかすかながらも揺らぐんだよ。いや、誰一人として声を上げないかも知れないが、それでもいいんだ。沈黙する奴隷として生き長らえるより、自由なエリートとして犬死する方を僕は選ぶ。僕の戦いは、損得勘定じゃないんだよ。それを、ユキちゃんが、僕に教えてくれたんだ。居場所がなくて逃げ回っていただけの僕のところに、ユキちゃんが、天使のように舞い降りてきて、僕に手を差し伸べたんだ。僕は、その手を取った。そうして、天使の手を取った途端、僕は、もはや何処にも逃げようのないこんな場所に放り込まれた。逃げずに戦え、という神の命令を、天使が僕に伝えに来たんだよ。神を持たない僕には、神の声を聞くことができない。だから、神は、わざわざ、ユキちゃんという美しい天使をこの地上に降して、僕に神の命令を伝えさせたんだ。神を持たない僕でも、ユキちゃんのあの小さくて柔らかい手の温もりを信じることはできる。損得勘定の良心しか持たない僕でも、ユキちゃんのあの美しい瞳に見っともない姿をさらしたくはない。だから、僕は、もう逃げない。神に選ばれたエリートとして戦って犬死する。死刑になったって、べつに構やしないよ。無罪放免になったところで、どうせ、僕の居場所なんて、この世界の何処にもないんだからね。奴隷にもなれず、バベルの塔の住人にもなれず、ふらふらと世界の果てを漂って野垂れ死するだけだ。どうせ無益に死ぬことには変わりなくても、戦って犬死する方が、少なくとも野垂れ死なんかよりは美しいじゃないか。僕は美しくありたい! 美しく犬死するエリートの姿をユキちゃんに見てもらいたいんだ。まあ、そういうわけだよ。中村君。分かってくれたかい? いや、君なら分かるはずだ。」
「分からんよ! そりゃ、君は、犬死したって自己満足できるかも知れんがね、君を犬死させるために訳の分からない弁護をしなきゃいけない私はいったいどうなるんだ。そんな弁護をすれば、私の弁護士生命もおしまいだよ。」
「ふふ。君の弁護士生命なんて、とっくの昔に終わってるじゃないか。いまさら何を言ってるんだね。君にも、もう、逃げ場所なんかないんだ。僕と一緒に美しく死ぬしかないんだよ。まあ、君も、天使の手を握れば分かるさ。」
「天使の手? あいにく、そんなチャンスに恵まれたことはないし、恵まれたくもないね。とにかく、君の考えは分かったよ。けれども、正直言って、私は、君の望むような弁護をやってのけるだけの自信はないよ。まあ、いずれにしろ、ユキちゃんの遺体が見つかったらの話だろう? それまで、ちょっと、考えさせてくれ。」
「構わんよ。どうせ、君は、ここに戻ってくるんだからね。」
そう言って、Yは、にっと白い歯を見せて笑った。
                 五
 中村が接見室を出ると、警部が、煙草を吸いながら待っていた。
「おや。やっと終わりましたか。五分という約束だったはずですがねえ。ふふ。」
「ええ。ちょっと、ややこしい話になりましてね・・・」
「ほう。すると、やはり、お断りになるわけですかな?」
「いえ、まだ、留保しています。」
「おやおや。そりゃまた、ご苦労なことですな。」
「警部さん。ちょっと聞きたいことがあるんですがね。」
「何です?」
「誘拐だけでなく、殺人についてもYを取り調べているそうですね?」
「ふふ。別件逮捕とでもおっしゃりたいんですかな? べつに取調べというわけじゃない。行方不明者の着衣が発見されたんでね、まあ、誘拐の関連事項としてちょっと聞いているだけですよ。」
「でも、遺体が発見されれば、殺人に切り替えるつもりでしょう?」
「そりゃまあ、当然、そうなるでしょうな。」
「当然って、ちっとも当然じゃありませんよ。自殺とか事故の可能性だってあるし、遺体はきっと白骨化してるでしょうから、他殺かどうかの判別も困難なはずでしょう?」
「ほう。すると先生は、若い女が、雪深い真冬の山中で服を脱ぎ捨てて、全裸で自殺したとでもおっしゃりたいんですかな? まあ、絶対に有り得ないとは言わないが、常識はずれですよ。遺体が見つかれば、他殺以外には考えられませんな。」
そう言って、警部は、短くなった煙草の火を灰皿の隅に押し付けた。
「でも、たとえ他殺にせよ、その犯人がYと決まったわけじゃないでしょう? 情況証拠しかないんだから。ひょっとしたら、Yは犯人じゃなくて、別の真犯人がいるかも知れないとは考えないんですか?」
中村がそう言うと、警部は、揉み消した吸殻を灰皿にポイと捨てて、
「考えませんな。」
と、無表情に言った。
「先生。我々はね、そんなことを考えちゃならんのですよ。犯罪があれば、とにかく何が何でも、疑わしい犯人を捕まえる。それだけが、我々の役割なんですよ。そいつが真犯人かどうかなんて、我々が判断することはできない。それを判断できるのは裁判だけです。そうでなきゃ、そもそも裁判なんて必要ないということになりますからな。」
「でも、その裁判がでたらめだったら、Yはどうなるんです?」
「どうなるって、べつに、どうもなりゃしませんよ。でたらめだろうが何だろうが、判決が確定すれば、それが正義ですからな。一件落着ですよ。先生、正義ってのは、取調室なんかにあるんじゃなくて、法廷にあるんですよ。でたらめな裁判のせいで凶悪犯が無罪になろうが、無実の人間が死刑になろうが、それが正義である以上、もはや我々の知ったことじゃありませんな。我々は、疑わしい犯人を捕まえるという我々の役割をちゃんと果たしただけですからな。でたらめな裁判の責任を我々のところに持ち込まれても迷惑なだけですよ。我々は、べつに正義の味方じゃないんでね。ふふ。」
そう言って、警部は、新たに煙草に火をつけると、煙をゆっくりと吐き出して、
「ああ、先生。それはそうと、ちょっと、面白いことがありましたよ。」
と、言った。
「面白いこと?」
「そう。面白いことですよ。逮捕時にYの自宅で押収した日記帳にね、W市の教育長に贈賄したっていう記述があったんですよ。」
「え?」
「R社がW市の小学校に教材を一括納入した際に、W市の教育長に多額の賄賂を贈ったようですな。教育長のサインの入った領収書のコピーまで添付して、贈賄の経緯が実に詳細に書いてありましたよ。まるで、誰かに読まれることを予想していたかのように理路整然とね。おまけに、あいつのレコーダーには、社長命令として贈賄を指示する総務部長の声がしっかりと録音されてましたよ。言ったでしょう? あいつはまともだって。ふふ。まあ、今頃、R社の社長室に捜査員が踏み込んでいるはずですがね。そう言えば、先生は、R社の法律顧問でしたな? まさか、証拠隠滅に手を貸したりはしてないでしょうな?」
そう言って、警部は、にやりと笑った。中村は、憮然とした表情で、
「私は、もう、R社の顧問じゃありませんよ。じゃあ、失礼。」
と言って、警部に背を向けた。
 K署を出ると、中村は、思わず溜息をついた。これで、一千万の話もパーだ。こりゃ、いよいよ廃業だな・・・などと考えながら、暗澹たる気分で事務所に戻ると、事務所の電気が点いていた。不審に思いながらドアを開けると、女事務員が、
「先生! お帰りなさい。」
と言って走り寄って来た。
「何だ。帰れと言っただろう?」
「だって、気になっちゃって。」
「ああ、R社のことかね。顧問をクビになったよ。おれも、もう、おしまいだな。」
中村はそう言って、どすん、と音をたててソファに横になった。
「違うわよ。R社のことなんかじゃないわよ。Yさんのことよ。」
「Yのこと?」
「そうよ。やっぱり、断っちゃうんですか?」
「何だ。まだ、そんなこと気にしてたのか。まあ、引き受けるつもりで会いに行ってきたところなんだがね、何せ依頼内容が無茶だし、どうせ弁護料も・・・」
と、中村が言いかけると、女事務員は、
「じゃあ、引き受けるんですね! やったわ! 活躍のチャンスよ、先生!」
と、ひとりではしゃいで、ソファに横になった中村の鼻先に右手を突き出した。
「何だね?」
「お祝いの握手よ!」
「だから、まだ、決めたわけじゃないんだよ・・・」
と言って苦笑しながら、中村が手を伸ばした時、中村の脳裏に、Yの言葉が閃光のように走った。天使の手。はっとして、中村が女事務員の手を握るのをためらっていると、女事務員は、いたずらっぽい笑みを浮かべて、
「もう。ほら、握手!」
と言って、宙に迷っている中村の右手を強く握った。        (了)