ハッピードリームランド

              一 勇者

 矢垣一郎は後悔していた。きっと春の陽気のせいだ。こんなゲームソフトに三千円も払って。ばからしいことをした・・・

 それは、会社帰りに駅前のゲームソフト専門店で買ったものだった。

  店長おすすめ品!

  仕事の疲れも癒されます

  夢と希望の冒険ロマン

そんなありふれた宣伝文句に、ついふらふらと手を出した。癒されたかったのである。が、アパートに戻って、たちまち後悔した。何で、こんなものを欲しくなったのだろう。狐にばかされた気分だな。まったく、無駄な買い物をしたものだ。

 矢垣は、ぶつぶつ言いながら、ソフトをゲーム機にセットした。ゲーム機の内蔵スピーカーからラッパが鳴りわたり、画面上にはサブタイトルが流れる。お決まりのありふれたオープニングだ。

  ハッピードリームランドは、天と地の境にあり、

  天界の門を守護する国である・・・

「天界の門ねえ・・・」

  そこへ、天界から追放された大魔王メフィストが、

  天界の門の鍵を渡すよう要求してきた。

  メフィストの要求を拒絶したハッピードリームランドは、

  メフィストの呪いにより、

  百年間の眠りにつかなければならなくなった・・・

「百年間の眠り、か。やれやれ、こりゃ、ほんとに失敗したなあ。」

 サブタイトルが終わると、画面上に、仙人のような老人が現れた。これまた、お決まりのパターン。画面上で、仙人が語りはじめる。

  おお 勇者よ

  やっと来てくれたか

  大魔王メフィストの呪いを解き

  ハッピードリームランドの

  エンゼル姫を救うのじゃ

  天界の門の鍵は

  エンゼル姫が守っている

「ぷっ。エンゼル姫?ずいぶん安易なネーミングだなあ。で、おれに、どうしろっていうわけ?」

矢垣が画面上の「次にすすむ」のボタンをクリックすると、

  大魔王の呪いの謎だ

  勇者よ 解くがいい

  数字の三とは 何だ

続いて、画面上にアルファベットが表示される。

  アルファベットを選択して、答えをローマ字入力してください。

  制限時間、三分です。

「え、なに?数字の三とは何だとは何だ?意味が分からん。」

カチカチと制限時間がカウントダウンされる。

  早く答えるのじゃ

  時間がないぞ

仙人が杖をふりふり、答えをせかす。

「だって、意味が分からんじゃないか!」

矢垣はあわてて「ヒント」のボタンをクリックした。

仙人は、いかにも情けない、といった表情になって、 

  やれやれ 

  では ヒントじゃ

  ヒントその一 牢獄

「は?」

  ヒントその二 言葉

「ことば?」

  やれやれ

  まだ 分からんのか

  勇者よ 

  おまえは 馬鹿じゃな

「むっ。何言いやがる。全然ヒントになってないじゃないか!」

  もうよい 答えじゃ

  数字の三とは 人間の罪じゃ

  罪は天地人の三元の間にあり

  罪を犯すのも贖うのも言葉じゃ

「・・・何だこりゃ?」

  次の謎だ

  勇者よ 解くがいい

  数字の四とは 何だ

「四?四って何だ。三が人間の罪なら、四は、ええと・・・」

  勇者よ

  もうよい 答えじゃ

「いや、ちょっと待てよ。考えるから。四は、三の次だよな。三が人間の罪か。罪と来れば罰だろう。罪と罰ドストエフスキイだ。答えは、罰!どうだ、当たりだろう。」

  勇者よ 

  おまえは 馬鹿じゃな

「むむっ!じゃあ、何だよ。」

  もうよい 答えじゃ

  数字の四とは 天界の門じゃ

  人間の罪の次に来たるもの

  すなわち神の国

神の国?何だこりゃ?まさか新興宗教の勧誘ソフトじゃないだろうな。馬鹿々々しい。何が、仕事の疲れも癒されます、だよ。ちっとも癒されないぞ。むかっ腹が立つだけじゃないか。これが店長おすすめ?まるで詐欺だな。」

  勇者よ

「何だよ。このくそじじい。」

  おまえは 

  呪いの謎を解けなかった

  罰として

  地獄の怪物と

  戦わねばならぬ

 

             二 地獄門

 荒涼漠々たる原野。黒金の甲冑に身を固め、腰には勇者の剣を佩き、矢垣は途方に暮れていた。

「どこだ、ここは?何にもないじゃないか。どうなってるんだ。夢でも見てるのか?さっきまでゲームをしていたような気がするんだが・・・それにしても、この鎧の重いこと!やれやれだ。おーい。誰かいませんかあ。おーい。」

「はあい。」

と、傍らから唐突に現れたのは、見たところ十五、六歳の美しい少女。少女はフードをかぶり、革ベルトを巻いた腰には短剣を帯びている。

「わっ!何だおまえは!」

「何だはないでしょう。いま、あんたが呼んだじゃないの。あたしはマープル。あんたの頼りになる従者よ。ゲームの説明書に書いてあったでしょう?」

「ゲームの説明書?すると、ここは、ゲームの世界なのか?やっぱり、夢を見ているんだな。こりゃ、夢だ。ゲームをしながら居眠りでもしているというわけだ。そういうことか。ふふん、なるほどね。」

「ちょっと、何が、なるほどね、よ。聞いてるの?私はマープル。あんたの・・・」

「はいはい。分かったよ。マープルね。ふうん、夢にしちゃ、ずいぶん、リアルな夢だな。まあ、いいや。おいこら、マープル。僕はこのゲームはつまらないのだ。つまり、早く、こんな夢とはおさらばしたいわけだよ。分かる?そういうわけだから、さようなら。僕は目を覚まします。明日の仕事の準備もあるしね。こう見えても忙しいんだ。」

「あらそう。じゃ、そうしなさいよ。」

「そうしますとも。ええと、つまり、目を覚ましたいわけでね、さあ、目を覚ませ・・・目を覚ませよ・・・おい、居眠りしている僕、目を覚ませ!」

「ぷっ。あんた、何やってるの?」

「うるさい。邪魔するな。ええと、つまり・・・どうやったら目が覚めるんだ?おいこら、マープル、僕は目を覚ましたいのだ。」

「だから?」

「目を覚まさせろ。」

「もう。あんた、さっきから、何、わけのわかんないこと言ってるのよ。ここはゲームの世界。そして、あんたは、ハッピードリームランドを救う勇者。あたりまえじゃないの。」

「いや、ちがうんだ。そうじゃないんだってば。僕はね、池袋の会社に勤める安月給のサラリーマンで、帰り道にゲームを買って、居眠りしてだね・・・」

「イケブクロ?どこよ、それ?」

「池袋だよ!東京の池袋!」

「あのねえ、あんた、夢でも見てたんじゃないの?寝ぼけてるの?そりゃ、勇者の役目は辛いでしょうけどね、現実から逃げちゃだめよ。人生ってのは・・・」

「うるさい!何が人生だ、小娘のくせしやがって。これは夢だ。夢なんだ!」

「まったく、いつまで寝ぼけてるのかしら。この世界が夢ですって?じゃあ、早く目を覚ましなさいよ。目を覚まして、その、何だっけ、トーキョーのイケブクロとかいう現実の世界にお帰りになれば?ありもしない現実の世界にね。」

「・・・」

「ほら、ごらんなさい。できやしないじゃないの。何がトーキョーのイケブクロよ。馬鹿々々しい。あんたは、ハッピードリームランドを救う勇者なのよ。それが、あんたの人生なのよ。そんな人生は嫌だなんて駄々こねても仕方ないじゃないの。これが現実なんだから。」

「これが現実?」

「そうよ。もう!まだ分かんないの?」

と、マープルが、いきなり矢垣の頬をひっぱたいた。 

「いてっ!何するんだ!」

「目を覚ましてやったのよ。さあ、ここはどこですか?イケブクロですか?」

「・・・」

「やっと分かったみたいね。あんたの生きている世界はここなのよ。ここから逃げたいなら自殺でもしなきゃ仕方ないのよ。でも人生は一度きり。がんばって生きていかなきゃ。そうでしょう?」

「し、しかし・・・」

「やれやれ。手のかかる勇者だこと。とにかく、自己紹介させなさいよ。あたしはマープル。あんたの頼りになる従者よ。あんたの怪物退治のお手伝いをするわ。まあ、地獄界の案内役といったところかしら。」

「・・・頼りになる従者?何を言ってるんだ。おまえは、ただの小娘じゃないか。」

「あら、そうよ。だって、その方がいいでしょう?あんたの好みにあわせたつもりなんだけど。それとも、筋骨隆々たる毛むくじゃらの大男の方がうれしいの?お望みとあれば、いますぐ変身しますわよ。変身オプションはいくらでもあるんだから。」

「ま、待て。分かった。娘姿の方がいい。あたりまえだ。ええと・・・それで?」

「それでって、何よ。あたしは、あんたの従者だって言ってるじゃないの。あれしろ、これしろと、あたしに命令すりゃいいのよ。命令しなきゃ、何もしてあげないわよ。」

「そうか。よし。では、マープルよ。ここはどこだ!」

「あら。ずいぶん、威張るのねえ。お殿様みたいじゃないの。」

「だって、おまえは僕の家来だろう。」

「そりゃ、家来ですけどね、あんただって、あたしが案内してあげなきゃ何にもできないんだから、もう少し遠慮したらどうなのよ。」

「そうか。じゃあ、マープルさん。ここはどこですか?」

「見たとおりの荒野よ。べつに地名なんてないわ。」

「おい。君も、ずいぶんな態度だな。ここが荒野だってことくらいは僕にだって分かってるよ。これからどうすればいいかって聞いてるんだよ!」

「あらあら。怒っちゃってさ。どこですかって言うから、そのとおりに答えてあげたのに。これから、あんたは、地獄の門を開いて、三匹の地獄の怪物を倒すのよ。」

「三匹の怪物?」

「そうよ。三匹いるのよ。たいへんね。がんばらなくっちゃ。」

「で、その三匹の怪物とやらは、どういう化物なんだ。」

「そんなこと、地獄門を開けなきゃ分からないわよ。とにかく、地獄門に行くわよ。ついて来なさい!」

「はい。」

 行けども行けども荒野は続く。この鎧の重さはどうにかならんのか。背骨が折れそうだ。ああ、足が痛い。豆だらけだ。手もだるい。のどもカラカラだ。もう、泣きそうだ。

「おい。マープル。」

「何よ。」

「疲れた。へとへとだ。」

「だから?」

「休もう。」

「もう。しっかりしなさいよ。あんた、勇者なんでしょう?」 

「勇者なんかじゃない。」

「勇者なのよ!まだ寝ぼけてんの?まったく、情けないわね。それじゃ、あたしが、ドラゴンに変身するから、あたしの背中に乗りなさいよ。地獄門まで空を飛んで行くから。」

「ドラゴン?」

「そうよ。変身オプションにあるのよ。変身しろって命じればいいのよ。」

「へえ。じゃあ、マープル、ドラゴンになれ!」

娘姿のマープルはたちまち、身の丈三メートルを超すような竜の姿となった。竜は、象をも頭から噛み砕きそうな牙がずらりと並んだ口から、ぼうっと紅蓮の火炎を吐くと、背中の翼をバサリバサリとはためかせて、

「さあ。勇者よ。我が背中に乗るがよい。」

矢垣は驚愕の余り腰が抜ける思いで、

「あ、あの・・・」

「なんだ。早く背中に乗らないか。もたもたするな!」

「ひゃあ。す、すいません。あ、あなたは、マ、マープル、さん、でしょう?」

竜は、口から炎をあふれさせつつ、

「いかにも!」

「あの、む、娘のマープルに戻ってください・・・」

竜は、その赤い眼で、ぎろり、と矢垣を睨みつけると、

「娘の方がいいのか?」

「は、はい。」

たちまち竜の姿は消えて、娘姿のマープルが大笑いしている。

 ようやく地獄門にたどりつくと、矢垣は息も絶え々々に、

「ああ、やっと着いた!」

その場にばったりと倒れ込んだ。

「ほらほら。寝てる場合じゃないわよ。門を開けなきゃ。」

「おまえが開けてくれ。もう動けない。くたくただ。」

「あたしが開けてどうするのよ。あんたが開けなきゃ意味ないのよ。もう!世話が焼けるわね。」

マープルに引きずられて、矢垣は、その黒々とそびえる巨大な門の前によろよろと立ち上がった。

「おーい。開けろ!おーい!」

「ぷっ。馬鹿ね。開けろってわめいたって開きゃしないわよ。あんたが自分で押し開けるのよ!」

「ああ、そうなの。」

矢垣は門扉に両手を突くと、

「よいしょ!」

びくともせぬ。

「えい!うん!だめだ。開かん。おい、マープル。おまえもぼけっと見てないで手伝えよ。」

「はいはい。さあ、行くわよ。よいしょ!」

「よいしょ!」

「えーい!」

「ううむ!」

「ふう。だめね。」

「だめだ。あきらめよう。」

「もう。あんた、なんでそう、情けないことばっかり言うのよ。」

「だって、開かないじゃないか。べつに好きで地獄に行きたいわけじゃないんだ。開かなきゃ開かなくてけっこうですよ。ふふん。」

「あ。そうか。なるほど。」

「何だよ。」

「あんた、いま、言ったじゃない。好きで地獄に行きたいわけじゃないって。つまり、この門は、地獄に落ちる者だけが通れるのよ。」

「だから?」

「もう。鈍いわね!要するに、あんたが地獄に落ちるようなことをすればいいのよ。」

「どこで?」

「ここでよ!」

「何を?」

「知らないわよ!何か、地獄に落ちるような悪いことをすればいいのよ!さあ、早く、何か悪いことをしなさい!」

「そんな、急に言われても。何をしろって言うんだよ。ここには、おまえと僕しかいないのに。まさか、おまえを・・・」

「あら。何よ、その目は。いやらしいわね。いま、何を考えたのよ。正直に言いなさいよ。」

「いや、べつに・・・」

「うそばっかり。最低!地獄に落ちるわよ!あ!今よ、いま!早く、門を押して!」

あわてて矢垣が門を押すと、扉はすうっと音もなく開いた。

「やっぱり!あんた、地獄に落ちるようなことを想像してたのね!最低!」

「いや、その、まあ、いいじゃないか。門が開いたんだから。で、これからどうする。」

「これからが、いよいよ怪物退治じゃないの。馬鹿。」

「馬鹿は余計だ。で、その怪物とやらはどこにいるんだ?」

「さあ。そのうち出て来るわよ。」

 地獄門を過ぎて歩くことしばし、大きな街にたどり着いた。石畳の道路を何台もの馬車が軽快に走り、物売りたちが店を連ねる市場は人々でにぎわっている。

「何だい、こりゃ。ふつうの街じゃないか。これが地獄?」

「そう。地獄。あの物売りたちも、あの恋人たちも、みんな、地獄の亡者よ。あんたもね!」

マープルが、きっと睨んだ。

「まだ怒ってるのか。悪かったよ。いい加減、機嫌直してくれよ。あ、ほら、ケーキ屋だよ。おいしそうだねえ。ケーキ買ってあげようか?」

と、その時、

「おお!これはこれは、誉れ高き勇者ではないですか!」

驚いて矢垣が振り向くと、福々しく肥満した立派な身なりの中年男が、くちひげをひねりながら満面の笑みを浮かべている。

「ええと、すみません、どなたでしたっけ?」

「おっほほほ。これは申し遅れました。誉れ高き勇者。わたしは、この街の市長のカイザルと申します。よくぞおいで下さいました。市民を代表して心から歓迎します。」

「あ。それはどうも、ご丁寧に。勇者の矢垣です。あははは。」

市長自らの歓迎に、矢垣はすっかり上機嫌であった。が、その傍らで、マープルが声なくつぶやいた。

「おでましね。第一の怪物。」

 

              三 市長

 その夜、市長の宮殿では、奢侈を極めた勇者歓迎晩餐会が盛大に催された。市の有力者たちはことごとく招かれ、口々に勇者を讃えつつ美酒に酔い、山海の珍味を飽食した。

「やあ。愉快ですな。誉れ高き勇者。わっははは。」

「やあ市長。ほんとうに。勇者の矢垣です。あははは。」

「おや。勇者。あの可愛らしいご家来はどちらへ?」

「ああ、あの小娘ですか。あれは、ほれ、あそこに。」

 マープルは、会場の隅で、ぶっとふくれ面をしていた。

「見っともない。べろべろに酔っ払って!相手は怪物だって注意してあげたのに!」

 市長は、マープルの様子をちらりと見ると、

「何か、機嫌が悪そうですな?」

「いやいや。まだまだ子どもですからねえ。お酒の香りに酔っ払ったんでしょう。あっははは。」

「ふうむ。そうですか。酔っているようにも見えないが・・・いやまあ、それはともかく、勇者、実は、ちょっと、折り入って相談があるんですがねえ。」

「ほう。この勇者に相談とは?」

「なあに、決して勇者のご迷惑になるような話じゃありません。きっと喜んでいただけると思いますよ。時に勇者、お酒はお好きですかな?」

「もちろん。」

「では、その、あちらの方は?」

市長は、舞い踊る美女たちに視線を送った。

「あっははは。そりゃ、もちろん!」

「それを伺って安心しました。さすがは勇者。器が大きくていらっしゃる!」

「いやいや、それほどでも。勇者ですから。あっははは。で、それが何か?」

「ええ、まあ、そこで、ご相談なんですがね、そういう人間としての楽しみを、勇者には思う存分堪能していただきたいと思いましてね。」

「いやもう、既に十分に堪能してますよ。」

「いやいや。そうではなく、これからも、末永く、永遠に、ということですよ。」

「永遠に?」

「そうです。今日も、明日も、明後日も、ずっと、毎日々々、この宮殿で、美酒と美女とを思う存分に堪能していただきたいと思いましてねえ。もし、勇者がこの街の守護者としてこの宮殿にとどまることを私と契約してくだされば、勇者に永遠の逸楽をご提供させていただきますが、いかがですかな?」

「ははは。そりゃあ、夢のようなお話ですねえ。しかし、毎日々々じゃあ、さすがに、飽きるでしょうなあ。」

「飽きる?美酒と美女に飽きる?この美酒に?あの美女たちに?まさか!勇者。わたしはね、これまで毎日毎晩数え切れないほど逸楽の夜を過ごしてきましたがね、ただの一度も飽きたことなどありませんよ。まあ、選りすぐりの美女たちを毎晩何人も相手にしていると、さすがにくたびれることはありますがねえ。」

そう言って、市長は、にたりと笑った。

「それはまた、うらやまし・・・あ、いや、しかし、永遠にと言ってもねえ、年老いてからは、さすがに、そういう楽しみは・・・」

「おやおや。さすがの勇者も年齢には勝てませぬかな?おっほほほ。でも、ご心配には及びませんよ。たとえ肉体が老いても、快楽を楽しみ続ける秘術があるのですよ。」

「秘術?」

「そうです。秘術と言っても、べつに、魔法なんかじゃありませんよ。少しばかり、医学的な処置を施すだけです。人間の体というのは、実に精巧にできてましてね、それだけで、永遠の快楽を楽しめるんです。」

「医学的な処置というと?」

「うふふ。たいしたことじゃありません。まあ、ドリンク剤を飲むようなもんですよ。それに、そんなことは、勇者が年老いてどうしても快楽を楽しめなくなってから考えればいいことじゃないですか。いまから何十年も先のことですよ。」

「そりゃまあ、そうですが・・・」

「さあ。勇者。どうですかな。私と契約してくださいますかな。永遠に、美酒と美女を堪能したいとは思いませんか。うふふふ。」

「永遠に・・・」

「そう。」

「美酒と美女を・・・」

「そうです。」

「た、堪能!」

「その通り!いや、ご立派!さすがは勇者。人として生まれたからには、逸楽を存分にむさぼらずして何の甲斐がありましょう。そうでしょう、勇者よ!」

「そ、そうだとも!」

「えらい!これで話はまとまりましたな。それでは、さっそく明日にでも、契約調印式をやりましょう。おやおや、勇者を迎える宴も、もはや乱痴気騒ぎになってしまった。どれ、そろそろお開きとしよう。勇者もお疲れでしょう。さっそく、あの者たちに、お休みのお世話をさせますから。」

そう言って市長が合図を送ると、舞い踊っていた美女たちがいそいそと寄り集まってきた。

「おまえたちに誉れ高き勇者のお世話を命じる。たっぷりとお世話をして差し上げるようにな。たっぷりとな。」

美女たちに手を取られてふらふらと立ち上がる矢垣に、市長は、にたりと笑いかけた。

「では、勇者。ご存分に。」

 美女たちに手を引かれながら、ふかふかの絨緞が敷き詰められた廊下を雲を踏むような心地で酔歩を運んでいくと、やがて大きな扉が開かれた。磨き上げられた大理石の床がつやつやと照り映えるその部屋の中心には、天蓋付きの豪華なベッドが据えられている。

 矢垣は、ベッドに倒れ込むように寝転んだ。雲の中に体が浮いているような心地よさだ。と、そのうち、何本もの細く嫋やかな腕が伸びてきて、矢垣の埃まみれの鎧やら、汗だらけの下着が一枚一枚はぎとられていく。

「ああ。いい気分だ。なるほど、飽きるわけがない・・・」

矢垣は半分眠りながら、

「あのねえ、お風呂に入りたいんだよねえ・・・」

が、美女たちの返事はない。

「ねえ、君たち、お風呂・・・」

やはり、返事はない。矢垣は、閉じかけた酔眼をぼんやりと開けた。

「わあ!」

目の前に立っているのは冷然たる表情のマープルで、

「この馬鹿!」

「な、なんだ、おまえ!」

「さっさと鎧を着けなさい!」

「び、美女は?」

「丁重にお引取り願いました。」

「なんで!」

「なんでですって?カイザルは怪物だって言ったでしょう!それをまあ、勇者々々っておだてられて、べろべろに酔っ払った揚句に、あろうことか色仕掛けなんかに引っ掛かって、見っともないったらないわよ!最低!」

「いや、その、僕はただ、美女の美しさを鑑賞したかっただけで、つまり美術的な・・・」

「お黙んなさい。馬鹿。あんた、あの美女たちが何か分かってるの?地獄の亡者よ!」

「だって、僕たちだって、亡者じゃないか。」

「僕たちって言わないでよ。亡者はあんただけよ。あたしは、しぶしぶついてきてあげてるだけなんだから。やれやれ。どうにもお馬鹿さんだから教えてあげるけど、あんたが美女だと思ってたあの亡者たちの本当の姿はこれよ!」

そう言って、マープルは、クロゼットの扉を開けた。そこには、肉が腐り落ち半ば白骨化した憐れな肉体をよじらせる数匹の異形の生き物たちがうごめいていた。

「これは・・・」

「美女よ。一緒にお風呂に入る?」

「可哀相に。ひどい姿だ・・・」

「そう。この亡者たちは、永遠の若さと美しさを手に入れたくて、カイザルに魂を売ったのよ。けれども、本当の姿はこれよ。この亡者たちは、自分たちが若く美しいままだと思い込まされているのよ。」

「思い込まされてる?」

「そうよ。いらっしゃい。からくりを見せてあげるわ。ほら、早く鎧を着けて!」

 マープルは、矢垣を寝室から連れ出すと、宮殿の医務室の扉の前に来た。

「何だ?医務室?」

「そうよ。その扉を開けて。」

矢垣が医務室の扉を開けると、ランプの薄暗い明かりの下で、大きな水甕が無数に並んでいるのが見える。

「何だ?」

「中に入って、よく見なさいよ。あの水甕の中にあるのは何よ。」

矢垣は医務室に入って、水甕をのぞきこんだ。

「わっ!これは、脳みそじゃないか。脳みそが水甕の中に浮いてる。」

「そう。カイザルに魂を売った亡者たちの脳みそよ。あの美女たちの脳みそも、その中にあるはずよ。脳みそに、電線がたくさんつないであるでしょう?その電線は、隣の部屋の大きなコンピュータにつながってるのよ。カイザルが、そのコンピュータにデータを入力すれば、憐れな脳みそたちは、ありもしない世界の幻を見るというわけね。あの美女たちも、その水甕の中で、永遠の若さと美しさの夢を見続けているのよ。本当の体はもう、腐り果てて、カイザルの操り人形にされているだけなのに。」

「カイザルめ。これが、医学的処置というわけか。許せぬ!行くぞ、マープル!」

「あら。はじめて勇者らしいことを言ったじゃない。」

 剣を手に、矢垣は市長室に突進した。

「カイザル!よくも可哀相な亡者たちを苦しめ辱めたな。この勇者が膺懲の鉄槌を下してくれる!」

「おや。勇者よ。どうなさいました?」

カイザルは椅子から悠然と立ち上がると、にやにやしながら矢垣の方へ歩いてくる。

「む。カイザル!覚悟しろ!やあっ!」

矢垣が剣で斬りつけると、剣は、カイザルの体をすっと通り抜けた。

「あ。これは幻じゃないか!カイザル、出て来い!」

幻のカイザルは、葉巻をくゆらせながら、

「あっははは、出て来るわけにはいきませんねえ。その途端にばっさり斬られちゃかなわんからねえ。」

「卑怯な!」

「ほほう。卑怯ですか?卑怯でけっこう。ちっともかまいませんな。わたしは勇者じゃないからねえ。ふふふ。それより、勇者よ、ゆっくり話し合った方がよさそうですな。どうやら、何か、大きな勘違いをしておいでのようだ。」

「勘違いなどしておらん。この怪物め!きさまが魂をむさぼる亡者たちの無念を思い知らせてやるから覚悟しろ。」

「はてさて。勇者ともあろうお方が奇怪なことを仰せだわ。わたしが亡者たちを苦しめていると?馬鹿々々しい。あの亡者どもは、永遠の若さと美貌を手にしたくて、自ら望んでわたしに魂を売ったのだ。わたしに魂をむさぼられながら喜んでいるのですよ。」

「黙れ!幻の喜びを信じ込ませているだけじゃないか!」

「幻?おっほほほ。いかにも、幻ですよ。だから何だっていうんです?幻であっても、あの亡者どもにとっては現実の喜びなのだ。いいですかな、勇者よ。世界など、所詮、脳の生み出す映像に過ぎないのですよ。感覚器から神経を介して伝わってくる電気信号を脳が解像しているだけのことだ。まあ、テレビと同じですよ。それも実に高性能なテレビですよ。何せ、画像や音だけでなく、味も臭いも肌触りまでも生み出すんですからね。人間というのは、まったく、たいした機械だ。電気信号さえ与えておけば、どんな世界でも生み出せる。感情も、ほんのちょっと、合成ホルモンを脳に与えればいいだけのことだ。永遠の快楽が欲しいなら、培養液に脳髄だけを浸して、そこにプログラムされた悦楽の電気信号と少量の快楽ホルモンを送り続ければいい。もっとも、文字どおり永遠に、というわけにはいきませんがね。脳髄そのものが死ねばおしまいですからね。けれども、自分が死んだかどうかなんて脳みそ自身にはどうせ分かりゃしませんからね。死んだと気付いたときには、もう自分は存在していないんだから、気付きようがないわけだ。おかげで、詐欺で訴えられることもないというわけですよ。おわかりかな、勇者よ。水甕の中の脳髄にとっては、幻と現実の区別など無意味なんですよ。現実と信じていることが、実は電気信号の幻に過ぎなかったとしても、そのことに気が付くことはない。確かなのは、脳髄が生み出す目の前の世界だけだ。それならば、幻であれ何であれ目の前の逸楽を大いに楽しもうではないか。誰しも、楽しい夢なら永遠に覚めないでほしいと願うだろう。どうだ、勇者よ。わたしにその魂を売れ。全世界の支配者になる幻を永遠に見続けさせてやろう。世界中のあらゆる美女を堪能し、あらゆる美酒美食を満喫したいとは思わぬか。」

「欲望の奴隷にはならぬ!」

「わっははは。その通り!欲望の奴隷だ。が、それのどこが悪い?なぜ、欲望を否定せねばならぬ。勇者よ。人の幸せとはいったい何だ。美しき恋愛にせよ、慈悲深き博愛にせよ、およそ人の願う幸せとは、所詮、おのれの欲望を満たすことに他ならぬ。もし世界中の人間がわたしに魂を売るというなら、わたしは全ての人間に逸楽の幻を永遠に見せてやることができるぞ。金が欲しいなら世界中の金銀宝石をくれてやる。好色な男には世界中の美女をはべらせてやる。清純な乙女には草花の香りにつつまれたおとぎ話のような世界を謹んで贈ろう。戦いを憎むものには微笑みに満ちた人々だけの世界を進呈しよう。人間の欲望の世界など、この宮殿の大型コンピュータなら、一瞬のうちにプログラミングして、電気信号に変換できるのだよ。世界中の人間がわたしに魂を売れば、世界中の人間が幸せになれる。それは、悪いことかな?」

「そんな世界は、きさまが一方的に見せているだけじゃないか!水甕の中で幻を見せられている脳みそたちは、言いたいことも言えず、行きたいところへも行けないじゃないか!」

「おやおや。勇者よ。だから、大きな勘違いをしていると言ったのだよ。わたしのご提供する欲望の世界は、そんな一方通行の安物ではありませんよ。水甕の中の脳髄が、何かを言いたいと思って声を出そうとすれば、脳髄から微細な電気信号が出ますからね、その電気信号をコンピュータの側で感知して、あたかも本物の声が出ているような幻を合成して脳髄に送り返してやるんですよ。すると、脳髄は、本当に声を出したように感じる。もちろん、それが相手のいる会話なら、相手の受け答えも合成してあげますよ。くだらない冗談であれ、愛のささやきであれ、あらゆる会話内容に対応できるように準備してありますからね。脳髄がどこかに行きたいと思ったときも同じですよ。足を動かそうとする電気信号を感知して、本当に足が動いているような感覚を合成して脳髄に送り返してやればいい。無論、風景も、街を歩く人々も、すべて合成して送り返す。すると、水甕の中の脳髄は、あたかも自分の足で世界中を歩き回っているかのように感じる。お分かりですかな。わたしのご提供する欲望の世界を、一方的な見世物みたいに思われては困りますな。脳髄は、水甕の中にいながらにして、友人や恋人と会話を楽しみ、世界中の観光地を巡り歩くことができるのですよ。もちろん、会話や旅行だけではない。脳髄の電気信号によってなされる行動はすべて、コンピュータによって合成されて、脳髄に送り返される。そこではもはや、現実と幻の区別など無意味です。脳髄にとっては、脳髄がいま認識している世界こそが現実なのです。水甕の中の脳髄は、自分が既に体を失った一個の脳髄に過ぎないなんてことには、ちっとも気が付くことなく、その脳細胞が崩壊するまで、お望みどおりの欲望の世界を存分に満喫できるというわけです。どうですかな。納得していただけましたかな?勇者よ。」

「・・・し、しかし、もし、そんな欲望の世界が嫌になったらどうするんだ!」

「おっほほほ。ご心配なく。その世界が嫌になったら、別の世界をご提供させていただきますよ。さっきも言ったでしょう。およそ人の願う幸せなど、欲望に過ぎない。財宝に囲まれた人生にうんざりして、貧しくも清らかな生活にあこがれるようになる、なんてことは、まあ、よくあることですな。たくさんの美女をはべらした淫靡な悦楽よりも、一人の清楚な乙女に愛されたい、なんて気持ちは、わたしにも実によく分かります。けれども、それも、所詮、形を変えただけの欲望に過ぎない。人間など、欲望の衝動に従って動くだけの機械に過ぎない。ある欲望から別の欲望へと好みが変わったなら、それにふさわしい欲望の世界の電気信号を送ってやればいいだけのことだ。」

「むむ・・・」

「勇者よ。どうですかな。わたしに魂を売りたくなったかね?」

「く、口達者なやつめ・・・」

矢垣の困惑した様子に、背後で控えていたマープルが、 

「どうしたのよ。早く、がつんと言い返してやんなさいよ。」

「だって、いちいちもっともなんだもの。納得しちゃったよ。」

「あきれた。勇者が怪物に説得されてどうするのよ!」

「盗人にも三分の理だ・・・」

「馬鹿!理屈で負けちゃうなら、理不尽を押し通すのよ。無理の前には道理もひっこむって言うじゃないの。」

「そんな無茶苦茶な・・・」

「ちっとも無茶苦茶じゃないわよ。人は、みんな、幸せになるためだけに生きてるの?欲望だけで生きてるの?ひょんなことで、理由もなしに、わけの分からない馬鹿なことをしでかしたりすることだってあるじゃないの。魔がさすってやつよ。」

「むむ。なるほど。人には魔がさすってことがある。確かに、理屈にあわない、わけの分からんことを突然やらかすことがある。マープル、おまえの言うとおりだ。人は、欲望のためだけに生きてるわけじゃない。あえて理不尽に踏み迷うこともある・・・ふむ、なるほど・・・おいこら、カイザル!きさまは、人間など欲望の衝動に従う機械にすぎないと言ったな。けれども、人は、理不尽に踏み迷うとき、そんなことを望んではいないんだ。望んでもいないものを、きさまは電気信号に変換することなどできない。きさまが水甕の中の脳みそに送り込める電気信号は、欲望の電気信号だけだからだ。きさまの作り出す幻の世界には、理不尽というものがない。すべての人間が、欲望に向かってひたすら突き進むことを前提にしている。けれども、人間は、突然、何の理由もなく、その欲望の歩みを止めることがあるんだ。理屈では分からぬ理不尽な衝動にかられて、望みもしないわけの分からないことをしでかすことがあるんだ。なるほど、きさまの言うとおり、人間は、欲望を実現するためにあくせくと人生を送っている。けれども、人間は、欲望の奴隷ではない。なぜなら、理不尽に踏み迷うことができるからだ。その時だけは、人間は、欲望の拘束から逃れて自由になれるんだ。理不尽の自由があるんだ。その自由を捨てて、欲望の奴隷として生きなければならないのなら、たとえ全世界の支配者になったとしても、それが、この勇者にとって、何の意味があろう!」

「・・・やれやれ、理不尽の自由とはね・・・非合理的な愚か者と話し合いをしても時間の無駄だ。愚かな勇者よ、あなたとは決して分かり合えないようですな。さあ、お望みとあれば、その剣で私を倒すがいい。倒せますかな?ふふふ。わたしは決して滅びはしない。欲望に群がる憐れな亡者どもの魂を永遠にむさぼり続けてやる。」

「黙れ!怪物め。この勇者の剣でその永遠の悪業の鎖を断ち斬ってやる!」

「おやおや。まだ自分の立場がお分かりでないようだ。惨めな勇者よ。おまえは、すでに、わたしに食われているのだよ。この宮殿は、わたしの胃袋なのだ。」

「な、何?」

「うわっははは。驚いたかね。わたしの腹の中で魂を溶かされるがいい。」

そう言うと、カイザルの幻はすっと消えた。

「やられた!おい、マープル!」

「何よ。」

「どうにかしろ!」

「もう。どうしろっていうのよ。」

「分からんから頼んでるんだ!わっ!何だ、このべたべたしたものは。天井から降ってくるぞ。」

「消化液ね。」

「ひゃあ。は、早く、どうにかしてくれ。魂が溶けちゃうじゃないか!」

「まったく。かっこ悪いわねえ。要するに、怪物のおなかの中ってわけでしょう。一寸法師みたいに、そこら中、剣で突っついてみたら?きっと痛がるわよ。」

「なるほど。」

矢垣は、壁といわず床といわず所構わずに剣を突き立てて、

「怪物め。参ったか。おや?マープル、何だこりゃ?宮殿が縮んできたじゃないか!」

「あら。ほんとだわ。あんまり突っついて刺激しすぎたのかしら?胃痙攣?」

「馬鹿!おまえのせいだぞ。わあ、どんどん縮む。」

「ちょっ、ちょっと何よ!そんなにくっついて来ないでよ!」

「だって、壁がどんどん押してくるんだから仕方ないだろう!」

「やだ。離れて!いやらしい。」

「そんなこと言ってる場合か!ううむ。このままじゃ潰されてしまう。おお、そうだ!マープル、変身だ。ドラゴンになって宮殿を炎で焼き払ってしまえ!」

「そりゃいいけど、あんたも丸焼けになるわよ。」

「そ、それは困る。うう。く、苦しい。マ、マープル、変身だ、丸焼けになっても構わん、火を吹け!魂を食われてたまるか!脳みそだけの奴隷なんてごめんだ!」

竜の姿に変じたマープルの口から噴き出された紅蓮の炎の中で、矢垣の意識は遠のいた・・・  

 はっと気がつくと、矢垣は、荒野の真ん中で倒れていた。重い体を起こしながら、

「ううむ・・・何だ、生きているのか?」

「あら。お目覚めね。」

「おお。マープル。カイザルはどうなったんだ?」

「分からない。あたしも気が付いたらここで倒れていたわ。」

「やっつけたのかな?」

「どうかしら。こうして二人ともピンピンしてるんだから、やっつけたんでしょう。それとも、水甕の中の脳みそになって、こんな夢を見ているだけなのかしら?」

「よしてくれ・・・」

「ぷっ。冗談よ。馬鹿ね。まあ、とにかく、こんな所でぼんやりしていても仕方ないわ。行きましょう。」

「どこに。」

「どこにって、決まってるじゃないの、第二の怪物をやっつけに行くのよ!」

「え。もう?どこにいるんだよ。」

「知らないわよ。旅をしてれば、そのうち出て来るのよ!いいから早く立って歩くの!」

 行けども行けども荒野は続く。

「ああ。疲れた。ねえ、休もうよ。」

「だめ!あんた、休んでばかりじゃないの。足が痛いだの、腰が痛いだのって、一日歩いたら三日はごろごろして休んでるじゃないの。怪物退治がちっとも進まないわ。」

「あ!」

「何よ。」

「ほら。あそこに家があるよ。あそこで一休みさせてもらおう!」

「家?」

矢垣の指し示す方向にマープルが視線を送ると、なるほど、遙か遠方の小山の麓に一軒の家が建っているのが小さく見える。たちまち元気になって足を速める矢垣の背中を追いながら、マープルがつぶやいた。

「おでましね。第二の怪物。」

 

              四 隠者

 その古びた家の前で、矢垣は勇者らしく容儀を整えると、

「おーい。頼もう!」

家内からの答えはない。

「何だ。留守か?おーい。誰かいませんか?こんにちは!」

ドンドンとドアを打ち鳴らした。

と、突然ドアがパッと開き、

「うるさい!修行の邪魔じゃ!立ち去れ!」

怒声の主は、ミイラのようにひからびた老人であった。

 矢垣は、あっけにとられたが、気を取り直して胸を張ると、

「どうも。勇者です。しばし休ませていただけませんか?」

「だめじゃ。去れ!」

「僕は、勇者ですよ。」

「だから何じゃ。」

「だから、その、少し休ませて下さいよ。」

「だめじゃと言うておろうが。勇者とやら、お前、馬鹿か?」

「むっ!こ、このじじい・・・」

見兼ねたマープルが、矢垣を力まかせに押しのけると、

「まあ!高徳なる隠者さまではありませんか!お目にかかれてうれしゅうございます!」

すると、老人の固い渋面は、たちまち柔らかい笑みにくずれて、

「何?高徳なる隠者?ほ、ほ、ほ。いかにも、わしは、隠者のダイバじゃが、お前さんは?」

「初めてお目にかかります。あたくしは、地獄の荒野を巡礼に旅するマープルと申す未熟者にございます。そして、これは、」

と、きょとんとしている矢垣に目配せしつつ、

「あたくしの下僕にございます。まったく貴賤の別も弁えぬ無知蒙昧の憐れな愚か者でして、隠者さまにもたいへんな失礼をはたらきましたようで・・・」

「そうであったか。よいよい。愚か者に罪はない。かえって知恵を誇る者の方が罪深いものじゃ。これ!愚か者よ。良きご主人にお仕えできて幸せと思うがよい。」

「はい・・・」

 隠者は、二人を家内に招じ入れた。部屋には、粗末なテーブルと椅子とが置かれている他には調度らしいものとてない。

「見てのとおりの殺風景じゃ。何のもてなしもできんぞ。」

「何をおっしゃいます。隠者さま。徳高きお姿を拝見できただけでも無上の喜びでございます!」

「ほ、ほ、ほ。マープルとやら、そなたはなかなか世辞が上手じゃのう。荒野の一凡夫に過ぎぬ老人をあまりからかうでないぞ。」

「いいえ!隠者さまの徳高きは、この広大無辺の地獄界でも第一と皆が申しておりますわ。ああ、あたくしどもがこうして隠者さまにお目にかかれたのも天界にいまします恐れ多き御方のお導きかも知れませぬ。隠者さま。私ども迷妄の地獄の亡者をお憐れみになって、どうぞ、貴き救いの道をお示し下さいませ。」

「ほ。そこまでの願いとあらば、よろしい!このダイバが修行の果てについに会得した亡者救済の秘法をば特別に施してやろう。」

「まあ!隠者さま!ありがとうございます!」

「では、準備があるのでな。しばらく、ここで待っておれ。」

そう言うと、隠者は奥の部屋へ入った。

「おい。マープル。」

矢垣がささやいた。

「何よ。」

マープルがささやき返す。

「おまえ、あのじじいのことを知っていたのか?」

「馬鹿ね。知るわけないでしょ。一見して隠者と分かったから、ありったけのお世辞をでたらめに言っただけよ。」

「隠者って、何だよ。」

「あんた、何にも知らないのねえ。隠者ってのは、地獄界にありながらも、天界の救いを求めて修行に修行を重ねている亡者たちのことよ。」

「ふうん。亡者なのか。」

「あたりまえでしょ。ここは地獄界なんだから、みんな亡者よ。」

「修行すると天界に昇れるのか。」

「そんなこと知らないわよ。とにかく隠者はそう信じてるのよ。」

「何だ、隠者が信じているだけのことか。じゃあ、もういいよ。帰ろうよ。修行なんかどうでもいいよ。あのじいさん、何だか薄気味が悪いし・・・」

「あんた、ほんとに馬鹿ね。あれが、第二の怪物なのよ!」

「え。そうなの?」

「そうよ!だから、あのダイバって怪物の秘法とやらがどんなものか、この機会に見極めてやるのよ。とにかく、あのじいさんの言うことに話をあわせるのよ。いいわね!」

「はい・・・」

 矢垣たち二人の前に戻ってきたダイバは、みすぼらしい破れ衣から絢爛たる法衣に着替え、腰には長大な破魔の法剣を佩き、これが先ほどのひからびたような老人と同一人物かと疑わせるほどの堂々たる風格で、

「待たせたのう。わしが日々修行しておる祭壇はこの裏山の頂上にあるのじゃ。付いてまいれ。」

 隠者の後に付いて裏山を登ると、頂上には展望台のような祭壇が土砂を固めて築いてあった。

「この祭壇の上で、日々、天界への祈りを捧げるのじゃ。さあ、上がるがよい。」

言われるまま階段を昇って祭壇に上がる。

「どうじゃな。よい見晴らしであろう。このあたりでは一番高い場所じゃからな。広漠たる地獄の荒野の果ての果てまで見晴るかすことができる。わしは、この神聖なる祭壇上に立って天界に祈りを捧げる度に、新たなる感動と戦慄とを覚える。それもすべて、日々の厳しい精進の賜物じゃ。生半可な修行では、祈りが天界に通じるはずもないのじゃ。見よ、この地獄界にうごめく愚かな亡者どもの有様を。欲望の赴くまま悪業三昧の爛れた日々を送って恥じるところもなく、そのくせ、いよいよ地獄の苦しみに堪えられなくなるや、悔い改めたと称して見え透いた空涙を流し、怪しげな呪文を唱えつつ大慌てで天界に救いを求めておるわ。何という厚顔!何という虫のよさ!わしは、そういう愚かな凡下の者どもの所業を最も憎む。そういう連中に、何で、救いがあるものか。いや、あってはならぬ!永劫、無間地獄の苦しみに苦悶し泣き叫ぶがいい!」

ダイバは怒りにふるえながら絶叫した。矢垣とマープルは驚いて、思わず後ずさりした。と、二人の様子に気付いたダイバは、

「あ、いや、これはまた、怒りのあまり、つい、年甲斐もなく激したわい。どうやら驚かせたようじゃな?」

「そ、そんなことはありませんわ。心に沁みるお言葉でございます。まことに、欲望に溺れる凡下の者どもの愚劣さ身勝手さときたら我慢がなりませんわね。吐き気がします。いっそのこと天の雷火で皆殺しにしたいくらいですわ!」

「ほう。マープル。そなたはなかなか救いの道の法理を弁えておるの。どうじゃ。そこの愚か者。おまえも少しは、わしの話が分かるか?」

「え?あ、僕?」

「おまえ以外に誰がおるか。」

「は。その、ま、まことに、あの凡下の者どもときたら、機関銃で皆殺しにしたいくらいですねえ。」

「ほんとにそう思っておるのか?頭の悪そうな顔をしおって。まあよいわ。では、早速、我が会得したる亡者救済の秘法を執り行うとするか。さあ、マープルよ、その場に跪け。」

「はい。こうでございますか?」

「そうじゃ。それでは、両手を胸の前で合わせよ。」

「はい。」

「目を閉じよ。」

「はい。」

「おう、そうじゃ。それでよい。これ、そこの愚か者!」

「え?あ、はい。」

「これから、マープルの魂を救済する秘法の儀式を始めるのじゃ。おまえは、この祭壇から降りよ。」

「あ。はいはい。」

 矢垣はあたふたと祭壇を降りると、壇上に目をやった。マープルが神妙そうに目を閉じて跪いている。その背後で、ダイバが、両手を天に向かって広げ、なにやらぶつぶつと祈祷を捧げている。と、ダイバは、おもむろに法剣を鞘から抜き放つと、跪いて瞑目しているマープルの傍らに立ち、マープルの白いうなじに視線を定めつつ、法剣をゆっくりと振りかぶった。

「な、何だ?」

矢垣の背中をすっと冷たいものが走った。マープルはと見れば、まるで催眠にでもかかったかのように微動だにせず跪いている。矢垣はあわてて剣を引き抜くと、

「マープル!」

ダイバに向かって剣を投げつけた。

「うむっ!」

ダイバは、飛んできた矢垣の剣を法剣で叩き落とすと、

「下郎!何の真似だ!」

「おい、ダイバ!その剣は何のつもりだ!」

「黙れ、下郎!神聖なる儀式に愚昧なる凡下が口を挟むな!」

「まさか、マープルの首を斬り落とそうとしていたんじゃないだろうな!」

「いかにも。この細い首を断ち斬るのよ。マープルの望みどおり、救いの秘法を施してやろうというのよ。わしが祈りを込めつつ自ら鍛えたこの法剣をもって、汚れなき乙女を汚れなきままに法悦の境地に導いてやろうとしておるのだ。きさまごとき凡下のおよそ知るところではないわ。」

「馬鹿な!首を斬り落とすことが救いというのか!マープル!目を覚ませ!」

「馬鹿め。マープルはもはやわしの術中じゃ。おまえの声など聞こえぬわ。」

「では、こうしてやる!」

矢垣は鎧の重さも忘れて飛ぶような勢いで祭壇上へと駆け上がると、渾身の力を込めてダイバに体当たりした。吹き飛ばされたダイバは祭壇の下に転げ落ちた。

「マープル!目を覚ませ!」

矢垣がマープルの頬をひっぱたくと、はっと、マープルが目を開き、

「あら。何よ?」

「逃げるんだ!」

「え?」

マープルはきょとんとしている。

「いいから、早く逃げるんだ!」

と、矢垣の背後で、

「下郎、血迷ったか。」

ダイバの冷やかな声がした。

 矢垣は、マープルを鎧の袖でかばいながら、

「黙れ!何が秘法だ。マープル!この偽隠者は、おまえの首を斬り落とそうとしていたんだ!」

「え?あたしの首を?」

「言語道断の偽隠者め。この勇者が許さんぞ!」

「ほ。許さぬとな?地獄界の惨めな亡者が何をほざくか。」

「黙れ!おまえこそ地獄の亡者じゃないか!」

「いかにも。わしは地獄の亡者の一人じゃ。それがどうした。わしとおまえとでは違いがないとでも言うのか?ほ、ほ、ほ。わしをいったい誰だと思うのか。わしはダイバ!広大無辺の地獄界において最も天界に近き誉れ高き隠者なるぞ!なるほど、我が肉体はおのれら凡下と似てはおろう。が、内なる魂は似ても似つかぬわ!わしは、この魂を清浄に保たんがため、ひたすら修行に勤めて一切の肉体の欲望を滅してきたのじゃ。何で、わしとおのれらとが同じであり得ようか。なるほど、わしは亡者じゃ。おのれらと同じ姿の亡者じゃ。いやむしろ、断食行で痩せひからびたわしの体は、おのれら飽食の亡者どもの豊かな肉づきに比べればはるかに惨めで醜くかろう。わしの貧しき庵は、おのれら亡者の中で最も貧しき者の破屋よりもさらに寒々しいであろう。が、構いはせぬ。そんな肉体の喜びなど、おのれら凡下にくれてやろう。そのかわり、わしは、魂の喜びを手にする。おのれら蒙昧なる賤民が逸楽の爛れた夢をむさぼる間も、わしは天界の門へと至る救いの道を爪を剥がし血を流しながら一寸々々虫のように這い進み続けたのじゃ。より多くの修行に精進した者の魂は、より大きく神に報われる誉れを与えられているのじゃ。わしが晴れて天界の門の扉をたたき天の御使いに祝福される様を、おのれら賤民どもは無限奈落の地獄の底から指をくわえて見ているしかないのじゃ。そのわしと、おのれら愚昧の亡者とが同じじゃと?寝ぼけたことを言うな!おのれら無知蒙昧の賤民ごときに、救いの道の何たるかが分かってたまろうか。なるほど、わしは、いま、マープルの首を打ち落とそうとした。それこそが救いになるからじゃ。およそ地獄の罪業は肉体の欲望から生ずるものよ。ならば、その肉体を滅してやることが無二の救いではないか。救ってくれと頼むから、首を打ち落としてやろうとしたまでよ。それのどこが悪い?許すも許さぬもあるまい。」

「・・・」

絶句した矢垣に、マープルが、

「あら。あんた、また、説得されちゃったの?」

「ううむ。困った・・・」

「馬鹿!あいつは、このあたしを殺そうとしたのよ!あんなやつ、問答無用でぶった斬っちゃいなさい!死んだほうが救いだって言うんだから、あんたがあいつを救ってやればいいじゃないの!さあ、早く、ぶった斬りなさい!」

「そ、そんな無茶苦茶な・・・む、いや、待てよ、なるほど・・・マープル、おまえの言うとおりだ。おい、じじい!」

「何だ。愚鈍の賤民。」

「きさまの汚らわしい魂を、この勇者が救ってやろう。ぶった斬ってやるから、おとなしく我が剣の錆となるがよい。」

「下郎。気でも狂ったか。」

「黙れ!偽隠者!おのれの首のみは大事なのか。語るに落ちるとは、きさまのことだ!おのれ一人も救えないくせに、何が救いの秘法だ。なるほど、きさまは、地獄界に氾濫する欲望を憎んで、それこそ血の滲むような修行に精進したんだろう。けれども、その修行の果てにきさまの得たものはいったい何だ。おのれひとりが神に選ばれて天界の門をくぐり、地獄界でなお欲望に溺れてもがき苦しむ亡者の憐れな姿を高見の見物で笑ってやりたいという、ただそれだけのことじゃないか。きさまは、復讐したいだけだ。地獄界の亡者に復讐したいんだ。いや、地獄界そのものに復讐したいんだ。なぜ、そんなにまで地獄界を憎むんだ?きさまは、口では地獄界を憎みながら、本当は、この地獄界が好きでたまらないんだ。地獄界を好きでたまらないからこそ、自分を受け入れてくれない地獄界が憎いんだ。きさまは、欲望にまみれた地獄界を愛しているんだ。欲望の罪業にもがき苦しんでいるのは、きさま自身だ!きさまの説く救いの道など、失恋したもてない男がやけくそになって、片想いの女の悪口を言いふらしているのと同じじゃないか。そうでないというなら、さあ、きさまの救いの秘法とやらで、さっさと自分の首を打ち落としてみろ!できないだろう!できるはずがないんだ。きさまの救いの秘法など、天界の名を借りておのれの復讐心を満足させているだけだからだ。きさまは、欲望の地獄界にふられたんだ。そうして、嫉妬のあまり、今度は、天界という絶世の美女に無理やり求婚を迫っているんだ。そんな身勝手な情けない男のプロポーズを、絶世の美女が、はいそうですか、と受け入れるとでも思っているのか。図々しいにも程がある。きさまは、欲望に溺れながら四苦八苦して生きている地獄界の亡者たちを嘲り笑うが、その亡者たちは、少なくとも、欲望に溺れている自分の無様な姿を知っているんだ。きさまのように、欲望に恋焦がれているくせに欲望を憎んでいるふりをしたりはしないんだ。まして、きさまのように、欲望に復讐するために天界の救いを求めたりはしないんだ。亡者たちは、ただ欲望の罪業から逃れたいという、それだけのために天界の救いを求めているんだ。きさまの言うとおり、欲望に溺れる亡者たちには天界の救いなどないかも知れない。けれども、そういうきさまは、その亡者たちよりもさらに、天界の門から遠くにいる! 」

「・・・この賤民めがよくもほざいたものよ。迷妄に血迷うその汚らわしき肉体を我が法剣で真っ二つに斬り割いてくれるわ!」

「斬り割きたければ斬り割くがいい!けれども、この汚らわしい肉体から流れ出る生臭い血が、きさまのご自慢の祭壇にたっぷりとしみ込むぞ!それでもいいなら、さあ、斬り割け!」

「こ、この・・・」

「斬り割けないだろう!地獄の亡者たちを見下すための聖なる祭壇だからな。きさまは、この祭壇から天界に祈りを捧げていたんじゃない。地獄界に向けて憎しみの言葉を投げ付けていただけなんだ。そんなきさまの声が、天界に届くはずがない。いや、そもそもきさまは、天界など信じてはいないんだ。きさまの信じる神とは、おのれ自身で築いたこの祭壇のことじゃないのか!」

「だ、黙れ!ふん。こんな祭壇など、いつでも造り直せるわ。広大無辺の地獄界、乙女の肉体など掃いて捨てるほど転がっておるからのう!」

「何だと?」

「ほ、ほ、ほ。奈落の業火にのたうつ愚鈍の賤民よ。おまえに教えてやろう。その足元の砂を見よ。」

「砂?」

矢垣は、足元の砂に目をやった。ただの白い砂である。

「この砂がどうした!」

「その砂は、わしが法剣をもって祈りとともに首を打ち落とした乙女たちの骨よ。」

「な、何?」

「賤民。聞くがいい。腐臭に満ちたこの汚濁の地獄界において、唯一残された純粋無垢なるもの、それが汚れなき乙女の肉体よ。その汚れなき肉体をば粉砕し、その骨肉をもって天界へと通ずる聖なる祭壇の砂となしたのよ。この山は、幾万の乙女たちの汚れなき骨肉をば、わしが踏み固め突き固めして築き上げたものじゃわい。」

「こ、この山は、乙女の骨肉だというのか?」

「そうよ。汚濁の地獄界における唯一の清浄地じゃ。地獄界と天界とを結ぶ聖なる山じゃ。乙女らは、その清浄の骨肉を我が聖山の砂として喜捨したというわけじゃ。まこと有り難き功徳じゃのう。ほ、ほ、ほ。」

「ゆ、許せぬ!もはや容赦せぬ。おい、マープル!」

「何よ。」

「ドラゴンに変身だ!この惨めな化物の救いがたき魂を、おまえの炎で焼き滅ぼせ!」

たちまち竜に変じたマープルの口から火炎が噴き出された。

「ほ。小賢しい。」

マープルの吐き出した炎の塊は、ダイバが呪文とともに閃かせた法剣に薙ぎ払われて霧散した。

「ふふふ。そんな弱々しい火では、わしの髪の毛一筋も焦がすことはできぬぞ。わしを焼き滅ぼしたいなら天の雷火でも持って来い!」

そう叫ぶや、ダイバは、法剣の刃を閃かせつつ突進してきた。

「わっ!」

間一髪で身をかわした矢垣は祭壇から転げ落ち、マープルは宙に舞い上がった。

「ううむ。とてもかなわん・・・」

地面に伏した矢垣の眼前には、白い砂が一面に広がっている。はっとして矢垣は身を起こすと、上空のマープルに向かって、

「マープル!山を焼け!この山は乙女らの骨肉だ。この山ごとダイバを焼き滅ぼせ!」

「いいけど、あんたも丸焼けよ。」

「え。またか・・・ええい、構わん、焼き尽くせ!」

マープルが空中を旋回しながら山の斜面に向かって火炎を噴き出していくと、骨肉の山はたちまち紅蓮の炎に包まれた。と、見る間に、山を被う炎は竜巻となって螺旋を描きつつ宙空天高く昇り、天地の間にそびえる一本の巨大な炎の柱となった。

「ああ、天の雷火だ・・・」

炎熱の中で、矢垣の意識は遠のいていった・・・

 気が付くと、例によって、荒野の真ん中に倒れていた。矢垣は、重い体を起こしつつ、

「助かったらしい・・・」

「そうらしいわね。」

「ダイバをやっつけたのかな?」

「あたしに聞かないでよ。あたしもいま気が付いたんだから。多分やっつけたんじゃないの?天の雷火がダイバに落ちるのを見たわ。」

「そうか、あれはやっぱり、天の雷火だったのか。幾万の乙女たちの祈りが天界に通じたのかも知れないなあ・・・」

「ぷっ。何よ。ずいぶん信心深いこと言うじゃないの。隠者にでもなりたくなったの?」

「隠者?ごめんだね。僕は欲望にまみれた亡者なんでねえ。」

「ほんとに汚らわしいわね。」

「こいつ。そんな憎まれ口をたたいていると、ほんとに汚らわしいことをやるぞ。」

「あら。やってごらんなさいよ。ドラゴンの火で黒焦げにしてやるから!」

「分かった分かった。まあ、ダイバもやっつけたみたいだし、それじゃ、いよいよ最後の第三の怪物を退治しに行くとするか!」

「あらあら、ずいぶん威勢がいいわね。その前に、あんた、ちょっと自分の顔を御覧なさいよ。」

そう言ってマープルは、手鏡を矢垣に手渡した。

「何だ。目やにでもついてるのか?」

「馬鹿ね。よく見なさいよ。そこにあるのは誰の顔よ。」

「ははは。何を言ってる。誉れ高き勇者の顔じゃないか。」

「そう。それが、第三の怪物・・・」

「何だって?」

 

               五 影  

 矢垣は、手鏡に映った自分の顔にしげしげと見入りながら、

「で、この怪物をどうしろというんだよ。」

「やっつけるのよ。」

「鏡の中の自分を?」

「馬鹿ね。いくらなんでも、鏡の中に入っていくわけにはいかないじゃないの。そのうち、向こうから出て来るわよ。あら。そう言ってる間に出て来たわ!」

「え。ど、どこに?」

と慌てて矢垣は辺りを見回して、

「何だ。誰もいないじゃないか。」

「どこ見てるのよ。怪物はあんたの足元にいるじゃないの。」

「な、何?」

ぎくりとして矢垣が視線を足元に落とすと、矢垣の足先から伸びた影がひらひらと地表から剥がれ始めている。

「ひゃあ。か、影が!」

 ひらひらゆらめく影は、ゆっくりと起き上がると、徐々に丸みを帯びていき、やがてもう一人の矢垣となった。もう一人の矢垣は、鎧兜ではなく紺のスーツにネクタイを締め、剣ではなく鞄を手に提げていた。

「やあ。勇者。始めまして、というべきなのかな?」

そう言って、影はにやりと笑った。

「お、おまえは、何だ!」

「見りゃ分かるだろう。ご覧のとおり、僕は、君の影だよ。つまり、君だ。」

「何しに出て来た!」

「おやおや。えらい剣幕だな。出て来ちゃいけないのかね?」

「あたりまえだ。影め。」

「なぜ?」

「なぜも何もあるもんか。おまえは影だからだ。影は影に戻れ。」

「ほほう。影だから影に戻れ、ですか。こりゃまた、ずいぶんと説得力にあふれるセリフだねえ。我ながらがっかりするよ。」

「何だと?影の分際で何を言いやがる!」

「影の分際と来たか。すると、何かね、君は、君のほうが僕より偉いとでも言うのかね?」

「あたりまえだ。おまえは影じゃないか。僕がいなきゃ、おまえは存在しないじゃないか。僕の方が偉いに決まってる!」

「やれやれ。君は、僕のことを影だというが、君だって、僕から見ればただの影さ。」

「くだらんことをごちゃごちゃ言いやがって!見ろ!」

と矢垣は、両手をパンパンと打ち鳴らし、

「影に過ぎないおまえに、こんな真似ができるか!僕には、れっきとした体があるのだ。恐れ入ったか。影め。さっさと地べたにへばりつけ!」

「れっきとした体?ばかばかしい。これを見たまえ。」

そう言うと、影は、パンパン、と手をたたいて見せた。

「手をたたくことくらい、僕にもできますがねえ。と言うことは、僕にも、れっきとした体があると言うわけだ。ふふふ。」

「な、何だ?おまえは影だろう。何でおまえに体があるんだ?おかしいじゃないか!」

「ははは。べつにちっともおかしくはない。僕が手をたたく姿が君の目に映り、その音が君の耳に聞こえたというだけさ。そんなことは、体があることの証拠でも何でもない。君が目を閉じ耳をふさいでいたなら、僕が手を鳴らしたって何の意味もないからね。君がやったことも同じさ。君は、いま、手を打ち鳴らして、体があることを証明してたみたいだけど、それだって、君の耳に聞こえた音、君の掌の感じた痛みに過ぎないじゃないか。君が目を閉じ、耳をふさぎ、痛みを感じない麻酔注射でもしていたら、君は、自分の体があることをどうやって証明するのかね。目に見え耳に聞こえるから、それを信じることができるだけだろう。音や痛みや光の認識がなければ、君の体なんかどこにもありはしないのさ。では、認識とは何かね。影さ。音も痛みも光もみんな君の影だ。影がいるから君は存在できるんだよ。鏡に映った自分の影を見てはじめて、自分の存在を信じることができるに過ぎないのさ。」

「・・・」

「分かったかね。確かに、僕は君の影だがね、僕の方がよっぽど君なんかより偉いのだよ。」

「こ、こいつ・・・」

言い返す言葉が見当たらずに歯がみする矢垣に、マープルが、

「もう。またまた説得されちゃったわけね。」

「こ、こりゃもう、問答無用でぶった斬るしかないな・・・」

すると、影は、

「え?僕をぶった斬る?ははは。いま言ったばかりじゃないか。君は、影がいなくちゃ何にもできないのだよ。存在することさえできないんだ。僕をぶった斬ったら、君もたちまち消え去るよ。それでもいいのかね?まさか、そこまで馬鹿ではあるまい?」

「こいつ、言いたい放題言いやがって!問答無用だ。マープル、ドラゴンになって、こいつを焼き払ってしまえ!」

「え?だって、そんなことしたら、あんたが消えてなくなっちゃうんでしょう?いくらなんでも、そんなことできないわよ。」

「むむ。じゃあ、どうすればいいんだよ。」

「知らないわよ。あんた勇者でしょう。自分でどうにかしなさいよ。」

「冷たいやつだ。うん?待てよ。マープル。おまえには、僕が見えているんだよな。」

「あたりまえよ。」

「なあんだ。そうか。おい、影!」

「何だね。」

「おまえは、僕が影なしには存在もできんと言いやがったな。残念でした。このマープルが証人だ。おまえなんぞいなくても、このマープルが僕の存在を証明してくれる!」

「君・・・」

「なんだ!影!恐れ入ったか!」

「君は、馬鹿だな。」

「むっ!何が馬鹿だ!」

「マープルが見ているものも、君の影ではないか。君の姿が見えなくなったら、マープルはどうやって君の存在を証明できるのかね。君の周りにいる者も君の影を見ているに過ぎないのだよ。君の親兄弟も、君の友人も、職場の上司も同僚も、地下鉄の改札の駅員も売店のおばさんも、みんな、君の影を見ているだけさ。彼らは君の影を見て、君の影に向かって話しかけているだけだ。そして君もまた、彼らの影を見ているだけだ。他者の存在など、証明不可能なんだよ。君の周りの人間関係なんて、影と影とのつきあいに過ぎないんだ。そうして、そういう影同士の人間関係の中で、君は、喜んだり悲しんだり、あれこれと思い悩んだり、ぶつぶつ文句を言ったりして日々を過ごしているというわけだよ。君という人間の実体など、どこにも存在しない。君の存在なんて、影と影との関係に過ぎない。そして、それが、君のすべてだ。君から影を取ったら、後には何も残りはしない。君は、僕を影だと言うが、君こそ影そのものなのだよ。」

「僕が影そのものだと?」 

「そうとも。君のその体も、君が頭で考えることも、みんな影だ。君という実体なんかどこにもないんだよ。ひょっとして君は、君という人間から一切の影を取ったとしても、何か透明の形のない実体だけは残るとでも思っているんじゃないかね?ふふふ。残念ながら、そんなものはどこにもない。君から影を取れば、君は完全に消える。無になる。いや、君だけじゃない。この世界のすべてが、影を取れば消えてしまうのだよ。世界に実体などないのだ。世界は影の集合に過ぎない。認識の作り出した幻に過ぎないのさ。」

「何だ、カイザルみたいなこと言いやがって!」

「カイザル?ああ、そうか。君は、カイザルやダイバをもう知っているのか。カイザルもダイバも、まあ、僕から見れば、世界のことがちっとも分かっちゃいないね。いいかね、君、僕がいま言ってることは、カイザルなんかの言う世界のことじゃないんだよ。勘違いしないでほしいな。カイザルの言う世界は、脳髄が感知する世界のことだ。確かに、脳髄に電気信号を送れば、脳髄にとっての現実の世界が現れる。その時、脳髄の感知している世界には、無論、実体はない。けれども、脳髄自身は、存在している。この世界が、脳髄の電気信号にすぎないとしても、脳髄自身は電気信号では有り得ない。脳髄は疑いようのない実体としてはじめから存在しているんだ。脳髄の存在を疑い得ない以上、脳髄を培養液に浮かべた水甕も、脳髄に電子信号を送るコンピュータも存在していることになる。コンピュータを据え付けた宮殿も存在している。そうやって、どんどん拡大していけば、結局、世界のすべてが存在していることになる。要するに、カイザルは、この世界の存在を疑っているわけではないのだよ。脳髄の感知している幻の世界は、あくまで幻の世界であって、現実の世界じゃないんだ。現実と幻の区別ははっきりしているんだ。ただ、水甕の中の脳髄だけが、現実と幻の区別がつかなくなっているだけだ。けれども、僕がいま言ってる幻の世界というのは、水甕の中の脳髄にとっての幻の世界のことなんかじゃない。この世界そのものが幻だと言っているんだよ。脳髄さえも幻に過ぎない。お分かりかね?」

「脳髄さえも幻なら、世界を認識できないじゃないか。世界は消えちゃうじゃないか。」

「すると何かね、君は、世界は脳髄による認識で生まれるとでも思っているのかね?」

「おまえがそう言ったんじゃないか。世界は実体のない認識の幻なんだろ!」

「そのとおり。世界は認識の幻だよ。けれども、その認識の幻が脳髄によって生み出されているとは一言も言わなかったはずだよ。いいかね、脳髄が世界の認識を生み出しているという考え方はね、世界の認識がどのように生み出されているかについて、まず世界の実体が存在することを前提にして、その世界の実体を脳髄が電気信号によって知覚するメカニズムとして便宜的に説明しているに過ぎないのだよ。まあ、そういう便宜的な説明のことを自然科学と呼ぶんだけどね。けれども、自然科学が前提とする世界の実体など、実は、どこにも存在しない。世界は認識の幻に過ぎない。そして、その場合、その世界の認識を生み出しているのは、脳髄ではないんだ。なぜなら、世界の認識を生み出しているのが脳髄だとすれば、その脳髄自身を生み出しているものは何なのかが答えられなくなるからね。これは明らかに矛盾だ。世界は認識の幻だと言いながら、脳髄だけは特別にはじめから実体を持っているなんていうのは、論理的に破綻している。幻の虚無の世界に、脳髄だけがふわふわ浮かんでいるなんて、あまりにも馬鹿げているだろう?従って、世界の認識を生み出しているのは脳髄では有り得ない、というわけだよ。分かったかね?まあ、こんなことは、認識論の初歩的議論なんだけどね。」

「じゃあ、世界の認識とやらを生み出しているものは何なんだよ!」

「さあね。分からんね。」

「何だ、偉そうなこと言って、結局分からないんじゃないか!」

「おやおや。分からんことを正直に分からんと言っただけなのに、ずいぶんだな。世界の中で生きている人間には、世界の外のことまでは分からんよ。世界の認識を生み出しているものが何かということは、世界の外の問題だ。世界の中で生きる僕に分かるはずがないだろう。僕があれこれ考えても、僕の思考力は、決してこの世界の範囲を超えることはできない。なぜなら、僕の思考自体が、認識に過ぎないからだ。認識によって、認識である世界を超えることはできないからね。たとえば、君は、四次元空間を認識できるかね?そんなことは絶対に不可能だ。人間に世界の外のことは決して分からない。もっとも、世界の外のことを分かったつもりになっている種類の人たちもいるがね。まあ、そういう人たちのことを狂信者と言うのさ。君の知っているあのダイバなんかは、まあ、その典型だね。天界がどうしたの、救いがどうだのと、分かりもしないことを独り合点して分かった気になって、そのくせ、結局、この認識の世界から一歩も出ることができず、挙句の果てに、幾万という乙女をさらって来ては首を斬り落とし続けた。カイザルといい、ダイバといい、まったく、馬鹿としか言いようがないな。世界なんぞ、所詮、影に過ぎないということが、ちっとも分かっていないんだからね。現実と幻の区別なんかそもそも無意味なのさ。何でそんな区別が生まれたのか、むしろ、その方が不思議だね。僕は、どうも、夢に、その原因があるんじゃないかと思うんだけどね。夢から覚めると、夢の方がぼんやりして、目の前のこちら側の世界の方がはっきりしているだろう?リアリティの程度が違う。そこで、こちら側の世界の方が現実で、夢の世界は幻だ、ということになったんじゃないかと思うんだけどね。けれども、それは、単なる錯覚に過ぎないんだよ。夢も現実も、認識の幻であることに何の違いもないんだ。目が覚めて、こちら側の世界の方がリアリティがあるのは、当然なんだよ。なぜなら、いま、こちら側の世界にいるんだから。夢の世界にいる時は、夢の世界の方がリアリティがあるはずなんだよ。けれども、夢の世界のことを思い出している自分は、いま、こちら側の世界にいるんだから、決して夢の世界のリアリティを思い出すことはできない。リアリティの強弱は、その時、どの世界にいるかによって左右されるというわけだよ。そう考えると、現実の世界も夢の世界も、全く区別がなくなる。いや、区別がないというだけじゃない。現実の世界と夢の世界の区別がないということは、同じような世界が、無限に存在し得るということを意味するんだよ。認識の幻である世界は、無限に存在し得るんだ。無限に存在する世界!僕は、その無限に存在する世界の中で、いま、たまたま、この世界を認識しているだけというわけだ。どうだい、君。世界が無限に存在するなんて、実に愉快じゃないか!」

「べらべらといい気になりやがって・・・おまえの独り言はもうたくさんだ!」

「独り言?あっははは。君はうまいことを言うね。そのとおり。独り言だ。この世界は僕の認識の幻だからね。僕以外のすべての他者は、みんな幻だ。僕が誰に何を話しかけようと、それは幻に向かって話しかけているだけだ。僕は永久に孤独というわけだ。君も、ようやく、僕の言うことを理解してくれたようだね。僕は君の影、君は僕の影、というわけだ。同じ影同士、仲良くしようじゃないか。」

「仲良く?お断りだ!いったい何をしようってんだ!いったい何が目的なんだよ!」

「だから、言ったじゃないか。僕は、君と仲良くしたいだけなんだよ。つまり、君に僕の影になってほしい、とまあ、そういうわけだよ。」

「おまえの理屈では、僕はおまえの影なんだろう!じゃあ、もう、用は済んだじゃないか!」

「おっと、これは、僕の言い方が悪かったね。君に僕の影になってほしい、というのはだね、つまり、文字どおり、地面にへばりつく影になってほしいということなんだよ。君も僕の影に過ぎないのだから、僕の影になったって、べつにいいだろう?」

「こ、断る!」

「あっははは。そうだろうね。でも、もう遅いよ。君は、自分も影に過ぎないことに納得しちゃったんだから。ほら、君の足元を見たまえ。」

矢垣がはっとして足元を見ると、自分の足がぺらぺらに薄くなっている。

「わっ!」

「あっははは。もうすぐ、君の体は紙のように薄くなって、地べたにへばりつくんだよ。僕の影になるんだ。」

「ちくしょう!マ、マープル!」

「何よ。」

「何よじゃないだろう。影になってしまう!」

「そうね。ぺったんこになっちゃうわね。」

「ば、馬鹿!あいつを焼き払え!」

「だから、そんなことできないってば!あんたが消えちゃうじゃないの!」

「あっははは。君も往生際が悪いね。早く僕の影になりたまえ。そこのマープル君も僕がちゃんと面倒見てあげるから安心したまえ。」

影がそう言うと、マープルは、きっと、影を睨みつけて、

「何ですって?あたしが、あんたみたいな影法師の従者になるわけないでしょ。馬鹿じゃないの?」

「何だと?やれやれ、従者までこんな馬鹿であったか。」

「お黙り!あんたが影だか本物だか知らないけど、あたしの仕える主人は、」

とマープルは、既に首までぺらぺらに薄くなってゆらゆら揺れている矢垣に目をやって、

「あの馬鹿ひとりなのよ!」

「ほう。この小娘が。君も地べたにへばりつく影になりたいのかね?」

「やれるもんならやってごらんなさいよ!」

すると矢垣が、ぺらぺらになった紙のような体を揺らしながら、

「マープル!おまえまで影になることはない。僕は消えても構わん。そいつを焼き払え!」

「で、できないわよ!あたしはあんたの従者よ。あたしが影にされたら、影になったあんたの従者になってあげるわよ!」

「マープル!主人の命に逆らうのか!そいつを焼き払え!」

「いやよ!」

「マープル。もういいんだよ。そいつの言うとおり、僕も影に過ぎないようだ。所詮影に過ぎない身なら、消え去ったとしても何の悔いがあろう。けれども、おまえは違う。そいつの言うように、僕は、おまえの影を見ているだけかも知れない。おまえは僕の認識が生み出している幻に過ぎないのかも知れない。でも、僕には、おまえは本物の生身のマープルなんだ。おまえまで影にされてしまったら、僕はこの世界に悔いを残すぞ。マープル、おまえは、主人を苦しめるのか!」

「だって・・・」

「おやおや。美しき主従愛だ。」

そう言って冷笑する影に、矢垣は、

「黙れ!影!愛などという言葉をおまえが口にするな!おまえの言うとおり、なるほど僕は影だろう。僕とマープルの関係も影と影とのつきあいに過ぎないのだろう。けれども、その影こそが、僕にとっては本物なのだ。僕は、そうやって生きてきたんだ。そうやって生きることしかできないんだ!たとえ、この世界が、おまえの言う無限の幻の世界の中のひとつに過ぎないとしても、僕は、いま、この世界に生きている。この世界に生きているからには、この世界の存在を疑うことなんかできない。世界を受け入れてはじめて、生きることができるんだ!おまえは、世界を受け入れようとしない。おまえは生きてはいないんだ!おまえには、いのちがない!あのどうしようもない悪党のカイザルやダイバでさえも、少なくとも、この世界を愛していた。彼らは生きていた。けれども、おまえは、この世界を愛するどころか、この世界の存在を信じることさえしないじゃないか。この世界を信じないおまえに、世界を語る資格はない!さあ、マープル!主人の最後の命令だ!いのちの温もりを知らぬこの憐れな怪物を焼き払え!」

竜に変じたマープルの口から紅蓮の炎が噴き出されるのを見届けると、矢垣の意識は遠のいた・・・

 気が付くと、またしても、荒野の真ん中に倒れている。

「ううむ・・・」

「お目覚め?」

「おお。マープル!影にされずにすんだのか?」

「見りゃ分かるでしょ。地べたにへばりついちゃいないわよ。」

「口の減らないやつだ。まあ、しかし、良かった。危うく影にされるところだった・・・」

矢垣は、目の前の自分の黒い影法師に目をやった。影の言葉が、ふいに思い出された。

「永久に孤独、か・・・」

「え?」

「あ、いや、影がそう言ってたから・・・」

「・・・あんたも孤独なの?」

「僕が?ぷっ。おまえみたいなうるさい従者がくっついてるのに、孤独なわけないだろう。むしろ孤独になりたいくらいだね。」

「・・・ほんとにそう思ってるの?」

「何だよ、おい。そんな恐い顔して。冗談だよ。怒ったのか?」

「べつに・・・」

「何だよ、ぷりぷりして。へんな奴だ。しかし、マープル、こりゃ、いったい、どうなってるんだ?怪物と戦った後は、いつも、こうして荒野に倒れている。気が付いたら何にもない。」

「三匹の怪物たちは、きっと、大魔王メフィストのつくった幻だったのよ。勇者の心を迷わせるための罪の罠・・・」

「むむ。なるほど。そういうわけか。しかしまあ、とにかく、三匹の怪物はやっつけたわけだ。で、これからどうなるんだ?」

「これから、あんたは、ハッピードリームランドにかけられた大魔王の呪いを解くわけ。そして、エンゼル姫を救い出して、百年間閉ざされている天界の門の扉を開く・・・」

「これからがもっとたいへんじゃないか。」

「あたりまえじゃないの。三匹の怪物と戦ったのは、あんたが大魔王の呪いの謎を解けなかった罰なんだから。これで、やっと、エンゼル姫を救いに行けるのよ。」

「やれやれ。やっとスタートラインというわけか。じゃあ、早速、出発しよう!」

「出発しようって何よ。行くのはあんただけよ。あたしのお供は、ここでおしまい。」

「何だって?」

 

              六 出陣

 矢垣は思わず叫んだ。

「だめだ!一緒に行くんだ!」

「無茶言わないでよ。従者マープルの出番はここで終わりなの。説明書に書いてあったでしょう?ここで、さよならよ。」

「説明書が何だ!さよならって、おまえ、それでいいのか?」

「馬鹿ね。そういうことになってるんだから、仕方ないじゃないの。三匹の怪物をやっつけたら、従者の出番はもうおしまい。後は消えてなくなるだけ・・・」

「消える?おまえが消える?」

「そう。それが、ゲームの世界のプログラムが定めたあたしの運命だもの。心配しないで。あたしは平気よ。はじめから分かってたことなんだから。」

そう言ってマープルは、にっこりと笑った。

「・・・連れて行く。」

「え?」

「おまえをハッピードリームランドに連れて行く!」

「無理よ。あたしは・・・」

「そう。おまえは従者マープルだ。従者の出番が終わったら消えてなくなるんだろう?それでは、たったいま、おまえの従者としての任務を解こう。いまから、おまえは、ただの小娘のマープルだ。ただの小娘に過ぎぬマープルを消すようなプログラムは組まれてはいないだろう?」

「馬鹿ね。そんなことしたら、プログラムが壊れちゃうわよ・・・」

「プログラムが壊れたらどうなるんだ?」

「知らないわよ。世界がおかしくなっちゃうんじゃないの?」

「ははは。世界がおかしくなるのか。それもいいじゃないか。プログラムの定めたつまらない運命など、この勇者の剣で断ち斬ってやる。たとえこの天地が崩れようと、僕は、おまえをハッピードリームランドに連れて行くぞ。これからは、説明書には書かれていない旅の始まりだ。」

「・・・」

「何だ、マープル。泣いているのか?めそめそするな。晴れの出陣に涙は禁物だ。」

「泣いてなんかいないわよ。馬鹿。」

「そうそう。そういう減らず口がおまえには似合う。さあ、罪の罠に迷う地獄の荒野はもはや尽きたぞ。いざ行かん、ハッピードリームランドへ。天界の門を押し開けるんだ!」

「あらあら。威勢がいいわね。でも、ハッピードリームランドは、遠いわよ。ドラゴンの背中に乗って行く?」

「ドラゴン?馬鹿言え。おまえと歩いて行くよ。」      

                            (了)