S君の駆け落ち

 

                 一

 S君、と名を伏せよう。T大学大学院理工学研究科の助手であった友人S君が失踪してから、七年が経った。親族の申立てがあり、家庭裁判所による失踪宣告がなされて、既にS君は、法的には「死者」となった。けれども、S君が現実に死んだかどうかは、無論、誰も知らない。いや、きっと何処か遠い町で、生きているのだろう。そうして、目立たないように、平凡な一市民として日々の生活を送っているのだろう。生きていれば、今年、四十歳。ある日突然、ひょっこりと、中年男の分別顔で、私のアパートに遊びに来るかも知れない。死者の訪れだ。けれども、そういう死者の訪れなら大歓迎だ。ビールでも飲みながら、死後の世界の話を聞かせてもらおう。 

 さて、S君の「生前」の話である。

 S君と私とは、高校以来の古いつきあいだ。高校時代から、S君は、工学に強く惹かれていた。ロボット、を造りたいというのだ。それも、二足歩行の人型ロボットである。今でこそ、歩いたり踊ったりする人型ロボットなんてあたりまえになっているが、パソコンどころかワープロさえ一般には普及していなかった当時の技術水準では、人型ロボットなど夢物語で、重い電子計算機やバッテリーを背負い込んだ機械に二足歩行システムを組み込むことなど原理的に不可能であるとさえ言われていたものである。けれども、S君は、ロボットに執着した。そして、S君の夢想するロボットは、二足歩行の人型機械というだけでなく、人間のように言語を解し、感情を有する人工知能を備えたものであった。要するに、漫画に出て来るような人造人間である。二足歩行さえ開発できない状況で、人造人間が実現できるとは、いくら理数系に疎い私でもさすがに信じられなかったが、S君は、あと二、三十年もすれば必ず実現できる、と断言した。そうして、S君の予言したとおり、二十年後のいま、人型ロボットが、人間よりも軽快にダンスを踊り、人間よりも正確にピアノを奏でている。S君の先見の明を、私は素直に認めなければならない。けれども、肝心の、人工知能はどうか。確かに、コンピュータは、人間の能力などはるかに超えるスピードで計算し、膨大な情報を正確に記憶し、百年後の世界動向を予測し、巨大システムを統御し、おまけにチェスの名人たちを苦しませている。もう何だってやれそうである。立派なものである。けれども、それは、コンピュータが人間の言語を解していることになるのであろうか? 感情はどうであろう。コンピュータは、悲しんだり、怒ったりするのか? そして、より困難な問題として、コンピュータに、いのちはあるのか? いや、そもそも、いのちとは、何であろう? 私などには答えようもない難問であるが、完全なる人造人間を夢見ていたS君にとっては、それは避けては通れぬ問題であった。そして、念願かなって難関のT大工学部の入学試験に合格したS君は、私に、こう宣言したものである。

「人型ロボットの二足歩行システムなんて、すぐに誰かが実現してしまうよ。日本中の研究者が寄ってたかって研究しているんだからね。たぶん、僕の出る幕はないよ。僕の研究テーマはね、いのちだ。僕は、いのちのあるロボットを造る!」

 S君は、T大の工学部に進学し、一方、私は、K大の文学部になんとかすべりこんだ。大学は別々になったが、S君と私との交友は途絶えることなく、しばしば会って酒を飲んでは語り合った。そういう時も、S君は、やはり、ロボットの話をして尽きることがなかった。二足歩行システムが実用化の段階に入りつつあること、集積回路の発展により人工知能の研究が劇的に進展しつつあることなどを、コンピュータの実物に触ったことさえないような機械オンチの私に延々と解説するのである。けれども、私は、決して退屈したわけではない。むしろ、興味をそそられた。なぜなら、難解な技術的問題を語り続けるS君の究極のテーマは、いかにすれば機械にいのちを吹き込めるかという、その一点に向けられていたからである。そういう言わば哲学的な問題が関係してくるのであれば、根っからの文系学生である私にも発言できる余地が生じるわけで、S君もまた、酔っ払った私の馬鹿々々しい意見にも耳を傾けてくれたものである。ある夜、S君の学生アパートで一緒に酒を飲んでいた時のこと、S君が、酔っ払って寝転がっていた私に問いかけた。

「おい。ちょっと聞きたいんだがね。」

「あ? 何?」

「あのね。もし、おまえが、将来、結婚して、子どもが一人生まれたとするよね。」

「うん。」

「で、まあ、その子どもは、そうだな、まあ、十歳くらいだ。女の子だ。すごくかわいい女の子だ。で、おまえは、もう、その子のことが目に入れても痛くないくらいかわいい。」

「ふむ。」

「で、奥さんもまた、まあ、おまえ好みの人で、相思相愛の大恋愛をして結婚した人で、おまえは、この奥さんを、心から大切にしているわけだ。」

「大切な奥さんね。はいはい。分かった。それで?」

「それで、だ。いいか。これからが問題なんだが、おまえと、その奥さん子どもが、ある日、山にピクニックに出かけた。そうして、崖の傍を歩いている時、奥さんと子どもが足をすべらせて、崖から転落しそうになった。そこを、おまえが、間一髪で、右手に奥さん、左手に子どもをつかまえて、何とか転落を食い止めたとする。」

「ふむ。つまり、おれの手に、一人づつぶら下がっているわけだな?」

「そういうわけだ。ところが、だ。さすがに、片手で、一人づつ引っ張り上げることはできないんだ。まさに危機的状況というわけだ。崖から転落すれば。確実に死んでしまう。そこで、おまえは、どうする?」

「どうするって、要するに、どちらを見捨てるか、ということかね?」

「まあ、そういうことだね。」

「そりゃ、おまえ、奥さんを見捨てることになるだろうさ。子どもが優先だよ。奥さんもまあ、分かってくれるだろ。」

「そうかなあ。」

「そうさ。」

「何で?」

「何でって、おまえ、そりゃそうだろう。子どもを見捨てて、親が生き延びるなんて理屈は通らねえよ。子どものために親は死ななきゃならんのさ。」

「すると、奥さんのいのちは、子どものいのちよりも軽いのかい?」

「軽いね。断言する。軽い。」

「でも、親のために子どもが死ぬこともあるんじゃないかね。究極の親孝行だろう? 子どもの方から、母親を助けるべく、自らおまえの手を振りほどいて転落したら、それはそれで美しい話になるんじゃないか? 子どもにとっては、母親のいのちの方が、自分のいのちより重かったわけだ。」

「ふむ。親孝行ね。そりゃまあ、親孝行にはなるだろうがね、それは、子どもが自ら母親の犠牲になったからであって、おれがそんなことを子どもに強いることは有り得ないね。おれは、断固、子どもを助ける。」

「そうすると、奥さんと子どものいのちの軽重は、おまえが決定するということになるじゃないか。」

「まあ、そうだね。」

「そうだねって、おまえ、そうしたら、いのちの軽重なんて、その時々で誰が判断するかによって変わってしまうということになるよ。いのちの重さってのは、そんなに相対的なものなのかね?」

「そりゃそうだろう。いのちの重さが絶対的に決定されているとは思えないね。戦争を見りゃ分かるじゃないか。実際のところ、敵兵のいのちなんて、戦場では価値ゼロだろう。むしろマイナスでさえある。殺すか殺されるかだからね。けれども、その敵兵も、本国の家族にとってみれば大切な人たちなわけだ。その場その場で、いのちの軽重なんかどうにでも変化するよ。だいたい、おまえ、いのちなんて人間の専売特許じゃないんだぜ。動物にも植物にもいのちはあるんだからね。けれども、人間様は、牛や豚を平気で殺して食べちゃうし、植物なんて、それこそ何の傷みも感じずに刈り取ったり除草剤まいたりしてるじゃないか。いのちの軽重が相対的なものに過ぎないなんてことは、自明の理だよ。」

「同じいのちなのに、その価値はどうにでも変化するというわけか。」

「同じいのち? 同じ? さあ、そいつはどうかねえ。」

「何が、どうかねえ、なんだよ?」

「だって、ちょっと意地悪なことを言うけどさ、例えば、植物のいのちと、人間のいのちとが同じだって、何で分かるんだよ。おまえ、いのちってものを見たことがあるかい? 目に見えもしないものを比べることなんてできないだろ。同じいのちっていう前提自体が、そもそもおかしいんじゃないか? おまえの言ういのちってのは、いったい、何だよ? 見て比べられるような形のある物体かい?」

「え? いのち? そりゃまあ、物体とかじゃなくて、ええと、そうだな、つまり、生命活動のことじゃないのかね?」

「じゃあ、生命活動って何だよ。食って消化することかい? それじゃ、有機物を分解して熱量を発生させるという化学作用こそがいのちということになるぜ? 何で化学作用をわざわざいのちなんぞと呼んで大事にする必要があるんだよ?」

「いやいや、生命活動ってのは、そんな化学作用のことなんかじゃない。そうでなくて、生命活動ってのは、つまり、その、生命を維持するための活動だよ。」

「おいおい。そもそも、その生命ってのが、いのちを前提にした概念じゃないか。それじゃ、循環論法だよ。」

「ふむ。じゃあ、いのちってのは何だよ。」

「分からんねえ。少なくとも、ヒトダマみたいな物質的なものじゃないだろうがね。そうだなあ、何かまあ、こりゃ生きてるなあって感じがするものに宿るものなんだろうなあ。ああ、分かった! あれだ、つまり、精霊だよ。精霊。」

「何だよ、それ。いい加減だなあ。宗教論じゃ話にならんよ。」

「だって、分からんもんは仕方ないじゃないか。かの二十世紀最大の哲学者ウィトゲンシュタインも言ってるじゃないか。人は語り得ないものについては沈黙しなければならないってね。いのちなんてものは宗教の分野だよ。精霊が万物に宿るのさ。何せ、ここは八百万の神様がいる国なんだからね。そういうわけさ。」

「精霊ねえ。じゃあ、その精霊とやらは、ロボットにも宿るのかい?」

「おっと、いよいよロボットが来たな! ロボットに精霊か。ふむ。ロボットだって、こりゃ生きてるなあ、という感じなら、精霊が宿るんじゃないの?」

「機械に精霊が宿るのかい?」

「機械だろうが何だろうが、精霊は宿りますよ。だって、おまえ、この国じゃ、無機物に過ぎない岩石だって、シメ縄を張って神様として祀っている神社がいくらでもあるんだぜ? 岩石が神様になれるのに、ロボットに精霊が宿らない理由はないだろ。安心しろ。おまえの造るロボットにも精霊が宿るよ。このおれが保証する。神様にだってなれるかも知れないぜ・・・」

「ふむ・・・」

S君は、腕組みをすると、じっと考え込んだ。ずいぶん長い沈黙の時間が過ぎた。酔いの回っていた私は、そのまま寝てしまったようである。          

                 二

 大学を卒業して、私は、学習塾の講師になった。一方、S君は、無論のこと大学院に進学した。その後、S君が、コンピュータのいのちを造るべくいかに勉学に励んだかは、まあ、言うまでもない。T大理工学研究科博士課程を極めて優秀な成績で修了したS君は、そのまま、同研究科の助手として大学に残った。そうして、そこから、S君の苦難の道のりが始まったのである。大学院生時代には、あくまで指導教授の忠実な弟子として、教授に与えられた研究テーマを無難にこなしてきたS君は、助手に就任したことを契機として、十年来の宿願であった人造人間の研究にいよいよ着手したのである。S君の将来に大いに期待を寄せていた指導教授は、S君の研究対象が、研究室の研究分野である産業用ロボット論から乖離しつつあることを知り、S君の将来を危惧した。が、それでも、この老教授は、S君の研究に理解を示して、S君の組み立てた不恰好な二本足の機械の塊が、よたよたと研究室を歩く様子をにこにこして見守っていた。教授の後ろ盾を得て、S君は、研究に没頭した。二足歩行システムの開発に文字通り寝食を忘れて数年間を費やした。そうして、ようやくその原型らしきものを作り上げたという自信を得た丁度その時、大手自動車メーカーが、超高性能の二足歩行型ロボット開発に成功したことを発表した。その画期的ロボットは、S君の開発したシステムを遙かに超えるものであることは明らかであった。この時のS君の悲嘆を語り得る言葉を私は持ち合わせていない。が、二足歩行システムが、いずれ誰かの手で実現されるであろうことは、S君の覚悟していたことである。S君の究極の研究テーマは、ロボットのいのちを造ることにある。S君は、決然として、新たな研究テーマに取り掛かった。ロボットに言葉をしゃべらせます、と、S君が教授に申し出た時は、教授も、さすがに驚きをかくせなかった。が、今度も、教授は、これを認めた。しかし、その一方で、助教授との仲は険悪になっていた。助教授は、S君の研究が研究室のテーマとは無関係だと主張して、S君の解職を教授に求めるようになった。もっとも、それは表向きの理由で、その裏側に、ロボット研究におけるS君の才能と熱意に対する対抗心、そして、そういうS君の研究に支援を惜しまない教授の愛情に対する嫉妬がなかったといえば嘘になるだろう。無論、教授は、S君の解職を認めなかった。研究室内の人事権を握る教授が認めない以上、助教授も引き下がるしかない。もっとも、定年の迫っている教授の後任には、この助教授が繰り上がりで昇進することが既に決定していた。助教授が教授に昇進すれば、二年毎に更新される任期制の助手に過ぎないS君の解職は直ちに実行に移されることになるだろう。老教授としては、せめて自分の在任間は、自分の愛弟子であるS君に好きな研究をさせてやりたかったのかも知れない。そうして、そういう事情は、S君も十分に承知していた。時間がない、と焦らざるを得なかった。が、研究は進まなかった。二足歩行システム、ロボットアーム、あるいは画像や音声の識別システムといった、言わばロボットの身体的機能に関しては、S君自身も満足できる高水準のものを既に造り上げていた。けれども、ロボットに言葉をしゃべらせるという人工知能の問題だけは解決することができなかった。あらかじめプログラムされた言葉を、会話のパターンに応じて選択してスピーカーから発声させるというだけでは、言語を理解していることにはならない。それは、言葉をしゃべっているのではない。オウム返しするオウムと同じである。言葉をしゃべっていると言うためには、言葉の意味を理解していなければならない。では、言葉の意味とは何なのか? 言葉とは何だ? S君の苦悩は深まった。泥沼に陥った思いであった。そして、ついに、最後までS君の味方でいてくれた老教授が定年退職した。予定通り、助教授が教授に昇進した。新任教授は、S君に対して、今期限りで任期制助手としての職を解くことが教授会で承認されたことを冷やかな声で通告した。

 S君から、ほとんど一年ぶりに酒の誘いを受けた私は、学習塾の勤めが終わるや、指定された居酒屋に急いだ。S君は、居酒屋の一番奥のテーブル席に座って待っていた。私は、S君を一目見て、どきりとした。別人かと思ったのである。頬はこけ、眼鏡の奥の目は落ち窪み、目の周りには濃い隈ができていた。

「やあ、久しぶり。」

と、S君が、意外に明るい調子で迎えてくれたので、私は少し安心しながら、

「おい、ずいぶん、やせたんじゃないか? 相当、無理してるんじゃないのか?」

と言った。すると、S君は、微笑みながら、

「うん。いま、二足歩行の人型ロボットを造っているんだ。自信作だよ。」

と、うれしそうに言った。

「何だよ、おい、にやついてるぜ? いよいよ、人造人間の誕生というわけか?」

「いや。まだまだ、そううまくは行きそうにない。取りあえず体は造ったけど、その体にいのちを入れてやることができないんだ。それに、最近、ちょっと困ったことがあってね。」

S君はそう言うと、たちまち暗い顔になった。そうして、今期限りで助手を解任されることになった経緯を説明した。

「そうか。そうすると、時間との勝負ってわけだな。」

「まあね。でもまあ、ちょっと良さそうなアイデアを思いついてね。で、まあ、おまえに聞いてもらおうと思って呼び出したわけだよ。」

「ほう。そうか。まあ、しかし、難しい話は、ビールでも飲んでからにしよう。」

 私がぐいぐいビールを飲む間も、S君は、ほんの少し、ジョッキに口を触れるだけで、私が酔っ払うのを待っているような様子であった。酔っ払った私が、そのアイデアに対して、学生時代のように、ずけずけと馬鹿々々しい意見を吐くのを期待しているのかも知れなかった。そういうS君の期待を感じていた私は、遠慮なく、ぐいぐい飲んだ。

「ああ、酔った。いい気分だ。」

「そうだな。」

「何が、そうだな、だ。おまえ、全然、飲んでねえくせに。で、何だ、その、アイデアってのは? 気に入ってるのかい?」

「うん。」

「よし。早く言え。おれが徹底的にやっつけてやる。」

「そう脅かすなよ。実はね、僕は、ロボットに言葉をしゃべらせたいと思ってるんだ。」

「何だ。今更言わなくても、そんなこと知ってるよ。で、ロボットはしゃべったのか?」

「まあ、待てよ。それでだ、僕は、当然ながら。言葉について考えた。そして、あることに気付いたわけだ。」

「ほう。」

「これまで、僕はね、言葉というものは、何かこう、実体として存在しているかのような錯覚に陥っていたんだ。そうだな、例えばだね、ここに焼き鳥の皿があるよね。これは、言葉としては、『皿』という音声記号で表現される。」

「ふむ。『皿』という音声記号ね。その通りだ。間違いない。」

「それでだ、僕は、これまで、ここにある物体としての皿と、音声記号としての『皿』とが、一対一の対応関係にあると考えていたんだ。そして、この『皿』という音声記号のことを言葉と呼んできたんだ。」

「そうだろう。物体に対応する音声記号が、言葉さ。」

「いや。違う。」

「違う?」

「そう。違うんだ。僕は、それに気が付いたんだ。これまで、僕は、言葉を音声記号のことだと考えていたから、ロボットに言葉をしゃべらせるためには、皿の画像パターンと『皿』という音声記号を覚えさせて、皿の画像パターンに対応する『皿』という音声記号をロボットに発音させればいいはずだと思っていた。」

「それでいいんじゃないのか?」

「だめなんだ。その場合、ロボットは、確かに、皿の画像パターンを見せれば、『皿』という音声記号を内蔵スピーカーから出力する。外見上は、いかにも、言葉をしゃべっているように見える。けれども、その場合、このロボットは、皿の存在を認識しているわけじゃないだろう? 画像パターンに応じて音声を発しただけだ。つまり、太鼓を叩いたら音がした、というのと何ら変わらないんだ。」

「そりゃまあ、そうだな。それで?」

「それでだ、僕は考え方を変えたわけだよ。従来のように、画像パターンに対応する音声記号として言葉を考えるのであれば、これまでの僕のやり方は間違っていないはずだ。けれども、それだと、ロボットは、決して物体の存在を認識しない。そうだとすれば、画像パターンに対応する音声記号として言葉を考えるという今までの考え方自体が、そもそも間違っていたんじゃないかって思ったんだよ。」

「ふむ。」

「例えば、ほら、この皿だけどね、この皿は、つまり、画像パターンだろう? そうして、『皿』という音声記号だって、音声パターンに過ぎないんだ。要するに、どちらも、感覚的パターンなんだ。その意味で、どちらも本質的には同じなんだ。画像パターンは、色の違いに過ぎないし、音声パターンは音波の違いに過ぎない。それにもかかわらず、一方の音声パターンのみをわざわざ言葉と呼んで特別扱いする理由はどこにもないんだよ。べつに言葉は音声パターンでなければならないわけじゃないからね。現に、手話は、明らかな画像パターンであるにもかかわらず、異論なく言葉として認められているだろう? 要するに、僕たちは、錯覚しているんだよ。言葉というのは、何か特別な記号を意味するものじゃないんだ。」

「すると、言葉とは、何だい?」

「そう。肝心なところだ。僕はね、言葉というものは、物体に対応する記号のことなんかじゃなくて、ある感覚的パターンと、別の感覚的パターンとの間にある対応関係それ自体のことだと気が付いたんだよ。この皿という物体の画像パターンと、『皿』という音声パターンの対応関係それ自体が、言葉なんだ。つまり、言葉というものには、実体はないんだよ。感覚的パターン相互の関係それ自体が、言葉なんだ。だから、物体に対応する記号なんて、言葉の構成要素ではなかったんだよ。記号なんてどうでもいいものだったんだ。」

「ふむ。対応関係それ自体が言葉か。言わば、記号不要論だな。しかし、物体に対応する記号がなきゃ、言葉をしゃべっていることにならんのじゃないか? 記号なんてどうでもいいというわけにはいかないだろう? やっぱり記号は不可欠だよ。」

「いや。記号は不可欠じゃないよ。ほら、この皿を見てみろ。おまえが、これが皿であることを認識する時に、いちいち『皿』という音声記号を口にするかい?」

「そりゃ、しないよ。でも、頭の中では、『皿』という記号を思い浮かべてるよ。」

「頭の中で? 本当かい? いちいち頭の中で、『皿』という記号を思い浮かべているかい? べつに『皿』なんて記号を思い浮かべたりしなくても、丸くて白い物体が存在していることはちゃんと分かってるんじゃないかい?」

「ふうむ。そう言われるとそんな気もするな。まあ、確かに、いちいち『皿』と思い浮かべているわけじゃないな。」

「そうだろう? それが、対応関係それ自体というわけだよ。そして、それこそが、言葉の本質的な構成要素なんだ。記号が言葉じゃないんだ。対応関係それ自体があれば、記号を使わなくても、言葉として機能するんだよ。例えば、砂漠で、のどがカラカラになった僕が、オアシスの泉水に向かってよろよろと歩いて、泉水の水をがぶがぶ飲んだという場合、僕のそういう行動自体が、僕が水を求めていることを意味する言葉として機能している。つまり、その時の僕は、ちゃんと、水という物体の存在を認識しているし、そういう僕の行動を見ている人も、僕が水を求めていることをちゃんと認識できる。僕が水を求めた行動と、水という物体の存在との間に、対応関係それ自体があるからだよ。いちいち『水』という音声記号を介在させる必要はないんだ。逆に、たとえ『水』という音声記号を僕が口にしていたとしても、オアシスの泉水に見向きもしなかったとしたら、この『水』という音声記号は、言葉として何の意味もなかったということになるだろう? 対応関係それ自体こそが、言葉の本質的な構成要素なんだよ。記号は、この対応関係それ自体がなければ何の意味もないんだ。けれども、僕は、この記号こそが言葉だと錯覚していたんだよ。記号自体には言葉としての意味はなかったんだ。記号が言葉としての意味を持つとすれば、それは、話し手と聞き手が、対応関係それ自体を共有している場合だけなんだよ。」

「ふむ。なるほどね。記号がなくても言葉は成立するというわけか。確かに、記号なんか使わなくてもコミュニケーションは成り立つな。小鳥の求愛ダンスなんか、そうかも知れないな。いちいちアイラブユーなんて言わないからな。まあ、記号があれば何かと便利だけどね。本心は愛してなんかいなくても、アイラブユーでごまかせるしね。」

「そういうアイラブユーこそ、対応関係それ自体がない無意味な記号だよ。」

「おっと。無意味だって? そんなことはないさ。世の中にゃ、その無意味な記号にだまされる女がゴマンといるんだぜ? 無意味どころか、大いに意味があるよ。悪い意味がね。まさに、人間の罪の源泉は記号にあり! というわけだな。」

「おいおい。宗教論じゃないよ。」

「ははは。分かってるよ。まあ、おまえの記号不要論に、取りあえず賛成しておこう。それで、そのことと、ロボットに言葉をしゃべらせることと、どう関係してくるんだい?」

「うん。そこだよ。記号なんて、所詮おまけにすぎないんだから、ロボットに本当の意味で言葉をしゃべらせるためには、画像パターンに対応する音声記号をいくら覚えこませたって意味がないんだよ。そうでなくて、画像パターンと音声記号との対応関係それ自体を理解させなきゃいけないんだ。そうでなければ、ロボットは、決して物体の存在を認識したことにならない。永遠に、叩けば音が出る太鼓のままだ。」

「ふむ。そりゃまあ、そうだな。でも、ロボットに対応関係それ自体を理解させるってことは、要するに、ロボットに認識そのものをやらせるってことになるんじゃないか? それじゃ、話が振り出しに戻っただけだぜ?」

「そうなんだ。結局、堂々巡りになっちゃうんだ。そこで、ちょっと、哲学科を出たおまえの意見を聞きたいんだよ。認識ってのは、つまり、何だと思うかね?」

「ふむ。認識論か。こりゃまた、やっかいだな。まあ、授業で習ったことを受け売りすれば、認識というのは、つまりは、言語によって世界を細切れに細分すること、ということになるだろうな。世界ってのは、言語があるからこそ意味があるわけで、言語がなければ、ただの混沌だからね。混沌とした世界の一部分を、言語で区切ることが、認識だよ。例えば、この皿だが、これは、おまえがさっき言った通り、画像パターンだ。白くて丸い画像パターンだな。けれども、この白くて丸い画像パターンは、『皿』という言語によって、その背景であるテーブルの茶色の画像パターンから区切られているからこそ、皿として認識できるわけで、『皿』という言語がなければ、この白くて丸い画像パターンは、茶色いテーブルの画像パターンの中のしみに過ぎなくなる。つまり、テーブルと皿とが別々の物体として区別されずに、混沌とした状態になるわけだ。さらに言えば、この場合、皿という物体は、存在さえしなくなる。言語によって混沌から区分されてはじめて、物体は、存在することができるわけだ。言語がなければ、物体は存在しないし、従って、世界も存在しない。言い換えれば、言語が世界を生んでいるわけだ。まあ、おまえのお気に入りの記号不要論から言えば、この場合の言語というのは、『皿』という音声記号そのもののことではなくて、白くて丸い画像パターンと、『皿』という音声記号との間にあるはずの対応関係それ自体ということになるだろうな。」

「ふむ。でも、言語がなければ世界が存在しないというのは、ちょっと言い過ぎなんじゃないか? 言語があろうがなかろうが、世界が混沌としていようがしていまいが、世界はもともと存在するだろう?」

「そこがまあ、存在論でいろいろと議論のあるところさ。確かにまあ、言語があろうがなかろうが、さらに言えば、人間がこの世にいようがいまいが、世界は初めから存在するという考えも当然ある。一方、いま言ったように、言語によってはじめて世界は存在するという考えもある。どちらが正しいとも言えないんだよ。要は、世界観の違いだからね。イデオロギー的な対立と言ってもいいな。けれども、まあ、おれは、言語がなければ世界は存在しないと考えるね。」

「なぜ?」

「ふむ。まあ、好みの問題と言ってしまえばそれまでだがね、そうだな、この皿だがね、この皿から色も形も重さも取り除いたら、後には何が残ると思うかね?」

「何も残らないじゃないか。」

「そう。何も残らないんだ。つまり、物体から感覚的パターンをすべて取り除いたら、その物体は存在しなくなるんだ。おかしいとは思わんかね?」

「どうして?」

「だって、感覚的パターンを認識しているのはおれだぜ? 物体が感覚的パターンの集合体として存在しているのであれば、おれが感覚的パターンを認識しないことによって、その物体は存在を否定されるわけだよ。つまり、この皿が存在するかどうかは、おれが決定しているんだ。おれが認識していれば、この皿は存在するし、おれが認識してなければ、この皿は存在しないんだよ。そうして、おれの認識とは、いま言ったとおり、言語によって生まれているんだ。だとすれば、言語がなければ世界は存在しないということになるじゃないか。」

「しかし、この皿をおまえが認識していなかったとしても、別の人が認識していれば、この皿は存在していることになるじゃないか? おまえだけで世界の存在を決定できるわけじゃないだろう?」

「そう。そこが、好みの問題だと言うのさ。確かに、客観的に見れば、別の人が認識していれば、この皿は存在していることになるかも知れない。でも、おれにとって存在しないものが、他人にとっては存在しているとしても、それが、おれにとって何の意味があるんだい? おれにとっては存在していない以上、他人にとって存在しようがしまいが、そんなことはどうでもいいじゃないか。それに、そもそも、他人にとって存在しているかどうかなんて、おれには決して分からんじゃないか。だって、おれには、その皿が見えていないんだからね。おれには見えていないものを、いくら他人が見えると言っても、おれは、それを信じるわけにはいかないよ。それじゃまるで裸の王様になっちゃうからね。でもまあ、確かに、自分には存在してなくても、他人にとっては存在するなら、それは存在することになるんだ、という客観的な考えも、もちろん成り立つよ。だから、好みの問題なのさ。おれは、自分にとって存在しないものは、いくら他人にとって存在していようとも、知ったこっちゃない、というわがままなタイプの考えの方が好みというわけだよ。裸の王様にはなりたくないんでね。」

「好みの問題ねえ。」

「そう。結論は決して出ないよ。どちらを選ぶか、だ。天動説と地動説と、どちらを選ぶか、という問題と同じだよ。」

「え? そりゃ、地動説に決まってるだろう? おかしな例えだな?」

「おいおい。それこそ、学者のおまえらしくもない先入観だぜ。天動説は、別に、地動説に論破されたわけじゃないぜ。高校の物理の先生が言ってたじゃねえか。おれは、物理なんてチンプンカンプンだったが、そういうどうでもいいことだけは覚えてるんだ。」

「そんことあったっけ? で、先生が何て言ったんだい?」

「だから、天動説は、別に、地動説に論破されたわけじゃないってことだよ。地球が太陽を回ろうが、太陽が地球を回ろうが、そんなことは相対的な関係に過ぎないんだから、どっちだっていいんだっていうわけさ。電車に乗っている人から見て、電車が前に進んでいると考えようが、電車の外の世界が後ろに進んでいると考えようが、同じことだろ? じゃあ、何で、天動説が捨てられて、地動説が採用されたかって言えば、単に、天体運行の予測計算が楽だったからだよ。天動説だって、火星の逆行運動だの年周視差だのといった天体現象を説明しようと思えばできないわけじゃないんだけど、その説明が、複雑極まりないややこしいものになっちゃうわけさ。つまり、天動説は、面倒くさかったんだよ。理由はそれだけだぜ。地動説の方が計算が楽だというだけで、べつに予測の精度が優れていたわけじゃないんだ。先生によると、精度だけなら、むしろ天動説の方が優れていたそうだよ。でも、学者たちは、計算が楽ちんで便利な地動説の方を選んだ。そうして、その地動説を前提に、ニュートン先生が大活躍しちゃったから、もう今更、天動説には戻れなくなったというわけさ。」

「へえ。あの先生がそんなこと言ったのか。」

「そうだよ。まったく、おまえは、クソ難しい方程式はせっせとノートに写してたくせに、こういう先生の無駄話にはまったく興味がなかったらしいな。」

「まあね。」

「まあね、じゃねえよ。それで、話を戻すとだな、要するにだ、裸の王様になりたいか、なりたくないか、という好みの問題だってことだ。自分が目にしていることよりも他人の言うことの方が信じられるという素直な心の人は、まあ、世界の存在を客観的に考えればいいわけだよ。一方、おれのように疑り深い根性の曲がった奴は、他人が何と言おうと、自分の目で見ていることだけが確かな世界だと主観的に考えるわけさ。おまえは、どっちがお好みかね?」

「どうかな。他人を信じたい気もするなあ。僕一人だけの世界というのは、ちょっと、さびしい気がする。」

「ふふ。おまえらしいな。べつに、どちらでもいいのさ。客観か、主観か、どっちが好きかというだけのことだよ。」

「でも、おまえのように、世界の存在を主観的に考えると、おまえ以外の他人の存在なんかどうでもいいってことになるんじゃないか?」

「そう。他人の存在なんかどうでもいい、というか、他人なんかそもそも存在しないことになる。だから、おれのような考えは、独我論なんて呼ばれたりするわけ。」

「おいおい。そりゃ、さすがにおかしいだろ? おまえは一人で生きているわけじゃないんだぜ?」

「ところが、ちっともおかしくないのさ。おれのような考えからすれば、他人の存在も、おれが決定することになるんだ。例えば、いま、おれの目の前におまえがいるよな?」

「いるよ。」

「そう。確かに、おまえという、一個の人間の形をした画像パターンを、あるいは、おまえの口から出てくる音声パターンを、おれはいま、目や耳で認識している。従って、おまえは、おれにとって存在する。けれども、おまえの画像パターンや音声パターンを、おれが何らかの理由で認識していなかったとしたら、おまえは、おれにとって存在しないということになるのさ。おまえという一個の人間の存在は、おれが認識しているかどうかで決定されるわけだよ。無論、おまえにしてみれば、ずいぶんふざけた話に聞こえるかも知れないが、論理的には、そういうことになるんだ。おまえという存在は、おれにとっては、いくつかの感覚的パターンの集合体に過ぎないわけだ。おまえから、肌の色や、形や、重さを取り除いたら、おまえという存在は消えてしまう。いくらおまえが、僕は存在する! と、おれに向かって抗議しても、おれは、そんな抗議は聞こえやしないんだから、全然知ったことじゃないわけさ。この世界を構成する物体は、それがこの皿であれ、おまえのような他の人間であれ、このおれの認識によってはじめて存在しているんだ。つまり、おれにとっては、おまえは、おれの認識によって生み出された幻と同じということになる。さらに言えば、仮に、おれの認識が、まったく架空の人物の幻を生み出したとしても、おれには、その人物が架空の幻かどうかの判別はできないことになる。おれの認識によって生み出されている以上は、その幻の存在を疑うことはできないからね。つまりは、いま目の前にいるおまえが、実は幽霊だったとしても、おれには、おまえが幽霊かどうかの判別はできないし、そもそも幽霊かも知れないという疑いさえ抱かないわけだよ。世界を主観的に考えると、他人の存在もまた、幻や幽霊と区別できない程度の、どうでもいいものになってしまうのさ。そして、そういう結論は、論理的には、別に、ちっともおかしくはない。けれども、おまえの言った通り、おれは一人で生きているわけじゃないからね、やっぱりおかしいじゃん、という反論が出るのも当然なわけだけど、でも、その反論の方がおかしいんだよ。確かに、おれは、一人で生きているわけじゃないけれど、でも、このおれ自身が、おれにとっては、やっぱり、おれの認識によって生み出されている幻に過ぎないかも知れないんだよ。おれ自身もまた、いくつかの感覚的パターンの集合体に過ぎないんだから、そういうおれ自身の感覚的パターンを、このおれ自身が認識しなかったなら、おれという存在は、この世界から消えてしまうんだからね。だから、おれが一人で生きているわけじゃない、なんていうことは、何の反論にもならないんだよ。おれも、単なる幻に過ぎないかも知れないんだから。」

「なんだか、ずいぶん、ややこしいな。おまえ自身も、おまえ自身の認識によって生み出された幻だって?」

「そういうこと。」

「でも、認識しているのは、おまえ自身じゃないか。そうだとすると、自分で自分を認識して自分を生み出しているということになるよ? 自分で自分を生み出すというのは、明らかに論理に反するぜ?」

「ところが、そうはならないのさ。」

「どうして?」

「そこが、面白いところさ。おれ自身を認識しているのは、おれじゃないんだよ。おれ自身を認識しているのは、おれ自身も知らないおれ自身なのさ。これが、世に言う認識主体というやつだよ。認識論の最大のテーマと言っていいだろうな。」

「認識主体?」

「そう。認識主体だ。おまえの言った通り、自分で自分を認識して自分を生み出すなんてことは、明らかに論理的におかしい。けれども、このおれ自身を認識して、このおれ自身の存在を生み出しているのは、このおれ自身とは別のおれ自身なんだよ。この、別のおれ自身のことを、認識主体と言うのさ。この認識主体が、世界を認識して、世界の存在を生み出しているんだよ。この皿であれ、おまえという他人であれ、あるいは、このおれ自身であれ、この認識主体の認識によって、はじめて存在しているというわけだ。おれにとっての全世界は、おれの認識主体が生み出しているんだよ。そうして、繰り返しになるけど、自分で自分を認識して自分を生み出すことなんてことは論理的にできないんだから、論理的帰結として、この認識主体というやつは、この世界の中には存在し得ない。この世界の中に認識主体が存在しているとすれば、認識主体が自分で自分を作り出すことになっちゃうからね。そんなことは有り得ない。そうすると、この認識主体というやつは、この世界の外にあるということになる。いいかい? 世界の外にあるんだよ。まあ、俗な言い方をすれば、この世のものじゃなくて、あの世のものというわけさ。」

「世界の外? あの世だって? それじゃ、宗教論じゃないか。」

「そりゃそうさ。宗教と哲学は切っても切れない関係にあるんだから。ついでに言えば、この認識主体が、さっきの客観的な世界観の立場から言えば、魂と呼ばれることになるんだぜ?」

「魂だって?」

「そうさ。世界を主観的に考える立場にとっての認識主体が、世界を客観的に考える立場にとっては魂になるんだよ。そうだな、おまえは客観的な世界観が気に入っていたから、認識主体などという哲学用語よりも、魂という方が分かりやすかったかな?」

「どっちも分かりにくいよ。」

「ははは。まあ、そりゃそうだ。さっきも言ったが、世界を主観的に考えるか、客観的に考えるかは、所詮、理由づけの違いであって、結論は同じなんだよ。天動説と地動説みたいなもんだ。認識主体と魂だって、言ってることは同じなんだけど、それぞれの理由づけの仕方が少しばかり違うというわけだよ。まず、おれ好みの主観的な世界観では、さっきも言ったように、この世界は、おれの認識主体が作り出している。この場合、世界が幻であろうがあるまいが、そんなことは、おれには関係ない。おれの認識主体が認識している以上、世界は存在していることになる。そして、この認識主体というやつは、論理的に、この世界の外にあるものだから、それがいかなるものかなんてことは、おれには決して知ることはできないわけだ。あの世のことなんか、おれには分からんからね。一方、おまえ好みの客観的な世界観では、たとえおまえ自身が認識していないものでも、客観的に、世界は存在すると考えるわけだ。おまえの目に見えていないものでも、他人が見えると言えば、それは存在する。それどころか、この世界に人間なんかいなくても、世界は初めから存在すると考えるわけだよ。おまえ自身の認識にかかわらず世界は客観的に存在するんだからね。世界は初めから確固として存在しているわけだ。でも、そう考えてしまうと、ちょっと困った問題が生じてしまうことになる。」

「問題?」

「うん。ほら、この皿だけれどね、色も形も重さも取ってしまったら、後には何も残らないと言ったよな?」

「うん。残らない。」

「けれども、客観的な世界観の立場からすると、何も残らないんじゃ困るんだよ。」

「どうして?」

「だって、おまえ、客観的な世界観では、おまえ自身の認識にかかわらず世界は客観的に存在すると考えるんだぜ? この世に人間なんかいなくても世界はそもそも存在するんだよ。そういう確固たる世界が、色や形といった感覚的パターンを取り去ったら、たちまち跡形も無く消えてしまうというんじゃ、主観的な立場と同じになっちゃうじゃないか。」

「そうか。なるほどね。」

「それでだ。客観的な世界観としては、この皿から色だの形だのといった感覚的パターンをすべて取り去ったとしても、それでも、そこには、そういう感覚的パターンを生み出している本体とも言うべき何かが残っているはずだ、と考えるわけだよ。」

「何が残ってるんだよ?」

「さあ、それは、誰にも分からないのさ。誰にも分からない何かが残ってるんだよ。カントは、これを、物自体と呼んだみたいだけどね。」

「物自体ねえ。」

「そう。物自体だ。すると、今度は、当然ながら、そういう物自体は、そもそも、何で存在するんだ、という問題が生じるわけだ。初めから存在するんだ、というのでは、答えにならない。その初めとはいったい何だ、ということになるからね。世界の初めを生み出すためには、論理的に、世界の生まれる前の存在がどうしても必要になるんだ。世界の初めを生み出す存在だ。これを、神と呼ぶ。」

「神だって?」

「そう。神だ。確固たる世界の存在を前提とする客観的世界観では、論理的に、世界の初めを生み出した神を必要とせざるを得ないんだ。まあ、この神は、宗教上のものじゃなくて、言わば、哲学的神とでも言うべきものだがね。もっとも、そういう神は、世界の初め以前の存在だから世界の外にあるということになる。そこで、当然ながら、それがいかなるものかは、この世界の中の人間には決して分からんというわけだ。だから、神はいるとも言えないし、いないとも言えない。でも、何処かにいてくれなきゃ困るというわけだ。」

「ふむ。」

「そして、客観的な世界観には、さらにもうひとつ、やっかいな問題が生じる。客観的な世界観では、世界は、初めからそもそも存在するものであって、人間の認識の有無で左右されるようなものじゃない。この場合、認識とは、世界に初めから存在する物体から生じる色とか音とか臭いみたいな感覚的パターンを、目、耳、鼻といった感覚器を介して脳に知覚させる作用として説明されることになる。つまり、世界から脳へのインプット作用だ。まあ、大抵の人は、認識のプロセスを、こんなふうに考えるんじゃないか?」

「僕もそう考えるよ。常識的な考え方だよ。」

「そう。常識的な考え方だな。世の中の大抵の人も、おまえと同様、客観的な世界観がお気に入りというわけさ。みんな、世界は確実に実在する、と信じている。だから、当然ながら、認識とは実在する世界から脳へのインプット作用のことだと考えている。けれども、この常識的な考え方が、かえって、やっかいな問題を生むことになったんだよ。主観的な世界観とは違って、客観的な世界観では、幻はあくまで幻であって、初めから確固として実在する世界とは明確に区別される。だから、幻を見ている本人にとってはそれがどんなに生々しい幻であっても、客観的には、そんなものは実体のない幻覚に過ぎないということで、そんな幻の存在なんかは無視されるだけだ。まあ、例えば、おまえが、いくら生々しい化物の姿を見たとしても、他の人がそれを見てないなら、あるいは生物学的にそんな化物がいるわけがないと判定されれば、そんなものはおまえの幻覚に過ぎないということになって、その化物の存在は無視されるというわけだ。なぜなら、幻覚というものは、おまえが勝手に作り出した認識だからだ。客観的な世界観では、この実在する世界と関係なしに勝手に認識を作り出すことなんか認めないんだ。そうでないと、世界が確固としたものにならないからね。つまり、幻の世界を作り出すというアウトプット作用は、決して認識としては認めてもらえないというわけだよ。認識は、あくまで、実在する世界から脳へのインプット作用としてのみ認められる。そうして、医学の常識に従い、当然ながら、この認識は、脳の中でなされているということになる。つまり、脳を認識主体と見るわけだ。要するに、主観的な世界観では世界の外にあるとされる認識主体を、客観的な世界観では、頭蓋骨の中に閉じ込めたわけだよ。この、頭蓋骨の中に閉じ込められた認識主体のことを、魂と呼ぶのさ。もちろん、宗教的な意味じゃない。言わば、哲学的魂というやつだ。世界から脳へのインプット作用としての認識しか認めない客観的な世界観では、論理必然的に、頭蓋骨の中に閉じ込められた認識主体、すなわち、魂を必要とせざるを得ないんだよ。そして、この頭蓋骨の中の魂が、世界を認識したり、自我を認識したりするというわけさ。ところが、ここで、やっかいな問題が生じるんだ。残念ながら、頭蓋骨を開けて脳みそをいくら調べても、そんな魂なんか、ちっとも見当たらないんだよ。脳細胞の知覚システムなんて、結局のところ、神経細胞間の電気信号のやりとりだからね。そうなると、逆に、客観的な世界観そのものが疑わしくなってくる。主観的な世界観の言うように、この世界は、所詮、幻に過ぎないんじゃないか、ということになりかねないわけだよ。だから、ますます、何が何でも、脳内に魂を見つけなきゃいけなくなるわけさ。デカルトのようにね。」

デカルトのように?」

「そう。デカルトは、魂の居場所を探し求めて、脳みそをほじくりかえして、松果体こそが魂の居場所だと考えたのさ。松果体って知ってるかい?」

「いや、知らない。」

「そうだろう? 医者以外は誰も知らないような器官さ。体内時計を調節するホルモンを分泌する器官だそうだけど、さすがに、魂の居場所ってわけにはいかないだろうな。でも、客観的な世界の実在を前提とする限り、脳内に魂の居場所を求めたデカルトの方法それ自体は、極めて正当だったわけだよ。人体の中で、魂と関係がありそうな場所といったら、医学的には、脳しか考えられないからね。そして、デカルトと同じ苦労を、現代の脳科学者も味わっているというわけさ。主観的な世界観では、世界の認識の問題は、ぜんぶ、世界の外の認識主体が勝手にやっていることであって、誰もその仕組みを知ることは出来ないというわけだから、理屈としては実に単純、というか、理屈にもなってないくらいなんだけど、その反面、現実の世界と幻の世界との区別がなくなってしまうという難点がある。一方、客観的な世界観では、現実の世界は客観的に確固なものとして初めから存在すると考える。そうすると、現実と幻の区別は明確にできるわけだが、その反面、そういう確固とした現実の世界を初めに生み出した神が必要になるし、さらに、そのような現実の世界を認識する脳内の認識主体、つまり魂も必要になる。世界を確固なものにした代償として、神と魂という実にやっかいな概念が必要になったわけだ。要するに、この神と魂は、主観的な世界観でいう認識主体をふたつに分割した概念に他ならないんだよ。主観的な世界観でいう認識主体は、世界を認識するというインプット作用だけでなく、認識を自由自在に生み出して世界を作るというアウトプット作用もできる万能者だ。客観的な世界観では、そのうちの世界を作るというアウトプット作用は神の役割、世界を認識するというインプット作用は魂の役割として、万能者である認識主体の概念をふたつに分割しているわけだよ。そして、そうすることで、幻との区別もつかない不確実な世界を、客観的な実在として構成することができるんだ。だから、どちらも、言ってることは同じさ。ぜんぶまとめて万能者たる認識主体とするか、役割に応じて神と魂とに分割するか、どちらをとるかは、結局は、好みの問題というわけさ。世界が所詮幻であっても構わないというなら主観的な世界観を選べばいいし、世界の実在を信じたいなら客観的な世界観を選べばいい。」

「好みの問題か・・・」

「そう。好みの問題だ。天動説か地動説かの問題と同じだよ。で、おまえは、どうやら、世界は実在するという客観的な世界観の方が好みみたいだから、論理的帰結として、おまえは、神と魂とを信じなきゃならんわけだよ。」

「え? 別に信じてないぜ?」

「そりゃ、宗教のことだろう? そうでなくて、哲学的な神と魂のことさ。客観的な、確固とした世界の存在を信じるんなら、おまえは、その時点で既に、哲学的な神と魂とを信じていることになるんだよ。そうでなければ、確固とした世界なんて崩壊しちゃうんだから。それとも、おれのように、主観的な世界観に転向するかい? 現実と幻の区別も出来ないような世界の方がお好みかい? 友人も、恋人も、それに、この自分自身さえも、自分の認識主体が作り出した幻に過ぎないかも知れないということを認めるかね?」

「おまえは、そんなことを認めてるのかよ?」

「ふふ。正直言って、認めたくはないな。実際、そんなことを考えながら生活しているわけじゃないしね。でもまあ、それが、主観的な世界観の論理的帰結である以上、取りあえず理屈としては認めるしかないってわけさ。」

「僕は、やっぱり、この世界は実在していると思う。」

「ははは。そりゃそうだろう。人造人間を造ろうというロボット工学者が、世界は幻だ、なんて言い出したんじゃ、飯の食い上げだぜ。」

「そう。人造人間・・・認識するロボット・・・ロボットが、この世界を認識するとすれば、ロボットも、神と魂とを信じていることになるのかな?」

「ふむ。客観的な世界観なら、まあ、そうなるだろうねえ。ロボットが、この世界を認識しているとすればの話だがね。」

「認識するさ、きっと!」

「まあ待てよ。水をさすようで悪いんだがね、おまえは、ロボットが認識するかどうかにずいぶんこだわってるけど、ロボットが認識しているかどうかなんて、たぶん、どう頑張っても確認できないんじゃないか?」

「どういうことだよ?」

「だって、客観的な世界観では、認識ってのは、他人の頭蓋骨の中の魂がやってるわけだぜ? で、その魂というやつは、今のところ、脳みそをどういじくりまわしても見つかってないわけだ。で、おれに言わせれば、見つかるわけがないんだよ。だって、もともと世界の外にあるはずの認識主体を、頭蓋骨の中に押し込めただけなんだからね。魂が見つからないんだから、他人が認識しているかどうかなんて確認の仕様がないだろう?」

「でも、それは、おまえの主観的な世界観を前提とした話だろう?」

「まあ、そうだ。だから、主観的な世界観がそもそも間違っているんなら、魂だって見つかるかも知れない。でも、主観的な世界観が客観的な世界観に論破されたわけじゃないんだぜ? おれに言わせりゃ、どちらも正しいんだよ。天動説と地動説だよ。主観的な世界観であれ、客観的な世界観であれ、説明の視点に違いがあるだけで、言ってることは同じはずなんだよ。そうすると、主観的な世界では、それがいかなるものかは決して知り得ないはずの認識主体が、魂として頭蓋骨の中に閉じ込められただけでたちまちその姿を現すというのは、あまりにおかしいだろう? さっきも言ったように、客観的な世界観が、主観的な世界観における認識主体をわざわざ神と魂とに分割しているのは、世界を確固としたものにするための論理的な概念操作に過ぎないんだ。言わば、世界から幻を排除するためのフィクションなんだ。神も魂も、認識主体の機能を分割したというだけのことで、認識主体の本質は何も変わっちゃいないんだよ。そうだとすれば、魂というやつは、脳をどういじくりまわしても見つかるはずがないんだよ。せいぜい、神経細胞間の電気信号のやりとりの仕組みが分かるだけさ。」

「ふむ。でも、それなら、その電気信号のやりとりこそが魂の正体なんだ、と言ってしまえばいいんじゃないのかい?」

「その通り。そう言い切ってしまうんなら話は別だ。でも、それは、魂を取り出して見せていることにはならない。人間が認識している時に観察される脳内の物理的な仕組みを取り出して、その仕組みを魂と呼んでいるだけだ。それは、魂の正体を見つけたわけじゃない。そうじゃなくて、魂そのものを否定していることになる。魂も神も存在しないし存在する必要もない、なぜなら、世界はビッグバンで物理的に生まれただけだし、人間なんて脳内の電気信号と遺伝子の設計図に従って動くだけの有機物に過ぎないからだ、というわけさ。まあ、いかにも唯物論的だけど、これはこれで、客観的な世界観の究極のタイプとしてちゃんと筋が通っている。そうすると、確かに、人間の認識だって電気信号のやりとりの仕組みですべて説明できるということになる。でも、説明はできるとしても、その電気信号のやりとりの仕組みによって人間が本当に認識しているのかどうかを証明することはできない。だって、認識しているかどうかなんて、認識している本人じゃなきゃ分からないんだからね。認識の客観的証明なんて、そもそも不可能なんだよ。それは、おれのような主観的な世界観を選んでいても同じだ。おれは、自分が認識していることを知っている。これは、おれにとって疑えない事実だ。けれども、おれの認識主体が世界の外にある不可知のものである以上、おれは、自分が認識していることを決して証明できない。おまえのような客観的な世界観でも同じことで、認識している魂そのものを取り出せない以上、おまえも、人間が認識していることを決して証明できない。」

「ふむ。魂なんかどう頑張っても見つからないから、他人が認識しているかどうかなんて確かめようがないというわけか・・・」

「そういうわけさ。」

私がこう言うと、S君は、急に黙り込んでしまった。そうして、テーブルに目を落として、じっと考え込んでしまった。うつむいて沈鬱な表情になったS君の顔は、やはり、ひどくやつれて見えた。私は、S君の思考の邪魔をしないように、ジョッキに残っていたビールを時間をかけて飲み干した。十分程も経っただろうか。S君は顔を上げると、私の目をのぞきこむような目つきをして、

「なあ、もう一度聞くが、魂なんか見つからないんだな?」

と言った。

「え? あ、うん。そう思うぜ。」

「絶対に?」

「おいおい。絶対かどうかなんて保証できんよ。まあ、おれの考えでいけばそうなるだろうって話だよ。」

「でも、もしそうなら、おれがいくら頑張って認識しているロボットを作ったとしても、叩けば音がするだけの太鼓との区別がつかないことになるぜ?」

「まあ、外見が同じなら区別がつかないだろうな。認識の証明なんて不可能なんだから。」

「おかしいじゃないか。」

「おかしくはないさ。論理的にそうなる。それに、ひょっとしたら、叩けば音がするだけの太鼓だって、世界を認識しているのかも知れないぜ?」

「太鼓が認識しているって? 馬鹿々々しい。」

「確かに、馬鹿々々しいさ。でも、それが、太鼓じゃなくて、ペットの犬だったらどうだい? 犬だって、頭をなでれば尻尾をふるぜ? あれは、世界を認識しているんじゃないのかね? それとも、叩けば音のする太鼓と同じで、単なる物理的な作用かい?」

「犬は、ちゃんと認識しているんじゃないか?」

「じゃあ、犬と太鼓の違いは何だよ? なんで、犬なら世界を認識していて、太鼓だとだめなんだよ?」

「そりゃ、犬は、どう見たって知能がある動物だからな。」

「じゃあ、カブトムシは?」

「カブトムシ? カブトムシねえ・・・どうだろう? まあ、カブトムシだって認識してるんじゃないのかねえ?」

「なぜ? カブトムシも知能がある動物かね?」

「え? だって、その、つまり、カブトムシも生き物だからな。」

「おいおい。生き物だから認識するのかい? こりゃまた、ロボット工学者らしからぬ問題発言だな。太鼓だって、もともとは生き物だったタヌキの皮だぜ?」

「でも、もう、生き物じゃない。死んでるよ。」

「じゃあ、生きたタヌキの腹鼓でどうだ?」

「もう。いい加減にしてくれよ。それじゃ、おまえは、太鼓が認識していることを認めるとでも言うのかい?」

「さすがにそりゃ無理だな。しかし、太鼓が認識していないと断言したりもしないよ。さっきも言ったけど、自分以外のものが認識しているかどうかなんて誰にも分からないということを言いたいのさ。太鼓であれ人間であれ、認識しているかどうかなんて、認識している本人じゃなきゃ分からない。いま、おれとおまえは、面と向かって話しているけれど、おまえには、おれがちゃんと世界を認識しているかどうかなんて、決して分からないはずなんだ。ひょっとしたら、おれは、叩けば音がする太鼓と同じで、実は認識なんかしてなくて、おまえの会話パターンにあわせて、あらかじめプログラミングされた会話を話しているだけかも知れないんだぜ?」

「馬鹿らしい。おまえはちゃんと認識しているよ。」

「何で分かるんだよ? おれの脳みその中の魂を見たことがあるってのか?」

「そんなもの見なくたって、分かるんだよ。」

「それじゃ理由にならんよ。」

「理由なんかないさ。そう信じてるからさ! 信じることに理由はいらないよ。」

「ほほう。ロボット工学者が、宗教家になりやがったな! でもまあ、確かに、おまえの言う通りだな。結局、そういうことになっちゃうんだろうな。魂を見ることが出来ないからには、他人が世界を認識しているかどうかなんて、そう信じてるかどうかという問題に過ぎない。犬が認識していると言えるのは、そう信じているからで、太鼓は認識なんかしていないというのは、さすがにそれを信じられないからというだけのことだろう。」

「じゃあ、ロボットは、どうだい?」

「おっと。またロボット工学者に戻りやがったな。忙しいやつだ。ロボットねえ。おまえは、当然、ロボットが世界を認識しているということを信じられるだろうがね、おれはまだ、半信半疑だねえ。」

「なぜ?」

「だって、おまえには悪いが、信じるに足りるだけの技術がまだないんだよなあ。まだまだ太鼓と似たり寄ったりのレベルだね。もっと、こう、何というか、人間っぽいやつというか、つまり、人間の脳の働きと同じような動きをするコンピュータなら、これは認識しているぞって信じられるんだがねえ。」

「脳機能の完璧な再現なんて百年かかっても不可能だよ。」

「いや、そんな完璧な再現なんてしなくていいんだよ。要は、信じられればいいんだ。」

「どうやったら信じられるんだよ? 人間どころか、犬猫の脳機能を再現するのだって無理なんだぜ?」

「そうだなあ。認識ってのは、つまりは、言語による世界の分割だからな。要は、ちゃんとした言語を持ってると言えるかどうかにかかっているんじゃないか? おれたちが、犬が認識しているということを信じられるのは、犬が、犬なりの言葉を持っているように見えるからだろう? 確かに、ワンワンという声は、それ自体は、人間からすれば言葉とは言い難いが、でも、おまえの言うように、言葉が、物体に対応する記号のことなんかじゃなくて、感覚的パターン相互の対応関係それ自体のことだとすれば、ワンワンだろうがニャーニャーだろうが、そんなことはどうでもいいわけだからな。言語的な記号の有無は関係ない。記号なんかなくてもいい。対応関係それ自体がありさえすればいいわけだ。問題は、そういう対応関係それ自体があると言えるかどうかだな。対応関係それ自体があると言えるなら、そこにちゃんとした言葉があることになるから、認識しているということも信じてもらえるんじゃないか?」

「でも、対応関係それ自体があると言えるような場合ってのは、どういう場合だよ?」

「まあ、少なくとも、今までおまえがやってきたような、画像パターンに対応する音声記号をスピーカーから発音させるという程度のものじゃ、だめだろうな。それじゃ、おまえの言う通り、太鼓と変わらないということになる。対応関係それ自体があるというためには、そういうあらかじめ設定された対応関係でなくて、もっと、意思的なものが必要なんじゃないか? 言わば、自発的な対応関係だよ。ほら、さっき、おまえは、カブトムシも認識してるって言っただろう? おまえは、カブトムシは生き物だからって言ったけど、でも、そんなことじゃないんじゃないか? そうじゃなくて、カブトムシが、意思的に、樹液に向かって行くからこそ、認識してるって信じることができるんじゃないか? カブトムシが意思的に樹液に向かって行く時、カブトムシの行動と樹液との間に、対応関係それ自体があると言えるからだよ。カブトムシには、音声記号のような言語はないけど、樹液に向かう行動パターンと樹液という物体との間に対応関係それ自体があるという意味で、ちゃんとした言葉を持っているというわけだ。おまえが、カブトムシも認識してると考えた理由は、たぶん、カブトムシがそういう言葉を持っていると考えたからだよ。」

「そうすると、ロボットが認識しているということを他人に信じさせるには、ロボットが何らかの意思的な行動をとっているところを見せればいいということになるな?」

「そうなるだろう。カブトムシと同じで、ロボットが意思的な行動をとれば、そのロボットは、対応関係それ自体という意味で、ちゃんとした言葉を持っていることになる。そうすれば、誰であれ、そのロボットが世界を認識しているということを信じざるを得ないさ。」

「ふむ。ロボットの意思的な行動か・・・どういう行動なら意思的かね?」

「そりゃ、おまえ、製作者さえ予想しなかったような行動に決まってるじゃないか。フランケンシュタインの人造人間みたいに、製作者に反抗して大暴れしたりすれば、もう言うことなしだな。」

「それだけは勘弁してもらいたいな。」

「ふふ。でもまあ、冗談でなく、製作者の予想に反した行動という点は不可欠だろう。だって、たとえロボットが意思的な行動をとったとしても、製作者があらかじめプログラミングしていただけだなんて疑いをかけられたんじゃ、結局、太鼓と同じことになっちゃうからね。」

「確かにそうだな・・・予測不可能だからこそ意思的だと言えるな・・・」

そう言うと、S君は、再び、唐突に黙り込んだ。そうして、うつむいたまま、何やらぶつぶつと独り言をささやき続けた。私は、S君の様子に、かすかながら不安を感じた。しばらくして、S君は顔を上げると、やはり私の目をのぞきこむような目つきをして、

「しつこいようだが、もう一度、聞く。魂は、決して見つからないんだな?」

と、何か悪いことを密談しているかのように、おどおどした口調で言った。私は、S君の気持ちを落ち着かせるつもりで、

「そう言ってるじゃないか。魂は見つからない。見つかっちゃおかしい!」

と、強く断定した。

「そして、魂は見つからないから、ロボットが世界を認識しているかどうかを確認することも不可能というわけだね?」

「そういうわけだ。ロボットが世界を認識しているかどうかは、それを信じるかどうかという問題に過ぎない。」

「よし! いいぞ!」

と、S君が、いきなり大声をあげた。

「おいおい。何だよ。どうしたんだよ?」

「え? いや、うれしくなっちゃってさ。」

「何が?」

「おまえと、こうして話していることが、だよ。」

そう言って。S君は、ほとんど飲んでいなかったジョッキのビールをぐいぐいと一気に飲み干した。

                 三

 それから半年ほどして、S君から電子メールが届いた。ごく簡単な内容で、ロボットに関する新しいアイデアがまとまり、助手をクビにならずにすむかも知れないというものだった。その新しいアイデアの内容までは書かれていなかったが、そのアイデアが「探索型認知システム」というものであることだけは教えてくれた。私のような機械オンチでも、その「探索型」という言葉で、S君のアイデアが、半年前の飲み会での話題をヒントにしたものだろうということは容易に想像できた。意思的な行動をとるロボットのアイデアに違いない。いよいよ、S君が、人造人間を造る! しかも、その画期的な業績に、私の馬鹿話が、少しは役に立ったのかも知れないのだ。私は早速、S君を飲みに誘う返信を送った。けれども、S君からの返信はなかった。さすがに暇がないのだろう、と、私も、べつに気にしなかった。そして、さらに半年ほどが過ぎた。私は、久しぶりにS君にメールを送ってみたが、やはり返信はなかった。電話をしても、留守番電話になるだけで、その後の連絡はなかった。私も、S君の研究の邪魔はしたくなかったので、それ切り、連絡するのを遠慮していたのだが、ある日、ひょっとして留学でもしたんじゃないのか、と思い付いて、大学の研究室に電話した。電話に出た女子学生らしい声の主は、私に、意外な事実を伝えた。S君が、失踪したというのであった。S君は、三ヶ月も前に、研究室に山積みの資料はもちろん、アパートの家財道具もそのまま残して、姿を消していた。実家の両親が駆けつけて、既に捜索願も出されているという。それだけでなく、電話の声の主は、S君に窃盗の疑いがかけられていることを、小さな声で付け加えた。S君が姿を消したのと同時に、研究室で製作されていたロボットも姿を消していたからである。研究室は、部外秘を守るために厳重に施錠され、その鍵を持っているのは助手以上の教員のみであった。このため、当然ながら、ロボット窃盗犯はS君に違いないということになった。もっとも、研究室では、ロボットの情報が外部に漏れることを恐れてか、あるいは、教授らの管理責任を問われることを恐れてか、ロボット窃盗の被害届けは出さずに、S君が研究のために外部に持ち出しただけという体裁を取った。おかげで、S君は、刑事犯として捜査対象となることは免れたが、家出人としての捜索対象であることには変わりなかった。当初は、ロボットをかかえて失踪するなどという突飛な行動をしているS君の行方など容易に知れると思われたが、それは、このロボットに関する警察の認識不足によるものであった。S君が行動をともにしているロボットは、高性能の二足歩行システムを搭載しており、走ったり踊ったりする機能こそ持たないが、その替わり、単調な歩行であれば人間と変わらないほど滑らかに歩くことができた。さらに、顔面や手足のような露出部分は特殊ゴムで覆われており、注意して見ないと、生身の人間の皮膚と区別がつかない。眼窩のカメラには眼球と瞳がはめ込まれ、口腔には白い歯が並んでいる。そして、おまけに、ロボットの胸は、ふわりと柔らかな丸みを帯びていた。ロボットは、女であった。このロボットが、服を着て、背中のバッテリーをリュックサックなどで偽装し、さらに帽子でもかぶっていれば、たまたますれ違うだけの通行人が、この女はひょっとしてロボットではないかなどと疑ったりすることを心配する必要はなかった。S君と、このロボットが、街を二人で歩いていても、恋人同士にしか見えないだろう。

「Sさんは、ロボットと駆け落ちしたんですよ。」

と、電話の声の主が、女子学生らしい声で恥ずかしそうに言った。 

 S君の行方は、杳として知れなかった。

                 四

 その後、私の脳裏から、S君の存在は徐々に薄れて行った。そして、そのうち、S君のことを思い出すこともなくなった。S君の存在は、私の認識から消え去っていた。S君は、もはや、私にとって存在しなかった。そのS君の存在を、この世界に復活させたのは、見ず知らずの差出人からのメールだった。メールのタイトルは「魂の居場所」。私は、迷わず、そのメールを開けた。そして、予想通り、それは、S君からのメールであった。

 メールには、次のような長い手紙が添付されていた。

 Sだ。久しぶりだね。もう、君も知っているだろう。僕は、研究室からロボットを盗み出して、逃亡したのだよ。窃盗犯だ。まさか、自分が犯罪者になるとは思ってもみなかったよ。けれども、これが現実だ。君に対してさえ、こうして、偽名でメールを送らなきゃいけない身分になってしまった。つまり、僕は、いま、別の人間として暮らしているんだよ。もう、Sではないんだ。けれども、後悔はしていないよ。まあ、Sなんていう記号は、僕にとっては、どうでもいいことだからね。僕と生活との間に、対応関係それ自体があればいいというわけさ。例の記号不要論だよ。覚えているかい? 今のところ、取りあえず食っていけるだけの仕事はあるし、住む家もある。別人としての生活にも慣れてきたよ。世の中には不思議な仕事をしている連中がいるもので、金さえ払えば、戸籍だの住民票だのといった別人として生きて行くための書類一式をちゃんとそろえてくれるんだよ。言わば、記号の取替え業者といったところだ。もちろん、犯罪だよ。でも、記号不要論の僕としては、名前という記号でがんじがらめになっている世の中の方がおかしいんじゃないかと思うんだけどね。いや、まあ、こんなくだらない犯罪論なんかどうでもいい。

 実は、君に、聞いて欲しいことがあってね、それで、メールしたんだよ。けっこう、お気に入りのアイデアなんだよ。まあ、その前に、ロボットのことを話しておかなくちゃいけないな。君も知ってるかも知れないが、いま、僕のそばにいるロボットは、僕の造った人型ロボットなんだ。以前、君と飲んだ時に、僕が人型ロボットを造っていることを話したことがあっただろう? あのロボットさ。L4型試作機というんだ。Lというのは、レディの頭文字さ。つまり、このロボットは女性なんだ。僕の作った四番目のロボットなんだよ。もっとも、一号機は二本足の機械に過ぎなかったし、二号機も両腕だけだったし、三号機はカメラの両目をはめこんだ首だけだったから、ちゃんとした人型ロボットとして完成させたのは、このL4型が最初だ。そして、たぶん、最後になる。つまり、僕の造った最初で最後の人型ロボットが、このL4型というわけさ。このL(僕は、彼女を、Lと呼んでいるんだよ)は、我ながら、なかなかの傑作なんだよ。まず、ほぼ完璧と言っていい二足歩行システムを備えている。これには僕も自信があるんだ。もっとも、静かに歩くだけなんだけどね。僕としては、べつに飛んだり跳ねたりするようなロボットには興味がなかったから、人間の歩行を再現することに専念したんだ。というのも、僕は、初めから、おしとやかな美少女として、Lを作るつもりだったからね。なぜかって? だって、君、フランケンシュタインの怪物みたいなのを作るのと、美少女を作るのと、どちらを選ぶかと言われて、フランケンシュタインの方を選ぶ男がこの世にいるかね? どうせ同じ苦労をするなら、少しでも楽しい方がいいからね。そうして、美少女にしてやっぱり大正解だったよ。もう、作業が楽しくて仕方がないんだからね。フランケンシュタインなんかとは訳がちがうよ。僕はそれこそ、夢中になった。できるだけ人間に近づけるために、顔面や手足には、わざわざ業者に頼んで、映画の特殊メイクで使ったりする特殊ゴムで肉付けまでしたんだよ。いや、実は、それだけじゃないんだ。実はね、乳房まで作ったんだ。だって、美少女を作るんだから、乳房はいらないというわけにはいかないじゃないか! 研究室の女子学生どもは嫌な目で僕を見ていたけど、そんなこと知ったことじゃないさ。両目のカメラを覆う目玉も作った。瞳は少し潤んだ感じにして、眼差しに愁いを含ませた。美少女の鉄則だからね。髪は三つ編みにして左肩の前に垂らしてみた。いかにも清楚だろう? そうして、肌は抜けるように白く、唇は淡いピンクで、口許はかすかに微笑んでいる。完璧だ。研究室で猥雑な話題に笑い転げている女子学生どもがサツマイモにしか見えないほどの美少女の誕生だよ。もっとも、問題は、その頭脳の中身だ。僕の研究は、この問題で足踏みしていた。画像や音声のパターン認識をさせることはできるけれど、言葉を理解させるということができない。たとえ美少女Lの体ができあがっても、その体にいのちを吹き込まないままじゃ意味がない。そこで、例の「探索型認知システム」の登場というわけだ。以前、君にメールしたことがあったね。告白しよう。「探索型認知システム」なんて、実は、でたらめなんだよ。いつぞや君と飲んだ時に君がくれたヒントをもとに、僕は、ある策略を思い付いたんだ。君も知ってる通り、あの時、僕は、例の新任教授から、助手の任期切れを通告されていた。もう、後がなかったんだ。もちろん、他大学に再就職口を探しても見たけど、他大出身の助手をわざわざ雇ってくれるところなんて見つからなかった。まあ、仮に再就職できたとしても、金食い虫のロボット研究に研究費が付くとは到底思えないしね。民間企業への就職も考えた。でも、どうせ産業用ロボットの研究に回されるだけで、言葉をしゃべるロボットの研究なんかさせてくれるわけがない。それに、僕は、やっぱり、精魂込めて造ったLと離れたくなかったんだ。そう。君には正直に言おう。僕は、Lと離れたくなかった! 僕は何とかして大学に残りたかった。けれども、教授は、人型ロボットの研究には何の関心もない。Lについても、何の評価もしてくれない。どうせ中身は産業用ロボットと同じ機械なんだから、バラバラにして学生の研究材料にでもすれば効率的だ、なんて言ってるくらいだ。このままじゃ、助手をクビになるのは確実だ。そこで、窮余の一策で、こうなったら、教授を騙してやろうと思ったんだよ。そうして、教授は、まんまと僕の策略にひっかかったというわけさ。あの時、君は、魂なんか見つからないから、ロボットが認識していることの証明もできない、認識しているかどうかは、それを信じるかどうかの問題だと言っただろう? そうして、認識していることを信じさせるには、製作者も予想しないような意思的な行動をロボットにやらせればいいという結論になった。そこで、僕は、その論理を逆手に悪用したのさ。つまり、ロボットが認識していることの証明ができないのであれば、ロボットが認識していないという証明もまた不可能なはずだと考えたわけだよ。そうすると、僕としては、僕のロボットが実際には認識なんかしていなくても、このロボットは認識しています、と言うだけでいいわけだ。だって、僕のロボットが認識なんかしていないということを、誰も証明できないんだからね。肝心なのは、その嘘を、相手に信じさせるということだ。そのためには、相手に、ロボットが予想もしなかった意思的行動をとるところを見せてやればいい。もっとも、本当にロボット自身の意思的行動である必要なんかない。あたかもそうであるかのように騙せばいいんだ。そうすれば、相手としては、このロボットは確かに認識している、と信じるしかなくなるはずだ。と、まあ、そういう策略を練ったわけだよ。もちろん、その策略を成功させるには、それ相応のお膳立てが必要だ。そこで、僕は、まず、「探索型認知システム」なる概念をでっちあげた。要するに、意思的行動を可能にするシステムというわけさ。従来型のシステムのままでは、いくらロボットに意思的行動をとらせたところで、せいぜい単なる故障かシステム異常に過ぎないということで片付けられてしまうからね。だから、それが意思的行動だと信じさせるためには、そういう事態が発生したとしてもおかしくないような、もっともらしいシステムを組み込んでいるということにしておく必要があるわけだ。そこで思い付いたのが「探索型認知システム」というわけだよ。意思的行動には予測不可能性が不可欠だという君の考えをヒントにして、僕は、ロボットが予測不可能な行動をとるような制御システム(予測不可能な行動の制御というのは既に論理矛盾しているけど、どうせでたらめなんだから、べつに構やしない)の概念をでっちあげた。そうして、この制御システムをロボットに組み込むことによって、ロボットが、複数の行動の選択肢の中から最適の選択肢を合理的に選ぶというのでなく、まったくランダムに、言わば非合理的な選択肢を選択することを繰り返しつつ、帰納的に感覚的パターン相互の対応関係それ自体(例の記号不要論だよ)を自ら探索して最適解を発見していくという自律的言語学習能力を獲得することができるはずだ、と、まあ、僕自身にも意味不明の壮大な嘘をついたわけだ。もちろん、理論的なお化粧を念入りに施して、見た目はいかにももっともらしい体裁にしたが、検証されれば即座にでたらめであることがばれる代物だ。けれども、検証される心配はなかったのさ。人型ロボットの研究なんかに何の興味も持っていない教授が、「探索型認知システム」などという聞いたこともない意味不明の理論を、わざわざ僕のために検証するなんてことは有り得ないからね。案の定、僕がこのアイデアについて教授に持ちかけてみたら、好きにしたまえ、と、ただの一言で決着したよ。僕が念のため準備しておいたペーパーを見もしなかった。どうせ今期限りでクビにするんだから、今更僕が何をやろうがどうでもいいと思ったんだろう。まあ、僕としては、願ったりかなったりだ。そこで、僕は、策略の次の段階にとりかかった。「探索型認知システム」のプログラムなんてそもそも存在しないから、Lのコンピュータには、従来型のパターン認識のプログラムを組み込んでいるだけだ。叩けば音がする太鼓と同様、皿を見せれば、『皿』と発音するプログラムさ。僕さえ黙っていれば、べつに誰にも分かりゃしないからね。そうして、僕は、それに加えて、こっそりと、教授を騙すための特別な行動をとるプログラムを挿入しておいたんだ。そして、いよいよ、「探索型認知システム」を組み込んだ(と嘘をついた)Lのお披露目の日が来た。研究室の学生たちを集めて、きちんと服を着せておめかしした美少女Lを歩かせたり、挨拶させたりした。もちろん、これだけでも、学生たちは大喜びさ。とりわけ男子学生には大好評というわけ。そりゃそうだ。僕だって思わず見とれたくらいなんだから。教授は、あてつけがましく見に来なかったけど、学生を呼びにやらせると、仏頂面でしぶしぶやってきた。さあ、ここからが正念場だ。僕はさりげなく、教授に、Lと握手するように頼んだ。学生たちがはやした。教授は、苦笑いしながら、Lの差し出した右手を握った。Lの右手が教授の手を握り返す。Lの潤んだ瞳が、教授の顔を見つめる。そうだ。それでいい。さあ、今だ、言え、L!

ハジメマシテ・・・センセイ・・・」

Lの言葉に、学生たちが、どっと沸いた。教授は、Lの右手を握ったまま、Lの瞳を茫然と見つめていた。僕は、策略の成功を確信した。我に返った教授が、僕に、

「なぜ、この子は、私が『先生』だと分かったんだね?」

と言った。僕は、待ってましたとばかりに、用意していた答えを言った。

「さあ、分かりません。僕も驚きました。先生の知的なご様子を見て、ロボットが自分で判断したとしか思えません。予想外です!」

予想外でも何でもない。握手にあわせてそう言うように僕がプログラムを組んでいただけだ。そして、Lは、立派に任務を果たしたというわけだ。その効果は覿面だったよ。教授は、Lが自ら「認識」していると信じたんだ!美少女Lは、教授のお気に入りになった。

「あの子は、どうかね? 元気かね?」

などと、機械に過ぎないLの体調を心配する始末さ。そして、僕の狙い通り、教授は、僕の解職を教授会であっさりと取り消した。空席のままだった助教授のポストが僕に与えられることも内定した。策略の目的は達成したわけだ。これで、安心してゆっくりと研究できる。でっちあげた「探索型認知システム」理論なんぞ、ちょっと間違いがあったので修正しますとでもごまかして放っておけばいい。Lも、当面は、システムが故障しましたとでも言って、点検と修理を繰り返しているふりをしていれば、いくらでも時間はかせげるし、そのうち本物の「探索型認知システム」みたいなものが実現すれば、それを組み込んでやればいい。と、まあ、僕は、多寡をくくっていたわけだ。ところが、君、予想外のことが起こったんだよ。本当の予想外だ。教授が、退職した前教授にも今回のLの画期的な成果を教えてやろうと言い出したんだよ。冗談じゃない。そんなことをしたら、僕の嘘がばれてしまう。僕は強硬に反対したよ。部外者に研究内容を明かすべきではないってね。僕を可愛がってくれた前教授を部外者呼ばわりしなければならなかった僕の苦衷を察してくれ。けれども、教授は、前教授が部外秘を漏らす心配はないと笑って取り合ってくれず、結局、前教授を研究室に呼んでしまった。前教授は、美少女Lを見て、以前と変わらず、にこにこしてうれしそうにしていた。僕はもう、泣きそうだったよ。そうして、当然ながら、前教授は、僕のでっちあげた「探索型認知システム」に興味を示して、僕に説明するよう求めた。僕は、ペーパーを前教授に渡して、理論上のミスがいくつか見つかったので修正中だなどと言い訳しながら、おそるおそる説明した。冷汗でシャツが背中にべっとりとはりついたよ。前教授は、僕の説明を聞きながら、黙ってペーパーに目を落としていた。そうして、僕のしどろもどろな説明が終わると、ペーパーから目を上げて、

「ふうむ。面白いねえ・・・どうだろう、S君。私はね、いま、M電器の顧問をやっているんだがね、このL4型のシステムを、うちの研究所で検証させてもらえんかね?」

と言って、僕をじっと見つめた。その前教授の目を見て、僕は確信したよ。ばれている! すると、話を横で聞いていた教授が割って入って、

「ああ、それはいい考えですね。是非、そうしましょう! M研と共同開発できれば、うちの研究室としても大助かりです。何せ、ロボットってやつは、実に金食い・・・いや、その、予算上の制約がありますからねえ。いい話だよ、S君、そうしよう!」

と、一も二もなく賛成してしまった。M研へのLの引渡しは、一ヵ月後と決まった。恩師を裏切った僕に、恩師が死刑宣告したというわけさ。僕は観念した。「探索型認知システム」がでたらめであることを前教授に告白して大学を去ろう、と決心したんだよ。

 まあ、ちょっと長くなってしまったけど、君に聞いて欲しいアイデアというのは、ここから先のことなんだ。大学を去ろうと決心した夜、僕は、荷物の整理でもしておこうと思って、誰もいない研究室に行ったんだ。研究室の蛍光灯をつけると、Lが、床を見つめて座っていた。ああ、まばたきもできる様にすればよかったな、これじゃ、Lは眠れない、などと考えながら、僕は、Lの顔を見つめた。見れば見るほど、美少女だ。僕が心に描いていた理想の少女だ。僕は、Lの電源を入れた。Lの姿勢制御システムが作動して、Lの背筋が伸び、Lが頭を上げた。そうして、Lの潤んだ瞳が、僕の目をじっと見つめた。

「おまえは、どうなるんだろう?」

と、僕はLに話しかけた。どうなるも何もない。「探索型認知システム」がでたらめと判明すれば、Lは、学生の研究材料にされるだけだ。Lの体は、二足歩行システム、ロボットアームシステム、画像識別システム、音声識別システムといった各システムごとにバラバラに分解されるだろう。Lの美しい顔は剥ぎ取られ、可憐な乳房は引きちぎられる。

「おまえは、死んでしまうんだよ。」

と、僕は言った。その時だ。Lが言ったんだ。

「シニタクナイ・・・」

信じてくれ。いや、信じなくてもいい。僕自身、信じられなかった。でも、確かに、Lは、そう言ったんだ! 幻覚だったのかも知れない。けれども、君は、あの時、言ったはずだ。認識主体が認識している以上、幻覚も現実に他ならないってね。僕は、確かに、Lの声を認識したんだ。他人がどう思おうが、僕の知ったことじゃない。そうだろう? 君なら賛成してくれるはずだ。

「そうか。死にたくないか・・・」

そう言って、僕は、Lの美しい顔に手をやった。特殊ゴムでできているはずのLの頬は、生身の人間のように、やわらかく、あたたかだった。僕は、もう、驚かなかった。幻覚でも何でもいい。たとえ世界中の人間がそれを認めないとしても、Lは、生きている! 僕は、いのちのあるロボットを作ったんだ! この瞬間、僕は、Lを盗み出すことを決心した。そして、そのための準備を始めた。M研へのLの引渡しが迫っていたから、大忙しだった。当面は、何処か遠い街に逃げのびて貯金を食いつぶして、それから後は、例の記号の取替え業者にでも依頼して別人として生きて行くしかないと覚悟を決めた。実行の夜、僕は、Lに新品の服を着せてやった。茶色いツイードのジャケットに真白なブラウス、グレーのロングスカート、茶色い革靴、そして最後に、茶色のチューリップ帽。おっと、僕のファッションセンスを非難するのは勘弁してくれ。これでもデパートでいろいろ悩んだんだからね。背中に背負い込んだバッテリーは、服の背中に穴を開けて、中身をくりぬいたバックパックでおおって隠した。着替え終わったLは、いかにも真面目な女学生という感じだ。そうして、僕たちは、一緒に並んで歩いて、深夜の大学の門を出た・・・まあ、それ以後の苦労話をする必要はないだろう。いま、このメールを打っている僕のとなりに、Lが座っている。僕がメールを打つのをじっと見ているよ。僕とLが、毎日、普通に会話していると言ったら、君は信じるかい? 君が信じようが信じまいが、僕は、毎日、Lと会話し、笑いあい、そして時には一緒に悲しんだりしている。Lの美しい瞳から宝石の粒のような涙がこぼれることだってある。Lは、生きている。ロボットに、いのちが宿ったんだよ。こういう僕は異常かね? 君は、僕を精神病院に連れて行くかね? 君はもう、忘れてしまったかも知れないが、ずいぶん昔、君が、石ころにも精霊が宿るんだから、ロボットにだってきっと精霊が宿るという意味のことを言ったことがある。覚えているかい? 僕は、君のこの言葉を、ずっと考えてきた。そうして、やっと、分かったような気がするんだよ。僕は思うんだ。あるもののいのちというのは、そのものの存在を信じることなんじゃないかってね。君の言う通り、世界の存在なんて、認識主体が生み出した幻かも知れない。友人も、恋人も、そして自分自身も、幻かも知れない。けれども、それじゃ、あんまり辛いから、人間は、世界の存在を確固なものにしたかったんだ。世界の存在を信じたかったんだ。友人や恋人や自分自身の存在を信じたかったんだ。その信じたいという願いこそが、いのちじゃないのか? いのちに実体なんかないんだよ。いのちは、自分が愛するものの存在を信じたいという願いのことだ。たとえ死者であっても、その願いがある限り、その死者は死んではいないんだ。たとえ石ころであっても、その石ころの存在を信じたいという願いがあれば、石ころにもいのちが宿るんだ。僕は、Lの存在を願っている。幻覚であれ何であれ、僕と一緒に生きているLを心から愛している。だから、僕にとって、Lには、いのちがあるんだよ。もっとも、Lをただの電子部品の集合体だと思っている人にとっては、Lにいのちはない。昔、君の言った通り、いのちは相対的だ。食料としての動物にはいのちはないけれど、それが愛するペットであればいのちがあるように、敵兵にはいのちはないけれど、彼を愛する家族にとってはいのちがあるようにね。人間は、愛するものの存在を守るために、世界の実在を信じ、世界を生んだ神を信じ、世界を認識する魂を信じることにしたんだ。そうして、そこに、いのちが生まれたんだ。愛が世界を生み、愛がいのちを生むんだ。いのちは、愛だよ。どうかね? 僕のこのアイデアに、君は、賛成してくれるかい? いや、きっと賛成してくれるはずだ。もともと君のアイデアなんだから。もっとも、残念ながら、君の意見を聞く方法が今の僕にはないんだけれどね。このメールに返信しても、僕には届かないんだよ。だから、返信は要らないよ。ではまた、いずれ。S

                 五

 この長い手紙の後、S君との連絡は絶えた。そして、S君の失踪から七年が経ち、S君は、死者になった。S君の言葉を借りれば、世の中は、S君の存在を信じたいという願いをなくしたというわけだ。S君が実際に生きていようがいまいが、世の中にとって、S君のいのちは尽きた。けれども、S君を愛する人々にとっては、S君のいのちが尽きることはないということになる。そして、S君を愛する一人である私は、いまなお、S君が生きていると思っている。S君は、何処か遠い街で、美少女Lとともに、一市民としての生活を送っていると信じている。この私自身の気持ちに素直であろうとする限り、どうやら私は、愛がいのちを生むというS君のアイデアに賛成しなければならないようだ。

 けれども、私は、S君の意見に全面的に賛成するわけではない。私がそう簡単に納得したら、S君だってつまらないだろう。S君。安心するのはまだ早いよ。

 S君。君は、Lと、毎日、普通に会話していると言ったね。そしてそれが、たとえ幻覚であっても、認識主体が認識している以上は現実なんだと言った。けれども、それは、君のいのちのアイデアと矛盾する。いのちが、愛するものの存在を信じたいという願いのことだと言うなら、そのように願っている君は、世界は幻に過ぎないかも知れないという主観的な世界観を否定しなければならないはずだ。たとえ君の認識主体が認識しているとしても、客観的には、幻覚は所詮、幻覚に過ぎないということになるはずなんだ。現実と幻覚とを明確に区別するからこそ、世界は確固として実在することができるんだからね。だから、君がLと毎日会話していることは、客観的な現実世界から見れば、やはり、君の幻覚だと言うしかない。君だって、それに気が付いているんだろう? でも、君は、Lとの幸福な生活を守るために、それが幻覚であることを認めたくないんだろう? けれども、もし、君が、それが幻覚であること飽くまで認めないというなら、君は、主観的な世界観を容認していることになる。そうすると、君の愛するLの存在自体が、君の認識主体の生み出した幻に過ぎないかも知れなくなる。それは、Lのいのちを奪うことを意味する。君は、Lとの幸福な生活の幻覚を守るために、Lのいのちを奪おうというのかい? まさか、そんなことはないだろう? もっとも、君が、Lとの幸福な生活の幻覚と、Lのいのちの両方をともに守りたいというのなら、唯一つだけ方法がある。それは、Lとの幸福な生活こそが現実なのであって、君とL以外の世界のすべての方が幻覚なんだと考えることだ。Lとの幸福な生活と、この現実世界とが両立しない以上、どちらかが幻覚でなければならない。君が現実世界を愛するなら、君は、Lとの幸福な生活を幻覚として認めるしかないが、君が、この現実世界よりもLとの幸福な生活の方を愛するというなら、君は、現実世界の方を幻覚だと考えればいいというわけだ。それによって、Lとの幸福な生活は幻覚なんかでなく実在のものとなり、君は、Lとの幸福な生活とLのいのちの両方を矛盾することなく守ることができる。但し、そのために君が支払うべき代償はずいぶん大きなものになるよ。君が、現実世界の方を幻覚だと考えるなら、それは、君とL以外の全世界の実在を否定することになる。それは同時に、君とL以外の全世界のいのちを否定することを意味する。つまり、君は、全世界を敵に回すことになるんだよ。いや、それだけでなく、この現実の世界を初めに作った神をも敵に回すことになる。君は、Lとの愛のためなら、全世界のみならず神とも戦うというのかい? それでもいいというなら、もう何も言わない。君たちの愛は本物だ。神をも畏れぬ愛が本物でないなら、この世に愛など存在しない。私は、君たちの愛を心から祝福しよう。けれども、その時、私の祝福は、もはや君には届かないだろう。私もまた、君にとっては幻覚に過ぎないのだから。        (了)