極東浪漫座論

~土師和夫短編集「極東浪漫座論」(2008) ~

極東浪漫座論

 

                 一

 九州A県の地方紙の社会面の片隅に、その傷害致死事件の記事は掲載された。事件について、その経緯を知っている地元の住民から見れば、記事の扱いは不当なほど小さなものだった。そうして、その事件に関する記事は、翌日には紙面から消え去っていた。

 事件は、昭和二十七年冬、A県S町で起こった。S町在住の地元建設業者である中村勘一(仮名・当時三十一歳)が、同町在住の小学校教諭である矢垣一郎(仮名・当時三十歳)により、胸部を刃物で刺されて死亡した。警察に自首した矢垣は、傷害致死罪で起訴されたが、拘留中に拘置所内で急死した。矢垣の死により、公訴棄却の決定がなされ、本件事案は、その解明の機会を永久に失った。

 そうして、既に半世紀が過ぎた。事件について記憶する者は絶えようとしている。

 平成十三年の初夏、私(土師)は、S町の駅前商店街の一角の喫茶店において、取材ノートを読み返していた。取材ノートには、昭和二十七年冬に起こった当該事件に関するインタビューのメモが記されている。インタビューの相手は、同町在住の黒木修一氏(仮名・取材時七十九歳)である。黒木氏は、S町教育委員会の嘱託で、同町にある県指定史跡であるS町古墳群内の第三号墳の管理人をしている。第三号墳というのは、九州島内でも最大級の規模を有する前方後円墳で、この第三号墳に関する資料収集が、私がこの町を訪れた本来の目的であった。それまで私は、そんな半世紀も昔の傷害致死事件のことなど、知るはずもなかったのである。

 A県教育委員会とS町教育委員会とによる第三号墳共同発掘調査計画が発表されたのは、平成十三年春のことであった。この当時、私は、都内の小さな郷土史会に参加していたのだが、その郷土史会の会報のニュース欄に、この第三号墳発掘計画の記事を見つけた時には、ほとんど息をするのも忘れるくらいに驚いた。というのも、この第三号墳というのは、地元において古来より、木花開耶姫コノハナサクヤヒメ)、すなわち天孫瓊瓊杵尊ニニギノミコト)妃の御陵であるという伝承がなされている古墳で、同古墳のすぐそばにある旧郷社(創建は少なくとも千年以上遡及できる)を中心として住民の崇敬の念篤く、奇跡的に未盗掘・未発掘、そういうわけで明治期に宮内省から陵墓参考地として指定を受けていてもおかしくないくらいの由緒のある古墳なのだが、どういう手続きの不備か、結局、陵墓参考地指定を受けることなく、いわば「在野の御陵」として今日に至ったものであり、しかしそのおかげで、その発掘調査については宮内庁の許可を得る必要などなく、県の教育委員会の裁量次第で可能という、古代史愛好者にとってはまさに垂涎の古墳だったのである。

 その第三号墳の発掘調査が、いよいよ開始されたというので、私は、今まで取ったこともない長期の有給休暇を断固たる決意で申請した。不審げな顔で申請書を受け取った女事務員は、大げさに驚いてみせて、あらまあ、こんな時期に有給ですって、いいご身分ねえ、と実に憎らしい嫌みを投げて寄こしたが、ここが我慢のしどころで怒ってはいけない。ひたすら笑みをたたえてペコペコ頭を下げ、あれ、ちょっとお痩せになったんじゃないですか、などとつまらぬお世辞もいくつか織り交ぜてようやく受理してもらった。べつに、この女事務員から給料をもらっているわけでなし、ペコペコする必要などまったくないのだが、そんな一文の得にもならぬ正論を主張している暇はない。有給休暇を奪取した私は、カメラと取材ノートをバッグに放り込むと、あたふたと九州行きの飛行機に飛び乗った。私が現場に行ったからといって、発掘調査がどうなるというわけでもないのだが、ひょっとしたら発掘の臨時作業員として現地採用してもらえる幸運に恵まれるかも知れないし、そうでなくても、皇室御陵の発掘現場を直接目にできる機会などは、まさに千載一遇、そうそう滅多にあることではない。いや、生涯、二度とはないだろう。仕事どころではない。行かねばならぬ。

 第三号墳丘陵上では、すでに掘開作業が開始されていた。当然ながら、立入禁止である。総延長八百メートル以上に及ぶ墳丘外周に沿って鉄杭が打ち込まれ、これにロープが張り巡らされ、さらには、ヘルメットに制服で身を固めた屈強な警備員たちが油断なく巡回しているという有様で、私のような部外者が、しかも素人の古代史愛好者ごときが気安く作業現場を見物できるような状況ではなかった。周辺では、私同様に閉め出された不幸なる同好の諸氏が、うらめしげな視線を警備員に投げつけつつ辺りを徘徊していた。しかし、はるばる東京から、有給まで取って、折角ここまで来たのである。ロープの周りをカメラ片手にぐるぐる歩き回っているだけでは仕方がない。私は、我々傍観者に対して実に愛想の悪い警備員の一人が眼前を通過して去っていくのを、いかにもさりげない風を装って見送ると、敢然として身を翻し、第三号墳に隣接する「第四号墳」(被葬者不明。第三号墳の陪塚であるとの説も有力)の柵を乗り越え、藪をかき分け、茂みに足をとられながら、大汗をかいて、「第四号墳」の墳丘上に登った。言うまでもなく、違法行為である。そうして、その墳丘上に繁茂する雑木の枝を力任せにみしみしと押し広げ、やっとの思いで、第三号墳の後円部墳頂が掘開されていく様子を望見することを得た。第三号墳後円部の上部の雑木は伐採されて丸坊主になっており、その墳頂表土が縦横に切り裂かれ、はぎ取られ、黒土の封土がえぐられている。その光景は、横たわる巨大な古代生物の頭頂部が解剖されていく姿を連想させた。

 と、その時であった。

「おい、あんた。」

と、しわがれた声が背後で聞こえた。私は凍りついた。おどおどと振り返ると、地元の農夫然とした小柄な老人が一人立っている。老人は、厳しい口調で、

「勝手に入っちゃいかんど。この山は古墳やど。県の史跡や。」

と私を叱った。私はあわてて、

「はあ、すいません。向こうの現場を見たくてですね。」

「現場? ああ、三号の発掘か。」

「はあ。」

「発掘現場なんぞ見て、どうするんや。」

「いえ、その、どうもしないんですけど、その、発掘調査に興味がありまして。」

「何や。学者さんか。」

「いえ。学者じゃありません。歴史は好きですけど。」

「好きなら学者や。大学の先生だけが学者やないがな。まあいい。大目に見とこう。しかしまあ、あんな発掘なんぞ見とっても、何もありゃせんよ。」

「は?」

「あんな所をほじくり返しても、何も出て来やせんということよ。」

「出て来ないって、どうして分かるんです?」

「おれは、三号の番人を五十年やっとるんや。三号のことなら、たいていのことは知っとるよ。」

と、私に語る、この老人が、S町教育委員会嘱託第三号墳管理人、黒木修一氏であった。

                 二

 第三号墳のことを教えてほしい、という私の申し出をしぶしぶ承諾してくれた黒木氏は、私を第三号墳管理センターへと案内してくれた。

 第三号墳管理センター、と言うと何だか随分仰々しいが、実際は、十坪程の小さな木造家屋を改修した管理人詰所のことで、第三号墳に隣接する旧郷社・S神社の神域内にある。第三号墳は、古来、このS神社が中心となって、その保存顕彰に努めてきた。現在も、例年行事の一つとして「御陵祭」なる神事が執り行われている。第三号墳は、昭和十五年に県から史跡指定を受けた。これにより、本来ならば、県が、S町と共同で同古墳を管理するべきであったところ、その後の戦争の激化と敗戦の混乱とが障害となって具体的な管理施策が何らなされず、結局その後十年以上にわたり、第三号墳の管理は、その費用を含め、従前通り旧郷社と、その氏子組織であるS神社奉賛会による自発的献身によって維持されてきた。黒木氏の勤める同古墳管理センターが、今なお、旧郷社敷地内にあるのは、その名残である。そしてまた、そういう経緯が、県やS町の教育委員会の施策に対する旧郷社及び同神社奉賛会の発言力を増し、第三号墳の発掘調査を今まで先延ばししてきた要因の一つともなった。昭和二十七年夏、県教育委員会が、第三号墳発掘調査について初めて提案した際には、旧郷社奉賛会を中心とする反対派(発掘調査は神域を汚すと主張)と、ようやく戦後復興の兆しを見せ始めたS町商工業組合を中心とする賛成派(史跡公園指定のためにも発掘調査して学問的解明をすべきと主張)とで地元住民が対立し、地元町議会においても意見が割れ、結局、発掘調査の無期限延期が決定した。この騒ぎの責任をとる形で、当時のS町教育長は辞職している。それ以来、第三号墳発掘調査は、A県及びS町の教育委員会において将来的に解決すべき課題の一つとして今日まで持ち越されてきた、というよりむしろ、その話題に触れることは避けられてきた。

 その第三号墳が、今になって、K大学考古学研究室の申請に応じる形で何の混乱もなくあっさりと発掘調査されるに至ったことについて、黒木氏は、

「当時の連中は、もうみんなあの世に行ってしもうたからねえ。今更、反対も賛成もないわな。」

と言って苦笑した。

 第三号墳管理センターの建物は、元々、S神社奉賛会による第三号墳の番人のための詰所であった。この番人は、「御陵番」と称され、若い氏子たちの当番制の奉仕活動であったが、現在は、S町教育委員会嘱託管理人である黒木氏が一人でその役を果たしている。今のところ黒木氏の後継者はいないという。ちなみに、第三号墳は、昭和十五年に史跡指定を受けるまでは、「御陵」と称していたが、史跡指定後は、「三号」という代名詞で通用するようになった。黒木氏も若かりし頃は、この御陵を守る御陵番の一人であった。

 御陵番は、二人一組で行われた。御陵番の当番日になったならば(これを「御陵上番」という)、当日早朝、日の出と同時に「御陵番所」(現・管理センター)に出頭し、同番所に備えてあるゲートルで足回りを固め、鉢巻きをして、六尺の樫棒を携え、実にものものしい格好になって、郷社拝殿前で神主に対し御陵上番を申告、その後「二夜二日」にわたって(「二泊二日」とは言わない。なぜなら二日間とも徹夜であり、「泊まる」わけではないからだという)、御陵番として勤務することになる。昼間は、神域の草取りなど雑用をする以外は番所で仮眠をとる。そうして、日没後から翌朝日の出迄の間、二人一組となり、六尺棒を片手に御陵(第三号墳)の内外を不眠不休でくまなく巡察して、盗掘や不敬行為の防止・摘発に努めるのである。無事に丸二日間の勤めを果たすと、再び神主に御陵番の終了(これを「御陵下番」という)を申告して、六尺棒などの備品を次の御陵番に申し送り、帰宅する。このような御陵番の制度がいつ頃確立したのか不明だが、その軍隊類似の規律から見て恐らく明治中期あたりであろう。が、そういういかにも窮屈な制度化がなされる遙か以前から、S神社氏子有志による自発的な御陵守護は脈々と継承されてきたのであり、その起源は少なくとも十世紀以前にまで遡及できる。その中でも、中世期の氏子たちはなかなか勇ましかったようで、近隣の農村で発生した一揆の暴徒や、野盗、無頼漢連中がS部落に侵入を図ろうものなら、氏子一同、各々父祖伝来の、あるいは何処かの戦さ場で拾ってきたような武具を引っぱり出し、神主を臨時の盟主に戴いて一種の自警団を組織し、神域を汚さんとする侵略者を断じて寄せ付けなかったという。戦国期には精強無比を誇る島津軍の侵入をも阻止したという記録さえある。たまたま部落に迷い込んだ島津の小部隊を追っ払った程度であったらしいが、それにしても戦国大名の軍兵にさえ刃向かったというのだから威勢がいい。徳川幕藩体制が布かれてからは、S部落は天領に組み入れられ、大名藩政下の農村に比べれば公租も比較的軽く(代官支配下のほぼ全期を通じて、S部落は三公七民が守られている)、幸いにして苛斂の苦しみは免れたようだが、もともとが自力で戦国期を生き抜いてきただけに独立心の強い部落であり、徳川幕府に対する恐れも愛着もさらさらなかったらしく、幕府瓦解に際しては代官所を包囲して代官以下の幕吏を追放している。さらに西南の役に際しては、太政官政府を打倒すべく、少なからぬ人数の若者が薩軍の軍夫徴募に応じている。が、しばらくすると、今度は、薩軍の横暴ぶりが気に入らぬとして皆帰郷してしまった。要するに、この部落の人たちは、とにかく偉そうな支配者が気に入らなかったらしい。但し、この薩軍従軍だけは、部落に予想外の結果をもたらした。黒木氏によれば、この薩軍従軍が原因で、第三号墳が宮内省の陵墓参考地指定を受けられなかったというのである。あるいはそうかも知れない。が、そのことが人々を落胆させたわけではない。第一、当時の部落民のほとんどが、陵墓参考地などという制度があることさえ知らなかったであろう。千年来の崇敬心を有する氏子たちにとって、陵墓参考地指定などはどうでもいい、むしろ余計なお荷物だ、と黒木氏が言った。

 そういうS神社氏子たちであったから、その結束は固く、また自尊心も高く、戦前のS町(昭和三年町制施行)においては政治力も大いに発揮し、初代S町町長には当時の奉賛会会長が選出されていることから見ても、その勢力の程が伺われる。が、大正中期に開通した国鉄S駅前に徐々に発展してきた商業地区がようやく町らしくなってきた昭和十年頃から、S町町政において、駅前新興商業主を中心としたS町商工業組合の発言力の方が、S神社奉賛会のそれを上回るようになったらしい。無論そこには議会工作のための相当の金が動いたのであろうが、昭和十一年の町長選では、商工業組合の支援する候補が、奉賛会出身の現職町長を破り新町長に選出されている。第三号墳を含むS町古墳群の県史跡指定を運動したのは、この商工業組合を中心とする商工派勢力である。商工派としては、昭和十五年の紀元二千六百年を記念して史跡指定を受け、県民愛国精神の発揚を図るなどと理由付けしたが、それは表向きの理由で、実際の所は、史跡指定に伴う整備事業予算を狙ったものであったと言われる。が、奉賛会としても、表向きの理由が愛国精神の発揚である以上は反対もできなかったようである。これにより、昭和十五年、A県指定史跡S町古墳群が誕生した。

 その後、同古墳群史跡管理に対し、県も町も無策であったことは既に触れた通りで、史跡指定後も、第三号墳の管理保全は、従来どおり御陵番によって維持された。奉賛会としても、県・町の無策のおかげで、御陵を役人や学者連中に無闇にいじくり回されることなく済んだわけで、御陵番の負担は決して不満ではない。そうして、その一方では、御陵番の実績を以て、町政に対する発言力回復を図った。特に、戦時下の物資の窮乏、徴兵による若年層の減少という悪条件下にあって、ただの一日も御陵番を中断したことがなかったという功績は大きかった。あるいはまた、御神宝接収要求事件という珍事件もあった。これは、敗戦後、進駐軍の米軍将校が、軍用ジープで郷社に乗り付け、御神体である鏡の接収を命じたという事件で、接収と言っても、どうやらその米軍将校が個人的に欲しかったらしい。土産にでもするつもりだったか、あるいは骨董品として売り払うつもりだったのか、その辺は不明だが、とにかく横柄な大男で、敗戦国の物はすべておれたちのものだといわんばかりの馬鹿であったらしい。神主は穏やかな人で、取次ぎの者から話を聞くと、「くれてやればよい。」と、つまらなそうに言ったというが、騒ぎを聞きつけた当時の奉賛会会長が憤激し、懐中に短刀を忍ばせつつ羽織袴で郷社に駆け付け、傲然と構える将校を相手に、たどたどしい英語を交えつつ、その理不尽を懸命に説きに説き、しまいにはやけくそで、

「いい加減にせんと、斬っど。アメ公。」

と殺気立って凄んだ。これには米軍将校もさすがに面倒になったのか、遂に断念して帰ってしまった。そういう事件である。この事件で、奉賛会会長は、たちまち男をあげた。こんな武勇伝なども付加されて、少なくとも第三号墳に関わる施策については、奉賛会の同意を得べしとする明治以来の不文律が再確認された。

 が、昭和二十七年夏、その不文律が破られた。A県及びS町の教育委員会が共同で、奉賛会に何ら諮ることなく第三号墳発掘調査計画を発表、K大学考古学研究室に調査を委託した。もっとも、発掘調査を奉賛会に諮ったところで猛烈に反対されるに決まっていたから、そもそも発掘調査をやろうとすること自体が、奉賛会の意向を無視することを前提としていた。その背景には、発掘調査により第三号墳が皇室御陵であることの学術的裏付けを得て国レベルの史跡公園建設を誘致し、さらには、卑弥呼陵の可能性もありなどと大々的に商業宣伝して観光事業化したいとするS町商工業組合の運動と、これに同調するA県土建業組合、同観光業組合等による後押しがあった。無論、それ相当の金が動いたらしい。当然ながら、発掘調査を実施した場合、第三号墳は皇室御陵ではないと結論されることもあり得る。が、もしそうなったとしても、商工業組合にとっては痛くもかゆくもない。

 一方、奉賛会にとっては、発掘調査など寝耳に水の、とんでもない話で、御陵を掘り返すなど不敬を通り越して逆賊行為であるとして即座に緊急総会を開催し、発掘調査反対を全会一致で決議すると、奉賛会役員一同連判状に署名し、発掘調査断固粉砕を誓った。氏子有志がS町中をくまなく戸別訪問して集めた反対署名は二千筆に達した。これは、当時のS町人口の一割に相当するが、署名は戸主のものであり、その家族を含めればS町人口の半数にも及んだであろう。奉賛会会長はS町役場に乗り込んで、集めた署名を提出し発掘調査計画の撤回を求めたが、町長・教育長ともに、計画は県の方針だと逃げ回って埒があかなかった。

 奉賛会会長以下役員が県教育委員会との直接交渉を検討している一方で、血気盛んな若い御陵番たちの間では実力行使も辞さずとする強硬論が支配的になった。その中心となったのが「第三倶楽部」と称する組織で、第三倶楽部は商工業組合役員に対する天誅を画策している、などという不穏な噂がまことしやかに流布した。

 「その第三倶楽部の代表が、矢垣でな、敗戦になった後、南方から帰って来て、S小の先生をやっとった。師範(旧・A師範学校、現・国立A大学教育学部)を首席で出たっちゅう秀才でな、見た目はえらいおとなしい男じゃったが、芯の強情な奴じゃったな。」

と、黒木氏は、懐かしそうに言った。

「『第三倶楽部』というのは、その矢垣さんが付けた名前ですか?」

「そうそう。まあ、第三ちゅうのは第三号墳のことじゃろうがね、なかなかいい名前じゃろう、と矢垣が自慢しとったなあ。」

「黒木さんも、第三倶楽部に?」

「いやいや。誘われたけどね。おれは町役場に勤めとったから、そういうことに係わるわけにはいかん。」

「町役場にいらしたんですか。」

「うん。でも、矢垣の事件の後、役人をやめて、ここの管理人になった。発掘賛成派と反対派の騒ぎには、K大学の先生方もいい加減、嫌になったらしくてな、調査を中止して帰ってしもうた。発掘調査は頓挫じゃ。そのかわり、御陵番も廃止になった。危険集団じゃということでな。御陵番の矢垣が、商工業組合の中村を刺し殺したんじゃから当然じゃろう。奉賛会も反対はできん。で、御陵番の代わりに嘱託管理人が作られたんや。その初代がおれで、それからずっと、おれがやっとる。」

「その刺された中村さんという方はどういう人だったんです?」

「中村も矢垣も、おれも、同じ尋常(S町第四尋常小)に通ってたんや。子供の時から、よう知っとる仲やったんじゃ。まあ、でも、矢垣と中村は、昔からやたらと仲が悪かったなあ。中村は、おやじが土建屋でな、えらい金持ちやったな。勉強もようできて、K大まで行った。インテリや。土木の研究しとったそうで、戦争の時は技師をやって、戦地で橋やら道路やら設計しとったらしい。まあ、矢垣とは正反対じゃな。矢垣は親父を早くに亡くしてな、勉強は中村に負けんくらいできたんやが、家に金がないから金のいらん師範に行った。師範でも一番とるくらいできる奴やったのに、戦争じゃ二等兵で出征して、それも南方に送られて、それで九死に一生を得て帰ってきた。」

 

                 三

 矢垣一郎(終戦時、陸軍上等兵)は、日本の無条件降伏に伴い、ビルマの首府ラングーンにおいて武装解除を受けて俘虜収容所に収容され、昭和二十年冬、復員船で帰還後、小学校教諭に復職した。A師範を主席で卒業し、小学校教師を勤める傍ら自学研鑽に勉めてきた矢垣であったから、知識も豊富で、会合や酒席でも話題を主導して座の中心となり、いつのまにか若い御陵番たちの兄貴株のような格好になった。第三倶楽部は、当初、そういう若い御陵番たちの親睦会のようなものであった。

「矢垣よ。何か、良い名前つけてくれんか。」

「何の名前じゃ。」

「うちらの名前じゃ。うちら御陵番有志の名前じゃ。ひとつ、そのインテリの頭で考えてくれ。」

「よし。わかった。そうじゃな、三号を守護するのじゃからな、第三倶楽部というのはどうじゃ。」

「第三倶楽部? 何となく軟弱じゃなあ。」

「何を言うとるか。簡潔明瞭、かつ近代的の名前じゃ。我ながら気に入った。どうじゃ。第三倶楽部で行こうやないか。」

といった程度のやり取りが、第三倶楽部結成の経緯であって、元々は何の目的もない酒席の座興に過ぎないのである。が、第三号墳発掘調査をめぐる問題が紛糾するにつれて、第三倶楽部は暴力的秘密結社だ、という誇張された噂が一人歩きした。噂を聞きつけた奉賛会会長は、矢垣ら第三倶楽部の主だった者を自邸に呼びつけ、

「今がどういう時か分かっとるんか! わしらが細心の注意を払って県の説得工作を検討しとる最中やというのに、何が秘密結社じゃ。思慮の足りんことをすんな!」

などと頭ごなしに叱りつけた。なにせ、この会長は、例の御神宝接収要求事件で「アメ公」を追っ払ったというだけあって、気が短くて威勢がいい。矢垣たちも、この老会長のそういうところが好きであったが、それだけに、その会長自身の口から、そういう常識的な慎重論が出ることが意外であり、腹立たしくもあった。矢垣は、何ら弁解することなく黙って会長の小言を聞いていたが、会長の叱責が一段落つくと、

「会長さんは、県に工作すると言いなさるけど、その県こそが、今回の発掘の黒幕やないですか。連中は、史跡公園の補助金が欲しいんや。国の補助金と、田舎の氏子の陳情と、県がどっちをとるかくらい、その辺の小学生だって分かるんと違いますか?」

と静かに言ってのけた。言ってしまったものは仕方ない。

「何やと? おまえ、何を偉そうに理屈こねとるんや。誰に向かって話しとるんや! おまえら若僧の出る幕やないんや!」

会長の激昂した罵声に、矢垣も感情の抑制を捨てた。矢垣は正座していた足を崩してあぐらをかき、

「会長! 腰が抜けたか。アメ公を追っ払った時の根性はもうないとか!」

「なにい!」

「アメ公は、鏡を一枚よこせというただけじゃ。じゃけど、県は、御陵を根こそぎ暴くっちゅうとるんやど。アメ公の方が、よっぽどかわいいわい。アメ公には刃向かっても、お上には逆らえんちゅうわけか。」

「こんガキ。図に乗って。」

「せからしか(やかましい)! さっきからガキじゃの若僧じゃのと。あんたらこそ能無しのくそじじいじゃ。」

「な、なんじゃと!」

「何や、文句あるか!」

 もはや取り返しはつかなかった。会長は、説得を諦めると、

「もういい! 出て行け!」

と絶叫した。

 会長の自邸からの帰途、矢垣は、むしろ、さばさばした様子を示し、この時同行していた第三倶楽部同志たちに、

「ああ、いい気分じゃなあ。さっぱりした。」

と言って笑った。

 矢垣の奉賛会執行部批判は、若い御陵番たちに「壮挙」として好意的に受け入れられ、これ以降、第三倶楽部には、強硬派を自認する若者たちが次々に集まり、昭和二十七年秋までには百名を越える勢力となった。その中心的役割を果たしたのは旧陸軍復員兵たちで、矢垣を代表者として、全員を十個の班に分け、各班に班長以下約十名の班員を割り当てた。班長は全て、旧陸軍復員兵を充てた。武器こそ持たないが、ほとんど軍隊組織であった。第三倶楽部の代表者として、その指揮を任された矢垣は、奉賛会の方針とは関わりなく独自に第三号墳発掘調査阻止行動を遂行する旨を奉賛会執行部に通告した。独自の行動とは、すなわち、実力行使を意味する。矢垣は、従来二名の輪番であった御陵番の態勢を増強し、これを十名一個班による日直制に改めると、昼夜の別なく、隊列を組んでの巡察を実施させて、発掘調査に対する示威とした。この頃、既に、K大学考古学研究室の先発隊一行が、第三号墳の予備的な調査のために現地入りし、墳丘の測量準備を始めていた。矢垣は、調査団が一歩でも御陵に入ったならば、実力を以てこれを「排除」せよと指令していたが、六尺棒を携えて隊列を組んだ異様な集団の巡察には、調査団も恐怖心を抱かざるを得ず、作業を中途で打ち切ることもしばしばで、矢垣らは、これを曲学撃退などと称しては気勢を挙げた。

 が、一方では、この矢垣らの嫌がらせ的な行為に対して、S町商工業組合を中心とする発掘調査推進派による猛烈な抗議が奉賛会になされていた。その先頭に立ったのが、S町商工業組合理事・中村建設代表取締役社長の中村勘一であった。

 中村は、昭和二十年冬、満州から引き揚げて来た。K大工科を卒業後、陸軍の設計技師(士官待遇)として関東軍と行動を共にした中村は、ソ連軍の満州侵入に伴い南下、危うい所で抑留をまぬがれて、朝鮮半島を経て帰国することを得た。帰郷して間もなく家業を継ぐと、空襲で焼け野原となった県都A市の復興需要を機敏に捉えて莫大な利益を獲得し、S町のみならず、A県内においても有数の建設業者となった。中小の下請けを強引に斬り従えて、擁する人夫は数百名に達し、相当の金を県・町議員から県庁・町役場の役人に至るまでばらまいているという噂が半ば公然の秘密としてささやかれた。もっとも、中村が、こうした利益至上主義的傾向に没頭するなどということは、戦前の彼を知る者にとっては、およそ予想し得ないことであった。中村は、家業の土建業が好きでなかった、いや、そもそも商売というものが嫌いであった。中村がK大工科に進学したのも、家業の土建屋を継ぐためではなく、学者か役人になるためであった。その中村が、満州から命からがら逃げ帰って来てからは、まるで別人のように利益に執着するようになった。家業にも熱心で、愛想笑いを絶やすことなく、得意先を開拓し、将来需要の見通しに励み、またその一方で、利権に関わる議員や役人には念入りに取り入った。かつての「勘一お坊ちゃん」の姿からは、到底想像できない変貌ぶりであった。

「坊ちゃん、軍隊で、えらい鍛えられたのと違いますか?」

と、先々代の頃から勤める大番頭(専務取締役)が戯れに聞いたことがあった。これに対し、中村は、真面目な顔で、

「おれはなあ、満州で、ソ連軍を見たんや。ありゃ、鋼鉄の洪水や。大平原いっぱいに戦車があふれかえってるんや。たまげた。あんなもん相手に、神州不滅だの八紘一宇だのと言うていきがってたかと思うとおかしゅうて笑いもならんわ。負けて当たり前じゃ。今からの世の中、要は工業力や。経済やな。経済ゆうたら、つまりは金やないか。」

と答え、これが社長の金言として社内に周知徹底された。

 朝鮮特需の好景気の下、戦災復興に続く建設需要として中村が目を付けたのが、県指定史跡S町古墳群であった。中でも第三号墳は、「在野の御陵」として知る人ぞ知る第一級史料であり、中村は、これを中心にしてS町古墳群を史跡公園として整備することを狙った。もっとも、その前提には、第三号墳を発掘調査して何が何でも物証を挙げ、皇室御陵として大々的に「売り出し」て文化財指定を受け、国の補助金をたっぷりと引き出す必要があった。そういう中村にとっては、奉賛会や、あるいは矢垣たち御陵番の発掘調査反対の考えが、さっぱり理解できなかった。というよりも、許せなかった。中村の目から見れば、奉賛会や御陵番などは頑迷に旧習に拘泥するのみで、古代皇族の御陵かも知れないという宝石箱のような第三号墳の価値を全く理解せず、徒らに外界から隔離・遮断して朽ちるにまかせている無能の徒であった。中村は、自分の加盟する県土建業組合や観光業組合の支持を取り付けると、屈強の男どもを引き連れて足繁くS町役場を訪れては、発掘調査を断行するようS町教育長を口説いた、いや、それは、ほとんど恫喝に近いもので、

「教育長! 三号は、県の史跡や。奉賛会のもんやない。あんたも知ってのとおり、その県が、S町が承知なら発掘しても構わんというとるんや。」

「しかしなあ、中村さん。奉賛会は絶対承知せんじゃろうが。なんぼ三号が県の史跡やというても、S神社氏子は、千年、あの古墳を守ってきたんや。それを無視して発掘はできんど。」

「奉賛会の連中が三号を守ってきた? 馬鹿馬鹿しい! 要するに、ほったらかして来ただけじゃろうが。今のままじゃ、三号は、学問的な裏付けも何もないまま、ただの土まんじゅうとして世間から忘れられるぞ。伝説なんかじゃ、世間は相手にせんのじゃ。必要なのは証拠や。三種の神器みたいなお宝を一つでも見つけてみれ。正真正銘の御陵やいうて、日本中で大評判や。何百万の観光客が三号を拝みに押しかけて来るど。」

「証拠が出らんかったらどうなるね?」

「証拠が出らんかったら? そんときは、あんた、三号はただの土まんじゅうでした、ちゅうだけのことじゃがな。土まんじゅうを千年も拝んできた奉賛会の連中も、いい笑いもんになって、やっと目が覚めることじゃろうよ。」

「うんにゃ、中村さん、それは違うど。たとえ土まんじゅうと分かっても、奉賛会の連中は、三号を千年でも二千年でも命がけで守っていく。奉賛会にとっちゃ、証拠なんかは関係ないんや。それが分かっとるからこそ、三号はそっとしておいた方がええと思うんや。あんただって、そんなことぐらい分かっとるじゃろうが。」

「教育長! わたしはね、あんたと議論しに来たんやない! 回答をもらいに来てるんや。発掘するのか、せんのか! あんたが決心せんのやったら、県に動いてもらわないかん。そん時は、町長さんにも、えらい迷惑かけることになりますが、それでもええのですか?」

と言ったやりとりが、教育委員会事務室のドア越しに聞こえて来るのを、当時役場に勤務していた黒木氏もしばしば耳にした。

 役場を訪れた中村は、その帰り際には決まって黒木氏の机に立ち寄り、

「よう。黒木。元気でやっとるね? 騒がしてすまんな。」

などと声をかけては陽気に笑って見せた。

 中村の度重なる説得に、とうとうS町教育長も根負けした。昭和二十七年の夏、S町教育委員会は、県教育委員会と共同で、第三号墳発掘調査計画を立案、発表した。このS町教育長は、その後の奉賛会とS町商工業組合との紛争の責任をとらされ、詰め腹を切らされる形で辞職している。教育長が役場を去るにあたって、部下の事務局員らに言い残した言葉は、

「三号は、いじっちゃならん。」

であった。結局、この言葉は、この後、実に半世紀の間守られたわけである。

 昭和二十七年の秋も深まるにつれ、矢垣を代表とする発掘反対派と中村を中心とする発掘推進派との対立はいよいよ先鋭化した。奉賛会執行部と喧嘩別れした矢垣は、第三倶楽部の代表として発掘調査反対の急先鋒となり、調査団先発隊の準備作業に対し示威行動を繰り返した。一方の中村は、矢垣らの作業妨害行為にいよいよ業を煮やし、配下の人夫たちを動員して調査団の作業を護衛させた。一触即発と言ってよかった。

 黒木氏は、

「元々、あの二人は、子供の時から仲が悪かったんや。おれは、いつもいつも、あの二人の間に挟まれて、苦労したもんじゃわ。」

と言って苦笑した。黒木氏は、矢垣、中村という、この町始まって以来と言われた二人の秀才の共通の友人であった。矢垣も中村も、二人だけでは話もしない仲であったが、互いに強く意識していたらしく、その間に黒木氏を介在させることで相手の動静を知ろうとした。

 幼くして父を亡くした矢垣は、尋常小学校入学後、抜群の記憶力と理解力を示し、教科書をすらすらと暗誦したのみならず、帳面に一字も書き写すことなく黒板に板書された白墨の記述を丸暗記していたという伝説が生まれたほどの秀才であったが、ただ一度だけ、担任訓導を困らせたことがあった。矢垣が五年生の夏、担任訓導が矢垣に対して、特に他意なく、

「お父さんがいなくて、さみしくないか。」

と問うたことがあった。これに対する矢垣の返答が、担任訓導をして驚かしめたのであった。矢垣は、

「さみしくないです。お父さんはおります。」

と答えた。

「お父さんがいる?」

「はい。僕のお父さんは天皇陛下です。」

「なんじゃと? 天皇陛下が、おまえのお父さんじゃと?」

「はい。僕は、天皇陛下を僕のお父さんじゃと思っています。だから、全然さみしくありません。世界一のお父さんです。」

訓導は、穏当でないと判断し、これを善導すべく、

「まて。矢垣。おまえの気持ちは分かるがの。天皇陛下をお父さんじゃと言うのはあんまり恐れ多いやないか。」

などと、あれこれ説得してみたが、矢垣は納得しなかった、のみならず、

「臣民は、みんな、天皇陛下の赤子というやないですか。」

などと反駁する始末で、訓導も匙を投げたという。

 中村もまた、秀才として矢垣と双璧をなしたが、それは、矢垣の天賦とも言える明晰さと好対照に、全く刻苦勉励の修練によって成し遂げたものであった。中学校進学後も、堅忍不抜の受験勉強を継続し、果たして、周囲の期待を裏切ることなくK大に進み、S町出身者初の学士号取得者となった。中村の両親は、この勤勉な息子の向学心に応えるべく豊かな資産をたっぷりと投じて、その勉学環境の整備に努めるとともに、いささかも息子の怠惰を許すことなく過酷なまでに研鑽を強いた。が、そういう研鑽の毎日が、果たして中村少年の望んだことであったかどうか、いや、確かに中村の望んだことではあったのだが、しかし、中学に進学してしばらくした頃、中村は、

「おらあ、本当は、中学なんぞ行きたくなかったんや。」

と黒木氏にもらしたことがある。

「なんで? 大学行くんなら中学行かんといかんがな。」

「大学も行きたくはないんや。」

「そんな、もったいないど。末は博士か大臣か、ちゅうほどの秀才が。」

「うんにゃ。おら、好きで勉強しとるわけやないんや。」

「じゃ、なんで、そんなに勉強するんや。」

という黒木氏の問いに、中村は答えることなく、ただ寂しげに微笑したという。

「中村はな、多分、褒めてほしかったんや。」

と、黒木氏は言った。

「褒めてほしい?」

「うん。勉強で一番とって、よくやったって親に褒めてほしかったんや。ただそれだけのために、必死で勉強したんやと思う。社長になって、あんなに必死になって頑張ったのも、会社を県で一番にして、県知事にでも褒めてもらいたかったんやろう。」

「親の次は県知事。するとその次は、総理大臣ですか。」

「きりがないわな。誰でもみんな、自分が一生懸命にやったことを誰かに褒めてほしいという気持ちは持っとるじゃろ。あいつは、そういう気持ちが人一倍強かったんやと思う。あいつはできるから、褒めてくれる人をすぐに追い越してしまうんじゃ。それで、もっと偉い人を探し出して褒めてもらう。その人もすぐに追い越す。また探す。それの繰り返しや。」

 

                 四

 昭和二十七年初冬、いよいよK大考古学研究室教授を団長とする「第三号墳調査団」の本隊が来県した。降雪の滅多にない温順な気候のA県とは言え、山沿いのS町ではさすがに冬は寒気が強いことから、調査団は、調査を来年春まで延期することも検討したが、できるだけ早く整備事業開始を目論む中村ら発掘推進派は早期着手を懇請、いよいよ、第三号墳墳丘そのものに対する調査が開始されることになった。

 既に奉賛会には万策尽きた感があり、むしろ矢垣ら若手御陵番たちの実力行使による発掘妨害を期待する声さえ秘かにささやかれていた。

 矢垣にも、これといって策はなかった。ただ、調査団が御陵域内に侵入すれば、これを実力で排除する、という流血覚悟の暴力闘争方針の強行があるのみであった。第三倶楽部の若手御陵番たちも、天誅などと勇ましい言葉を口にしているものの、実際に過激な暴力闘争に関わっていくことに、どれだけの覚悟を持っているか、矢垣には疑問であった。

 この時期、矢垣は、しばしば黒木氏を訪れては愚痴をこぼした。

「黒木よ。このままやと、警察沙汰の大騒ぎになる。」

「ほんなら、発掘認めるんか?」

「そら、絶対、認めん。じゃけど、そんために、若いもん、刑務所にやるわけにもいかん。血の気の多いもんたちは、中村を刺すなんぞと言うとるが、あいつら、口に出した手前、やけくそのくそ意地で、本当にやりかねん。いくら御陵を守るためじゃというても、人殺しはただの犯罪者じゃ。まして、くそ意地で殺されたんじゃ、殺される中村もたまらんじゃろ。」

「おまえが、天誅なんぞやめろ、と言えばよかろう。おまえ、第三倶楽部の親分なんじゃろが。」

「馬鹿。それができれば、とっくにそうしとる。軍隊と一緒でな、普段は普通のおとなしい奴でも、集団になれば人が変わるんや。じゃから、おれは、集団ちゅうもんが嫌いなんや。おれはな、本当言うと、いつのまにか第三倶楽部なんぞの代表にさせられて、えらい迷惑しとるんや。おれは、一人で、御陵を守りたいんや。」

「一人で? どうやって?」

「まあ、考えがあるんや。とにかく、おれは、第三倶楽部の馬鹿どもにつきあわされるのが、もう嫌なんじゃ。」

 一方の中村も、この時期、黒木氏をしばしば訪ねている。いよいよ発掘調査が本格化するということで、業界に整備事業に対する期待が高まる反面、第三号墳がただの「土まんじゅう」だった場合の中村に対する批判を心配せずにはいられなかったのである。というのも、今回の発掘調査の結果が「はずれ」の場合もあるから事業計画は慎重にされたい、という中村の忠告にも関わらず、県土建業組合、同観光業組合などでは、既に来年以降の整備事業を当て込んだ事業計画を組み始めており、整備事業を前提とした設備投資を始めている気の早い業者も多かったのである。その整備事業が御破算になれば、必然的に、中村に対する批判が熾烈なものになるのは目に見えていた。業界のすべてを敵に回すことになるだろう。中村は、黒木氏の自宅を単身でこっそりと訪れては、小声で、

「なあ、黒木よ。三号は、あれは、本当に御陵なんか?」

と聞くのである。黒木氏は、

「じゃから、おれに分かるはずないて言うとるじゃろう。だいたい、おまえ、三号が土まんじゅうでも痛くもかゆくもないと言うとったやないか。」

「それが、痛くもかゆくもない、ちゅうわけにはいかんようになったんじゃ。気の早い馬鹿どもが先走りやがって、困ったことになったんや。」

「ほんなら、発掘、やめればいい。」

「馬鹿。それができれば、とっくにそうしとるわい。今更やめれんのじゃ。何がなんでも、お宝が出てきてくれんといかんのじゃ。」

「そうは言うても、おまえ、発掘してみらんと分からんやないか。」

「じゃから、おまえに聞いとるんや。おまえも、御陵番じゃろうが。三号のことは、よう知っとるじゃろうが。おまえの勘でいいんや。勘で。三号は、本物の御陵か?」

「分からんのう。だいたい、もし本物やないとしても、どうしようもないやないか。」

「本物やないなら、無理にでも本物にせんといかん。」

「どういうこっちゃな?」

「まあ、いいがな。また来る。」

などと言って、黒木氏の家の裏にこっそりと止めてある自家用車を飛ばして帰っていくのである。

 矢垣と中村とが、それぞれ、何事か企てていることは明らかであった。いよいよ明日、調査団が御陵域に立ち入るという日の夕刻、町役場を出た黒木氏はさすがに不安を抑えかねて、そのまま、S神社に向かった。御陵番の一人として、また、矢垣、中村の共通の友人として、神主に事態を説明し、指示を仰ぐつもりであった。

 黒木氏が神社の大鳥居をくぐり、夕暮れ時の寂しい参道を歩いていると、ふいに、横合いから、

「黒木御陵番」

と呼びかけられた。見ると、ひとりの巫女が微笑して立っている。

 巫女は、「神田時子」(仮名・当時十八歳)という。時子は、神主家の縁戚の娘で、まだほんの少女であった昭和二十年の敗戦間際に巫女となって社務所に詰め始めた。この美しい巫女は、たちまち若い御陵番たちにとっての憧れとなった、と同時に、近づき難い存在でもあった。一つには、神に仕える乙女であるという畏れもないわけではなかったが、それ以上に、成長するに伴ってますます輝きを増してきた、その美しさに、思わず気後れするのであった。

「ああ。時子さん。ちょうどよかった。」

黒木氏は、時子に、神主への面会を取り次いでくれるよう頼んだ。時子は、普段は笑顔しか見せたことのない黒木氏の深刻な表情に何事かを察したのか、自分まで深刻そうな顔つきになって神主に知らせに走った。

 しばらくして、時子が戻ってきた。

「拝殿でお会いする、とのことです。」

 黒木氏は、時子にともなわれて、拝殿に入った。夕闇が既に濃い。時子が燭台に灯を入れた。磨き込まれた床が、つやつやと火影に映えた。二人、並んで座り、神主を待った。つまらぬ私語などは交わさない。神前である。

 ほどなくして、神主が、やあ、と言って現れた。このS神社神主家の当主は、当時、まだ二十代という若さであった。御神宝接収要求事件の際に、鏡など米兵にくれてやればよい、と言ったのはこの人である。S神社宝物殿所蔵の史料(S神社縁起絵巻、十五世紀頃成立、A県指定重要文化財)によれば、S神社神主家の家系は、神武東征神話で知られる久米部の祖神である天久米命(アマツクメノミコト)に連なり、S神社創建以来連綿として神主職を継承してきたとされる。いわば、千年来の部落の貴人であった。少年期より御陵番として勤めてきた黒木氏にとっても、神主家は神の血統の末裔であり、畏れ多い存在であった。

 黒木氏は、神主の前で、型どおり手をついて畏まると、突然の訪問の非礼を詫び、つづいて、事態の経緯を要領よく述べた。

 黒木氏の話を聞き終わると、神主は、その女性のように高く細い声で、

「すると、矢垣君と中村さんが、何やら、ずいぶん危なかしい企てをしとるというわけですな?」

「はい。おそらくは、命がけのことやと思います。」

「黒木君。」

「はい。」

「で、君の真意は?」

「は・・・」

黒木氏が言葉に詰まっていると、神主は、ほほ、と微笑んで、

「隠さんでもいい。つまり、御陵の真偽を確かめたいというのやろう?」

「お、恐れ入りました。その通りです。」

「御陵の真偽とは、すなわち、なれのこころのまにまに、ということや。こころの持ちようで真にも偽にもなる。それは御承知やろ。」

「はあ。」

「ふふ。そんな困った顔をせんでもいい。黒木君は、御陵番に勤務して、もう何年になるのやったかな?」

「もう十五年ほどになります。」

「十五年もの間、御陵の内をくまなく歩いておれば、それと気付くこともあったじゃろうと思うが、どうや。」

と言って、神主は、静かに黒木氏をみつめた。黒木氏は、意を決したように、

「はい。」

と、返答した。

「うん。そしたら、君にまかせます。思うままやったらいい。」

「あ、有難う存じます。では、さっそくに!」

 

そう言って、黒木氏が辞去しようとすると、神主が、

「おい、時子。おまえは、黒木君のお手伝いをせい。」

と言った。時子が、無言で、うなずいた。

 この夜、神主は、ひとり、拝殿で何事かを神に祈り続けている。禰宜も巫女も拝殿内に入ることを許さなかったという。何を祈っていたのか、無論、誰も知らない。

 

                五

 黒木氏は、時子に頼んで神社の物置小屋から鍬とスコップを借り出すと、これを両手に携えて、足早に御陵に向かった。その黒木氏の後を、古めかしいランプを手にした時子が、ほとんど駆けるようにして付き従った。既に冷え切った闇が辺りを覆っている。

 もっとも、時子は、そういう黒木氏の行動が、不思議だったのだろう。白い息を吐きながら、

「あの、何をなさいますの?」

と黒木氏に尋ねた。黒木氏は、しばらく沈黙した後、

「いまから、御陵を、掘り返すんですよ。」

と言った。それきり、時子は黙ってしまった。

 森を隔てた御陵番所の方向から、かすかに男たちの声が聞こえてきた。明日の立ち入り調査を実力で阻止すべく、番所に泊まり込みで気勢を挙げているのである。矢垣も、その中にいるはずであった。

 黒木氏は時計を確認した。御陵番の巡察が来る前に、やるべきことを終えなければならない。やるべきこと、すなわち、御陵の発掘である。と言っても、黒木氏の向かう先は、調査団が重視している円墳部墳頂ではなく、方墳部の最奥部にある樹木と腐葉土に埋もれた窪地であった。一見したところでは封土が自然力に浸食されて崩壊した跡に過ぎないのだが、古参の御陵番である黒木氏は、この窪地の斜面に、崩れた石組みの一部がほんのわずかながら露出して苔むしているのを発見していた。が、決して口外することはなかった。畏れがある。神主の言う「それと気付くこと」というのは、このことであった。これが古墳の入り口である「羨道」の石組みが崩落した跡だとすれば、その奥の土中に被葬者を納める「玄室」がある。黒木氏は、これを掘り抜くつもりであった。掘って、玄室に進入し、副葬品を確認するのである。無論、黒木氏には、考古学の素養などはない。副葬品を目にしたとしても、その正確な年代比定などはできない。が、一つでも、第三号墳が皇室御陵であると言えるような証拠が出てくれば、いや、出てこない場合でも、直ちに、中村と矢垣にそのことを知らせてやるつもりであった。知らせてどうなるのか、そこまでは考える余裕がなかったし、考えるつもりもなかった。とにかく知らせる。知らせれば、町始まって以来のあの二人の秀才が、うまい方法を考えてくれるはずだ。そう信じるしかなかった。

 息を切らせてついてくる時子を振り返る余裕もなく藪をかきわけて進む黒木氏の夜目が、ようやく、その窪地を視界に入れた時、窪地をつつむ闇の一部がゆらゆらと動いた。黒木氏は思わず息を止めた。闇の中に、男がいる。

  矢垣!

黒木氏は、心の中で叫んだ。

  あいつも、気がついとったのか!

矢垣は、息を荒げながら、スコップを手に、窪地斜面の丁度羨道の一部がのぞいている辺りを懸命に掘り崩していた。明かりも点けず、月光だけを頼りに掘っていることからして、外部への発覚を恐れているのは明白であった。  

 黒木氏は、足音をしのばせつつ後退すると、藪の中で黒木氏を待っていた時子の手を静かに取って、その口に人差し指を当て、声を出すな、と無言で示し、時子の手にしていたランプの灯を消した。そうして、再び、時子を連れて窪地の手前の茂みまで戻ると、羨道を掘開する矢垣の後姿に二人で見入った。

 矢垣は、ぜいぜいとのどを鳴らしつつ脇目もふらずに掘開に没頭していた。

 二時間ほども経ったであろうか、矢垣のスコップのざくざくという音がふいに止まった。矢垣が用意していた懐中電灯を点燈すると、矢垣の目の前に、大人一人が屈んで入れるくらいの横穴がぽっかりと口を開けているのが見えた。時子の体が小さく震えはじめ、呼吸が荒くなった。黒木氏は、黒々としたその羨道の開口部を、ただ、凝視するのみであった。

 矢垣が、懐中電灯を手に、羨道に頭から突っ込もうとした、その時である。

「矢垣!」

と押し殺したような声が、窪地斜面の上方から聞こえてきたかと思うと、どさりと大きな黒い固まりが、矢垣の体の上に落ちた。

「わ!」

矢垣は驚愕の声をあげ、懐中電灯を放り捨てると、力任せにその黒い物体を払いのけようとしたが、その物体は、矢垣にしがみついて離れない。

「きさま、中村!」

と矢垣の声が闇に響いた。

「中村?」

黒木氏は、立ち上がったものの、一歩も動けないでいた。眼前の光景に思考が混乱し、呆然としていたのである。矢垣と中村は、黒木氏の存在には全く気付くことなく、腐葉土にまみれながら組み打ち、転げ回っている。

「矢垣! きさま、何しとるんじゃ。お、お宝を盗む気か!」

「中村! おれをつけとったな!」

「おう、つけて悪いか! 必ずきさまが、盗掘すると思うとったわ。」

「盗掘じゃと! ふざけるな! きさまこそ盗掘にきたんやな!」

「ぬかせ! おれはな、お宝を持ってきてやったんじゃ。こんな土まんじゅうのせいで、おれの会社をつぶされてたまるか!」

「ええい、この!」

矢垣と中村が互いを突き飛ばして離れた時、矢垣の手元が月光を白く反射した。それが刃物の光であることに気づいた黒木氏が、

「ま、待て。いかん!」

と叫ぶのと同時に、両者が互いに突進してぶつかりあった。中村の体が崩れ落ち、斜面をころころと転がって止まった。

 黒木氏が、無言で立ちつくす矢垣の手から刃物をもぎ取った。それは旧陸軍の歩兵用の銃剣であった。銃剣を取られてはじめて、矢垣は、黒木氏に気づき、

「何や。黒木か。」

と言って、その場にへたへたと座り込んだ。

 黒木氏は、矢垣の懐中電灯を急いで拾うと、斜面を降り、雑木の根元でうずくまったまま動かない中村をゆっくりと抱き起こした。その途端、中村の口から、どっと血があふれた。中村は黒木氏に何かを言おうとして口を動かしたが、声にならないまま息絶えた。

 黒木氏は、中村の死体を運び上げて横たえると、

「おまえ、何しとったんや。」

と、矢垣に問うた。矢垣は、なおも気抜けしたような顔つきで、

「御神宝が他人の手に渡るくらいなら、掘り出して別の山に隠そうと思ったんや。隠して、その銃剣で腹切って死のうと思うとったんや。まさか、中村につけられとるとは思わんかった。おい。中村。死んだんか。おい。」

「もう死んどる。おまえの銃剣が胸を突き通したんや。」

「そうか。もう死んどるのか。」

「おい。矢垣。しゃんとせえ。ぼんやりしとる場合やないど。」

「うん。」

「確か、中村のやつが、お宝を持ってきたとか言うとったな。」

「ああ。そんなこと言うとったな。」

黒木氏が、中村の血まみれの上着をあらためると、内ポケットから、ころころと数個の石が出てきた。懐中電灯に近づけて見ると、どうやら玉らしい。

「何やこれは。玉か。矢垣、見ろ。おまえなら分かるじゃろう。」

矢垣は、黒木氏から玉を受け取ると、子細に調べていたが、やがて、

「これは、古い。本物や。出雲あたりで出土するやつと同じや。」

と、断定した。

「すると、中村は、この玉を埋めて、御陵の証拠にするつもりやったんか。」

「ば、馬鹿なやつや。」

そう言うと、矢垣は、わっと声を出して泣き始めた。

「こ、こんな、玉、埋めて、あいつ、馬鹿なやつや。馬鹿なやつや。」

「矢垣。どうする。」

「どうするって。ここで腹を切るわい。」

「馬鹿たれ。神聖な御陵で腹なんぞ切られてたまるか。自首せい。」

 翌早朝、矢垣は、S警察署に自首した。

 ところで、奇妙なのは、この間の時子の動きである。

 黒木氏が、時子がいたはずの茂みに戻ってみると、既に時子の姿はなかった。黒木氏は、時子が恐怖のあまり逃げ帰ったものと考え、確認するため神社に駆け戻った。幸い、社務所にはまだ明かりがあり、禰宜が残業していた。黒木氏が、時子が戻って来たかどうかを尋ねると、禰宜は、

「ああ、時子さんなら、つい今しがた、社務所に戻ったがな。ずいぶん疲れた顔しておったが、なんか、あったんかいな。」

と答えた。禰宜によれば、時子は、火の消えたランプを提げて社務所に戻ったものの、その場にいた禰宜には一言も発することなく、そのまま神主家の母家に帰ったという。黒木氏も気が急いていたから、とにかく無事ならばなんでもよい、ということで三号墳に急いで戻った。

 翌早朝、S警察署に向かう矢垣を見送って、黒木氏が再び神社を訪れると、折りよく時子がひとりで参道を掃いていた。黒木氏が、小声で、

「昨夜は、いつのまにかいなくなっていて、心配しました。昨夜見たことは、決して、他言無用ですよ。」

と言うと、時子は、

「え?」

と不思議そうに微笑んだ。三号墳での出来事どころか、時子は、前日、黒木氏が神社を訪れたことさえ知らないという。黒木氏もさすがに、むっとして、

「そこの鳥居の下でお会いして、私を拝殿に案内してくれたやないですか。」

と、つい問い詰める口調になると、時子は、

「あの、あたし、昨日は、ずっと、社務所でおみくじを準備しておりました…」

と、泣きそうになって答えた。嘘を言っているようには見えない。何も覚えていないのである。自分が、ずっと社務所にいたと思い込んでいるらしい。黒木氏は、その足で社務所に行って禰宜に確認したが、昨日は社務所でおみくじの準備作業などはしていないという。この時はじめて、黒木氏は、背筋が寒くなったという。黒木氏が、神主に、この一件を話すと、この若い神主は、

「ほう。じゃあ、あの時の時子は、神さんの御使いであったか。道理で、いつもの時子らしくもなく神妙じゃった。」

と、真面目な顔で言った。

 S町では、発掘調査推進派の中心人物である中村が、御陵番の過激集団である第三倶楽部の矢垣に殺されたというので、大騒ぎとなった。が、その割には、地元新聞の報道は扱いが小さかった。新聞社に対して、県土建業組合をはじめとする有力団体の圧力が、速やかに、かつ強力になされたのであった。

 自首した矢垣は、傷害致死罪に問われたが、その後、拘置所内で激しい頭痛を訴えて意識不明となり、入院措置を取る余裕もなく急死した。解剖の結果、脳に腫瘍が見つかり、これが死因とされた。意識朦朧の間、矢垣は、

「父ちゃん、父ちゃん…」

とうわごとを言って微笑んでいたという。父親の幻が見えていたのであろう。もっとも、幼くして父親と死別した矢垣には父親の記憶はなかった。幻の父親は、どういう姿で矢垣の眼前に現れていたのであろうか。

 既に母を失い、肉親のなかった矢垣の亡骸は、無縁仏としてS町郊外の集合墓地に葬られた。

 黒木氏は、欠け茶碗の冷めた茶を一気に飲み干すと、

「まあ、そういうわけじゃ。二人とも死んでしもうた。」

と言って、寂しそうに笑った。

「あの、黒木さん。」

「なんや?」

「その、横穴は、その後、どうなったんです?」

「おお、横穴ねえ。あれは、あんた、狸の巣じゃった。」

「は?」

「たぬきの、巣よ。」

「そんな。嘘でしょう。」

「嘘やない。」

嘘に決まっている。黒木氏にしてみれば、あれは羨道だった、などと言えるわけがない。もっとも、黒木氏は、

「事件の後、狸の巣は、おれと矢垣とで、埋め戻しておいた。」

と付け加えた。

「埋め戻したんですか?」

狸の巣をわざわざ埋め戻す必要はない。黒木氏と矢垣は、あの夜、羨道の崩れた穴をきれいに埋め戻したのだろう。そして、作業が終わった翌早朝に、矢垣は自首したのだろう。だが、そうだとすれば、羨道の奥の玄室で千数百年以上にわたって眠っていたであろう古代の貴人とその遺品はどうなったのか。今でもそこに眠り続けているのか。あるいは、すでに別の山に… 

 しかし、その疑問について御陵番の黒木氏が語ることは決してあるまい。私は、それ以上の追及を放棄しなければならなかった。

 私は東京に帰った。

 それからしばらくして、郷土史会会報のニュース欄に、第三号墳発掘調査の中止を報じる小さな記事が掲載された。同墳円墳部をさんざん掘り返したあげく、何ら成果があがらないことで、発掘調査計画を根本的に見直すということであったが、要するに、調査の失敗であった。

 今なお、再調査の予定はない。

 

 後記。     

 右の小文をまとめて、私の所属する郷土史会の研究会で発表する準備をしている矢先のことであった。第三号墳管理センターから手紙が届いた。黒木氏の訃報を知らせる手紙であった。半世紀前、第三号墳で起こった事件の真実を知る当事者は、ついに絶えた。が、この時の私の関心は、黒木氏の訃報ではなく、実は、訃報を知らせる通知書の差出人の名前にあったのである。

「第三号墳管理センター事務局 神田時子」

はっとした。迂闊であった。時子は存命であった。

     会いたい。巫女、時子に!

 私は、再び、有給休暇を申請した。                                          (了)