ハードボイルド無情

 その男は、殺人容疑で緊急手配され、S県T市郊外で警察に追い詰められ逃走車内で拳銃弾をこめかみに撃ち込んで自殺した。男の名は、中村。中村に嫌疑のかかる殺人は少なくとも15件。被害者は、会社社長、医者、弁護士等のいわゆるエリート層の男性がほとんどで、いずれも中村とは何の関係もない。殺人請負業。それが中村の仕事であった。

 中村に殺人を依頼したのは、これらの被害者に恨みを抱く女性たちであった。殺したい理由。男に裏切られたから。すべて、これに尽きる。遊ばれて捨てられた女の恨みを晴らす。請負料1人百万円。闇サイトで接触を依頼すれば、一週間以内に、中村から依頼者にコンタクトがある。ある時は、デパートで接客中の依頼者に話しかける客として、あるいは、アパートに引きこもっている依頼者の部屋を訪れる訪問営業マンとして、またあるいは、通勤電車の隣で居眠りするサラリーマンとして、依頼者の不意をついて接触してくる。そうして、雑踏の中で、喫茶店で、カラオケ屋で、公園のベンチで、あるいは依頼者の部屋で、直接依頼者本人から中村自身が依頼内容を聞く。接触時には変装もしていない。依頼者たちが覚えていた中村の顔は、すべて一致していた。顔を隠さないことは、依頼者との信頼関係の証であった。中村は言った。「あんたの言っていることを信じよう。あんたも、おれを信じろ」と。女たちは、中村を信じた。いや、正確に言えば、中村を信じた女の依頼だけを、彼は請け負った。

 中村の犯行手口は、事故死、自殺にみせかけるものであった。あるIT社長は、自社ビルの屋上から飛び降り自殺した。ITバブルが弾けた後、確かに業績の低迷には悩んでいた。が、まさか自殺するとはね、と社員たちは訃報に接して驚いた。依頼者は、元社長秘書であった。結婚を餌に遊ばれて、社内中に噂が広まった挙句、捨てられて退職させられた。また、ある医者は、勤め先の病院の前の歩道橋で足を滑らせて階段を逆さまに転げ落ち、首の骨を折って死んだ。いままで、そんな歩道橋を渡ったことなどなかったのに、お気の毒様、とナースルームの話題となった。依頼者は、看護師。遊ばれて中絶手術を繰り返した挙句に、ささいな医療ミスの責任を押し付けられて解雇された。また、ある弁護士は、泥酔して電車ホームに転落して特急電車の車輪で全身を轢断され、線路上に肉片となって散乱した。つねにスマートな酔い方で、泥酔する姿など見たことなかったのに、と弁護士事務所で不思議がられた。依頼者は、事務所の元アシスタント。遊ばれて捨てられた挙句、逆に、金目当てに弁護士を脅迫したとして解雇。いずれも、当初は、自殺、もしくは事故死として処理されていた。これらの事故が、中村による殺人であったことが判明したのは、ある女から中村の闇サイトについて警察に情報提供があったことによる。

 ある女。S県K市在住のN。むかし、中村と交際していた。Nと中村とは、K大学のクラスメートだった。卒業して数年後の同窓会ではじめて会話をして、メールのやりとりをするようになり、交際がはじまった。当時、中村は、陸上自衛隊の特殊部隊員であった。彼を知る特殊部隊関係者によれば、中村は、徒手格闘、射撃といった戦闘戦技で最優秀であっただけでなく、諜報、潜入、破壊といった工作活動においても彼の右に出る者はいなかったという。が、その後、中村は、突然、陸上自衛隊を退職した。一身上の理由。としか記録には残っていない。ただ、その1カ月前に、中村は、その女Nと別れていた。Nの供述調書によると、中村とNが別れた理由は、Nの浮気である。当時K大学の大学院に在学していたNは、指導教員の准教授Wと男女関係を持つようになっていた。特殊部隊の訓練が厳しくなるにつれて休日もなくなり、せいぜい月に一度、駅前のファミレスで食事をする程度という中村の存在は、Nにとって希薄となり、その他おおぜいの男友達の一人に過ぎなくなっていた。Nの変化に、優秀な工作員である中村が気が付かないはずがなかった。中村は、Nの浮気については何も言わなかった。ただ、最後の日、「君は、ほんとうのことが、わかっていない」とだけ言って、彼女の元を去った。その後、Nは、Wの子を妊娠したとたんに、Wに捨てられた。Nは中絶手術を受け、大学院も退学した。そうして郷里のK市に帰り、高校時代の元恋人で地元スーパーの店長をしていたSと結婚した。平穏な日々が過ぎた。が、Sが、ス―パーの倒産によって失職した。Nは、市役所の臨時職員として働きはじめた。Sは酒癖が悪かった。Nに暴力をふるうようになった。Nの稼いだ給料をパチンコにつぎ込み、酒に酔い、Nを殴った。Nは、しばしば、青あざを厚化粧とマスクで隠しながら、市役所に出勤した。

 その夜も、夫は、酔っていた。泥酔状態で、Nをののしった。なんで、こんな田舎に、のこのこ帰って来たんだ。男に捨てられたのか?で、つまらん田舎もんのおれとしぶしぶ結婚したってわけか!などとわめきちらしながら、Nを殴り、蹴り、押し倒して、踏みつけた。腹を踏みつけられ、Nは、泣きながら嘔吐した。吐瀉物の中に顔を押し付けられた。このクソ女!おれをバカにしやがって!とののしりながら、Sは、Nの顔を踏みつけ、蹴り上げた。吐瀉物まみれのNの顔は、流れる鼻血で真っ赤に染まった。殺される。と思った。逃げなければ、殺される。Nは、「うああああ!」とけもののように叫んで、渾身の力でSを押しのけた。Sは、足をふらつかせて、どすんと音を立てて横倒しに倒れると、うう、とうめいていたが、そのまま、いびきをかきはじめた。いつものことなのだ。翌朝目が覚めれば、Sは、何ごともなかったように笑顔で、Nに抱きついてくる。Nは、床に散乱した汚物を拭き取った。そうして、洗面台に行って、鏡を見た。汚物と鼻血にまみれた無残な女の顔がそこにあった。Nは泣いた。涙が後から後からあふれた。その夜、Nは、中村の闇サイトをはじめて閲覧した。

 市役所からの帰り道、「久しぶりだね」と、後ろから声をかけられたNが振り返ると、夕焼けを背景に、見覚えのある男の顔があった。がっしりとした体つきもむかしのままだった。「中村君!何? どうしたの?」とNは小さく叫ぶように言った。「君に呼ばれたから、来たんだよ」と、その元恋人は無表情で答えた。

 「君の言っていることを信じよう。君も、おれを信じろ」と、元恋人は言った。「信じるわ」と、Nは答えた。Nの答えを聞くと、中村は夕闇の中に去った。Nは、震えが止まらなかった。殺人請負。元恋人は殺し屋になっていた。そうして自分は、いま、夫の殺人を依頼した。家に帰ると、夫は、珍しく酔っていなかった。Nが玄関を開けるや否や、Nのところに走り寄ってきて、Nの足元に土下座し、すまんかった、今まで、すまんかった、もう、こころを入れ替えるから、ゆるしてくれ、と泣いた。Nも泣いた。高校時代の記憶が鮮やかに蘇った。Sとともに過ごした青春の日々。Nが県外のK大学に進学したために、交際は自然消滅してしまったが、お互いに嫌いになって別れたわけではない。むかしの恋人。初恋の人。Nは、Sをゆるした。いや、はじめから、ゆるしていた。Nは、土下座する夫を抱きしめて、大丈夫、また、いっしょにがんばろうよ、と言った。

 Nは、中村との契約を、気楽に考えていた。キャンセルしよう、と思った。殺人請負だって。バカみたい。テレビじゃあるまいし。闇サイトの入力欄に、「キャンセル」とだけ書き込んだ。翌日、市役所で勤務中のNに、送信者不明のメールが届いた。「キャンセル不可」と書いてあった。Nは、あわてて、「冗談はもうやめてください!」と返信した。5分後、またメールが届いた。ファイルが添付してあった。Nが、ファイルを開くと、数年前の小さな新聞記事であった。K大学大学院のW准教授が、研究室内で首をつって自殺したことを報じるものであった。NがW准教授に捨てられて大学院を退学してから半年後のことであった。Nは、Wが死んだことを、この時はじめて知った。Wが自殺?自殺なんかじゃない。あの准教授は、自殺なんかできやしない。中村君に殺されたんだ! Nは、震えが止まらなくなった。夫に電話した。電話に出て。早く出て! 電話から、泥酔した夫の声が聞こえてきた。何だ、何の用だ?このクソ女!おれを監視してるつもりか!酒飲んじゃ悪いのか!ふざけんな!と叫んでいた。Nは電話を切ると、泣きそうになるのをこらえて、市民課のカウンターを飛び出し、家に走った。玄関を開けると、夫のいびきが聞こえてきた。Nは、家に駆け上がると、夫の寝顔を抱きしめて泣いた。すると、背後で、「あいかわらず、君は、ほんとうのことが、わかっていない」と声がした。Nが振り返ると、中村が無表情で立っていた。Nは、泣きながら、もう、ゆるしてください!と叫んだ。いや、叫んだつもりだったが、声にはならなかった。「お、お、お」という、けものの鳴き声のような嗚咽が、のどから吐き出されただけであった。中村は、Nの目を見つめていた。少し、笑ったようにも見えた。そのまま中村はNに背を向けると、家を出て行った。Nは、よろめきながら中村を追った。中村は、車に乗って去るところであった。Nは、車の特徴とナンバーを覚えた。そうして、震える手で、警察に電話した。

 県警の緊急配備がとられた。中村の逃走車は検問を突破して逃走するも県警のヘリに捕捉され、パトカー10台に追跡されて、T市郊外のK川の堤防際に追い詰められた。元陸上自衛隊特殊部隊員。戦闘戦技に熟達。という中村の人定情報にもとづいて、拳銃を構えた20名以上の警察官が、中村の車を遠巻きに包囲した。夕闇が濃い。増援の機動隊員40名が現場に到着し、投光器が設置され、車が照らし出された。窓ガラスの中に、シートに座る中村の影が見えた。このまま夜になれば不測の事態も起こりかねない。もはや強行突入しかない、と捜査本部が焦り始めたその時、車内で閃光が走ると同時に発砲音がした。機動隊員が一斉に突入して逃走車の窓ガラスをたたき割り、中村を引きずり出した。中村は、自らのこめかみを拳銃で撃ち抜いていた。投光器の光に照らされた中村の顔は、血にまみれ、真っ黒に光って見えた。       (了)