清左衛門の嘘

 青島清左衛門は、伊東三位入道義祐の侍大将で、三位入道の日向国制覇を支えた武功第一のさむらいであった。が、天正四年、九州統一をめざして猛進する薩摩島津軍による熾烈な反撃がはじまる。その日本最強を謳われる島津兵三万を率いるのは後年、徳川家康をして「大将の鑑」とまで言わしめた島津義久。古今無双の名将の指揮で怒涛のごとく押し寄せる剽悍無比な薩兵の猛攻撃を受けて、さすがの伊東勢も次々と国内支城を失って壊乱し、清左衛門もまた無念の思いで敗走を重ねた。世にいう「伊東崩れ」である。翌天正五年冬、陥落した支城から逃げ集ってきた一族郎党の籠る佐土原の本城もすでに数万の薩兵にひしひしと包囲され、いよいよ進退窮まった三位入道は一時は自害も考えたほどであったが、家来どもの必死の諫言に思い直して何とか家名を残す道はないかと評定を重ね、ついに日向国を捨てて豊後の大友宗麟を頼って落ち延びることに決した。が、問題は、その経路である。三位入道の首を血眼で追う島津兵の追撃を避けつつ豊後府内にたどり着くためには、米良、高千穂を経て豊後大野に至る九州山脈の峩々たる山剣を踏破しなければならない。地生えの猟師でさえ難渋する剣路である。武士はともかく、足弱な女子供が果たして歩きとおせるか。しかも時季は厳冬。南国といえども山中の積雪は腿にまで達し、折しも連日の吹雪である。たとえ薩兵の追撃を免れたとしても、とても無事ではすまぬ。中でも三位入道を心痛させたのは、末娘の小松。このとき十五。日向国主の姫として玉のように大切に育てられたこの娘が、風雪のもと矢弾の飛びすさぶ酷烈な逃避行で無事でいられるとは到底思えぬ。いずれ薩兵の虜となって辱めを受けるくらいであれば、いっそ我が手でそのいのちを、とまで思いつめては悪夢を打ち消した。そういう三位入道の苦悩を見て取った清左衛門は、三位入道の前に平伏して願い出た。この清左衛門に、小松の姫様をお預けくだされ。きっと姫様を、豊後府内に無事に送り届けてみせます、と。

 三位入道は、清左衛門の願いを聞き届けた。広間に現れた小松は可憐な声で、「清左、たのむぞ」といった。清左衛門は、いのちにかえましても、と答えて平伏した。

 清左衛門と小松とは、薩兵が攻撃目標とする三位入道の本隊とは離れ、別動隊として行動することにした。清左衛門は、野良着の背に大刀を背負い、蓑笠を身に着けた。小松も百姓娘の恰好をさせられた。が、さすがに人品は争えぬ。いくら百姓娘の恰好をしたところで、香るような気高さまでは隠せない。清左衛門は、小松に懐剣を渡すと、お覚悟のときは、この清左が介錯仕る、と言った。小松は小さくうなづいた。

 その日の夜、三位入道率いる決死の精鋭部隊が突貫して薩兵の包囲環を突き破ると、その隙間から一族郎党総勢およそ三百人が暗闇にまぎれて脱出、薩兵の追撃を払いつつ吹雪の九州山脈へと分け入った。清左衛門と小松もまた、近在の百姓に身をやつして薩兵をやりすごしつつ人跡絶えた雪の山中へと踏み込んだ。原生林の積雪は深く、腿から腰、そしてついに胸まで沈んだ。清左衛門は、小松と自分とを縄でつなぐと、自らの分厚い胸板で雪を押しのけ足元を踏み固めつつ小松の道を拓いていった。小松は清左衛門と自分とをつなぐ縄を握りしめ、一歩も遅れまいと懸命に歩いた。それでも小松の意識がうすらいで歩みが遅くなると、そのたびに清左衛門は携えてきた手鋤で雪をかいて雪洞をつくり、小松の手足をさすり、米粉に水飴や柚子などを練りこんで団子にした陣中食をあたえて小松の体力の回復を図った。そうして一夜を歩きとおした朝、はるか遠方の山中、米良の方角で、銃声がこだました。銃声は次々に鳴り響いた。「清左!」と小松が悲鳴のような声を上げた。清左衛門は、しばらく銃声の鳴る方向を見つめていたが、しずかに小松を振り返ると、大事ございませぬ、土地の猟師の火縄でござる、と言って微笑んだ。嘘であった。その銃声は、米良をめざして逃げていた三位入道の本隊が島津軍についに捕捉されたことを意味していた。このとき、米良を通過していた本隊は島津軍の強襲を受け、足弱な女中らは足裏を血に染めて逃げまどい、逃げきれぬと観念するや、薩兵に辱めを受けるよりは、とその多くが自害して果てた。小松の姉も足を痛めて逃げ切れず、三位入道が泣きながらこの姫を自ら斬っている。清左衛門は、さあ、姫、参りますぞ、と言って小松をうながした。小松は泣き出しそうな目で清左衛門を見つめ、うなづいた。うなづいた瞬間、その目から涙がはらはらとこぼれた。すべてを知りながら、それでも清左衛門の言葉を信じようとする涙であった。清左衛門は、この姫に、二度と嘘は言わぬ、と誓った。清左衛門は無言で、再び雪を押しのけて歩き始めた。

 清左衛門は、用心のため人里を徹底して避けた。その人跡未踏の雪原を歩くふたりきりの逃避行もすでに十日に及んだ。薩軍の追撃も受けず、高千穂の剣路も無事に抜けた。あと三日もすれば大友領である豊後大野にたどりつく。清左衛門の顔にもようやく安堵の表情が浮かんだ。

 雪原に旭日の光がさす中、行く手に、きらきらと輝く一本の光の筋が見えた。五ヶ瀬川であった。「あの川を渡れば、豊後はもう目の前ですぞ」と清左衛門は小松に言った。小松は、「もうすぐ、おわるのか」と言った。「さよう。もうすぐ、おわります。姫様、よく堪えましたな」と清左衛門が答えると、小松は、「そうか。清左と旅をするのはもう、おわりか。こまつは、もっと清左と旅がしたいぞ」と言った。「はは。おたわむれを」と清左衛門は笑った。小松も笑った。

 五ヶ瀬川の渡し場で、清左衛門は、船頭に銭をつかませると、小松を舟に乗せた。と、その時、数発の銃声が河原に響き、ぴゅう、と銃弾が風を切る音が清左衛門の耳をかすめた。来たか!清左衛門は振り返りざまに蓑を脱ぎ捨てると、背に負った大刀を引き抜いた。一丁ほど先の川堤を越えて、十人余りの薩兵が姿を現した。銃声が立て続けに響き、ぴゅん、ぴゅん、と銃弾が空気を切り裂いた。この場で薩兵どもを足止めせねば姫が逃げ切れぬ、と一瞬のうちに判断した清左衛門は、「行け!」 と船頭に鋭く命じて舟尻を強く蹴った。船頭はあわてて櫓を漕いだ。舟は水を切って川岸から離れていく。「清左!」と小松が叫んだ。清左衛門は舟上の小松を振り返り、「ここで防ぎます。河内郷にてお待ちあれ!」と言うと、にっと白い歯を見せて笑った。「清左。清左。必ず!」と小松が叫んだ。「おう!この清左が必ずお迎えに参りますぞ!」と清左衛門は叫んだ。そうして、ああ、また姫様に嘘を言ってしまったな、と思った。川霧の中に溶けていく小松の涙にぬれた白い顔を目に焼き付けた清左衛門は、たちまち身をひるがえすと、白刃を抜きつれて殺到する薩兵の群れに向かって雄叫びとともに突進した。

 薩軍の追撃を脱した三位入道の本隊が河内郷に到着し、同地に蟠踞する土豪の河内家にひとりかくまわれていた小松と再会したのは、それから三日後のことである。その後、三位入道一行は、大友宗麟の派遣した軍兵に護衛されて豊後領内に入った。雪中の逃避行は十七日間におよび、はじめ三百有余名いた一族郎党は、豊後にたどりついた時には百名足らずであったという。後年、三位入道の子、伊東祐兵は秀吉に仕えて家名を復興し、その血統である日向伊東家は日向飫肥藩主として明治の廃藩置県まで存続した。小松は、その後、大友家の重臣に嫁したと伝わる。小松と五ヶ瀬川で別れた清左衛門のその後は、伝わっていない。