少数者への手紙

 

      一 魔術師

 

 昨夜遅く、彼は、僕の部屋を訪れた。何の前触れもなしに、だ。むやみに蒸し暑い夜だった。僕は眠れずに転々していた。玄関で物音がした。ドアが開き、そして閉まる音。戦慄。息を殺して、じっとしていた。強盗?こんな安アパートに?まさか。が、確かに、人の気配が近づいてくる。近づいてくる!もはや我慢の限界。攻撃こそ最大の防御。先んずれば制す。布団をはねのけ、がばっと立ち上がる。真っ暗闇に向かって叫んだ。

「おい!何の用だ!」

闇は応えなかった。気のせいか?いや、確かに、何かが、いた、はず。動悸が激しく、一気に冷や汗が吹き出て、ふわりと気が遠くなった。両足の力が、ふにゃふにゃと抜けた。そのまま、ぺたりと、座り込んだ。

「腰が抜けたのかい?」

闇の中で、低い声が響いた。僕の心臓は、その時、確かに、一瞬止まった。

 立ち上がろうとしても、下半身に力が入らない。なるほど、腰が抜けたのだ。闇に向かって声を上げようともがいても、かさかさと喉が鳴るだけだ。

「まあ、落ち着きたまえ。」

闇が、言った。

「生憎だったね。私は、まだ、ここにいるよ。逃げやしない。頂きたいものがあるからねえ。」

「な、なんだ!おまえはなんだ。なんだあ!」

かさかさと叫ぶ。

「え?なに?よく聞こえないが。私が何者か知りたいのかい?もっともな質問だ。君は正常だ。まあ、落ち着きたまえ。なにも、取って食おう、というのじゃない。ふふ。ちょっと、お決まりの台詞すぎたねえ。取って食おう、だってさ。うふ。うふふふ。でも、騒ぐと殺すよ。」

僕は黙った。

 闇の中、それでも、カーテンを透けて来る微かな月光のおかげで、彼の黒い影がゆらゆらと動いているのが分かる。大男、というわけでもない。殺す?刃物でも持っているのか。まさか拳銃、じゃないだろう。拳銃を持っているような凶悪な強盗が、こんな一人暮らしの安アパートに入るわけがない。包丁だな。そうに決まった。ああ、こういう時のために、武術でも修行していればよかった。包丁なんか、手刀でポンと打ち落として、手をねじ上げて御用だ。テレビの時代劇でよくやってるじゃないか。ちくしょう!

「さて。」

「なんだ!」

「おや。元気が出てきたようだねえ。騒ぐと殺すよ。静かにしたまえ。」

「なんだ・・・」

「そうそう。それくらい小さい声で、ね。さて、私がここに来たのは、他でもない。おや。うふふふ。他でもない?またまた、慣用句の登場だ。他でもない、だってさ。うふふふふ。こりゃいい。おっと、いや、失礼。実はだね、君の、寿命、を頂きたくてねえ。」

「こ、殺すってのか!」

「うーん。分かってないなあ。殺すのじゃなくて、寿命が欲しいわけ。つまりだねえ、君の命を、十年ほど、欲しいんだよねえ。分かる?」

「・・・」

「分からない、か。むむっ!君、いま、私のことを、異常者とでも思っていないかね?え?どうだ?異常者と思っただろう!」

「・・・」

一点の疑いもなく、異常者だ。早く逃げなきゃ、まずい。まずいぞ。ひどく、まずい。

「そうかね。私を異常者と思っているわけだねえ。ふうん。まあ、それならそれでいいんだ、べつに。しかし、だ。私がこう言ったらどうだろう。私は、実は魔術師で、人の寿命をコントロールする魔法を知っている、と。どうかね。」

「・・・」

「だめかね。まあいい。しかしね。これは本当なのだ。私はね、インドの山奥で千年にわたり修行した魔術師なのだ。つい先日、免許皆伝になって、鷲に乗って日本に来たのだ。ただ、魔術師には決まりがあってねえ。千年の修行をした者は、千年分の寿命を集めなきゃならんのだよ。わかるかね。そうしないと、私は、たちまちミイラになってしまうのさ。だから、人様から、寿命を分けてもらおうというわけ。勿論、タダ、とは言わない。ちゃんと対価はお支払いしますよ。払いますとも。一年につき百万円。十年分なら一千万円。どうです。つまり、君の寿命を、十年分、一千万円で売って欲しいわけだ。」

「こ、断る・・・」

「え?どうして?いい話じゃないか。」

「早く、出て行け・・・」

「君!どうも、立場が分かっていないようだねえ。今説明したように、私はね、寿命を集めないとミイラになっちゃうんだよ。分かる?私も必死なわけだよ。生きるか死ぬか、という切羽詰った状況なわけだよ。今、君から無理やりに寿命を奪い取ったって、緊急避難というやつで、罪にもならんわけだよ。それをだね、売買契約によって穏便に済まそうと言ってるんじゃないか。しかも、好条件で、だよ。それを君、出て行けとは何だい。出て行けとは。」

「ぼ、僕は売りたくないんだ。他の人から買ってくれ・・・」

「ほほう。つまり、君は、条件に不満なわけだね。」

「ちがう!」

「いやいや。君は、条件に不満なのさ。では、こうしよう。私はインドの山奥で千年も修行してきたからね、お金を作るくらいは簡単なんだ。そこで、奮発して、一年につき五百万円、十年分で五千万円でどうだろう。え?」

 一年、五百万?悪くない。違う違う!馬鹿馬鹿しい!そんなことより、早く、逃げるんだ。ちくしょう。今、何時だ。朝になったら、こいつ、どうするんだ。居座るつもりか。結局、僕を刺し殺すつもりか。いや、待てよ。こいつは、要するに、いかれた契約を結びたいわけだ。それなら、契約を結んだらどうだろう。おとなしく帰るんじゃないか?うん。帰るぞ。間違いなく、おとなしく帰る。そうに違いない。

「はい。分かりました。契約します。」

「え?」

「契約します。十年分五千万円で、寿命を売ります。」

「本当かね?」

「本当です。」

「嘘だ。」

「はあ?」

「君は、嘘をついている。契約すれば、私がうれしがって帰るとでも思っているんだろう?そうだろう?」

「・・・」

「ほうら見ろ。やっぱりそうだ。君は私をちっとも信じていないのだ。信じていない者からは寿命をもらえないのだ。インドのお師匠様から注意されているのだ。不信心の者から寿命をもらうと、たちまちミイラになってしまうのだ。君は、私をミイラにするつもりか。人殺しめ!危ないところだった。」

「じゃあ、どうしろってんだ!」

「信じたまえ。」

「はあ?」

「まず、私が、インドの山奥で千年も修行した偉い魔術師だということを信じろと言うんだよ。そうでなければ、寿命売買契約も成立しないのだ。ということは、私は、この部屋から出て行かないし、君も自由にはなれんのだよ、残念ながら。要するに、全ての原因は、君の頑固な猜疑心にある。」

「それじゃあ、証拠を見せろよ!おまえが魔術師なら、その証拠を見せろ!」

「やれやれ。君は証拠を見なければ信じないのか。見ずに信じるものは幸いなり、だね。もっとも、既に、証拠は見せたはずだよ。私は、ことごとく、君の心を見抜いただろう。もっと、君の心を読んで見せようか。君は、一年五百万円という私の申し出に、実際、心が動いたね?そうだろう?」

「馬鹿馬鹿しい・・・」

「いいや。ちっとも馬鹿らしくない。これは重要なことなのだ。君は、一年百万円という当初の申し出には、ちっとも心が動かなかった。しかし、一年五百万円では、心が動いたのだ。これは事実だ。事実は事実として受け入れたまえ。そして、私には、その理由も分かるのだ。つまり、それは、君の今の年収がせいぜい三百万円程度だ、ということにある。そうだろう?」

「・・・」

「うふふ。当たったみたいだね。どうせ一年、せっせと働いても三百万円だ。そんなら、一年を私に呉れてやるかわりに五百万円もらっても、たっぷりと、お釣りが来るわけだ。決して悪い話じゃない。そうだろう。君の計算は正しいよ。私が欲しいのは君の命じゃない。君の寿命だ。要するに、君が死ぬのが十年早くなるだけだ。そのかわりに、君は、その若さで、そこそこの大金を手にできるわけだ。金は若いうちに使った方がいいに決まってる。そうじゃないか?」

「・・・」

「うふふ。まあ、物は考えようだ。例えば、君が、明日、交通事故で再起不能になったとする。十分に有り得る話だろう?その時、君に支払われる賠償金だって、結局、君の年収を基に計算するんだ。命の値段、人生の値段なんて、結局、そんなもんさ。その点、私の申し出は、好条件じゃないか。だいたい、君は、いまの仕事が面白いかね?面白くないだろう。いわゆるブラック企業ってやつだ。しぶしぶ働いてるんだろう。朝から晩まで働いて、おまけにサービス残業でくたくたで、家に帰れば、バタンキュー、だ。何の楽しみもない。もちろん恋人もいないし、作る暇もない。ただひたすら、働くために生きている。食うために生きている。それはつまり、ただ生きているというだけだ。それが人として生きていることになるかい?食うために生きるだけなら、人間である必要もないじゃないか。そもそも、なぜ、生きていなくちゃならんのだ。食うためだけに生きるなら、いっそ、生きるのをやめたらどんなものだろう。よほど楽なんじゃないか。そうじゃないか?君は、何のために生きているのだ。生きるために生きる、というのじゃ、答えにならんよ。まあ、せめて、人生の楽しみを少しは味わいたいじゃないか。ああ、このために生きているんだなあ、と思いたいじゃないか。そうだろう。そこでだ。君に、一年五百万、十年分で五千万円を差し上げるというわけさ。人生の楽しみを、若いうちに、存分に味わえるんだ。恋人でも、海外旅行でも、車でも、何にせよ、食うために生きるというのではない、ああ、このために生きているんだ、というものを、楽しめるんだ。五千万円もあれば、存分に楽しめるだろう。どうだね。私の言ってることは変かな?私はそうは思わんがねえ。ふふふ。何なら、一年一千万円でもいいよ。十年分で何と一億円だ。宝くじなみだよ。私は免許皆伝の偉い魔術師だからね。お金なんて作るのは簡単さ。」

「・・・」

 全くだ。こいつの言うとおりだ。あんな馬鹿どもにさんざんこき使われて、残業手当も出ずに、月に三日も休めりゃ有難いくらいで、そのうち三十もとうに越えちまった。いったい、僕は、何のために生きてるんだ。こいつの言うとおり、食うために生きてるのか。生きるために生きているだけか。なるほど、それなら、生きるのをやめりゃいい。あーあ、つまらねえ人生だ。ちくしょう、金さえあればなあ!金さえあれば、せっかく入った大学もやめずに済んだよなあ。あんなつまらねえ会社に入ることもなかったよなあ。きっと今頃は、一流会社に入って、金をガンガン稼いで、そうして、美人でなくとも、まあ可愛いくて優しい嫁さんをもらって、そうして日曜日には子どもを車に乗せて・・・

「どうだい。え?心が動くだろう?」

「一年いちおく・・・」

「え?」

「一年一億だ!」

「おっほほほほ。こりゃまた、大きく出たね!一年一億?十年分で十億円か。君は、自分の寿命がそんなに価値のあるものだと自惚れているのかい!」

「いやならやめろ!契約だろう。これは契約交渉だ。一年一億なら売ってやる。いやなら契約不成立だ。金を作るのは簡単なんだろう。そんなら、いくらだっていいだろう。一年一億!ビタ一文まけない。」

「ふうむ。一年一億か。年収三百万円の君に、一億か。ちょっと、バランスがとれないなあ。暴利だよなあ。あまり欲張りの寿命をもらうと、たちまちミイラになっちゃうんだよなあ。インドのお師匠様に注意された・・・」

「またそれか!じゃあ、いくらまで出せるんだ。年収三百万の僕の命の値段はいくらだ!」

「まあ、そう怒らずに。一年一千万円が限度だね。これで我慢してくれなくちゃねえ。それでよければ、すぐにでも契約して、お金をお渡ししますですよ。そのかわり、君は、寿命が十年縮まるよ。それは承知しておいて欲しいね。」

「十年か・・・」

「そう。十年。締めて、一億!」

 

      二 天命

 

 待てよ。こいつは、さっきから、十年十年と言ってるが、いったい、僕は、何歳まで生きるんだ?百歳まで生きるなら十年って言っても我慢もできるが、五十くらいで死ぬのに更に十年早まったりしたらたまらんぞ。べつに十年でなくても、一年でもいいじゃないか。なんで、こいつは十年にこだわるんだ?

よし、一年だ。一年一千万。ふむ。悪くない。

「おい。」

「ん?」

「一年分だけ、売る。」

「だめ。十年分だ。」

「なぜ!」

「だって、君、私は千年分の寿命を集めなきゃいかんのだよ。一年分しか売ってもらえなかったら、千人もの人から売ってもらわなきゃいかんじゃないの。」

「そうすりゃいいだろう。」

「だめなのだ。寿命を売ってくれる人は百人までと、決まってるんだ。」

「インドの師匠がそう決めたってのか。」

「そう。」

「馬鹿らしい。とにかく、一年分しか売らん。残りの九年分は、他の奴から余計に売ってもらえばいいだろう。」

「それじゃ、不公平になる。不公平な方法で寿命を集めると、たちまちミイラになるとインドの・・・」

「分かった分かった!インドの師匠はもういい!要するに、十年分じゃないとだめなんだな。それじゃ聞くが、おれの寿命はいったい何歳だ!」

「・・・」

「何歳なんだよ!分からないのか?とんだ魔術師だな。インドで千年が聞いてあきれる!」

「君。」

「何だ。」

「君、自分の寿命を、本当に知りたいかね?」

「ああ、知りたいねえ。」

「本当に?知らないほうが幸せなこともあるんじゃないかな。」

「何だ。駅裏の占い師みたいなこと言いやがって!その手に乗るか!寿命が分かんなきゃ、十年分売れと言われたって、はい売ります、とは言えんじゃないか。今からぴったり十年後に死ぬ運命だったら、おまえに寿命を売った途端にポックリ死ななきゃいかんじゃないか。」

「ごもっとも・・・」 

「ごもっとも、じゃないだろう。じゃあ、分かった。こうしよう。僕は長生きするのか、しないのか、それだけ聞こう。どうだ。」

「長生きってのは、いったい、何歳を基準に?」

「そうだな。八十くらいでどうだ。僕は八十より長く生きるのか?」

「生きます。今のところ。」

「ん?ちょっと待て。今のところってのは何だ?」

「えー、つまり、今この瞬間の君の運命では、八十より長く生きるというわけで、だから、次の瞬間の運命では五十までかも知れない、ということ。」

「はあ?瞬間瞬間で運命が変わるってのか?」

「そう。」

「いい加減なことを・・・」

「いい加減なことではない。本当にそうなのだ。人の運命は、常に変動しておるのである、とインドの山奥で習ったのだ。」

「ああそうかい!じゃあ、結局、分からねえんだな。分かりもしない寿命から十年分をもらうってのは、どういう理屈かねえ。説明してもらおうか。」

「えー、それはつまり、寿命の変動曲線がですね、十年分、下方に平行移動するというわけでして、つまり・・・」

「もういい!寿命の変動曲線?インドの山奥で変動曲線ねえ。」

「何ですか。ご不満ですか。」

「大いに不満だね。千年も修行した魔術師ならもっと、こう、宇宙の真理を突くようなことを言ってほしいもんだね。何が変動曲線だよ。馬鹿らしい。まあ、とにかく、僕がいつ死ぬかも分からんなら、十年分の寿命を売るなんてことも無理な話だ。ふん。もっと勉強して出直してきなさいよ。」

「ちょっと、君、ずいぶんだね。私はミイラになるかどうかの瀬戸際なんだよ。必死なんだよ。それに、ついさっき、一年一千万円で納得してくれたくせに、何だってそんなに、急に、ゴネるんだ。君の寿命が何歳だろうと、どうだっていいことじゃないか。そんなに長生きしたいのか。長生きしたらどうだって言うんだ。何かいいことでもあるのかい。長生きしたって、べつに、いいことがあるわけもない。それとも、ただ単に、生きていたいのかい?死にたくないから生きるのかい?さっきも言ったじゃないか。ああ、このために生きているんだなあっていう、そういうものを見つけることが、生きるってことだろう?寿命の長短なんて、ちっとも重要な問題じゃないんだ。ただ生きているだけでいいというなら、植物にでもなればいい。神社の杉の木は千年も生きているよ。千年も生きれば、後世の人に神様として大事にしてもらえるよ。私は魔術師だからね、君を杉の木に変身させることだってできる。お望みなら、杉の木にしてあげる。してあげるとも。そうして、どこかの大きな神社の森に植えてあげる。君は、千年、生きるだろう。そうして、巨木となった君の幹にはシメ縄が張られて、御神木として大切にされるだろう。君は、それでいいのか。それでいいと言うなら、君は大したものだ。尊敬するよ。でもね、人間はそうはいかないのさ。そうだろう。ああ、このために生きてるんだなあっていうものが、やっぱり、欲しいじゃないか。そういうものを見つけられれば、寿命の長短なんて、どうでもいいのさ。朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり、だよ。昔の人は良いことを言ったもんだ。ああ、このために生きてきたんだっていう感動があれば、そのまま死んだって悔いはないじゃないか。それが人間だろう。違うかい?それが人間じゃないか。それとも、杉の木になるかい?」

「いや、杉の木は・・・勘弁してくれ。」

「そうだろう!そうだとも。だからこそ君は人間なのさ。第一、杉の木になりたいなんていう変人から寿命をもらったら、たちまちミイラになっちゃうからね。まったく、危ないところだった。」

「おい。魔術師。」

「何でしょう。」

「ずいぶん得意になって、べらべらとしゃべってたがね、僕は、べつに、百歳、二百歳まで長生きしたいと言ってるんじゃない。そうじゃなくて、おまえに寿命をやったら、それこそ、その、ああ、このために生きていたんだなあっていうもの、そいつを見つける暇もなく、ポックリ死んじゃうこともあるんじゃないかって心配してるんだよ。」

「ああ、そういうことか。ポックリが嫌だってわけね。」

「どうなんだよ。おまえの言うことは分かった。僕は杉の木にはなりたくない。千年の寿命なんか欲しくない。でも、死んでも悔いがないくらいの、すごい感動だか喜びだか、そういうものがない限りは、やっぱり、死にたくはない。そうだろう。それが人間なんだろう?」

「そりゃそうだけど、人生の感動なんてものは、べつに、長生きとは関係ないわけで、つまりその、短い人生でも、一生懸命に頑張れば、見つかることもあるわけで、よく言うじゃないか、太く短く、とか何とか、あれさ。」

「太く短く、が、細く短く、になっちゃかなわんと言ってるんだよ。」

「うーん。それは君次第だろう。君の人生を太くするために、十年分一億円をあげるんだから。もしだよ、もし、君から十年分の寿命を取ったら、君が残り一日しか生きられないとしよう。まあ、最悪の場合、そういうことだって有り得るからね。それでも、君が、毎日を精一杯に生きていれば、悔いはないはずだ。悔いが残るのは、要するに、その日をいい加減に生きていたからだろう。ああすればよかった、こうすればよかった、という後悔があるから成仏できないのさ。今日できることを明日に延ばすから、そういう目に遭うのだ。今日できることは断固として今日やる。明日にならなきゃできないことは、どう頑張ったって無理なんだから仕方がない。諦めるしかないさ。」

「また説教くさいゴタクを並べやがったな。それじゃあ、その残された一日を精一杯生きれば、死んでも悔いがないくらいの感動とか喜びを経験できるのか?たった一日で一億円を使い切って大満足して死ねるのか?一生懸命に金をばらまいて、その日一日をどんちゃん騒ぎで無理矢理遊びまわって、やれやれくたびれた、というだけなら、今の生活とべつに変わらんじゃないか。くたびれ果てて、バタンキューだ。それこそ、何のために生きてるのか分からんままに死ぬことになるじゃないか!」

「ちょっと待ってよ。君。すると何かい、君は、何のために生きているかが分かれば、それこそ明日死んでも悔いはない、と言うわけ?」

「明日死んでも悔いがないくらいの、ものすごい感動がないとダメだよ。」

「でも、感動するかどうかは、君の心持ち次第なんだよなあ。他人にはつまらんことでも、君にとっては死んでもいいと思えるほど感動するものがあるかも知れないしね。君、天命、という言葉を知ってるだろう。人はね、この世に生を受けるときに、天の神様から一つずつ天命をもらうのだよ。この天命が、その人が何のために生きているか、という問いの答えというわけだよ。でも、天命ってのは、もちろん、人それぞれに違っていて、ある人の天命は、他の人から見れば、どうでもいい、ひどくつまらんことだっていう場合もある。逆に、誰から見ても、すごい天命を与えられる人もいる。でも、その天命に気がつかずに死んでいく人だってたくさんいるし、全然天命とは関係ないことを天命だと勘違いして大いに人生を謳歌している幸福な人もいる。あるいは、たまたま自分の天命に気がついても、なんだこりゃ、つまらねえ天命だ、と、大いにがっかりして、自力で感動できる人生を追い求める人だってたくさんいるんだ。つまりは、ああ、このために生きているんだなあって感動できるかどうかは、その人の心持ち次第というわけさ。」

「心持ち次第と言ったって、残りの人生が、たった一日しかないんじゃ、気持ちの準備だって間に合わんじゃないか。」

「やれやれ。どうにも君は、たった一日しか残りがないっていう、最悪のことばかり心配するんだねえ。寿命を売らなくっても、交通事故で明日死ぬかも知れないくせに。いつ死ぬかなんて、心配してちゃ切りがないだろう。みんな、けっこう、一か八かで生きてるのさ。おや、今日は生きている、ラッキーだ、というくらいの、不安定で不確実なものじゃないかね、命なんてさ。テレビのニュースを見てみなよ。交通事故は無数にある、通り魔はぞろぞろ歩いてる、強盗なんて日常茶飯事、会社をクビになれば即自殺。まったく、生きてる方が不思議なくらいだ。政府は何をやってるのかねえ。」

「政府のことなんぞどうでもいい!とにかく、僕は最悪のことが気になるのだ。たった一日しか残りの寿命がなかったらどうするんだ。それでも僕は、自分の人生の意味を知って、感動して喜びに包まれながら死ねるのか?答えろ!」

「やれやれ。つまり、どうしてほしいわけ?今すぐに、ここで、君の天命を教えろとでも言うの?」

「ほう。できるもんなら、教えてもらおうか。」

「そりゃ、できますよ。私は、千年も修行してきたんだから。でもねえ、たとえ、それが、君の期待に沿えないものであったとしても、がっかりしちゃいけませんよ。希望を捨てちゃだめだよ。天命に感動するかどうかは、君の心持ち次第なんだからね。いいね?」

「何だ。そんなにひどい天命なのか。」

「そうは言ってない。天意をお伺いしてみないと分からんからね。もしかすると、君の天命は、例えば、維新回天の志士みたいな、歴史に名を残すようなすごいものかも知れない。」

「ほう。維新の志士ねえ。」

「おやおや。うれしそうだね。日本人てのは、これだから困るんだよ。自分が維新の志士みたいな巨大な天命を背負ってると、勝手に独り決めしちゃうんだよなあ。みんながみんな、維新の志士になったんじゃあ、国が目茶目茶になりますよ。そういう壮大な天命を受けている者は、いないわけじゃないが、いてもほんの一握りさ。あとはまあ、単なる脇役だよ。歴史に名を残した維新の志士がいる一方で、ええじゃないか、ええじゃないかって踊り狂ってただけの庶民の役割を与えられた人々もたくさんいたわけで、それでも、そういう庶民だって、立派に維新の役には立ったわけだ。役割の重要性から言えば、差はないんだ。脇役のいない主人公なんて意味がないからね。だから、みんな、自分の役割に満足するのが当たり前なんだけど、そうはいかないんだよねえ。ええじゃないかって踊るだけの役は嫌だってゴネる連中が多くて困るんだなあ。まあ、でも、その責任の一端は歴史家にあるね。志士たちのことは私生活の行状までやたらと詳しく調べ抜くくせに、庶民のこととなると、名前も残らない。せめて、名前くらい残せばよかったのにねえ。ええじゃないかに参加した庶民の名前一覧、熊さん、八公、オヨネさん、云々といった感じでさ。」

「すると何か。どうせ僕も、ええじゃないかの組だってのか。」

「もしそうだったとしても、がっかりしちゃだめだよって言うのさ。」

「がっかりするよ!」

「心持ち次第だって言ってるじゃないか。どんな有名な主演俳優だって、地味な脇役がいてこそ引き立つのさ。かえって、そういう地味な脇役の方が、演技力が要求されるんだ。そういうのを、本物、というんだね。たとえ歴史の主役でなくったって、本物の人生を歩めばよろしい。名脇役っていう言葉があるだろう。アカデミー賞だって、助演男優賞とかあるじゃないか。」

「でも、単なるエキストラは、所詮、エキストラじゃないか。アカデミー賞だって、エキストラ賞なんかないじゃないか。」

「ないね。」

「不公平じゃないか。」

「そう。不公平だね。だから言ったじゃないか。ええじゃないかに参加した庶民の名前一覧、熊さん、八公、オヨネさん、といったことをやればよかったのにって。」

「そんな面倒なこと、誰がやるんだよ。」

「さあ。」

「さあ、じゃないだろう。そりゃ、名脇役なら、助演男優賞だってもらえるだろうさ。でも、エキストラはどうなんだ。立場がないじゃないか。エキストラがいなきゃ、主役一人じゃ何にもできないくせに、おかしいじゃないか。そんな不公平な人生に、納得しろってのか。庶民を馬鹿にするなってんだ。一寸の虫にも五分のたましいだ。そうだろ!」

「おやおや。てっきり、自分を庶民と決めつけちゃってるみたいだね。」

「だって、どうせ、庶民なんだろ?だいたい、三十過ぎても、ちっともウダツがあがらないんだ。大した天命じゃないに決まってる。知りたくもねえや。ああそうさ。僕は、どうせ、貧乏人の子せがれで、やっと受かった三流大学も金欠で中退して、最低のブラック企業でこき使われて人生を終えるだけの男さ。あーあ、つまらねえ人生だ。食うために生きるだけの人生だ。そしてそれが僕の天命ってわけだ。うれしいねえ。おまえから金をもらったところで、どうせ何の役にも立ちゃしないのさ。くだらん。もういいから、さっさと帰れよ!もっと、華々しい天命を持ってる奴のところにでも行きゃいいだろう!一億なんか、いるか!」

「まあまあ。落ち着きたまえ。」

「うるさい。いつまでもぐずぐずしてるとぶん殴るぞ。」

「静かにしろったら。こんな安アパートなんだから、隣の人に聞こえちゃうだろ。」

「安アパートで悪かったな。隣の人?ふん。隣はお水のお姉ちゃんで、朝まで帰って来ないよ。下の階は空き部屋さ。」

「ほう。それは、いいことを聞いた。」

「はあ?」

「と、いうことは、朝までは、君は、誰の助けも期待できないわけだ。」

「ふん。だから何なんだよ。僕を殺すってのか。殺せよ。どうせつまらねえ人生だ。そのかわり、おまえの契約もパーだ。ざまあみろだ。」

「やれやれ。こりゃ困ったな。手がつけられないとはこういうことだな。」

「帰れ。早く!」

「うーん。その、つまり、君の不満は、エキストラ賞がないということにあるのかな。」

「か、え、れ!」

「よし。分かった。エキストラ賞を作ろうじゃないか!」

「はあ?」

 

      三 エキストラ賞 

 

 魔術師の影が、ふいに小さくなった。その場にかがみこんだらしい。闇の中で、がさがさと、なにやら物音がする。

「何だ。何を始めようってんだ。」

「え?だから、その、エキストラ賞を作るんだよ。わがままな君のために。」

「どうやって?」

「もちろん、魔術だよ。君。私を誰だと思ってるんだね。インドで千年も修行した魔術師ですよ。これからね、魔術でもって、政府にエキストラ賞を作らせるから、まあ、楽しみにしていたまえ。」

「政府に?」

「そうだよ。政府以外に、誰が賞なんかくれるんだね。政府にね、まあ、つまり、エキストラみたいな損な役回りしかない庶民にも、せめて名前くらいは残せるような、そういうシステムを作らせるのさ。」

「だから、どうやってさ。具体的にどうするんだよ。」

「そんなこと、総理大臣にでも聞いてくれ。私は、政府にそういうシステムを作らせるように魔術をかけるだけさ。いわゆる動機付けだよ。具体的にどういうシステムになるかまでは知らんよ。」

「そんなの、無責任じゃないか。」

「何が無責任なのだ。本来、魔術とはそういうものなのだ。君は、魔術と言うのは、棒を一振りしてカボチャを馬車に変えるような、そんな単純なものとでも思っていたのかね。残念でした。正統派の魔術ってのはね、もっと、こう、地味な、玄人好みの心理学的な高等技術なのだ。人の深層心理に働きかけて、人を思いのままに操るのだ。それこそが魔術の王道であり、醍醐味でもあるのだ。お伽噺のカボチャ魔術と同列にしないでもらいたいね。」

「ふうん。そんなもんかね。」

「そうさ。私はこれでも、免許皆伝だよ。魔術に関しちゃ、私は、プロだよ、プロ。素人は黙って見ていたまえ。」

 魔術師は、相変わらず、がさがさと何やらかきまわしている。時々、舌打ちなどしている。

「何だい。うまくいかないのかね。」

「え?いや・・・」

「だって、さっきから、がさがさやってるだけじゃないか。」

「だってさ。その、呪文がさ・・・」

「呪文がどうしたんだ。」

「こう暗いと、呪文が読めないじゃないか。」

「はあ?」

「こりゃ、だめだ。呪文が読めないんじゃ、お手上げだ。やれやれ。」

「な、何を言ってんだ。おまえ、本当に免許皆伝なのか。呪文が読めないからだめだとは何だ。馬鹿馬鹿しい。じゃあ、電気つけろ!」

「電気?だめです。そんなことしたら、君に姿を見られちゃうじゃないか。」

「べつに、いいじゃないか。」

「だめなのだ。姿を見られるとミイラになる。」

「なんだって?」

「君に姿を見られるとミイラになっちゃうんだ。」

「ほほう。そりゃ、いいことを聞いた。」

「え?」

「電気をつけた途端、おまえはミイラになっちゃうんだろ?なあんだ。おい。イカサマ師。さっさとこの部屋を出て行け。さもないと電気をつけるぞ。」

「・・・」

「早く出て行け。電気つけるぞ!」

「ねえ、君。」

「何だ。」

「私がここでミイラになったら、困るのは君だよ。ミイラと言うのは、つまりは、人間の死体だよ。下手すると、君、殺人犯と勘違いされて逮捕されるよ。」

「・・・めんどくさい奴だ。」

「納得したらしいね。賢明な選択だ。とにかく、呪文さえ読めれば問題ないんだ。君、ちょっと、懐中電灯でも貸してくれよ。」

「やれやれ。玄関にあるだろう。自分で持って来いよ。」

 魔術師は、こちらに背を向けて、用心深く懐中電灯を点けた。丸めた背中が黒く浮かび上がった。相変わらず、がさがさと手元で何かかきまわしていたが、ふいに、動きを止めると、じっと動かなくなった。呪文を書いた紙でも見つけたのだろう。読み耽っているといった様子だ。もう、勝手にしろ。エキストラ賞ねえ。エキストラ賞。こりゃ、いったい、どういう賞だ。ふざけた話だ。馬鹿らしい。いや、待てよ。エキストラ賞?待て待て。ちょっと待て。

「おい!」

「何だよ。もう。呪文が分からなくなったじゃないか。邪魔しないでくれ。難しいんだから!」

「ちょっと待て。おまえ、今、エキストラ賞の魔術をかけてたんだよな。」

「そうですよ。あたりまえじゃん。」

「そりゃ、いったい、どういう賞だ。」

「もう。何べん言えばいいのかなあ。君、頭が悪いのかね。具体的にどんな賞になるかは、総理大臣が決めることであって、私の知ったことじゃないって言ってるじゃないか。」

「だから心配なんだよ。そりゃ、つまり、あれだろう、要するに、政府の役人がだね、ある日、僕の部屋に来て、あなたの人生は実につまらないものだったから、それじゃあんまりだというので、ここにエキストラ賞を与えます、はいどうぞ、おめでとう、よかったね、みたいなことになるわけだろう。」

「まあ、そうかもね。政府のやることだから、まあ、そんなところじゃないのかね。役人から賞状一枚もらって、はい、おしまいって感じ?それとも何か、副賞でも欲しいの?金メダルとか。」

「そうじゃない。つまりだな、僕の人生がつまらんものだってことは、それはそれで覚悟の上だがね、そういうつまらん人生を送っている人間なんて、それこそ掃いて捨てるほどいるわけだよ。そういう中から、どうやってエキストラ賞受賞者を選ぶわけ?」

「知るもんか。選考基準なんて、役人が考えるでしょうよ。」

「そうだろう?要するに、役人の基準で選ぶわけだ。こいつの人生は実につまらんけれども、まあ、とりあえず、世のため人のために少しは役に立ったみたいだから、エキストラ賞をあげましょうってな感じで。」

「まあ、そうだろうね。そんな感じだろう。多分。」

「じゃあ聞くが、役人ってのは、何が世のため人のためか、知ってるわけ?」

「私に聞かれてもねえ。まあ、知ってるんじゃないの?クソ難しい国家試験をパスした秀才ぞろいなんでしょうから。まあ、君よりは優秀・・・」

「うるさい。まあ、役人が秀才だとしよう。すると何か。秀才は、何が世のため人のためか、知ってるわけ?」

「くどいね、君も。あのねえ、何が世のため人のためか、なんてことはね、べつに正しい答えがあるわけじゃないのよ。頭のいい人が、いろいろ知恵を絞ってだね、これこそ正義、とか、これこそ真理、とか言ってるだけなわけよ。君の好きな明治維新だって、そりゃ、日本人の多分九十九パーセントが、いいことだったって思ってるだろうけど、それは、後世の頭のいい人たちが、封建主義を打破しただの、洋式近代化に成功しただのと、いろいろ理由付けしたからであって、幕府側の人間から見れば凶暴なテロ行為だったわけだろう。フランス革命だって、ロシア革命だって、デモクラシーだのマルキシズムだのといった、それ相応の正当化の理屈があるおかげで、王様も貴族も泣き寝入りするしかなかったわけさ。で、そういう理由付けは、みんな、頭脳明晰な秀才たちが考え付いて、君たち庶民に与えてきたものじゃないか。そうして、それこそが、人類の進歩、というわけだよ。何が世のため人のためか、なんてことはね、庶民の心配することじゃないのさ。秀才に任せときゃ、いいように取り計らってくれるんだから、庶民の皆様は心配御無用ってわけ。」

「ちっとも心配御無用じゃない。大いに心配だよ。」

「どうして?」

「だって、どんなに頭脳明晰な大学者だって、神様じゃないんだから、間違えることだってあるだろう。間違えてたらどうするんだよ。見当違いなトンチンカンなことを世のため人のためだって思い込んでたらどうするんだよ。どう責任とってくれるんだよ。」

「責任なんかとらんよ。誰にどんな責任取ればいいわけ?そりゃ、大学者だって大天才だって間違えることはあるかも知れないがね、その時は、大先生いわく、これが我々人類の進歩の限界でございます、もっと勉強して出直してきます、さらば御免、というわけで、あとは知らんぷりさ。」

「それじゃあ、僕たち庶民は、秀才どもの屁理屈に好き勝手に引きずり回されるだけじゃないか。それって、要するに、奴隷じゃないか。」

「やれやれ。何かって言うと、すぐにそんな極端なことを言うからいけない。いいかね、そりゃね、大先生の御高説が間違ってるかも知れないにしてもだね、それが間違いだ、と言える資格があるのは、これまた大先生だけなのさ。決して庶民ではないのだよ。庶民が、自ら、あの大先生の考えは間違ってんじゃねえか、なんてことを理路整然と主張することができますか?庶民なんてものは、大先生の考えを神の啓示のごとく押し頂いて有り難がるだけさ。そのくせ、もっと若々しい大先生が現れて、あいつの考えは間違ってる、おれの考えの方が正しい、と大声で言い出したら、ころりと考えを変えて、先を争って、その若い大先生の信者になるんだ。そうして、それだけでなく、古い学者の考えを信じ続ける者たちを迫害し始めるんだ。そんな庶民が奴隷だって?馬鹿を言っちゃいけない。奴隷どころか、庶民は暴君だよ。凶悪な独裁者だよ。そういう凶暴なる庶民様のために、世の秀才どもは、戦々恐々、冷や汗かきながら、何が世のため人のためかってことを判断する基準を献上しているわけだよ。だから、庶民の皆様は心配御無用だというのさ。」

「・・・」

「納得したかね。」

「するもんか。」

「おやおや。君も頑固だね。合理的精神というものがない。それじゃあ、人類の進歩も何もあったもんじゃない。」

「人類の進歩?ふん。よく言うよ。つまりは、秀才どもが自分たちの都合にあわせて作っただけのムシのいい基準じゃないか。そんなもん信用できるか。」

「ふう。困ったもんだ。それじゃ、どういう基準なら信用するわけ?」

「絶対に正しい基準だ。」

「だからね、正しい基準なんてものは、ないんだってば。分からん人だな。」

「じゃあ、おまえが、魔術でどうにかしろ。」

「え?」

「どうにかしろ!今すぐに、だ。そうでなきゃ、寿命は売らん。売るもんか。絶対に売らんから、そう思え。」

「もう。ちょっと待ってくれよ。絶対に正しい基準だって?まったく、論理を無視してるよなあ。ついていけないよ。これだから庶民は困るんだ。まさしく暴君・・・」

「うるさい!早くやれ。おまえ、魔術のプロなんだろう。」

「もちろん、プロ中のプロですよ。うーん・・・そうだねえ・・・あ。そうだ。うん。」

「何だ。もうできたのか。」

「まあね。プロだからね。」

「ほほう。さすが、免許皆伝だ。インドの山奥で千年修行しただけのことはあるじゃないか。見直したよ。で、どうする?」

「神様に頼めばいい。」

「はあ?」

 

      四 少数者

 

 魔術師は、懐中電灯の明かりの下で、またもや、がさがさと何かを引っ掻き回し始めた。例によって、呪文を探しているわけだ。それにしても、何だか、いかにも頼りない後姿だ。インドの山奥で千年修行しただって?どうだか。怪しいもんだ。どうせ、よっぽどの落第生だったに違いない。千年修行したんじゃなくて、千回落第したんだろう。で、成績があんまり悪いもんだから、本場インドでは就職先もなくて、はるばる日本に来たわけだ。きっとそうだ。そうに違いない。

「君!」

「え。はい。」

「いま、私の悪口を考えていただろう。」

「まさか。」

「いいや。私は君の心が読めると言っただろう。誤魔化してもだめだ。失敬な。これでも私は、お師匠様から後継者になってくれと頭を下げられたほどなのだ。」

「へええ。それが、また、どうして、こんな極東の果ての島国に?」

「・・・」

「お返事がないようですが?大先生?」

「だ、黙りたまえ。じ、呪文を間違えるじゃないか。」 

「どんな呪文だよ。僕にも教えろよ。」

「馬鹿だな、君は。企業秘密だよ。門外不出なのだ。」

「こりゃまた、懐中電灯がなきゃ呪文も読めんくせに、ずいぶんな威張りようだな。いったい、何をやらかそうってんだよ。」

「聞いて驚くなよ。」

「そんな慣用句はいいから、早く言え。」

「むむっ。では言おう。いいかね、これから私がやろうとしているのはだね、まさに、魔術の奥義を極めた者だけが許されるところの秘儀、神通力の術である。」

「神通力?」

「その通り。」

「ふうん。」

「ふうん、ではない!まったく、感動のない人間は生きる資格もないよ、君。神通力の術とは、神と直接対話を試みるという超絶の荒技なのだ。未熟な魔術師ならたちまちミイラになって即死するという恐るべき秘術なのだ。」

「ほほう。すると、おまえ、危ないんじゃないか?」

「し、失敬な!そんなことより、君の宗旨は何だ。」

「シュウシ?」

「そう。宗旨だ。分からんのかね。何を信仰してるのかってんだよ。」

「ああ、そのシュウシか。いや、べつに何も。」

「べつに何もって、馬鹿か、君は。それじゃ困るんだよ。神通力は、君の信じている神様と対話するんだから。」

「ああ、そういうことか。べつに何でもいいよ。神様でも仏様でも。適当にやってくれ。」

「だから、それじゃ困るんだったら。いいかね、私がいまからやろうとしていることはだね、君の信じている神様を呼び出してだね、君の言う、その、絶対に正しい基準とやらを啓示してもらうことにあるわけだよ。だから、その当然の前提としてだね、何でもいいから君が信仰を持ってなきゃいかんわけだよ。そうでなきゃ、いくら神様の啓示があったって、君はちっとも有り難がらないじゃないか。つまりだね、君の信じる神様にね、特別に、君だけに、いいかい、君だけにだよ、ああしろ、こうしろって、手取り足取り、君の今後の生き方を細かく指示してもらうわけだよ。何せ神様の啓示なんだから、絶対に正しい基準でしょ?君は、その基準に従って生きればいいわけさ。それだけで、天国だか極楽だか、とにかく君の望む目出度い後生が特典として約束されるというわけ。そうすれば、満足して死ねるでしょ?自分の敬愛する神様に祝福されて死ぬんだから最高じゃん!神様が君だけにくれる唯一最高のエキストラ賞ってわけさ。我ながらグッドアイデアだろ?」

「そんな屁理屈を、よくも考えついたもんだな。」

「でしょ?プロだからね。」

「おまえのアイデアは分かったがね、僕は、べつに、神様も仏様も信じちゃいないんだ。残念でした。企画倒れもいいところだな。」

「だから困ってるんじゃないか。一切の責任は、君の不信心にある。まったく、神も仏も信じてないなんて、よくも恥ずかしげもなく言えるもんだ。べつに聖書やお経を読んだことがなくってもいいんだよ。何というか、たとえば、そうだな、ああ、やっぱり神様っているんだなあ、みたいな気持ちになったこととかないのかね。感動したことがないかなあ。体中を霊感が走りぬけるような経験はないかね?そういう経験がないとしたら、君は人間とは言えんよ。」

「ないね。ただの一度も。」

「なんてつまらん男だ、君は。まったく、だからいつまでたっても庶民なんだよ。面倒見切れんよ。」

「何言ってやがる。今時、そんな神秘体験なんて、経験したことあるって人間の方が珍しいだろう。現代にゃ、神も仏もないのさ。」

「そんなことはない。私が修行してたインドの山奥では・・・」

「待て待て。残念ながら、ここは、二十一世紀の日本なんだよ。困った時の神頼みってやつで、まあ、せいぜい、正月に初詣に行くぐらいのもんさ。」

「初詣か。いくら不信心の君も、初詣には行くのか。」

「それくらいはね。お決まりだからね。」

「よし。じゃあ、それで行こう。」

「それで行こう?」

「そう。それで行こう。ちょっと無理があるけど、この際、目をつぶろう。君の初詣する神社の神様のお名前は?」

「はあ?何言ってんだ、おまえ。べつに僕は神道を宗旨にしてるわけじゃないし、初詣に行く神社の神様なんて知るわけないだろう。」

「何とまあ。君は、その神社の神様が誰かも知らずに、初詣してるわけ?」

「ふつう、そうさ。誰も気にしちゃいないよ。」

「やれやれ。じゃ、何かね。君たちの初詣というのは、神社に出かけて賽銭箱に小銭を放り込むだけというわけか。」

「そういうこと。」

「それって、いったい、何なの?何か意味があるの?」

「べつに意味なんてないよ。お決まりのことだからやってるだけだよ。」

「お決まりのことか・・・お決まりのことねえ・・・」

「どうした、先生。もう、お手上げか?」

「ふうむ。分からないな。なんで、お決まりのことに満足できるのかな。例えばだよ、君の人生が、ろくでもない天命の下で、恋人も無く、年収も三百万そこそこのままで、毎日くたびれ果てるだけの人生を浪費するだけだとする。その場合、君は、その日その日を、お決まりの日課に従って、ただ黙々と死ぬまで反復するしかないわけだ。そうだろう?」

「ふん。そんな人生だけは御免だがね。」

「ほら、君は、いま、抗議したね。そんな退屈な反復人生は嫌だろう?」

「あたりまえだ。」

「そう。当然だ。でも、不可解なことに、君は、既に、自ら、退屈な反復人生を選択しているじゃないか。さっき、君は、合理的精神による人類の進歩なんか、ちっとも信用できないと言った。かと言って、信仰を持ってるわけでもない。そうして、お決まりの無意味な初詣を毎年反復することには何の疑いも抱かずに満足して生きているじゃないか。ブラック企業の件だってそうだ。君は、あれこれと不満を言いながらも、毎日同じ時間に起きて会社に行き、毎日夜中に帰ってきてコンビニ弁当を食べてバタンキューの生活を繰り返してる。君は、言葉では反復人生を拒否していながら、実際の生活では何の抵抗もなく無意味な反復人生を受け入れているんだ。おかしいじゃないか。言ってることとやってることが違うんだよ。君は、本当に、本心から、反復人生を嫌悪しているのかい?君の心は、べつに反復人生でも構わないと思ってるんじゃないか?ただ、言葉の上だけで、つまり、理屈の上だけで、まるで学校の先生に教えられたことを意味なく繰り返すみたいに、反復人生なんてくだらん、と言ってるだけじゃないのか?そうでなきゃ、おかしいよ。言ってることとやってることがちっとも一致してないなんて、医学的治療の必要があるよ。」

「まあ、そういわれて見れば、そうかもね。」

「まったく、不可解な話だよ。いいかね。進歩や信仰というのはね、言わば、人間が人間として生きていくために、やっとの思いで手にした希望なんだ。この希望のおかげで、人間は、食うためだけに生きることからようやく逃れることができたんだ。反復の呪縛から逃れることができたんだ。しかし、君は、進歩も信仰も拒否している。それが日本人なのか?だとすれば、君たちは、進歩も信仰も捨てて無意味な反復だけを繰り返すだけの異常な民族だということになるよ。君たちに救いはないということになる。救いもなく、ただ黙々と反復しつつ滅亡を待っているのかね。君たちはどこへ行くつもりだ。いや、そもそも、君たちは、どこから来たんだ?君たちは、いったい何者だ?魔術界に伝わる古伝説にね、流浪の民というのがあるんだ。天地開闢の昔に、人間が天と地の二つの種族に分かれた時、どちらも嫌だと逃げ出して永遠に流浪することになった人々がいたというんだ。君と話していて、その流浪の民のことを思い出したよ。おそらく、君たちの先祖は、太古の昔、どういうわけか、進歩や信仰といった人間としての希望を、自ら捨てたんだ。そして、君たちは、絶望の世界をさまよい歩き、ようやくこの極東の島にたどり着いたんだろう。けれども、長い年月の経つうちに、いつしか、その流浪の記憶さえも失ったんだ。そして、進歩も信仰もない、反復するだけの民族になったんだ・・・」

「おいおい。大丈夫か、先生?」

「しかし、不思議なのは、なぜ、君たちが、進歩も信仰も拒否したのかということだ。何があったんだ?進歩や信仰にも勝る何かがあったのか?反復の呪縛から人間を解き放つ第三の方法があるというのか?第三の方法!分からないな。分からん!多分、君たち自身にも、もはや分からなくなっているんだろう。その知恵は永遠に失われたんだ。失われた?いや、そうではない・・・失われてはいない・・・君たちの心の底に残っているはずだ。だからこそ、君は、進歩も信仰も拒否したんだ。君たちは、依然として、流浪の民なんだ。君たちは、異端だ。人類の少数者だ・・・」

「分かった分かった。少数者でも何でもいい。べつに多数派になって世界制服するつもりもないよ。で、神通力はどうするんだよ。もうお手上げか?」

「・・・そのようだ。さすがの私も、万策、尽きた。」

「そりゃ、残念だったな。じゃあ、さっさと帰ってくれ。」

「・・・ねえ、君。」

「何だ。」

「ちょっと、煙草くれよ。」

「何だって?」

「煙草だよ。切らしちゃったんだ。」

「魔術師が煙草を吸うのか?」

「吸っちゃ悪いか。伝統的に、どうにもこうにも行かなくなった時には、取りあえず一服するものと決まってるじゃないか。」

 魔術師は、煙草を吸い終わると、両手を組んで、伸びをした。ポキポキと、骨の鳴る音がした。実に、さえない。スナックの女の子にちっとも相手にされない中年男のくたびれた後姿に似ている。もっとも、僕もそうだが・・・

「おい、魔術師。」

「何だね。」

「おまえ、ミイラになるのが嫌か?」

「あたりまえじゃん。」

「だって、千年も生きてきたんだろう?」

「あのね。私はね、千年間、ぶらぶら遊んでたわけじゃないんだよ。魔術師の免許皆伝を受けるべく、インドの山奥で刻苦勉励、それこそ筆舌に尽くし難い荒行をして来たわけだよ。で、ようやくにして、免許を得たわけだ。私の魔術師としての人生はこれから始まるのだよ。今から、実りに満ちた収穫の日々が始まるのだ。それが、今、ミイラになっちゃったりしたら、何のために千年も馬鹿みたいに苦労してきたのか分からんじゃないか。」

「そりゃそうだが、おまえ、自分はミイラになるのが嫌なくせに、僕には、さっきから、天命に満足するのは心持ち次第だの何だのと、ずいぶんと偉そうな説教を垂れてたよな。」

「ふん。そうでしたっけね。まあ、こっちも必死だからね、相手を説得するためなら何でもしますよ。まあ、しかし、ついに万策尽きた今となっちゃ、もう、どうでもいい気分だな。君には負けたよ。くたびれた。」

「ふん。だらしのない奴だ。あと何年分集めるんだよ。」

「あと千年分。」

「なんだ。まだ全然じゃないか。で、いつまでに集めなきゃならんのよ。」

「明日の朝・・・」

「はあ?馬鹿か、おまえ。百人から十年分ずつ集めるんだろ?こんなところでのんびりしてちゃ、間に合わないじゃないか。」

「そうだね。」

「馬鹿。急がなきゃ、ミイラになっちゃうだろ!」

「もう、いい。君と話していて分かった。日本人から寿命を売ってもらうなんて、やっぱり無理だったんだ。私はね、ほんとはアメリカが良かったんだ。それなのに、お師匠様が、おまえは日本にでも行きなさいなんて意地悪を言うから、こんなことになったんだ。なんで、あんな意地悪を言ったのかなあ。お師匠様に嫌われてるのかなあ。ひょっとして、私がミイラにでもなればいいと思ってるのかなあ。ああ、きっとそうだ。きっと、私のことが死ぬほど嫌いなんだ。毛虫みたいに嫌ってるんだ。ああ、もう、ミイラにでもなって死んだ方がましだ・・・」

「何だ?この野郎。じめじめとくだらねえこと言いやがって。師匠に嫌われたから死にたい、だと?情けない。さっきまでの勢いはどこに行ったんだよ。おまえ、プロ中のプロなんだろう?神通力だってやれる免許皆伝の魔術師なんだろう?どうにかしろよ。プロなら意地ってもんがあるだろうが。死ぬなら、その前に、魔術師としての意地を見せてからにしろ!」

「意地・・・」

「そうとも。僕はまだ、おまえの魔術なんてちっとも見せてもらってないぞ。このイカサマ野郎。神通力だ?笑わせるな。やれもしねえくせに。」

「や、やれます!」

「じゃあ、やれよ。早くやれ!」

「何のために?君は神様を信じてないんでしょ?」

「この馬鹿。誰が僕のためにやれと言ったんだよ。おまえのために神通力をやれってんだよ!おまえの神様に助けてもらうんだよ。」

「私のために?」

「そうだよ。おまえの信じる神様は何だ。早く呼び出せ!呼び出して、奇跡を起こしてもらえばいいだろう。千年分の寿命をもらえよ。」

「でも、私は魔術師だし、信じる神様と言ってもべつに・・・」

「はあ?信じる神様はいないってのか?」

「うん。」

「この馬鹿。あれほど僕のことをクソミソに言ってたくせに。よし、分かった。じゃあ、おまえのお師匠様とやらはどうなんだ。お師匠様は、おまえの神様みたいなもんだろうが。」

「そりゃ、もちろん。お師匠様は、生き神様です。」

「じゃあ、お師匠様を呼べ。ここに呼べ。」

「そんな無礼なこと・・・」

「うるさい!命の瀬戸際に、無礼もヘチマもないんだよ。さあ、神通力だ。やって見せろ!おまえの師匠をインドの山奥からここに呼び出せ!」

「無茶苦茶だ・・・」

「そうとも。庶民様は無茶苦茶なんだよ。暴君だからな!どうせミイラになるなら、その前に、免許皆伝の腕を見せろ。そのために千年も頑張ったんだろう?おまえは、そのために生きてきたんだろう?」

「・・・」

「さあ、やって見せろ!」

「で、でも、私は、ほんとは、神通力なんて、やったことがない・・・」

「はあ?おまえ、さっき、自信満々で神通力やろうとしてたじゃないか。」

「あ、あれは、実は、その、幻術で、君をだますつもりで・・・」

「この馬鹿。やっぱりか。まあ、いい。どうせ、ミイラになるんだ。神通力を失敗してミイラになっても本望だろう。秘儀に初挑戦というわけだ。おまえの腕を師匠に見せてやれ!一世一代の大勝負だ。僕が責任もって見届けてやる。たとえミイラになっても、ちゃんと燃えるゴミで捨ててやるから心配するな。何だ、この野郎。めそめそしやがって。泣くな、馬鹿!さあ、やれ!免許皆伝の意地を見せろ!」

 

      五 神通力

 

 魔術師は、鼻水をすすりながら、懐中電灯の明かりの下で、がさがさと呪文を引っ掻き回していたが、そのうち、静かになり、ピクリとも動かなくなった。そうして、ぶつぶつと呪文を唱え始めた。懐中電灯の明かりに黒く浮かび上がった魔術師の後姿は、さすがに、話しかけることを許さない厳粛な気配につつまれた。なるほど、この男は、確かに、魔術師だった。

 ひどく長い呪文がようやく止んだ。魔術師が、懐中電灯の明かりを消した。部屋が、再び、闇に満たされた。闇の中で、魔術師は、何か激しい動作をしているらしかった。時折、シュッシュッと、空気を切る音が聞こえた。

 どれほど経ったのだろう。

「終わった・・・」

闇の中で、魔術師の疲労し切った声が聞こえた。

「やっと終わったか。うまくいったか?」

「いや・・・まだ分からない。でも、ミイラになっていないから、うまくいったはず・・・」

魔術師がそう言い終わらないうちに、闇の中で、突然、玄関のブザーが鳴り響いた。

「な、なんだ?」

「・・・君、玄関に出て見てくれ。」

「何だって?おい。まさか、おまえの師匠が来たんじゃないだろうな。」

「・・・分からない。」

 僕は、闇の中を手探りで、玄関に向かった。途中、魔術師の脇を通り抜ける時、彼の荒い息遣いだけが聞こえた。

 玄関の前で、僕は、立ち止まった。このドアの向こうに、僕の見知らぬ何者かが確実に立っているのかと思うと、腰からするすると力が抜けるようだった。 

僕は、ノブに手をかけると、ドアをほんの十センチほど開けて、外を覗き見た。

 何だ?セーラー服を着た中学生くらいの少女が立っている。青白い月の光に照らし出されたその顔は、瞬きを忘れるほど美しい。

「はい?ど、どなた?」

「・・・あなたこそ、誰?」

少女は、そのくすぐったいほど愛らしい声で、けれども、ひどくつっけんどんに言った。

「は?あの、僕は、この部屋に住んでるんですけど・・・」

「あ、そう。じゃ、入るわよ。」

そう言って、少女は、ドアの隙間に両手を突っ込むと恐ろしい力でドアを引き開けた。そうして、呆然としている僕を片手で押しのけて、靴も脱がずにそのままずんずんと部屋の中まで上がり込んで行く。

「あの、ちょっと待って・・・」

僕はあわててその後を追った。

と、その時、闇の奥で魔術師が叫んだ。

「お、お師匠様!」

「え?お師匠様?こんな子どもが?」

僕は思わず声を上げた。すると、「お師匠様」は、暗闇の中で、やはり愛らしい声で、つっけんどんに答えた。

「そうよ。小娘で悪かったわね。あたしが、この馬鹿の師匠よ!」

そうして、「お師匠様」は、うずくまる魔術師の影に向かって詰問の声を投げつけた。

「まったく、ろくでもない弟子だわ!あんた、神通力を使ったわね!そうでしょう!」

「は、はい。申し訳ありません。お師匠様・・・」

「謝って済むと思ってるの!この馬鹿!神通力で自分の師匠を呼び出すなんて、呆れた馬鹿だわ!この馬鹿!」

あまりの剣幕に、魔術師が哀れになった僕は声をかけた。

「まあまあ、お師匠さん。そう怒らないで。彼も事情があって・・・」

「あなたは黙ってらっしゃい!部外者のくせに。ああ、そうか、あなたが、この馬鹿をそそのかしたのね。そうでしょう。」

「・・・そうです。」

「ふん。どうせ、千年分の寿命が集まらなくて、どうしようもなくなって、やぶれかぶれで神通力をやったんでしょう。まったく、千年も修行してたくせに、いったい全体、何を勉強してたのかしら!折角、お情けで免許をあげたのに、案の定、このザマよ!いっそのことミイラにでもなっちゃえばよかったのよ!」

「ちょっと、そりゃ言い過ぎだと思うけど。」

「何ですって!部外者は黙ってなさい!」

「いや、でも、この馬鹿だって、いや、こいつだって、立派に神通力をやって見せたじゃないか。命懸けでやったんだよ。大したもんじゃないか。僕は、正直、感動したね。立派な免許皆伝だよ。」

「感動したですって?素人の分際で、お黙りなさい。あんなヘタクソな神通力じゃ、とても免許皆伝とは言えないわよ!」

「そりゃ、僕は素人だから、テクニックのことは分からんがね、でも、成功したんだろ?いや、成功、不成功なんかどうでもいいんだ。とにかく、こいつは、命懸けで免許皆伝の意地を見せたんだ。いいものを見せてもらったよ。僕が女ならコロリと惚れるところだ。」

「惚れる?ば、馬鹿馬鹿しい!」

「そうかな。ちっとも馬鹿馬鹿しくないけどな。まあ、とにかく、この馬鹿、いや、こいつにとっては、あんたは、生き神様なんだってさ。どうにかしてやるのが人情ってもんじゃないか。」

「じゃあ、何よ。千年分の寿命を、この馬鹿にやれとでも言うの?」

「生き神様ってのは、人を救ってくれるんだろう?血の通った、この世の神様なんだろう?そこが、何にもしてくれない天の神様と違うところじゃないか。千年分の寿命くらい、あんたなら何てことないんだろう?何とかしてやってくれよ。」

すると、うずくまって丸い影になっている魔術師も泣き声で哀願した。

「お願いします。お願いします。お師匠様・・・」

「ああ、もう!嫌になっちゃうわね!いい年して、そんな情けない声を出さないでちょうだい!まったく、世話を焼かせないでよ。寿命千年分ね。はいはい、分かったわよ。やるわよ。そのかわり、おまえ、もう一回、あたしのところで、徹底的に修行し直すのよ。いいわね?三千年くらい死ぬほどしごいてやるから覚悟することね。」

「さ、三千年ですか・・・」

「何よ!文句でもあるの!」

「と、とんでもない。お師匠様。有難うございます。」

「じゃ、もう、こんな国に用はないわね。一緒に帰るわよ。」

「はい。お師匠様。えへへ。」

「えへへ、じゃないわよ。うれしそうな声出して、馬鹿じゃないの?いやらしい。じゃ、行くわよ。準備はいいわね。えい!」

少女の掛け声とともに、別れの言葉もないまま、二人は唐突に消え去った。

 部屋は、しいん、と闇の中に静まり返った。

 時計の音が、コチ、コチ、聞こえる。

 はて。夢だったのか?

 外の通路を歩く靴音がした。隣のお水のお姉ちゃんが帰ってきたらしい。と言うことは、もうじき、夜明けじゃないか。こりゃまずい。少しだけでも、眠っておこう。今日も、つまらない仕事でくたびれるだろうから。

                               了