三島由紀夫「金閣寺」 「究竟頂」の扉をめざす文学的系譜

三島由紀夫金閣寺のラストを書くために生まれた。」と、言っては、言い過ぎだろうか。あたりまえだ。言い過ぎだ。と、えらい人たちに叱られる。では、こう言っては、どうだろう。「金閣寺」のあとの三島の作品なんて、あれは、ぜんぶ、おまけみたいなものです、と。それこそ、袋だたきである。きさまは、あの大作「豊饒の海」をおまけだというのか!と、烈火のごとき怒声が飛ぶ。すると、僕はひるまずに答える。いや、相当ひるんでいるが、震える足をかくしつつ、答える。はい。おまけです。壮大なおまけです。三島は、疑いなく、「金閣寺」のラストの数枚を書くために生まれたのであり、その作家としての天才は、その数枚にすべて注ぎ込まれて尽きたのです、と。

 ああ、この作家は天才だ、と心の底から思える小説との出会いというのは、人生において、そんなにあるものじゃない。「金閣寺」のラストは、まさにそういう出会いの一つであった。言うまでもなく、そのラストとは、金閣に放火した主人公の「私」が、煙にまかれながら、「究竟頂」の扉を開けようとして開かない場面である。「扉は開かない。」三島は、この数文字の短い一文を、三度、繰り返す。この数文字を三度、読んだ時、僕は三島の天才を確信して震えた。金閣の最上階、金箔がはりつめられた金色の小部屋「究竟頂」の扉は、開かないのだ。どうしたって、開かないのだ。人間の限界。神の世界に、人間は、決して入れない。そのどうしようもない人類の絶望を、わずか数文字で余すところなく描き切った三島が天才でなければ、この世に天才などいないであろう。

 三島の「金閣寺」と同じく、どうしても開かぬ扉、というモチーフのラストシーンで戦慄させられた天才が、もう一人いる。安部公房だ。安部の「けものたちは故郷をめざす」のラストでは、敗戦後の満州から故郷日本をめざして苦心惨憺たる逃避行をしてきた主人公が、密航船でようやく日本の港にたどりつくものの、船倉に監禁されていて上陸することができず、船倉の鉄板をたたいて声の限りに叫ぶという場面がある。が、やはり扉は開かないのだ。テーマは「金閣寺」と同じである。神に敗北した二十世紀の人類の救いようのない絶望を、この二人の天才は、わずか数行の言葉で描き切ったのである。僕は、ああ、この作家は天才だ、と心の底から思った。それは文学ファンにとってまことに幸せな瞬間である。

 燃え上がる金閣を逃れ出てきた「私」は、「獣のように」傷口をなめると、煙草を吸って、「生きよう」と思う。その姿にはもはや、神と対等になろうとした人類の不遜な意志と自信はどこにもない。罪なき動物の姿である。神の造った世界の理に従順なる生活者。熱狂と絶望の果ての日常的静穏。安部公房もまた、「どうしても開かぬ扉」のモチーフを、後作の「砂の女」では「逃れられない砂の穴」というモチーフに変換して、もはや砂の穴から逃げようともせずに砂の女とともに生活していくことを選ぶ主人公を描き、神に敗北した二十世紀の人類の「絶望の中の生」を取り出して見せた。この三島と安部の描いた人類の絶望の姿は、太宰治の「人間失格」のラストで、「ただ、一さいは過ぎて行きます。」と独白する主人公・大庭葉蔵の絶望の姿に他ならない。

 芥川龍之介以来、日本文学には、キリスト教の教義・伝統に縛られることなく神と人類の葛藤を追究してきた日本独自の世紀末文学の系譜がある。極東の小島に過ぎぬ日本の文学が、シェークスピアにもドストエフスキーにも負けない人類普遍の輝きを放っているのは、ひとえにこの系譜の作品群の存在があればこそである。この文学的系譜は、芥川、太宰、三島、安部と受け継がれ、そして三島由紀夫の「金閣寺」と安部公房の「砂の女」を最後に、ついに絶えた。千数百年の日本文学史における、わずか五十年間の系譜であった。が、その五十年間に、日本文学は燦然と輝いた。そして、燃え尽きた。一瞬の花火のようであった。二十世紀という人類にとって厳冬の世紀の闇空を走る閃光であった。そして、芥川龍之介はぼんやりした不安で毒をあおり、太宰治は女と身を投げ、三島由紀夫は腹を切り、安部公房は世捨て人になって世を去った。ドストエフスキーが「罪と罰」のラストで後世の作家に託した、人類の新しい希望を見せてくれる続編を、結局、誰も書き残すことはできなかった。

 本は、本屋に山ほどある。毎日何千という本が生まれている。ネットにはテキストがあふれている。この瞬間にも、幾千幾億の言葉が生み出されている。その中に、人類の絶望を救う天才の言葉があるのだろうか。いや、きっとあるのだろう。あるに決まっている。人類はまだ、戦える。神はなお、人類を試している。けれどまだ、不幸にして、その言葉たちに出会っていない。