玉手箱の話


 人生は、夢かうつつか。よく聞くセリフだ。でも、夢かうつつか、って区別じゃないと思うんだ。そもそも、うつつなんて、どこにもないんじゃないかって思う。

 たぶん、全部、夢なんだ。たくさんの夢が、いくつもいくつも無限に重なっていて、その夢と夢の間を、人は、気が付かないままに行ったり来たりしているんじゃないのか。そうして、たまたま一瞬の間に通り過ぎる夢の中で、これが現実、僕の世界、と思い込んでいるだけじゃないのか。でももう、次の瞬間、僕は別の夢の中へと落ち込み、その夢の中で、別の人間として生きて、死ぬ。死んで、そうして、また夢の中へ・・・前世・現世・来世、邯鄲の夢、パラレルワールド、世界の同時存在、呼び名はなんでも構わない、とにかく世界は、無数にある。

 それぞれの夢がすべて、僕の世界だった。それぞれの夢の中で、たいせつな家族があり、恋人があり、友がいた。僕は僕の世界を生きて、無数の人々と出会い、無数の人々を愛し、無数の人々から愛された。

 けれども、その人生という夢の中でもらった愛は、次の人生の夢には持っていけない。愛の記憶の蓄積を、神は禁じた。前世でもらった愛、それがどういう愛だったのか、その愛をくれた人たちが僕にどういう笑顔を見せてくれていたのか、その時の僕の名前が何だったのかさえ、もう何も覚えてはいないんだ。そしてこの現世の人生で多くのたいせつな人々から受けた愛も、来世に持って行くことはできないんだ。忘却。それは、神の優しさだ。それは、神が人に許した唯一の救いだ。ただの一度の人生の思い出さえも抱えきれない僕に、無限の数の人生の思い出を抱えきれるはずがない。ただの一人の恋人との離別の悲しみさえも耐えきれない僕に、無限の数の人々との離別の悲しみを耐えられるはずがない。愛の記憶の蓄積を、神は禁じた。忘却という救いの箱を、僕に手渡して。無限に生きることの苦しみに耐えられなくなったとき、僕はその箱を開けるだろう。そうして僕は再び、そして幾たびも、絶対の孤独へと回帰しなければならない。