清左衛門の嘘

 青島清左衛門は、伊東三位入道義祐の侍大将で、三位入道の日向国制覇を支えた武功第一のさむらいであった。が、天正四年、九州統一をめざして猛進する薩摩島津軍による熾烈な反撃がはじまる。その日本最強を謳われる島津兵三万を率いるのは後年、徳川家康をして「大将の鑑」とまで言わしめた島津義久。古今無双の名将の指揮で怒涛のごとく押し寄せる剽悍無比な薩兵の猛攻撃を受けて、さすがの伊東勢も次々と国内支城を失って壊乱し、清左衛門もまた無念の思いで敗走を重ねた。世にいう「伊東崩れ」である。翌天正五年冬、陥落した支城から逃げ集ってきた一族郎党の籠る佐土原の本城もすでに数万の薩兵にひしひしと包囲され、いよいよ進退窮まった三位入道は一時は自害も考えたほどであったが、家来どもの必死の諫言に思い直して何とか家名を残す道はないかと評定を重ね、ついに日向国を捨てて豊後の大友宗麟を頼って落ち延びることに決した。が、問題は、その経路である。三位入道の首を血眼で追う島津兵の追撃を避けつつ豊後府内にたどり着くためには、米良、高千穂を経て豊後大野に至る九州山脈の峩々たる山剣を踏破しなければならない。地生えの猟師でさえ難渋する剣路である。武士はともかく、足弱な女子供が果たして歩きとおせるか。しかも時季は厳冬。南国といえども山中の積雪は腿にまで達し、折しも連日の吹雪である。たとえ薩兵の追撃を免れたとしても、とても無事ではすまぬ。中でも三位入道を心痛させたのは、末娘の小松。このとき十五。日向国主の姫として玉のように大切に育てられたこの娘が、風雪のもと矢弾の飛びすさぶ酷烈な逃避行で無事でいられるとは到底思えぬ。いずれ薩兵の虜となって辱めを受けるくらいであれば、いっそ我が手でそのいのちを、とまで思いつめては悪夢を打ち消した。そういう三位入道の苦悩を見て取った清左衛門は、三位入道の前に平伏して願い出た。この清左衛門に、小松の姫様をお預けくだされ。きっと姫様を、豊後府内に無事に送り届けてみせます、と。

 三位入道は、清左衛門の願いを聞き届けた。広間に現れた小松は可憐な声で、「清左、たのむぞ」といった。清左衛門は、いのちにかえましても、と答えて平伏した。

 清左衛門と小松とは、薩兵が攻撃目標とする三位入道の本隊とは離れ、別動隊として行動することにした。清左衛門は、野良着の背に大刀を背負い、蓑笠を身に着けた。小松も百姓娘の恰好をさせられた。が、さすがに人品は争えぬ。いくら百姓娘の恰好をしたところで、香るような気高さまでは隠せない。清左衛門は、小松に懐剣を渡すと、お覚悟のときは、この清左が介錯仕る、と言った。小松は小さくうなづいた。

 その日の夜、三位入道率いる決死の精鋭部隊が突貫して薩兵の包囲環を突き破ると、その隙間から一族郎党総勢およそ三百人が暗闇にまぎれて脱出、薩兵の追撃を払いつつ吹雪の九州山脈へと分け入った。清左衛門と小松もまた、近在の百姓に身をやつして薩兵をやりすごしつつ人跡絶えた雪の山中へと踏み込んだ。原生林の積雪は深く、腿から腰、そしてついに胸まで沈んだ。清左衛門は、小松と自分とを縄でつなぐと、自らの分厚い胸板で雪を押しのけ足元を踏み固めつつ小松の道を拓いていった。小松は清左衛門と自分とをつなぐ縄を握りしめ、一歩も遅れまいと懸命に歩いた。それでも小松の意識がうすらいで歩みが遅くなると、そのたびに清左衛門は携えてきた手鋤で雪をかいて雪洞をつくり、小松の手足をさすり、米粉に水飴や柚子などを練りこんで団子にした陣中食をあたえて小松の体力の回復を図った。そうして一夜を歩きとおした朝、はるか遠方の山中、米良の方角で、銃声がこだました。銃声は次々に鳴り響いた。「清左!」と小松が悲鳴のような声を上げた。清左衛門は、しばらく銃声の鳴る方向を見つめていたが、しずかに小松を振り返ると、大事ございませぬ、土地の猟師の火縄でござる、と言って微笑んだ。嘘であった。その銃声は、米良をめざして逃げていた三位入道の本隊が島津軍についに捕捉されたことを意味していた。このとき、米良を通過していた本隊は島津軍の強襲を受け、足弱な女中らは足裏を血に染めて逃げまどい、逃げきれぬと観念するや、薩兵に辱めを受けるよりは、とその多くが自害して果てた。小松の姉も足を痛めて逃げ切れず、三位入道が泣きながらこの姫を自ら斬っている。清左衛門は、さあ、姫、参りますぞ、と言って小松をうながした。小松は泣き出しそうな目で清左衛門を見つめ、うなづいた。うなづいた瞬間、その目から涙がはらはらとこぼれた。すべてを知りながら、それでも清左衛門の言葉を信じようとする涙であった。清左衛門は、この姫に、二度と嘘は言わぬ、と誓った。清左衛門は無言で、再び雪を押しのけて歩き始めた。

 清左衛門は、用心のため人里を徹底して避けた。その人跡未踏の雪原を歩くふたりきりの逃避行もすでに十日に及んだ。薩軍の追撃も受けず、高千穂の剣路も無事に抜けた。あと三日もすれば大友領である豊後大野にたどりつく。清左衛門の顔にもようやく安堵の表情が浮かんだ。

 雪原に旭日の光がさす中、行く手に、きらきらと輝く一本の光の筋が見えた。五ヶ瀬川であった。「あの川を渡れば、豊後はもう目の前ですぞ」と清左衛門は小松に言った。小松は、「もうすぐ、おわるのか」と言った。「さよう。もうすぐ、おわります。姫様、よく堪えましたな」と清左衛門が答えると、小松は、「そうか。清左と旅をするのはもう、おわりか。こまつは、もっと清左と旅がしたいぞ」と言った。「はは。おたわむれを」と清左衛門は笑った。小松も笑った。

 五ヶ瀬川の渡し場で、清左衛門は、船頭に銭をつかませると、小松を舟に乗せた。と、その時、数発の銃声が河原に響き、ぴゅう、と銃弾が風を切る音が清左衛門の耳をかすめた。来たか!清左衛門は振り返りざまに蓑を脱ぎ捨てると、背に負った大刀を引き抜いた。一丁ほど先の川堤を越えて、十人余りの薩兵が姿を現した。銃声が立て続けに響き、ぴゅん、ぴゅん、と銃弾が空気を切り裂いた。この場で薩兵どもを足止めせねば姫が逃げ切れぬ、と一瞬のうちに判断した清左衛門は、「行け!」 と船頭に鋭く命じて舟尻を強く蹴った。船頭はあわてて櫓を漕いだ。舟は水を切って川岸から離れていく。「清左!」と小松が叫んだ。清左衛門は舟上の小松を振り返り、「ここで防ぎます。河内郷にてお待ちあれ!」と言うと、にっと白い歯を見せて笑った。「清左。清左。必ず!」と小松が叫んだ。「おう!この清左が必ずお迎えに参りますぞ!」と清左衛門は叫んだ。そうして、ああ、また姫様に嘘を言ってしまったな、と思った。川霧の中に溶けていく小松の涙にぬれた白い顔を目に焼き付けた清左衛門は、たちまち身をひるがえすと、白刃を抜きつれて殺到する薩兵の群れに向かって雄叫びとともに突進した。

 薩軍の追撃を脱した三位入道の本隊が河内郷に到着し、同地に蟠踞する土豪の河内家にひとりかくまわれていた小松と再会したのは、それから三日後のことである。その後、三位入道一行は、大友宗麟の派遣した軍兵に護衛されて豊後領内に入った。雪中の逃避行は十七日間におよび、はじめ三百有余名いた一族郎党は、豊後にたどりついた時には百名足らずであったという。後年、三位入道の子、伊東祐兵は秀吉に仕えて家名を復興し、その血統である日向伊東家は日向飫肥藩主として明治の廃藩置県まで存続した。小松は、その後、大友家の重臣に嫁したと伝わる。小松と五ヶ瀬川で別れた清左衛門のその後は、伝わっていない。

ハードボイルド無情

 その男は、殺人容疑で緊急手配され、S県T市郊外で警察に追い詰められ逃走車内で拳銃弾をこめかみに撃ち込んで自殺した。男の名は、中村。中村に嫌疑のかかる殺人は少なくとも15件。被害者は、会社社長、医者、弁護士等のいわゆるエリート層の男性がほとんどで、いずれも中村とは何の関係もない。殺人請負業。それが中村の仕事であった。

 中村に殺人を依頼したのは、これらの被害者に恨みを抱く女性たちであった。殺したい理由。男に裏切られたから。すべて、これに尽きる。遊ばれて捨てられた女の恨みを晴らす。請負料1人百万円。闇サイトで接触を依頼すれば、一週間以内に、中村から依頼者にコンタクトがある。ある時は、デパートで接客中の依頼者に話しかける客として、あるいは、アパートに引きこもっている依頼者の部屋を訪れる訪問営業マンとして、またあるいは、通勤電車の隣で居眠りするサラリーマンとして、依頼者の不意をついて接触してくる。そうして、雑踏の中で、喫茶店で、カラオケ屋で、公園のベンチで、あるいは依頼者の部屋で、直接依頼者本人から中村自身が依頼内容を聞く。接触時には変装もしていない。依頼者たちが覚えていた中村の顔は、すべて一致していた。顔を隠さないことは、依頼者との信頼関係の証であった。中村は言った。「あんたの言っていることを信じよう。あんたも、おれを信じろ」と。女たちは、中村を信じた。いや、正確に言えば、中村を信じた女の依頼だけを、彼は請け負った。

 中村の犯行手口は、事故死、自殺にみせかけるものであった。あるIT社長は、自社ビルの屋上から飛び降り自殺した。ITバブルが弾けた後、確かに業績の低迷には悩んでいた。が、まさか自殺するとはね、と社員たちは訃報に接して驚いた。依頼者は、元社長秘書であった。結婚を餌に遊ばれて、社内中に噂が広まった挙句、捨てられて退職させられた。また、ある医者は、勤め先の病院の前の歩道橋で足を滑らせて階段を逆さまに転げ落ち、首の骨を折って死んだ。いままで、そんな歩道橋を渡ったことなどなかったのに、お気の毒様、とナースルームの話題となった。依頼者は、看護師。遊ばれて中絶手術を繰り返した挙句に、ささいな医療ミスの責任を押し付けられて解雇された。また、ある弁護士は、泥酔して電車ホームに転落して特急電車の車輪で全身を轢断され、線路上に肉片となって散乱した。つねにスマートな酔い方で、泥酔する姿など見たことなかったのに、と弁護士事務所で不思議がられた。依頼者は、事務所の元アシスタント。遊ばれて捨てられた挙句、逆に、金目当てに弁護士を脅迫したとして解雇。いずれも、当初は、自殺、もしくは事故死として処理されていた。これらの事故が、中村による殺人であったことが判明したのは、ある女から中村の闇サイトについて警察に情報提供があったことによる。

 ある女。S県K市在住のN。むかし、中村と交際していた。Nと中村とは、K大学のクラスメートだった。卒業して数年後の同窓会ではじめて会話をして、メールのやりとりをするようになり、交際がはじまった。当時、中村は、陸上自衛隊の特殊部隊員であった。彼を知る特殊部隊関係者によれば、中村は、徒手格闘、射撃といった戦闘戦技で最優秀であっただけでなく、諜報、潜入、破壊といった工作活動においても彼の右に出る者はいなかったという。が、その後、中村は、突然、陸上自衛隊を退職した。一身上の理由。としか記録には残っていない。ただ、その1カ月前に、中村は、その女Nと別れていた。Nの供述調書によると、中村とNが別れた理由は、Nの浮気である。当時K大学の大学院に在学していたNは、指導教員の准教授Wと男女関係を持つようになっていた。特殊部隊の訓練が厳しくなるにつれて休日もなくなり、せいぜい月に一度、駅前のファミレスで食事をする程度という中村の存在は、Nにとって希薄となり、その他おおぜいの男友達の一人に過ぎなくなっていた。Nの変化に、優秀な工作員である中村が気が付かないはずがなかった。中村は、Nの浮気については何も言わなかった。ただ、最後の日、「君は、ほんとうのことが、わかっていない」とだけ言って、彼女の元を去った。その後、Nは、Wの子を妊娠したとたんに、Wに捨てられた。Nは中絶手術を受け、大学院も退学した。そうして郷里のK市に帰り、高校時代の元恋人で地元スーパーの店長をしていたSと結婚した。平穏な日々が過ぎた。が、Sが、ス―パーの倒産によって失職した。Nは、市役所の臨時職員として働きはじめた。Sは酒癖が悪かった。Nに暴力をふるうようになった。Nの稼いだ給料をパチンコにつぎ込み、酒に酔い、Nを殴った。Nは、しばしば、青あざを厚化粧とマスクで隠しながら、市役所に出勤した。

 その夜も、夫は、酔っていた。泥酔状態で、Nをののしった。なんで、こんな田舎に、のこのこ帰って来たんだ。男に捨てられたのか?で、つまらん田舎もんのおれとしぶしぶ結婚したってわけか!などとわめきちらしながら、Nを殴り、蹴り、押し倒して、踏みつけた。腹を踏みつけられ、Nは、泣きながら嘔吐した。吐瀉物の中に顔を押し付けられた。このクソ女!おれをバカにしやがって!とののしりながら、Sは、Nの顔を踏みつけ、蹴り上げた。吐瀉物まみれのNの顔は、流れる鼻血で真っ赤に染まった。殺される。と思った。逃げなければ、殺される。Nは、「うああああ!」とけもののように叫んで、渾身の力でSを押しのけた。Sは、足をふらつかせて、どすんと音を立てて横倒しに倒れると、うう、とうめいていたが、そのまま、いびきをかきはじめた。いつものことなのだ。翌朝目が覚めれば、Sは、何ごともなかったように笑顔で、Nに抱きついてくる。Nは、床に散乱した汚物を拭き取った。そうして、洗面台に行って、鏡を見た。汚物と鼻血にまみれた無残な女の顔がそこにあった。Nは泣いた。涙が後から後からあふれた。その夜、Nは、中村の闇サイトをはじめて閲覧した。

 市役所からの帰り道、「久しぶりだね」と、後ろから声をかけられたNが振り返ると、夕焼けを背景に、見覚えのある男の顔があった。がっしりとした体つきもむかしのままだった。「中村君!何? どうしたの?」とNは小さく叫ぶように言った。「君に呼ばれたから、来たんだよ」と、その元恋人は無表情で答えた。

 「君の言っていることを信じよう。君も、おれを信じろ」と、元恋人は言った。「信じるわ」と、Nは答えた。Nの答えを聞くと、中村は夕闇の中に去った。Nは、震えが止まらなかった。殺人請負。元恋人は殺し屋になっていた。そうして自分は、いま、夫の殺人を依頼した。家に帰ると、夫は、珍しく酔っていなかった。Nが玄関を開けるや否や、Nのところに走り寄ってきて、Nの足元に土下座し、すまんかった、今まで、すまんかった、もう、こころを入れ替えるから、ゆるしてくれ、と泣いた。Nも泣いた。高校時代の記憶が鮮やかに蘇った。Sとともに過ごした青春の日々。Nが県外のK大学に進学したために、交際は自然消滅してしまったが、お互いに嫌いになって別れたわけではない。むかしの恋人。初恋の人。Nは、Sをゆるした。いや、はじめから、ゆるしていた。Nは、土下座する夫を抱きしめて、大丈夫、また、いっしょにがんばろうよ、と言った。

 Nは、中村との契約を、気楽に考えていた。キャンセルしよう、と思った。殺人請負だって。バカみたい。テレビじゃあるまいし。闇サイトの入力欄に、「キャンセル」とだけ書き込んだ。翌日、市役所で勤務中のNに、送信者不明のメールが届いた。「キャンセル不可」と書いてあった。Nは、あわてて、「冗談はもうやめてください!」と返信した。5分後、またメールが届いた。ファイルが添付してあった。Nが、ファイルを開くと、数年前の小さな新聞記事であった。K大学大学院のW准教授が、研究室内で首をつって自殺したことを報じるものであった。NがW准教授に捨てられて大学院を退学してから半年後のことであった。Nは、Wが死んだことを、この時はじめて知った。Wが自殺?自殺なんかじゃない。あの准教授は、自殺なんかできやしない。中村君に殺されたんだ! Nは、震えが止まらなくなった。夫に電話した。電話に出て。早く出て! 電話から、泥酔した夫の声が聞こえてきた。何だ、何の用だ?このクソ女!おれを監視してるつもりか!酒飲んじゃ悪いのか!ふざけんな!と叫んでいた。Nは電話を切ると、泣きそうになるのをこらえて、市民課のカウンターを飛び出し、家に走った。玄関を開けると、夫のいびきが聞こえてきた。Nは、家に駆け上がると、夫の寝顔を抱きしめて泣いた。すると、背後で、「あいかわらず、君は、ほんとうのことが、わかっていない」と声がした。Nが振り返ると、中村が無表情で立っていた。Nは、泣きながら、もう、ゆるしてください!と叫んだ。いや、叫んだつもりだったが、声にはならなかった。「お、お、お」という、けものの鳴き声のような嗚咽が、のどから吐き出されただけであった。中村は、Nの目を見つめていた。少し、笑ったようにも見えた。そのまま中村はNに背を向けると、家を出て行った。Nは、よろめきながら中村を追った。中村は、車に乗って去るところであった。Nは、車の特徴とナンバーを覚えた。そうして、震える手で、警察に電話した。

 県警の緊急配備がとられた。中村の逃走車は検問を突破して逃走するも県警のヘリに捕捉され、パトカー10台に追跡されて、T市郊外のK川の堤防際に追い詰められた。元陸上自衛隊特殊部隊員。戦闘戦技に熟達。という中村の人定情報にもとづいて、拳銃を構えた20名以上の警察官が、中村の車を遠巻きに包囲した。夕闇が濃い。増援の機動隊員40名が現場に到着し、投光器が設置され、車が照らし出された。窓ガラスの中に、シートに座る中村の影が見えた。このまま夜になれば不測の事態も起こりかねない。もはや強行突入しかない、と捜査本部が焦り始めたその時、車内で閃光が走ると同時に発砲音がした。機動隊員が一斉に突入して逃走車の窓ガラスをたたき割り、中村を引きずり出した。中村は、自らのこめかみを拳銃で撃ち抜いていた。投光器の光に照らされた中村の顔は、血にまみれ、真っ黒に光って見えた。       (了)

極東浪漫座論

 

                 一

 九州A県の地方紙の社会面の片隅に、その傷害致死事件の記事は掲載された。事件について、その経緯を知っている地元の住民から見れば、記事の扱いは不当なほど小さなものだった。そうして、その事件に関する記事は、翌日には紙面から消え去っていた。

 事件は、昭和二十七年冬、A県S町で起こった。S町在住の地元建設業者である中村勘一(仮名・当時三十一歳)が、同町在住の小学校教諭である矢垣一郎(仮名・当時三十歳)により、胸部を刃物で刺されて死亡した。警察に自首した矢垣は、傷害致死罪で起訴されたが、拘留中に拘置所内で急死した。矢垣の死により、公訴棄却の決定がなされ、本件事案は、その解明の機会を永久に失った。

 そうして、既に半世紀が過ぎた。事件について記憶する者は絶えようとしている。

 平成十三年の初夏、私(土師)は、S町の駅前商店街の一角の喫茶店において、取材ノートを読み返していた。取材ノートには、昭和二十七年冬に起こった当該事件に関するインタビューのメモが記されている。インタビューの相手は、同町在住の黒木修一氏(仮名・取材時七十九歳)である。黒木氏は、S町教育委員会の嘱託で、同町にある県指定史跡であるS町古墳群内の第三号墳の管理人をしている。第三号墳というのは、九州島内でも最大級の規模を有する前方後円墳で、この第三号墳に関する資料収集が、私がこの町を訪れた本来の目的であった。それまで私は、そんな半世紀も昔の傷害致死事件のことなど、知るはずもなかったのである。

 A県教育委員会とS町教育委員会とによる第三号墳共同発掘調査計画が発表されたのは、平成十三年春のことであった。この当時、私は、都内の小さな郷土史会に参加していたのだが、その郷土史会の会報のニュース欄に、この第三号墳発掘計画の記事を見つけた時には、ほとんど息をするのも忘れるくらいに驚いた。というのも、この第三号墳というのは、地元において古来より、木花開耶姫コノハナサクヤヒメ)、すなわち天孫瓊瓊杵尊ニニギノミコト)妃の御陵であるという伝承がなされている古墳で、同古墳のすぐそばにある旧郷社(創建は少なくとも千年以上遡及できる)を中心として住民の崇敬の念篤く、奇跡的に未盗掘・未発掘、そういうわけで明治期に宮内省から陵墓参考地として指定を受けていてもおかしくないくらいの由緒のある古墳なのだが、どういう手続きの不備か、結局、陵墓参考地指定を受けることなく、いわば「在野の御陵」として今日に至ったものであり、しかしそのおかげで、その発掘調査については宮内庁の許可を得る必要などなく、県の教育委員会の裁量次第で可能という、古代史愛好者にとってはまさに垂涎の古墳だったのである。

 その第三号墳の発掘調査が、いよいよ開始されたというので、私は、今まで取ったこともない長期の有給休暇を断固たる決意で申請した。不審げな顔で申請書を受け取った女事務員は、大げさに驚いてみせて、あらまあ、こんな時期に有給ですって、いいご身分ねえ、と実に憎らしい嫌みを投げて寄こしたが、ここが我慢のしどころで怒ってはいけない。ひたすら笑みをたたえてペコペコ頭を下げ、あれ、ちょっとお痩せになったんじゃないですか、などとつまらぬお世辞もいくつか織り交ぜてようやく受理してもらった。べつに、この女事務員から給料をもらっているわけでなし、ペコペコする必要などまったくないのだが、そんな一文の得にもならぬ正論を主張している暇はない。有給休暇を奪取した私は、カメラと取材ノートをバッグに放り込むと、あたふたと九州行きの飛行機に飛び乗った。私が現場に行ったからといって、発掘調査がどうなるというわけでもないのだが、ひょっとしたら発掘の臨時作業員として現地採用してもらえる幸運に恵まれるかも知れないし、そうでなくても、皇室御陵の発掘現場を直接目にできる機会などは、まさに千載一遇、そうそう滅多にあることではない。いや、生涯、二度とはないだろう。仕事どころではない。行かねばならぬ。

 第三号墳丘陵上では、すでに掘開作業が開始されていた。当然ながら、立入禁止である。総延長八百メートル以上に及ぶ墳丘外周に沿って鉄杭が打ち込まれ、これにロープが張り巡らされ、さらには、ヘルメットに制服で身を固めた屈強な警備員たちが油断なく巡回しているという有様で、私のような部外者が、しかも素人の古代史愛好者ごときが気安く作業現場を見物できるような状況ではなかった。周辺では、私同様に閉め出された不幸なる同好の諸氏が、うらめしげな視線を警備員に投げつけつつ辺りを徘徊していた。しかし、はるばる東京から、有給まで取って、折角ここまで来たのである。ロープの周りをカメラ片手にぐるぐる歩き回っているだけでは仕方がない。私は、我々傍観者に対して実に愛想の悪い警備員の一人が眼前を通過して去っていくのを、いかにもさりげない風を装って見送ると、敢然として身を翻し、第三号墳に隣接する「第四号墳」(被葬者不明。第三号墳の陪塚であるとの説も有力)の柵を乗り越え、藪をかき分け、茂みに足をとられながら、大汗をかいて、「第四号墳」の墳丘上に登った。言うまでもなく、違法行為である。そうして、その墳丘上に繁茂する雑木の枝を力任せにみしみしと押し広げ、やっとの思いで、第三号墳の後円部墳頂が掘開されていく様子を望見することを得た。第三号墳後円部の上部の雑木は伐採されて丸坊主になっており、その墳頂表土が縦横に切り裂かれ、はぎ取られ、黒土の封土がえぐられている。その光景は、横たわる巨大な古代生物の頭頂部が解剖されていく姿を連想させた。

 と、その時であった。

「おい、あんた。」

と、しわがれた声が背後で聞こえた。私は凍りついた。おどおどと振り返ると、地元の農夫然とした小柄な老人が一人立っている。老人は、厳しい口調で、

「勝手に入っちゃいかんど。この山は古墳やど。県の史跡や。」

と私を叱った。私はあわてて、

「はあ、すいません。向こうの現場を見たくてですね。」

「現場? ああ、三号の発掘か。」

「はあ。」

「発掘現場なんぞ見て、どうするんや。」

「いえ、その、どうもしないんですけど、その、発掘調査に興味がありまして。」

「何や。学者さんか。」

「いえ。学者じゃありません。歴史は好きですけど。」

「好きなら学者や。大学の先生だけが学者やないがな。まあいい。大目に見とこう。しかしまあ、あんな発掘なんぞ見とっても、何もありゃせんよ。」

「は?」

「あんな所をほじくり返しても、何も出て来やせんということよ。」

「出て来ないって、どうして分かるんです?」

「おれは、三号の番人を五十年やっとるんや。三号のことなら、たいていのことは知っとるよ。」

と、私に語る、この老人が、S町教育委員会嘱託第三号墳管理人、黒木修一氏であった。

                 二

 第三号墳のことを教えてほしい、という私の申し出をしぶしぶ承諾してくれた黒木氏は、私を第三号墳管理センターへと案内してくれた。

 第三号墳管理センター、と言うと何だか随分仰々しいが、実際は、十坪程の小さな木造家屋を改修した管理人詰所のことで、第三号墳に隣接する旧郷社・S神社の神域内にある。第三号墳は、古来、このS神社が中心となって、その保存顕彰に努めてきた。現在も、例年行事の一つとして「御陵祭」なる神事が執り行われている。第三号墳は、昭和十五年に県から史跡指定を受けた。これにより、本来ならば、県が、S町と共同で同古墳を管理するべきであったところ、その後の戦争の激化と敗戦の混乱とが障害となって具体的な管理施策が何らなされず、結局その後十年以上にわたり、第三号墳の管理は、その費用を含め、従前通り旧郷社と、その氏子組織であるS神社奉賛会による自発的献身によって維持されてきた。黒木氏の勤める同古墳管理センターが、今なお、旧郷社敷地内にあるのは、その名残である。そしてまた、そういう経緯が、県やS町の教育委員会の施策に対する旧郷社及び同神社奉賛会の発言力を増し、第三号墳の発掘調査を今まで先延ばししてきた要因の一つともなった。昭和二十七年夏、県教育委員会が、第三号墳発掘調査について初めて提案した際には、旧郷社奉賛会を中心とする反対派(発掘調査は神域を汚すと主張)と、ようやく戦後復興の兆しを見せ始めたS町商工業組合を中心とする賛成派(史跡公園指定のためにも発掘調査して学問的解明をすべきと主張)とで地元住民が対立し、地元町議会においても意見が割れ、結局、発掘調査の無期限延期が決定した。この騒ぎの責任をとる形で、当時のS町教育長は辞職している。それ以来、第三号墳発掘調査は、A県及びS町の教育委員会において将来的に解決すべき課題の一つとして今日まで持ち越されてきた、というよりむしろ、その話題に触れることは避けられてきた。

 その第三号墳が、今になって、K大学考古学研究室の申請に応じる形で何の混乱もなくあっさりと発掘調査されるに至ったことについて、黒木氏は、

「当時の連中は、もうみんなあの世に行ってしもうたからねえ。今更、反対も賛成もないわな。」

と言って苦笑した。

 第三号墳管理センターの建物は、元々、S神社奉賛会による第三号墳の番人のための詰所であった。この番人は、「御陵番」と称され、若い氏子たちの当番制の奉仕活動であったが、現在は、S町教育委員会嘱託管理人である黒木氏が一人でその役を果たしている。今のところ黒木氏の後継者はいないという。ちなみに、第三号墳は、昭和十五年に史跡指定を受けるまでは、「御陵」と称していたが、史跡指定後は、「三号」という代名詞で通用するようになった。黒木氏も若かりし頃は、この御陵を守る御陵番の一人であった。

 御陵番は、二人一組で行われた。御陵番の当番日になったならば(これを「御陵上番」という)、当日早朝、日の出と同時に「御陵番所」(現・管理センター)に出頭し、同番所に備えてあるゲートルで足回りを固め、鉢巻きをして、六尺の樫棒を携え、実にものものしい格好になって、郷社拝殿前で神主に対し御陵上番を申告、その後「二夜二日」にわたって(「二泊二日」とは言わない。なぜなら二日間とも徹夜であり、「泊まる」わけではないからだという)、御陵番として勤務することになる。昼間は、神域の草取りなど雑用をする以外は番所で仮眠をとる。そうして、日没後から翌朝日の出迄の間、二人一組となり、六尺棒を片手に御陵(第三号墳)の内外を不眠不休でくまなく巡察して、盗掘や不敬行為の防止・摘発に努めるのである。無事に丸二日間の勤めを果たすと、再び神主に御陵番の終了(これを「御陵下番」という)を申告して、六尺棒などの備品を次の御陵番に申し送り、帰宅する。このような御陵番の制度がいつ頃確立したのか不明だが、その軍隊類似の規律から見て恐らく明治中期あたりであろう。が、そういういかにも窮屈な制度化がなされる遙か以前から、S神社氏子有志による自発的な御陵守護は脈々と継承されてきたのであり、その起源は少なくとも十世紀以前にまで遡及できる。その中でも、中世期の氏子たちはなかなか勇ましかったようで、近隣の農村で発生した一揆の暴徒や、野盗、無頼漢連中がS部落に侵入を図ろうものなら、氏子一同、各々父祖伝来の、あるいは何処かの戦さ場で拾ってきたような武具を引っぱり出し、神主を臨時の盟主に戴いて一種の自警団を組織し、神域を汚さんとする侵略者を断じて寄せ付けなかったという。戦国期には精強無比を誇る島津軍の侵入をも阻止したという記録さえある。たまたま部落に迷い込んだ島津の小部隊を追っ払った程度であったらしいが、それにしても戦国大名の軍兵にさえ刃向かったというのだから威勢がいい。徳川幕藩体制が布かれてからは、S部落は天領に組み入れられ、大名藩政下の農村に比べれば公租も比較的軽く(代官支配下のほぼ全期を通じて、S部落は三公七民が守られている)、幸いにして苛斂の苦しみは免れたようだが、もともとが自力で戦国期を生き抜いてきただけに独立心の強い部落であり、徳川幕府に対する恐れも愛着もさらさらなかったらしく、幕府瓦解に際しては代官所を包囲して代官以下の幕吏を追放している。さらに西南の役に際しては、太政官政府を打倒すべく、少なからぬ人数の若者が薩軍の軍夫徴募に応じている。が、しばらくすると、今度は、薩軍の横暴ぶりが気に入らぬとして皆帰郷してしまった。要するに、この部落の人たちは、とにかく偉そうな支配者が気に入らなかったらしい。但し、この薩軍従軍だけは、部落に予想外の結果をもたらした。黒木氏によれば、この薩軍従軍が原因で、第三号墳が宮内省の陵墓参考地指定を受けられなかったというのである。あるいはそうかも知れない。が、そのことが人々を落胆させたわけではない。第一、当時の部落民のほとんどが、陵墓参考地などという制度があることさえ知らなかったであろう。千年来の崇敬心を有する氏子たちにとって、陵墓参考地指定などはどうでもいい、むしろ余計なお荷物だ、と黒木氏が言った。

 そういうS神社氏子たちであったから、その結束は固く、また自尊心も高く、戦前のS町(昭和三年町制施行)においては政治力も大いに発揮し、初代S町町長には当時の奉賛会会長が選出されていることから見ても、その勢力の程が伺われる。が、大正中期に開通した国鉄S駅前に徐々に発展してきた商業地区がようやく町らしくなってきた昭和十年頃から、S町町政において、駅前新興商業主を中心としたS町商工業組合の発言力の方が、S神社奉賛会のそれを上回るようになったらしい。無論そこには議会工作のための相当の金が動いたのであろうが、昭和十一年の町長選では、商工業組合の支援する候補が、奉賛会出身の現職町長を破り新町長に選出されている。第三号墳を含むS町古墳群の県史跡指定を運動したのは、この商工業組合を中心とする商工派勢力である。商工派としては、昭和十五年の紀元二千六百年を記念して史跡指定を受け、県民愛国精神の発揚を図るなどと理由付けしたが、それは表向きの理由で、実際の所は、史跡指定に伴う整備事業予算を狙ったものであったと言われる。が、奉賛会としても、表向きの理由が愛国精神の発揚である以上は反対もできなかったようである。これにより、昭和十五年、A県指定史跡S町古墳群が誕生した。

 その後、同古墳群史跡管理に対し、県も町も無策であったことは既に触れた通りで、史跡指定後も、第三号墳の管理保全は、従来どおり御陵番によって維持された。奉賛会としても、県・町の無策のおかげで、御陵を役人や学者連中に無闇にいじくり回されることなく済んだわけで、御陵番の負担は決して不満ではない。そうして、その一方では、御陵番の実績を以て、町政に対する発言力回復を図った。特に、戦時下の物資の窮乏、徴兵による若年層の減少という悪条件下にあって、ただの一日も御陵番を中断したことがなかったという功績は大きかった。あるいはまた、御神宝接収要求事件という珍事件もあった。これは、敗戦後、進駐軍の米軍将校が、軍用ジープで郷社に乗り付け、御神体である鏡の接収を命じたという事件で、接収と言っても、どうやらその米軍将校が個人的に欲しかったらしい。土産にでもするつもりだったか、あるいは骨董品として売り払うつもりだったのか、その辺は不明だが、とにかく横柄な大男で、敗戦国の物はすべておれたちのものだといわんばかりの馬鹿であったらしい。神主は穏やかな人で、取次ぎの者から話を聞くと、「くれてやればよい。」と、つまらなそうに言ったというが、騒ぎを聞きつけた当時の奉賛会会長が憤激し、懐中に短刀を忍ばせつつ羽織袴で郷社に駆け付け、傲然と構える将校を相手に、たどたどしい英語を交えつつ、その理不尽を懸命に説きに説き、しまいにはやけくそで、

「いい加減にせんと、斬っど。アメ公。」

と殺気立って凄んだ。これには米軍将校もさすがに面倒になったのか、遂に断念して帰ってしまった。そういう事件である。この事件で、奉賛会会長は、たちまち男をあげた。こんな武勇伝なども付加されて、少なくとも第三号墳に関わる施策については、奉賛会の同意を得べしとする明治以来の不文律が再確認された。

 が、昭和二十七年夏、その不文律が破られた。A県及びS町の教育委員会が共同で、奉賛会に何ら諮ることなく第三号墳発掘調査計画を発表、K大学考古学研究室に調査を委託した。もっとも、発掘調査を奉賛会に諮ったところで猛烈に反対されるに決まっていたから、そもそも発掘調査をやろうとすること自体が、奉賛会の意向を無視することを前提としていた。その背景には、発掘調査により第三号墳が皇室御陵であることの学術的裏付けを得て国レベルの史跡公園建設を誘致し、さらには、卑弥呼陵の可能性もありなどと大々的に商業宣伝して観光事業化したいとするS町商工業組合の運動と、これに同調するA県土建業組合、同観光業組合等による後押しがあった。無論、それ相当の金が動いたらしい。当然ながら、発掘調査を実施した場合、第三号墳は皇室御陵ではないと結論されることもあり得る。が、もしそうなったとしても、商工業組合にとっては痛くもかゆくもない。

 一方、奉賛会にとっては、発掘調査など寝耳に水の、とんでもない話で、御陵を掘り返すなど不敬を通り越して逆賊行為であるとして即座に緊急総会を開催し、発掘調査反対を全会一致で決議すると、奉賛会役員一同連判状に署名し、発掘調査断固粉砕を誓った。氏子有志がS町中をくまなく戸別訪問して集めた反対署名は二千筆に達した。これは、当時のS町人口の一割に相当するが、署名は戸主のものであり、その家族を含めればS町人口の半数にも及んだであろう。奉賛会会長はS町役場に乗り込んで、集めた署名を提出し発掘調査計画の撤回を求めたが、町長・教育長ともに、計画は県の方針だと逃げ回って埒があかなかった。

 奉賛会会長以下役員が県教育委員会との直接交渉を検討している一方で、血気盛んな若い御陵番たちの間では実力行使も辞さずとする強硬論が支配的になった。その中心となったのが「第三倶楽部」と称する組織で、第三倶楽部は商工業組合役員に対する天誅を画策している、などという不穏な噂がまことしやかに流布した。

 「その第三倶楽部の代表が、矢垣でな、敗戦になった後、南方から帰って来て、S小の先生をやっとった。師範(旧・A師範学校、現・国立A大学教育学部)を首席で出たっちゅう秀才でな、見た目はえらいおとなしい男じゃったが、芯の強情な奴じゃったな。」

と、黒木氏は、懐かしそうに言った。

「『第三倶楽部』というのは、その矢垣さんが付けた名前ですか?」

「そうそう。まあ、第三ちゅうのは第三号墳のことじゃろうがね、なかなかいい名前じゃろう、と矢垣が自慢しとったなあ。」

「黒木さんも、第三倶楽部に?」

「いやいや。誘われたけどね。おれは町役場に勤めとったから、そういうことに係わるわけにはいかん。」

「町役場にいらしたんですか。」

「うん。でも、矢垣の事件の後、役人をやめて、ここの管理人になった。発掘賛成派と反対派の騒ぎには、K大学の先生方もいい加減、嫌になったらしくてな、調査を中止して帰ってしもうた。発掘調査は頓挫じゃ。そのかわり、御陵番も廃止になった。危険集団じゃということでな。御陵番の矢垣が、商工業組合の中村を刺し殺したんじゃから当然じゃろう。奉賛会も反対はできん。で、御陵番の代わりに嘱託管理人が作られたんや。その初代がおれで、それからずっと、おれがやっとる。」

「その刺された中村さんという方はどういう人だったんです?」

「中村も矢垣も、おれも、同じ尋常(S町第四尋常小)に通ってたんや。子供の時から、よう知っとる仲やったんじゃ。まあ、でも、矢垣と中村は、昔からやたらと仲が悪かったなあ。中村は、おやじが土建屋でな、えらい金持ちやったな。勉強もようできて、K大まで行った。インテリや。土木の研究しとったそうで、戦争の時は技師をやって、戦地で橋やら道路やら設計しとったらしい。まあ、矢垣とは正反対じゃな。矢垣は親父を早くに亡くしてな、勉強は中村に負けんくらいできたんやが、家に金がないから金のいらん師範に行った。師範でも一番とるくらいできる奴やったのに、戦争じゃ二等兵で出征して、それも南方に送られて、それで九死に一生を得て帰ってきた。」

 

                 三

 矢垣一郎(終戦時、陸軍上等兵)は、日本の無条件降伏に伴い、ビルマの首府ラングーンにおいて武装解除を受けて俘虜収容所に収容され、昭和二十年冬、復員船で帰還後、小学校教諭に復職した。A師範を主席で卒業し、小学校教師を勤める傍ら自学研鑽に勉めてきた矢垣であったから、知識も豊富で、会合や酒席でも話題を主導して座の中心となり、いつのまにか若い御陵番たちの兄貴株のような格好になった。第三倶楽部は、当初、そういう若い御陵番たちの親睦会のようなものであった。

「矢垣よ。何か、良い名前つけてくれんか。」

「何の名前じゃ。」

「うちらの名前じゃ。うちら御陵番有志の名前じゃ。ひとつ、そのインテリの頭で考えてくれ。」

「よし。わかった。そうじゃな、三号を守護するのじゃからな、第三倶楽部というのはどうじゃ。」

「第三倶楽部? 何となく軟弱じゃなあ。」

「何を言うとるか。簡潔明瞭、かつ近代的の名前じゃ。我ながら気に入った。どうじゃ。第三倶楽部で行こうやないか。」

といった程度のやり取りが、第三倶楽部結成の経緯であって、元々は何の目的もない酒席の座興に過ぎないのである。が、第三号墳発掘調査をめぐる問題が紛糾するにつれて、第三倶楽部は暴力的秘密結社だ、という誇張された噂が一人歩きした。噂を聞きつけた奉賛会会長は、矢垣ら第三倶楽部の主だった者を自邸に呼びつけ、

「今がどういう時か分かっとるんか! わしらが細心の注意を払って県の説得工作を検討しとる最中やというのに、何が秘密結社じゃ。思慮の足りんことをすんな!」

などと頭ごなしに叱りつけた。なにせ、この会長は、例の御神宝接収要求事件で「アメ公」を追っ払ったというだけあって、気が短くて威勢がいい。矢垣たちも、この老会長のそういうところが好きであったが、それだけに、その会長自身の口から、そういう常識的な慎重論が出ることが意外であり、腹立たしくもあった。矢垣は、何ら弁解することなく黙って会長の小言を聞いていたが、会長の叱責が一段落つくと、

「会長さんは、県に工作すると言いなさるけど、その県こそが、今回の発掘の黒幕やないですか。連中は、史跡公園の補助金が欲しいんや。国の補助金と、田舎の氏子の陳情と、県がどっちをとるかくらい、その辺の小学生だって分かるんと違いますか?」

と静かに言ってのけた。言ってしまったものは仕方ない。

「何やと? おまえ、何を偉そうに理屈こねとるんや。誰に向かって話しとるんや! おまえら若僧の出る幕やないんや!」

会長の激昂した罵声に、矢垣も感情の抑制を捨てた。矢垣は正座していた足を崩してあぐらをかき、

「会長! 腰が抜けたか。アメ公を追っ払った時の根性はもうないとか!」

「なにい!」

「アメ公は、鏡を一枚よこせというただけじゃ。じゃけど、県は、御陵を根こそぎ暴くっちゅうとるんやど。アメ公の方が、よっぽどかわいいわい。アメ公には刃向かっても、お上には逆らえんちゅうわけか。」

「こんガキ。図に乗って。」

「せからしか(やかましい)! さっきからガキじゃの若僧じゃのと。あんたらこそ能無しのくそじじいじゃ。」

「な、なんじゃと!」

「何や、文句あるか!」

 もはや取り返しはつかなかった。会長は、説得を諦めると、

「もういい! 出て行け!」

と絶叫した。

 会長の自邸からの帰途、矢垣は、むしろ、さばさばした様子を示し、この時同行していた第三倶楽部同志たちに、

「ああ、いい気分じゃなあ。さっぱりした。」

と言って笑った。

 矢垣の奉賛会執行部批判は、若い御陵番たちに「壮挙」として好意的に受け入れられ、これ以降、第三倶楽部には、強硬派を自認する若者たちが次々に集まり、昭和二十七年秋までには百名を越える勢力となった。その中心的役割を果たしたのは旧陸軍復員兵たちで、矢垣を代表者として、全員を十個の班に分け、各班に班長以下約十名の班員を割り当てた。班長は全て、旧陸軍復員兵を充てた。武器こそ持たないが、ほとんど軍隊組織であった。第三倶楽部の代表者として、その指揮を任された矢垣は、奉賛会の方針とは関わりなく独自に第三号墳発掘調査阻止行動を遂行する旨を奉賛会執行部に通告した。独自の行動とは、すなわち、実力行使を意味する。矢垣は、従来二名の輪番であった御陵番の態勢を増強し、これを十名一個班による日直制に改めると、昼夜の別なく、隊列を組んでの巡察を実施させて、発掘調査に対する示威とした。この頃、既に、K大学考古学研究室の先発隊一行が、第三号墳の予備的な調査のために現地入りし、墳丘の測量準備を始めていた。矢垣は、調査団が一歩でも御陵に入ったならば、実力を以てこれを「排除」せよと指令していたが、六尺棒を携えて隊列を組んだ異様な集団の巡察には、調査団も恐怖心を抱かざるを得ず、作業を中途で打ち切ることもしばしばで、矢垣らは、これを曲学撃退などと称しては気勢を挙げた。

 が、一方では、この矢垣らの嫌がらせ的な行為に対して、S町商工業組合を中心とする発掘調査推進派による猛烈な抗議が奉賛会になされていた。その先頭に立ったのが、S町商工業組合理事・中村建設代表取締役社長の中村勘一であった。

 中村は、昭和二十年冬、満州から引き揚げて来た。K大工科を卒業後、陸軍の設計技師(士官待遇)として関東軍と行動を共にした中村は、ソ連軍の満州侵入に伴い南下、危うい所で抑留をまぬがれて、朝鮮半島を経て帰国することを得た。帰郷して間もなく家業を継ぐと、空襲で焼け野原となった県都A市の復興需要を機敏に捉えて莫大な利益を獲得し、S町のみならず、A県内においても有数の建設業者となった。中小の下請けを強引に斬り従えて、擁する人夫は数百名に達し、相当の金を県・町議員から県庁・町役場の役人に至るまでばらまいているという噂が半ば公然の秘密としてささやかれた。もっとも、中村が、こうした利益至上主義的傾向に没頭するなどということは、戦前の彼を知る者にとっては、およそ予想し得ないことであった。中村は、家業の土建業が好きでなかった、いや、そもそも商売というものが嫌いであった。中村がK大工科に進学したのも、家業の土建屋を継ぐためではなく、学者か役人になるためであった。その中村が、満州から命からがら逃げ帰って来てからは、まるで別人のように利益に執着するようになった。家業にも熱心で、愛想笑いを絶やすことなく、得意先を開拓し、将来需要の見通しに励み、またその一方で、利権に関わる議員や役人には念入りに取り入った。かつての「勘一お坊ちゃん」の姿からは、到底想像できない変貌ぶりであった。

「坊ちゃん、軍隊で、えらい鍛えられたのと違いますか?」

と、先々代の頃から勤める大番頭(専務取締役)が戯れに聞いたことがあった。これに対し、中村は、真面目な顔で、

「おれはなあ、満州で、ソ連軍を見たんや。ありゃ、鋼鉄の洪水や。大平原いっぱいに戦車があふれかえってるんや。たまげた。あんなもん相手に、神州不滅だの八紘一宇だのと言うていきがってたかと思うとおかしゅうて笑いもならんわ。負けて当たり前じゃ。今からの世の中、要は工業力や。経済やな。経済ゆうたら、つまりは金やないか。」

と答え、これが社長の金言として社内に周知徹底された。

 朝鮮特需の好景気の下、戦災復興に続く建設需要として中村が目を付けたのが、県指定史跡S町古墳群であった。中でも第三号墳は、「在野の御陵」として知る人ぞ知る第一級史料であり、中村は、これを中心にしてS町古墳群を史跡公園として整備することを狙った。もっとも、その前提には、第三号墳を発掘調査して何が何でも物証を挙げ、皇室御陵として大々的に「売り出し」て文化財指定を受け、国の補助金をたっぷりと引き出す必要があった。そういう中村にとっては、奉賛会や、あるいは矢垣たち御陵番の発掘調査反対の考えが、さっぱり理解できなかった。というよりも、許せなかった。中村の目から見れば、奉賛会や御陵番などは頑迷に旧習に拘泥するのみで、古代皇族の御陵かも知れないという宝石箱のような第三号墳の価値を全く理解せず、徒らに外界から隔離・遮断して朽ちるにまかせている無能の徒であった。中村は、自分の加盟する県土建業組合や観光業組合の支持を取り付けると、屈強の男どもを引き連れて足繁くS町役場を訪れては、発掘調査を断行するようS町教育長を口説いた、いや、それは、ほとんど恫喝に近いもので、

「教育長! 三号は、県の史跡や。奉賛会のもんやない。あんたも知ってのとおり、その県が、S町が承知なら発掘しても構わんというとるんや。」

「しかしなあ、中村さん。奉賛会は絶対承知せんじゃろうが。なんぼ三号が県の史跡やというても、S神社氏子は、千年、あの古墳を守ってきたんや。それを無視して発掘はできんど。」

「奉賛会の連中が三号を守ってきた? 馬鹿馬鹿しい! 要するに、ほったらかして来ただけじゃろうが。今のままじゃ、三号は、学問的な裏付けも何もないまま、ただの土まんじゅうとして世間から忘れられるぞ。伝説なんかじゃ、世間は相手にせんのじゃ。必要なのは証拠や。三種の神器みたいなお宝を一つでも見つけてみれ。正真正銘の御陵やいうて、日本中で大評判や。何百万の観光客が三号を拝みに押しかけて来るど。」

「証拠が出らんかったらどうなるね?」

「証拠が出らんかったら? そんときは、あんた、三号はただの土まんじゅうでした、ちゅうだけのことじゃがな。土まんじゅうを千年も拝んできた奉賛会の連中も、いい笑いもんになって、やっと目が覚めることじゃろうよ。」

「うんにゃ、中村さん、それは違うど。たとえ土まんじゅうと分かっても、奉賛会の連中は、三号を千年でも二千年でも命がけで守っていく。奉賛会にとっちゃ、証拠なんかは関係ないんや。それが分かっとるからこそ、三号はそっとしておいた方がええと思うんや。あんただって、そんなことぐらい分かっとるじゃろうが。」

「教育長! わたしはね、あんたと議論しに来たんやない! 回答をもらいに来てるんや。発掘するのか、せんのか! あんたが決心せんのやったら、県に動いてもらわないかん。そん時は、町長さんにも、えらい迷惑かけることになりますが、それでもええのですか?」

と言ったやりとりが、教育委員会事務室のドア越しに聞こえて来るのを、当時役場に勤務していた黒木氏もしばしば耳にした。

 役場を訪れた中村は、その帰り際には決まって黒木氏の机に立ち寄り、

「よう。黒木。元気でやっとるね? 騒がしてすまんな。」

などと声をかけては陽気に笑って見せた。

 中村の度重なる説得に、とうとうS町教育長も根負けした。昭和二十七年の夏、S町教育委員会は、県教育委員会と共同で、第三号墳発掘調査計画を立案、発表した。このS町教育長は、その後の奉賛会とS町商工業組合との紛争の責任をとらされ、詰め腹を切らされる形で辞職している。教育長が役場を去るにあたって、部下の事務局員らに言い残した言葉は、

「三号は、いじっちゃならん。」

であった。結局、この言葉は、この後、実に半世紀の間守られたわけである。

 昭和二十七年の秋も深まるにつれ、矢垣を代表とする発掘反対派と中村を中心とする発掘推進派との対立はいよいよ先鋭化した。奉賛会執行部と喧嘩別れした矢垣は、第三倶楽部の代表として発掘調査反対の急先鋒となり、調査団先発隊の準備作業に対し示威行動を繰り返した。一方の中村は、矢垣らの作業妨害行為にいよいよ業を煮やし、配下の人夫たちを動員して調査団の作業を護衛させた。一触即発と言ってよかった。

 黒木氏は、

「元々、あの二人は、子供の時から仲が悪かったんや。おれは、いつもいつも、あの二人の間に挟まれて、苦労したもんじゃわ。」

と言って苦笑した。黒木氏は、矢垣、中村という、この町始まって以来と言われた二人の秀才の共通の友人であった。矢垣も中村も、二人だけでは話もしない仲であったが、互いに強く意識していたらしく、その間に黒木氏を介在させることで相手の動静を知ろうとした。

 幼くして父を亡くした矢垣は、尋常小学校入学後、抜群の記憶力と理解力を示し、教科書をすらすらと暗誦したのみならず、帳面に一字も書き写すことなく黒板に板書された白墨の記述を丸暗記していたという伝説が生まれたほどの秀才であったが、ただ一度だけ、担任訓導を困らせたことがあった。矢垣が五年生の夏、担任訓導が矢垣に対して、特に他意なく、

「お父さんがいなくて、さみしくないか。」

と問うたことがあった。これに対する矢垣の返答が、担任訓導をして驚かしめたのであった。矢垣は、

「さみしくないです。お父さんはおります。」

と答えた。

「お父さんがいる?」

「はい。僕のお父さんは天皇陛下です。」

「なんじゃと? 天皇陛下が、おまえのお父さんじゃと?」

「はい。僕は、天皇陛下を僕のお父さんじゃと思っています。だから、全然さみしくありません。世界一のお父さんです。」

訓導は、穏当でないと判断し、これを善導すべく、

「まて。矢垣。おまえの気持ちは分かるがの。天皇陛下をお父さんじゃと言うのはあんまり恐れ多いやないか。」

などと、あれこれ説得してみたが、矢垣は納得しなかった、のみならず、

「臣民は、みんな、天皇陛下の赤子というやないですか。」

などと反駁する始末で、訓導も匙を投げたという。

 中村もまた、秀才として矢垣と双璧をなしたが、それは、矢垣の天賦とも言える明晰さと好対照に、全く刻苦勉励の修練によって成し遂げたものであった。中学校進学後も、堅忍不抜の受験勉強を継続し、果たして、周囲の期待を裏切ることなくK大に進み、S町出身者初の学士号取得者となった。中村の両親は、この勤勉な息子の向学心に応えるべく豊かな資産をたっぷりと投じて、その勉学環境の整備に努めるとともに、いささかも息子の怠惰を許すことなく過酷なまでに研鑽を強いた。が、そういう研鑽の毎日が、果たして中村少年の望んだことであったかどうか、いや、確かに中村の望んだことではあったのだが、しかし、中学に進学してしばらくした頃、中村は、

「おらあ、本当は、中学なんぞ行きたくなかったんや。」

と黒木氏にもらしたことがある。

「なんで? 大学行くんなら中学行かんといかんがな。」

「大学も行きたくはないんや。」

「そんな、もったいないど。末は博士か大臣か、ちゅうほどの秀才が。」

「うんにゃ。おら、好きで勉強しとるわけやないんや。」

「じゃ、なんで、そんなに勉強するんや。」

という黒木氏の問いに、中村は答えることなく、ただ寂しげに微笑したという。

「中村はな、多分、褒めてほしかったんや。」

と、黒木氏は言った。

「褒めてほしい?」

「うん。勉強で一番とって、よくやったって親に褒めてほしかったんや。ただそれだけのために、必死で勉強したんやと思う。社長になって、あんなに必死になって頑張ったのも、会社を県で一番にして、県知事にでも褒めてもらいたかったんやろう。」

「親の次は県知事。するとその次は、総理大臣ですか。」

「きりがないわな。誰でもみんな、自分が一生懸命にやったことを誰かに褒めてほしいという気持ちは持っとるじゃろ。あいつは、そういう気持ちが人一倍強かったんやと思う。あいつはできるから、褒めてくれる人をすぐに追い越してしまうんじゃ。それで、もっと偉い人を探し出して褒めてもらう。その人もすぐに追い越す。また探す。それの繰り返しや。」

 

                 四

 昭和二十七年初冬、いよいよK大考古学研究室教授を団長とする「第三号墳調査団」の本隊が来県した。降雪の滅多にない温順な気候のA県とは言え、山沿いのS町ではさすがに冬は寒気が強いことから、調査団は、調査を来年春まで延期することも検討したが、できるだけ早く整備事業開始を目論む中村ら発掘推進派は早期着手を懇請、いよいよ、第三号墳墳丘そのものに対する調査が開始されることになった。

 既に奉賛会には万策尽きた感があり、むしろ矢垣ら若手御陵番たちの実力行使による発掘妨害を期待する声さえ秘かにささやかれていた。

 矢垣にも、これといって策はなかった。ただ、調査団が御陵域内に侵入すれば、これを実力で排除する、という流血覚悟の暴力闘争方針の強行があるのみであった。第三倶楽部の若手御陵番たちも、天誅などと勇ましい言葉を口にしているものの、実際に過激な暴力闘争に関わっていくことに、どれだけの覚悟を持っているか、矢垣には疑問であった。

 この時期、矢垣は、しばしば黒木氏を訪れては愚痴をこぼした。

「黒木よ。このままやと、警察沙汰の大騒ぎになる。」

「ほんなら、発掘認めるんか?」

「そら、絶対、認めん。じゃけど、そんために、若いもん、刑務所にやるわけにもいかん。血の気の多いもんたちは、中村を刺すなんぞと言うとるが、あいつら、口に出した手前、やけくそのくそ意地で、本当にやりかねん。いくら御陵を守るためじゃというても、人殺しはただの犯罪者じゃ。まして、くそ意地で殺されたんじゃ、殺される中村もたまらんじゃろ。」

「おまえが、天誅なんぞやめろ、と言えばよかろう。おまえ、第三倶楽部の親分なんじゃろが。」

「馬鹿。それができれば、とっくにそうしとる。軍隊と一緒でな、普段は普通のおとなしい奴でも、集団になれば人が変わるんや。じゃから、おれは、集団ちゅうもんが嫌いなんや。おれはな、本当言うと、いつのまにか第三倶楽部なんぞの代表にさせられて、えらい迷惑しとるんや。おれは、一人で、御陵を守りたいんや。」

「一人で? どうやって?」

「まあ、考えがあるんや。とにかく、おれは、第三倶楽部の馬鹿どもにつきあわされるのが、もう嫌なんじゃ。」

 一方の中村も、この時期、黒木氏をしばしば訪ねている。いよいよ発掘調査が本格化するということで、業界に整備事業に対する期待が高まる反面、第三号墳がただの「土まんじゅう」だった場合の中村に対する批判を心配せずにはいられなかったのである。というのも、今回の発掘調査の結果が「はずれ」の場合もあるから事業計画は慎重にされたい、という中村の忠告にも関わらず、県土建業組合、同観光業組合などでは、既に来年以降の整備事業を当て込んだ事業計画を組み始めており、整備事業を前提とした設備投資を始めている気の早い業者も多かったのである。その整備事業が御破算になれば、必然的に、中村に対する批判が熾烈なものになるのは目に見えていた。業界のすべてを敵に回すことになるだろう。中村は、黒木氏の自宅を単身でこっそりと訪れては、小声で、

「なあ、黒木よ。三号は、あれは、本当に御陵なんか?」

と聞くのである。黒木氏は、

「じゃから、おれに分かるはずないて言うとるじゃろう。だいたい、おまえ、三号が土まんじゅうでも痛くもかゆくもないと言うとったやないか。」

「それが、痛くもかゆくもない、ちゅうわけにはいかんようになったんじゃ。気の早い馬鹿どもが先走りやがって、困ったことになったんや。」

「ほんなら、発掘、やめればいい。」

「馬鹿。それができれば、とっくにそうしとるわい。今更やめれんのじゃ。何がなんでも、お宝が出てきてくれんといかんのじゃ。」

「そうは言うても、おまえ、発掘してみらんと分からんやないか。」

「じゃから、おまえに聞いとるんや。おまえも、御陵番じゃろうが。三号のことは、よう知っとるじゃろうが。おまえの勘でいいんや。勘で。三号は、本物の御陵か?」

「分からんのう。だいたい、もし本物やないとしても、どうしようもないやないか。」

「本物やないなら、無理にでも本物にせんといかん。」

「どういうこっちゃな?」

「まあ、いいがな。また来る。」

などと言って、黒木氏の家の裏にこっそりと止めてある自家用車を飛ばして帰っていくのである。

 矢垣と中村とが、それぞれ、何事か企てていることは明らかであった。いよいよ明日、調査団が御陵域に立ち入るという日の夕刻、町役場を出た黒木氏はさすがに不安を抑えかねて、そのまま、S神社に向かった。御陵番の一人として、また、矢垣、中村の共通の友人として、神主に事態を説明し、指示を仰ぐつもりであった。

 黒木氏が神社の大鳥居をくぐり、夕暮れ時の寂しい参道を歩いていると、ふいに、横合いから、

「黒木御陵番」

と呼びかけられた。見ると、ひとりの巫女が微笑して立っている。

 巫女は、「神田時子」(仮名・当時十八歳)という。時子は、神主家の縁戚の娘で、まだほんの少女であった昭和二十年の敗戦間際に巫女となって社務所に詰め始めた。この美しい巫女は、たちまち若い御陵番たちにとっての憧れとなった、と同時に、近づき難い存在でもあった。一つには、神に仕える乙女であるという畏れもないわけではなかったが、それ以上に、成長するに伴ってますます輝きを増してきた、その美しさに、思わず気後れするのであった。

「ああ。時子さん。ちょうどよかった。」

黒木氏は、時子に、神主への面会を取り次いでくれるよう頼んだ。時子は、普段は笑顔しか見せたことのない黒木氏の深刻な表情に何事かを察したのか、自分まで深刻そうな顔つきになって神主に知らせに走った。

 しばらくして、時子が戻ってきた。

「拝殿でお会いする、とのことです。」

 黒木氏は、時子にともなわれて、拝殿に入った。夕闇が既に濃い。時子が燭台に灯を入れた。磨き込まれた床が、つやつやと火影に映えた。二人、並んで座り、神主を待った。つまらぬ私語などは交わさない。神前である。

 ほどなくして、神主が、やあ、と言って現れた。このS神社神主家の当主は、当時、まだ二十代という若さであった。御神宝接収要求事件の際に、鏡など米兵にくれてやればよい、と言ったのはこの人である。S神社宝物殿所蔵の史料(S神社縁起絵巻、十五世紀頃成立、A県指定重要文化財)によれば、S神社神主家の家系は、神武東征神話で知られる久米部の祖神である天久米命(アマツクメノミコト)に連なり、S神社創建以来連綿として神主職を継承してきたとされる。いわば、千年来の部落の貴人であった。少年期より御陵番として勤めてきた黒木氏にとっても、神主家は神の血統の末裔であり、畏れ多い存在であった。

 黒木氏は、神主の前で、型どおり手をついて畏まると、突然の訪問の非礼を詫び、つづいて、事態の経緯を要領よく述べた。

 黒木氏の話を聞き終わると、神主は、その女性のように高く細い声で、

「すると、矢垣君と中村さんが、何やら、ずいぶん危なかしい企てをしとるというわけですな?」

「はい。おそらくは、命がけのことやと思います。」

「黒木君。」

「はい。」

「で、君の真意は?」

「は・・・」

黒木氏が言葉に詰まっていると、神主は、ほほ、と微笑んで、

「隠さんでもいい。つまり、御陵の真偽を確かめたいというのやろう?」

「お、恐れ入りました。その通りです。」

「御陵の真偽とは、すなわち、なれのこころのまにまに、ということや。こころの持ちようで真にも偽にもなる。それは御承知やろ。」

「はあ。」

「ふふ。そんな困った顔をせんでもいい。黒木君は、御陵番に勤務して、もう何年になるのやったかな?」

「もう十五年ほどになります。」

「十五年もの間、御陵の内をくまなく歩いておれば、それと気付くこともあったじゃろうと思うが、どうや。」

と言って、神主は、静かに黒木氏をみつめた。黒木氏は、意を決したように、

「はい。」

と、返答した。

「うん。そしたら、君にまかせます。思うままやったらいい。」

「あ、有難う存じます。では、さっそくに!」

 

そう言って、黒木氏が辞去しようとすると、神主が、

「おい、時子。おまえは、黒木君のお手伝いをせい。」

と言った。時子が、無言で、うなずいた。

 この夜、神主は、ひとり、拝殿で何事かを神に祈り続けている。禰宜も巫女も拝殿内に入ることを許さなかったという。何を祈っていたのか、無論、誰も知らない。

 

                五

 黒木氏は、時子に頼んで神社の物置小屋から鍬とスコップを借り出すと、これを両手に携えて、足早に御陵に向かった。その黒木氏の後を、古めかしいランプを手にした時子が、ほとんど駆けるようにして付き従った。既に冷え切った闇が辺りを覆っている。

 もっとも、時子は、そういう黒木氏の行動が、不思議だったのだろう。白い息を吐きながら、

「あの、何をなさいますの?」

と黒木氏に尋ねた。黒木氏は、しばらく沈黙した後、

「いまから、御陵を、掘り返すんですよ。」

と言った。それきり、時子は黙ってしまった。

 森を隔てた御陵番所の方向から、かすかに男たちの声が聞こえてきた。明日の立ち入り調査を実力で阻止すべく、番所に泊まり込みで気勢を挙げているのである。矢垣も、その中にいるはずであった。

 黒木氏は時計を確認した。御陵番の巡察が来る前に、やるべきことを終えなければならない。やるべきこと、すなわち、御陵の発掘である。と言っても、黒木氏の向かう先は、調査団が重視している円墳部墳頂ではなく、方墳部の最奥部にある樹木と腐葉土に埋もれた窪地であった。一見したところでは封土が自然力に浸食されて崩壊した跡に過ぎないのだが、古参の御陵番である黒木氏は、この窪地の斜面に、崩れた石組みの一部がほんのわずかながら露出して苔むしているのを発見していた。が、決して口外することはなかった。畏れがある。神主の言う「それと気付くこと」というのは、このことであった。これが古墳の入り口である「羨道」の石組みが崩落した跡だとすれば、その奥の土中に被葬者を納める「玄室」がある。黒木氏は、これを掘り抜くつもりであった。掘って、玄室に進入し、副葬品を確認するのである。無論、黒木氏には、考古学の素養などはない。副葬品を目にしたとしても、その正確な年代比定などはできない。が、一つでも、第三号墳が皇室御陵であると言えるような証拠が出てくれば、いや、出てこない場合でも、直ちに、中村と矢垣にそのことを知らせてやるつもりであった。知らせてどうなるのか、そこまでは考える余裕がなかったし、考えるつもりもなかった。とにかく知らせる。知らせれば、町始まって以来のあの二人の秀才が、うまい方法を考えてくれるはずだ。そう信じるしかなかった。

 息を切らせてついてくる時子を振り返る余裕もなく藪をかきわけて進む黒木氏の夜目が、ようやく、その窪地を視界に入れた時、窪地をつつむ闇の一部がゆらゆらと動いた。黒木氏は思わず息を止めた。闇の中に、男がいる。

  矢垣!

黒木氏は、心の中で叫んだ。

  あいつも、気がついとったのか!

矢垣は、息を荒げながら、スコップを手に、窪地斜面の丁度羨道の一部がのぞいている辺りを懸命に掘り崩していた。明かりも点けず、月光だけを頼りに掘っていることからして、外部への発覚を恐れているのは明白であった。  

 黒木氏は、足音をしのばせつつ後退すると、藪の中で黒木氏を待っていた時子の手を静かに取って、その口に人差し指を当て、声を出すな、と無言で示し、時子の手にしていたランプの灯を消した。そうして、再び、時子を連れて窪地の手前の茂みまで戻ると、羨道を掘開する矢垣の後姿に二人で見入った。

 矢垣は、ぜいぜいとのどを鳴らしつつ脇目もふらずに掘開に没頭していた。

 二時間ほども経ったであろうか、矢垣のスコップのざくざくという音がふいに止まった。矢垣が用意していた懐中電灯を点燈すると、矢垣の目の前に、大人一人が屈んで入れるくらいの横穴がぽっかりと口を開けているのが見えた。時子の体が小さく震えはじめ、呼吸が荒くなった。黒木氏は、黒々としたその羨道の開口部を、ただ、凝視するのみであった。

 矢垣が、懐中電灯を手に、羨道に頭から突っ込もうとした、その時である。

「矢垣!」

と押し殺したような声が、窪地斜面の上方から聞こえてきたかと思うと、どさりと大きな黒い固まりが、矢垣の体の上に落ちた。

「わ!」

矢垣は驚愕の声をあげ、懐中電灯を放り捨てると、力任せにその黒い物体を払いのけようとしたが、その物体は、矢垣にしがみついて離れない。

「きさま、中村!」

と矢垣の声が闇に響いた。

「中村?」

黒木氏は、立ち上がったものの、一歩も動けないでいた。眼前の光景に思考が混乱し、呆然としていたのである。矢垣と中村は、黒木氏の存在には全く気付くことなく、腐葉土にまみれながら組み打ち、転げ回っている。

「矢垣! きさま、何しとるんじゃ。お、お宝を盗む気か!」

「中村! おれをつけとったな!」

「おう、つけて悪いか! 必ずきさまが、盗掘すると思うとったわ。」

「盗掘じゃと! ふざけるな! きさまこそ盗掘にきたんやな!」

「ぬかせ! おれはな、お宝を持ってきてやったんじゃ。こんな土まんじゅうのせいで、おれの会社をつぶされてたまるか!」

「ええい、この!」

矢垣と中村が互いを突き飛ばして離れた時、矢垣の手元が月光を白く反射した。それが刃物の光であることに気づいた黒木氏が、

「ま、待て。いかん!」

と叫ぶのと同時に、両者が互いに突進してぶつかりあった。中村の体が崩れ落ち、斜面をころころと転がって止まった。

 藪から飛び出して矢垣のもとに駆け寄った黒木氏が、無言で立ちつくす矢垣の手から刃物をもぎ取った。それは旧陸軍の歩兵用の銃剣であった。銃剣を取られてはじめて、矢垣は、黒木氏に気づき、

「何や。黒木か。」

と言って、その場にへたへたと座り込んだ。

 黒木氏は、矢垣の懐中電灯を急いで拾うと、斜面を降り、雑木の根元でうずくまったまま動かない中村をゆっくりと抱き起こした。その途端、中村の口から、どっと血があふれた。中村は黒木氏に何かを言おうとして口を動かしたが、声にならないまま息絶えた。

 黒木氏は、中村の死体を運び上げて横たえると、

「おまえ、何しとったんや。」

と、矢垣に問うた。矢垣は、なおも気抜けしたような顔つきで、

「御神宝が他人の手に渡るくらいなら、掘り出して別の山に隠そうと思ったんや。隠して、その銃剣で腹切って死のうと思うとったんや。まさか、中村につけられとるとは思わんかった。おい。中村。死んだんか。おい。」

「もう死んどる。おまえの銃剣が胸を突き通したんや。」

「そうか。もう死んどるのか。」

「おい。矢垣。しゃんとせえ。ぼんやりしとる場合やないど。」

「うん。」

「確か、中村のやつが、お宝を持ってきたとか言うとったな。」

「ああ。そんなこと言うとったな。」

黒木氏が、中村の血まみれの上着をあらためると、内ポケットから、ころころと数個の石が出てきた。懐中電灯に近づけて見ると、どうやら玉らしい。

「何やこれは。玉か。矢垣、見ろ。おまえなら分かるじゃろう。」

矢垣は、黒木氏から玉を受け取ると、懐中電灯の光を当てて子細に調べていたが、やがて、

「これは、古い。本物や。出雲あたりで出土するやつと同じや。」

と、断定した。

「すると、中村は、この玉を埋めて、御陵の証拠にするつもりやったんか。」

「ば、馬鹿なやつや。」

そう言うと、矢垣は、わっと声を出して泣き始めた。

「こ、こんな、玉、埋めて、あいつ、馬鹿なやつや。馬鹿なやつや。」

「泣いてる場合やない。矢垣。どうするつもりや。」

「どうするって。ここで腹を切るわい。」

「馬鹿たれ。神聖な御陵で、きさまの腹なんぞ切られてたまるか。自首せい。」

 翌早朝、矢垣は、S警察署に自首した。

 ところで、奇妙なのは、この間の時子の動きである。

 黒木氏が、時子がいたはずの茂みに戻ってみると、既に時子の姿はなかった。黒木氏は、時子が恐怖のあまり逃げ帰ったものと考え、確認するため神社に駆け戻った。幸い、社務所にはまだ明かりがあり、禰宜が残業していた。黒木氏が、時子が戻って来たかどうかを尋ねると、禰宜は、

「ああ、時子さんなら、つい今しがた、母家に帰ったがな。何やら様子がいつもと違ったけど、何かあったんかいな。」

と答えた。禰宜によれば、時子は、社務所に立ち寄り、その場にいた禰宜には一言も発することなく会釈をすると、すうっと、そのまま神主家の母家に帰ったという。黒木氏も気が急いていたから、とにかく無事ならばなんでもよい、ということで三号墳に急いで戻った。

 翌早朝、S警察署に向かう矢垣を見送って、黒木氏が再び神社を訪れると、折りよく時子がひとりで参道を掃いていた。黒木氏が、小声で、

「昨夜は、いつのまにかいなくなっていて、心配しました。昨夜見たことは、決して、他言無用ですよ。」

と言うと、時子は、

「え?」

と不思議そうに微笑んだ。三号墳での出来事どころか、時子は、前日、黒木氏が神社を訪れたことさえ知らないという。黒木氏もさすがに、むっとして、

「そこの鳥居の下でお会いして、私を拝殿に案内してくれたやないですか。」

と、つい問い詰める口調になると、時子は、

「あの、あたし、昨日は、ずっと、社務所でおみくじを準備しておりました…」

と、泣きそうになって答えた。嘘を言っているようには見えない。何も覚えていないのである。自分が、ずっと社務所にいたと思い込んでいるらしい。黒木氏は、その足で社務所に行って禰宜に確認した。すると、確かに昨日、時子さんは、社務所でおみくじの準備作業をしていた、という。この時はじめて、黒木氏は、背筋が寒くなったという。黒木氏が、神主に、この一件を話すと、この若い神主は、

「ほう。じゃあ、あの時の時子は、時子やのうて、神さんの御使いであったか。道理で、いつもの時子らしくもなく神妙じゃった。」

と、真面目な顔で言った。

 S町では、発掘調査推進派の中心人物である中村が、御陵番の過激集団である第三倶楽部の矢垣に殺されたというので、大騒ぎとなった。が、その割には、地元新聞の報道は扱いが小さかった。新聞社に対して、県土建業組合をはじめとする有力団体の圧力が、速やかに、かつ強力になされたのであった。

 自首した矢垣は、傷害致死罪に問われたが、その後、拘置所内で激しい頭痛を訴えて意識不明となり、入院措置を取る余裕もなく急死した。解剖の結果、脳に腫瘍が見つかり、これが死因とされた。意識朦朧の間、矢垣は、

「父ちゃん、父ちゃん…」

とうわごとを言って微笑んでいたという。父親の幻が見えていたのであろう。もっとも、幼くして父親と死別した矢垣には父親の記憶はないはずだった。幻の父親は、どういう姿で矢垣の眼前に現れていたのであろうか。

 既に母を失い、肉親のなかった矢垣の亡骸は、無縁仏としてS町郊外の集合墓地に葬られた。

 黒木氏は、欠け茶碗の冷めた茶を一気に飲み干すと、

「まあ、そういうわけじゃ。二人とも死んでしもうた。」

と言って、寂しそうに笑った。

「あの、黒木さん。」

「なんや?」

「その、横穴は、その後、どうなったんです?」

「おお、横穴ねえ。あれは、あんた、狸の巣じゃった。」

「は?」

「たぬきの、巣よ。」

「そんな。嘘でしょう。」

「嘘やない。」

嘘に決まっている。黒木氏にしてみれば、あれは羨道だった、などと言えるわけがない。もっとも、黒木氏は、大いにがっかりした顔の私を哀れに思ったのであろう、

「事件の後、狸の巣は、おれと矢垣とで、埋め戻しておいた。」

と付け加えた。

「埋め戻したんですか?」

狸の巣をわざわざ埋め戻す必要はない。黒木氏と矢垣は、あの夜、羨道の崩れた穴をきれいに埋め戻したのだろう。そして、作業が終わった翌早朝に、矢垣は自首したのだろう。だが、そうだとすれば、羨道の奥の玄室で千数百年以上にわたって眠っていたであろう古代の貴人とその遺品はどうなったのか。今でもそこに眠り続けているのか。あるいは、すでに別の山に… 

 しかし、その疑問について御陵番の黒木氏が語ることは決してあるまい。私は、それ以上の追及を放棄しなければならなかった。

 私は東京に帰った。

 それからしばらくして、郷土史会会報のニュース欄に、第三号墳発掘調査の中止を報じる小さな記事が掲載された。同墳円墳部をさんざん掘り返したあげく、何ら成果があがらないことで、発掘調査計画を根本的に見直すということであったが、要するに、調査の失敗であった。

 今なお、再調査の予定はない。

 

 後記。     

 右の小文に関する資料をまとめている矢先のことであった。第三号墳管理センターから手紙が届いた。黒木氏の訃報を知らせる手紙であった。半世紀前、第三号墳で起こった事件の真実を知る当事者は、ついに絶えた。が、この時の私の関心は、黒木氏の訃報ではなく、実は、訃報を知らせる通知書の差出人の名前にあったのである。

「第三号墳管理センター事務局 神田時子」

はっとした。迂闊であった。時子は存命であった。

     会いたい。巫女、時子に!

 私は、再び、有給休暇を申請した。                                          (了)

 

 

 

 

S君の駆け落ち

 

                 一

 S君、と名を伏せよう。T大学大学院理工学研究科の助手であった友人S君が失踪してから、七年が経った。親族の申立てがあり、家庭裁判所による失踪宣告がなされて、既にS君は、法的には「死者」となった。けれども、S君が現実に死んだかどうかは、無論、誰も知らない。いや、きっと何処か遠い町で、生きているのだろう。そうして、目立たないように、平凡な一市民として日々の生活を送っているのだろう。生きていれば、今年、四十歳。ある日突然、ひょっこりと、中年男の分別顔で、私のアパートに遊びに来るかも知れない。死者の訪れだ。けれども、そういう死者の訪れなら大歓迎だ。ビールでも飲みながら、死後の世界の話を聞かせてもらおう。 

 さて、S君の「生前」の話である。

 S君と私とは、高校以来の古いつきあいだ。高校時代から、S君は、工学に強く惹かれていた。ロボット、を造りたいというのだ。それも、二足歩行の人型ロボットである。今でこそ、歩いたり踊ったりする人型ロボットなんてあたりまえになっているが、パソコンどころかワープロさえ一般には普及していなかった当時の技術水準では、人型ロボットなど夢物語で、重い電子計算機やバッテリーを背負い込んだ機械に二足歩行システムを組み込むことなど原理的に不可能であるとさえ言われていたものである。けれども、S君は、ロボットに執着した。そして、S君の夢想するロボットは、二足歩行の人型機械というだけでなく、人間のように言語を解し、感情を有する人工知能を備えたものであった。要するに、漫画に出て来るような人造人間である。二足歩行さえ開発できない状況で、人造人間が実現できるとは、いくら理数系に疎い私でもさすがに信じられなかったが、S君は、あと二、三十年もすれば必ず実現できる、と断言した。そうして、S君の予言したとおり、二十年後のいま、人型ロボットが、人間よりも軽快にダンスを踊り、人間よりも正確にピアノを奏でている。S君の先見の明を、私は素直に認めなければならない。けれども、肝心の、人工知能はどうか。確かに、コンピュータは、人間の能力などはるかに超えるスピードで計算し、膨大な情報を正確に記憶し、百年後の世界動向を予測し、巨大システムを統御し、おまけにチェスの名人たちを苦しませている。もう何だってやれそうである。立派なものである。けれども、それは、コンピュータが人間の言語を解していることになるのであろうか? 感情はどうであろう。コンピュータは、悲しんだり、怒ったりするのか? そして、より困難な問題として、コンピュータに、いのちはあるのか? いや、そもそも、いのちとは、何であろう? 私などには答えようもない難問であるが、完全なる人造人間を夢見ていたS君にとっては、それは避けては通れぬ問題であった。そして、念願かなって難関のT大工学部の入学試験に合格したS君は、私に、こう宣言したものである。

「人型ロボットの二足歩行システムなんて、すぐに誰かが実現してしまうよ。日本中の研究者が寄ってたかって研究しているんだからね。たぶん、僕の出る幕はないよ。僕の研究テーマはね、いのちだ。僕は、いのちのあるロボットを造る!」

 S君は、T大の工学部に進学し、一方、私は、K大の文学部になんとかすべりこんだ。大学は別々になったが、S君と私との交友は途絶えることなく、しばしば会って酒を飲んでは語り合った。そういう時も、S君は、やはり、ロボットの話をして尽きることがなかった。二足歩行システムが実用化の段階に入りつつあること、集積回路の発展により人工知能の研究が劇的に進展しつつあることなどを、コンピュータの実物に触ったことさえないような機械オンチの私に延々と解説するのである。けれども、私は、決して退屈したわけではない。むしろ、興味をそそられた。なぜなら、難解な技術的問題を語り続けるS君の究極のテーマは、いかにすれば機械にいのちを吹き込めるかという、その一点に向けられていたからである。そういう言わば哲学的な問題が関係してくるのであれば、根っからの文系学生である私にも発言できる余地が生じるわけで、S君もまた、酔っ払った私の馬鹿々々しい意見にも耳を傾けてくれたものである。ある夜、S君の学生アパートで一緒に酒を飲んでいた時のこと、S君が、酔っ払って寝転がっていた私に問いかけた。

「おい。ちょっと聞きたいんだがね。」

「あ? 何?」

「あのね。もし、おまえが、将来、結婚して、子どもが一人生まれたとするよね。」

「うん。」

「で、まあ、その子どもは、そうだな、まあ、十歳くらいだ。女の子だ。すごくかわいい女の子だ。で、おまえは、もう、その子のことが目に入れても痛くないくらいかわいい。」

「ふむ。」

「で、奥さんもまた、まあ、おまえ好みの人で、相思相愛の大恋愛をして結婚した人で、おまえは、この奥さんを、心から大切にしているわけだ。」

「大切な奥さんね。はいはい。分かった。それで?」

「それで、だ。いいか。これからが問題なんだが、おまえと、その奥さん子どもが、ある日、山にピクニックに出かけた。そうして、崖の傍を歩いている時、奥さんと子どもが足をすべらせて、崖から転落しそうになった。そこを、おまえが、間一髪で、右手に奥さん、左手に子どもをつかまえて、何とか転落を食い止めたとする。」

「ふむ。つまり、おれの手に、一人づつぶら下がっているわけだな?」

「そういうわけだ。ところが、だ。さすがに、片手で、一人づつ引っ張り上げることはできないんだ。まさに危機的状況というわけだ。崖から転落すれば。確実に死んでしまう。そこで、おまえは、どうする?」

「どうするって、要するに、どちらを見捨てるか、ということかね?」

「まあ、そういうことだね。」

「そりゃ、おまえ、奥さんを見捨てることになるだろうさ。子どもが優先だよ。奥さんもまあ、分かってくれるだろ。」

「そうかなあ。」

「そうさ。」

「何で?」

「何でって、おまえ、そりゃそうだろう。子どもを見捨てて、親が生き延びるなんて理屈は通らねえよ。子どものために親は死ななきゃならんのさ。」

「すると、奥さんのいのちは、子どものいのちよりも軽いのかい?」

「軽いね。断言する。軽い。」

「でも、親のために子どもが死ぬこともあるんじゃないかね。究極の親孝行だろう? 子どもの方から、母親を助けるべく、自らおまえの手を振りほどいて転落したら、それはそれで美しい話になるんじゃないか? 子どもにとっては、母親のいのちの方が、自分のいのちより重かったわけだ。」

「ふむ。親孝行ね。そりゃまあ、親孝行にはなるだろうがね、それは、子どもが自ら母親の犠牲になったからであって、おれがそんなことを子どもに強いることは有り得ないね。おれは、断固、子どもを助ける。」

「そうすると、奥さんと子どものいのちの軽重は、おまえが決定するということになるじゃないか。」

「まあ、そうだね。」

「そうだねって、おまえ、そうしたら、いのちの軽重なんて、その時々で誰が判断するかによって変わってしまうということになるよ。いのちの重さってのは、そんなに相対的なものなのかね?」

「そりゃそうだろう。いのちの重さが絶対的に決定されているとは思えないね。戦争を見りゃ分かるじゃないか。実際のところ、敵兵のいのちなんて、戦場では価値ゼロだろう。むしろマイナスでさえある。殺すか殺されるかだからね。けれども、その敵兵も、本国の家族にとってみれば大切な人たちなわけだ。その場その場で、いのちの軽重なんかどうにでも変化するよ。だいたい、おまえ、いのちなんて人間の専売特許じゃないんだぜ。動物にも植物にもいのちはあるんだからね。けれども、人間様は、牛や豚を平気で殺して食べちゃうし、植物なんて、それこそ何の傷みも感じずに刈り取ったり除草剤まいたりしてるじゃないか。いのちの軽重が相対的なものに過ぎないなんてことは、自明の理だよ。」

「同じいのちなのに、その価値はどうにでも変化するというわけか。」

「同じいのち? 同じ? さあ、そいつはどうかねえ。」

「何が、どうかねえ、なんだよ?」

「だって、ちょっと意地悪なことを言うけどさ、例えば、植物のいのちと、人間のいのちとが同じだって、何で分かるんだよ。おまえ、いのちってものを見たことがあるかい? 目に見えもしないものを比べることなんてできないだろ。同じいのちっていう前提自体が、そもそもおかしいんじゃないか? おまえの言ういのちってのは、いったい、何だよ? 見て比べられるような形のある物体かい?」

「え? いのち? そりゃまあ、物体とかじゃなくて、ええと、そうだな、つまり、生命活動のことじゃないのかね?」

「じゃあ、生命活動って何だよ。食って消化することかい? それじゃ、有機物を分解して熱量を発生させるという化学作用こそがいのちということになるぜ? 何で化学作用をわざわざいのちなんぞと呼んで大事にする必要があるんだよ?」

「いやいや、生命活動ってのは、そんな化学作用のことなんかじゃない。そうでなくて、生命活動ってのは、つまり、その、生命を維持するための活動だよ。」

「おいおい。そもそも、その生命ってのが、いのちを前提にした概念じゃないか。それじゃ、循環論法だよ。」

「ふむ。じゃあ、いのちってのは何だよ。」

「分からんねえ。少なくとも、ヒトダマみたいな物質的なものじゃないだろうがね。そうだなあ、何かまあ、こりゃ生きてるなあって感じがするものに宿るものなんだろうなあ。ああ、分かった! あれだ、つまり、精霊だよ。精霊。」

「何だよ、それ。いい加減だなあ。宗教論じゃ話にならんよ。」

「だって、分からんもんは仕方ないじゃないか。かの二十世紀最大の哲学者ウィトゲンシュタインも言ってるじゃないか。人は語り得ないものについては沈黙しなければならないってね。いのちなんてものは宗教の分野だよ。精霊が万物に宿るのさ。何せ、ここは八百万の神様がいる国なんだからね。そういうわけさ。」

「精霊ねえ。じゃあ、その精霊とやらは、ロボットにも宿るのかい?」

「おっと、いよいよロボットが来たな! ロボットに精霊か。ふむ。ロボットだって、こりゃ生きてるなあ、という感じなら、精霊が宿るんじゃないの?」

「機械に精霊が宿るのかい?」

「機械だろうが何だろうが、精霊は宿りますよ。だって、おまえ、この国じゃ、無機物に過ぎない岩石だって、シメ縄を張って神様として祀っている神社がいくらでもあるんだぜ? 岩石が神様になれるのに、ロボットに精霊が宿らない理由はないだろ。安心しろ。おまえの造るロボットにも精霊が宿るよ。このおれが保証する。神様にだってなれるかも知れないぜ・・・」

「ふむ・・・」

S君は、腕組みをすると、じっと考え込んだ。ずいぶん長い沈黙の時間が過ぎた。酔いの回っていた私は、そのまま寝てしまったようである。          

                 二

 大学を卒業して、私は、学習塾の講師になった。一方、S君は、無論のこと大学院に進学した。その後、S君が、コンピュータのいのちを造るべくいかに勉学に励んだかは、まあ、言うまでもない。T大理工学研究科博士課程を極めて優秀な成績で修了したS君は、そのまま、同研究科の助手として大学に残った。そうして、そこから、S君の苦難の道のりが始まったのである。大学院生時代には、あくまで指導教授の忠実な弟子として、教授に与えられた研究テーマを無難にこなしてきたS君は、助手に就任したことを契機として、十年来の宿願であった人造人間の研究にいよいよ着手したのである。S君の将来に大いに期待を寄せていた指導教授は、S君の研究対象が、研究室の研究分野である産業用ロボット論から乖離しつつあることを知り、S君の将来を危惧した。が、それでも、この老教授は、S君の研究に理解を示して、S君の組み立てた不恰好な二本足の機械の塊が、よたよたと研究室を歩く様子をにこにこして見守っていた。教授の後ろ盾を得て、S君は、研究に没頭した。二足歩行システムの開発に文字通り寝食を忘れて数年間を費やした。そうして、ようやくその原型らしきものを作り上げたという自信を得た丁度その時、大手自動車メーカーが、超高性能の二足歩行型ロボット開発に成功したことを発表した。その画期的ロボットは、S君の開発したシステムを遙かに超えるものであることは明らかであった。この時のS君の悲嘆を語り得る言葉を私は持ち合わせていない。が、二足歩行システムが、いずれ誰かの手で実現されるであろうことは、S君の覚悟していたことである。S君の究極の研究テーマは、ロボットのいのちを造ることにある。S君は、決然として、新たな研究テーマに取り掛かった。ロボットに言葉をしゃべらせます、と、S君が教授に申し出た時は、教授も、さすがに驚きをかくせなかった。が、今度も、教授は、これを認めた。しかし、その一方で、助教授との仲は険悪になっていた。助教授は、S君の研究が研究室のテーマとは無関係だと主張して、S君の解職を教授に求めるようになった。もっとも、それは表向きの理由で、その裏側に、ロボット研究におけるS君の才能と熱意に対する対抗心、そして、そういうS君の研究に支援を惜しまない教授の愛情に対する嫉妬がなかったといえば嘘になるだろう。無論、教授は、S君の解職を認めなかった。研究室内の人事権を握る教授が認めない以上、助教授も引き下がるしかない。もっとも、定年の迫っている教授の後任には、この助教授が繰り上がりで昇進することが既に決定していた。助教授が教授に昇進すれば、二年毎に更新される任期制の助手に過ぎないS君の解職は直ちに実行に移されることになるだろう。老教授としては、せめて自分の在任間は、自分の愛弟子であるS君に好きな研究をさせてやりたかったのかも知れない。そうして、そういう事情は、S君も十分に承知していた。時間がない、と焦らざるを得なかった。が、研究は進まなかった。二足歩行システム、ロボットアーム、あるいは画像や音声の識別システムといった、言わばロボットの身体的機能に関しては、S君自身も満足できる高水準のものを既に造り上げていた。けれども、ロボットに言葉をしゃべらせるという人工知能の問題だけは解決することができなかった。あらかじめプログラムされた言葉を、会話のパターンに応じて選択してスピーカーから発声させるというだけでは、言語を理解していることにはならない。それは、言葉をしゃべっているのではない。オウム返しするオウムと同じである。言葉をしゃべっていると言うためには、言葉の意味を理解していなければならない。では、言葉の意味とは何なのか? 言葉とは何だ? S君の苦悩は深まった。泥沼に陥った思いであった。そして、ついに、最後までS君の味方でいてくれた老教授が定年退職した。予定通り、助教授が教授に昇進した。新任教授は、S君に対して、今期限りで任期制助手としての職を解くことが教授会で承認されたことを冷やかな声で通告した。

 S君から、ほとんど一年ぶりに酒の誘いを受けた私は、学習塾の勤めが終わるや、指定された居酒屋に急いだ。S君は、居酒屋の一番奥のテーブル席に座って待っていた。私は、S君を一目見て、どきりとした。別人かと思ったのである。頬はこけ、眼鏡の奥の目は落ち窪み、目の周りには濃い隈ができていた。

「やあ、久しぶり。」

と、S君が、意外に明るい調子で迎えてくれたので、私は少し安心しながら、

「おい、ずいぶん、やせたんじゃないか? 相当、無理してるんじゃないのか?」

と言った。すると、S君は、微笑みながら、

「うん。いま、二足歩行の人型ロボットを造っているんだ。自信作だよ。」

と、うれしそうに言った。

「何だよ、おい、にやついてるぜ? いよいよ、人造人間の誕生というわけか?」

「いや。まだまだ、そううまくは行きそうにない。取りあえず体は造ったけど、その体にいのちを入れてやることができないんだ。それに、最近、ちょっと困ったことがあってね。」

S君はそう言うと、たちまち暗い顔になった。そうして、今期限りで助手を解任されることになった経緯を説明した。

「そうか。そうすると、時間との勝負ってわけだな。」

「まあね。でもまあ、ちょっと良さそうなアイデアを思いついてね。で、まあ、おまえに聞いてもらおうと思って呼び出したわけだよ。」

「ほう。そうか。まあ、しかし、難しい話は、ビールでも飲んでからにしよう。」

 私がぐいぐいビールを飲む間も、S君は、ほんの少し、ジョッキに口を触れるだけで、私が酔っ払うのを待っているような様子であった。酔っ払った私が、そのアイデアに対して、学生時代のように、ずけずけと馬鹿々々しい意見を吐くのを期待しているのかも知れなかった。そういうS君の期待を感じていた私は、遠慮なく、ぐいぐい飲んだ。

「ああ、酔った。いい気分だ。」

「そうだな。」

「何が、そうだな、だ。おまえ、全然、飲んでねえくせに。で、何だ、その、アイデアってのは? 気に入ってるのかい?」

「うん。」

「よし。早く言え。おれが徹底的にやっつけてやる。」

「そう脅かすなよ。実はね、僕は、ロボットに言葉をしゃべらせたいと思ってるんだ。」

「何だ。今更言わなくても、そんなこと知ってるよ。で、ロボットはしゃべったのか?」

「まあ、待てよ。それでだ、僕は、当然ながら。言葉について考えた。そして、あることに気付いたわけだ。」

「ほう。」

「これまで、僕はね、言葉というものは、何かこう、実体として存在しているかのような錯覚に陥っていたんだ。そうだな、例えばだね、ここに焼き鳥の皿があるよね。これは、言葉としては、『皿』という音声記号で表現される。」

「ふむ。『皿』という音声記号ね。その通りだ。間違いない。」

「それでだ、僕は、これまで、ここにある物体としての皿と、音声記号としての『皿』とが、一対一の対応関係にあると考えていたんだ。そして、この『皿』という音声記号のことを言葉と呼んできたんだ。」

「そうだろう。物体に対応する音声記号が、言葉さ。」

「いや。違う。」

「違う?」

「そう。違うんだ。僕は、それに気が付いたんだ。これまで、僕は、言葉を音声記号のことだと考えていたから、ロボットに言葉をしゃべらせるためには、皿の画像パターンと『皿』という音声記号を覚えさせて、皿の画像パターンに対応する『皿』という音声記号をロボットに発音させればいいはずだと思っていた。」

「それでいいんじゃないのか?」

「だめなんだ。その場合、ロボットは、確かに、皿の画像パターンを見せれば、『皿』という音声記号を内蔵スピーカーから出力する。外見上は、いかにも、言葉をしゃべっているように見える。けれども、その場合、このロボットは、皿の存在を認識しているわけじゃないだろう? 画像パターンに応じて音声を発しただけだ。つまり、太鼓を叩いたら音がした、というのと何ら変わらないんだ。」

「そりゃまあ、そうだな。それで?」

「それでだ、僕は考え方を変えたわけだよ。従来のように、画像パターンに対応する音声記号として言葉を考えるのであれば、これまでの僕のやり方は間違っていないはずだ。けれども、それだと、ロボットは、決して物体の存在を認識しない。そうだとすれば、画像パターンに対応する音声記号として言葉を考えるという今までの考え方自体が、そもそも間違っていたんじゃないかって思ったんだよ。」

「ふむ。」

「例えば、ほら、この皿だけどね、この皿は、つまり、画像パターンだろう? そうして、『皿』という音声記号だって、音声パターンに過ぎないんだ。要するに、どちらも、感覚的パターンなんだ。その意味で、どちらも本質的には同じなんだ。画像パターンは、色の違いに過ぎないし、音声パターンは音波の違いに過ぎない。それにもかかわらず、一方の音声パターンのみをわざわざ言葉と呼んで特別扱いする理由はどこにもないんだよ。べつに言葉は音声パターンでなければならないわけじゃないからね。現に、手話は、明らかな画像パターンであるにもかかわらず、異論なく言葉として認められているだろう? 要するに、僕たちは、錯覚しているんだよ。言葉というのは、何か特別な記号を意味するものじゃないんだ。」

「すると、言葉とは、何だい?」

「そう。肝心なところだ。僕はね、言葉というものは、物体に対応する記号のことなんかじゃなくて、ある感覚的パターンと、別の感覚的パターンとの間にある対応関係それ自体のことだと気が付いたんだよ。この皿という物体の画像パターンと、『皿』という音声パターンの対応関係それ自体が、言葉なんだ。つまり、言葉というものには、実体はないんだよ。感覚的パターン相互の関係それ自体が、言葉なんだ。だから、物体に対応する記号なんて、言葉の構成要素ではなかったんだよ。記号なんてどうでもいいものだったんだ。」

「ふむ。対応関係それ自体が言葉か。言わば、記号不要論だな。しかし、物体に対応する記号がなきゃ、言葉をしゃべっていることにならんのじゃないか? 記号なんてどうでもいいというわけにはいかないだろう? やっぱり記号は不可欠だよ。」

「いや。記号は不可欠じゃないよ。ほら、この皿を見てみろ。おまえが、これが皿であることを認識する時に、いちいち『皿』という音声記号を口にするかい?」

「そりゃ、しないよ。でも、頭の中では、『皿』という記号を思い浮かべてるよ。」

「頭の中で? 本当かい? いちいち頭の中で、『皿』という記号を思い浮かべているかい? べつに『皿』なんて記号を思い浮かべたりしなくても、丸くて白い物体が存在していることはちゃんと分かってるんじゃないかい?」

「ふうむ。そう言われるとそんな気もするな。まあ、確かに、いちいち『皿』と思い浮かべているわけじゃないな。」

「そうだろう? それが、対応関係それ自体というわけだよ。そして、それこそが、言葉の本質的な構成要素なんだ。記号が言葉じゃないんだ。対応関係それ自体があれば、記号を使わなくても、言葉として機能するんだよ。例えば、砂漠で、のどがカラカラになった僕が、オアシスの泉水に向かってよろよろと歩いて、泉水の水をがぶがぶ飲んだという場合、僕のそういう行動自体が、僕が水を求めていることを意味する言葉として機能している。つまり、その時の僕は、ちゃんと、水という物体の存在を認識しているし、そういう僕の行動を見ている人も、僕が水を求めていることをちゃんと認識できる。僕が水を求めた行動と、水という物体の存在との間に、対応関係それ自体があるからだよ。いちいち『水』という音声記号を介在させる必要はないんだ。逆に、たとえ『水』という音声記号を僕が口にしていたとしても、オアシスの泉水に見向きもしなかったとしたら、この『水』という音声記号は、言葉として何の意味もなかったということになるだろう? 対応関係それ自体こそが、言葉の本質的な構成要素なんだよ。記号は、この対応関係それ自体がなければ何の意味もないんだ。けれども、僕は、この記号こそが言葉だと錯覚していたんだよ。記号自体には言葉としての意味はなかったんだ。記号が言葉としての意味を持つとすれば、それは、話し手と聞き手が、対応関係それ自体を共有している場合だけなんだよ。」

「ふむ。なるほどね。記号がなくても言葉は成立するというわけか。確かに、記号なんか使わなくてもコミュニケーションは成り立つな。小鳥の求愛ダンスなんか、そうかも知れないな。いちいちアイラブユーなんて言わないからな。まあ、記号があれば何かと便利だけどね。本心は愛してなんかいなくても、アイラブユーでごまかせるしね。」

「そういうアイラブユーこそ、対応関係それ自体がない無意味な記号だよ。」

「おっと。無意味だって? そんなことはないさ。世の中にゃ、その無意味な記号にだまされる女がゴマンといるんだぜ? 無意味どころか、大いに意味があるよ。悪い意味がね。まさに、人間の罪の源泉は記号にあり! というわけだな。」

「おいおい。宗教論じゃないよ。」

「ははは。分かってるよ。まあ、おまえの記号不要論に、取りあえず賛成しておこう。それで、そのことと、ロボットに言葉をしゃべらせることと、どう関係してくるんだい?」

「うん。そこだよ。記号なんて、所詮おまけにすぎないんだから、ロボットに本当の意味で言葉をしゃべらせるためには、画像パターンに対応する音声記号をいくら覚えこませたって意味がないんだよ。そうでなくて、画像パターンと音声記号との対応関係それ自体を理解させなきゃいけないんだ。そうでなければ、ロボットは、決して物体の存在を認識したことにならない。永遠に、叩けば音が出る太鼓のままだ。」

「ふむ。そりゃまあ、そうだな。でも、ロボットに対応関係それ自体を理解させるってことは、要するに、ロボットに認識そのものをやらせるってことになるんじゃないか? それじゃ、話が振り出しに戻っただけだぜ?」

「そうなんだ。結局、堂々巡りになっちゃうんだ。そこで、ちょっと、哲学科を出たおまえの意見を聞きたいんだよ。認識ってのは、つまり、何だと思うかね?」

「ふむ。認識論か。こりゃまた、やっかいだな。まあ、授業で習ったことを受け売りすれば、認識というのは、つまりは、言語によって世界を細切れに細分すること、ということになるだろうな。世界ってのは、言語があるからこそ意味があるわけで、言語がなければ、ただの混沌だからね。混沌とした世界の一部分を、言語で区切ることが、認識だよ。例えば、この皿だが、これは、おまえがさっき言った通り、画像パターンだ。白くて丸い画像パターンだな。けれども、この白くて丸い画像パターンは、『皿』という言語によって、その背景であるテーブルの茶色の画像パターンから区切られているからこそ、皿として認識できるわけで、『皿』という言語がなければ、この白くて丸い画像パターンは、茶色いテーブルの画像パターンの中のしみに過ぎなくなる。つまり、テーブルと皿とが別々の物体として区別されずに、混沌とした状態になるわけだ。さらに言えば、この場合、皿という物体は、存在さえしなくなる。言語によって混沌から区分されてはじめて、物体は、存在することができるわけだ。言語がなければ、物体は存在しないし、従って、世界も存在しない。言い換えれば、言語が世界を生んでいるわけだ。まあ、おまえのお気に入りの記号不要論から言えば、この場合の言語というのは、『皿』という音声記号そのもののことではなくて、白くて丸い画像パターンと、『皿』という音声記号との間にあるはずの対応関係それ自体ということになるだろうな。」

「ふむ。でも、言語がなければ世界が存在しないというのは、ちょっと言い過ぎなんじゃないか? 言語があろうがなかろうが、世界が混沌としていようがしていまいが、世界はもともと存在するだろう?」

「そこがまあ、存在論でいろいろと議論のあるところさ。確かにまあ、言語があろうがなかろうが、さらに言えば、人間がこの世にいようがいまいが、世界は初めから存在するという考えも当然ある。一方、いま言ったように、言語によってはじめて世界は存在するという考えもある。どちらが正しいとも言えないんだよ。要は、世界観の違いだからね。イデオロギー的な対立と言ってもいいな。けれども、まあ、おれは、言語がなければ世界は存在しないと考えるね。」

「なぜ?」

「ふむ。まあ、好みの問題と言ってしまえばそれまでだがね、そうだな、この皿だがね、この皿から色も形も重さも取り除いたら、後には何が残ると思うかね?」

「何も残らないじゃないか。」

「そう。何も残らないんだ。つまり、物体から感覚的パターンをすべて取り除いたら、その物体は存在しなくなるんだ。おかしいとは思わんかね?」

「どうして?」

「だって、感覚的パターンを認識しているのはおれだぜ? 物体が感覚的パターンの集合体として存在しているのであれば、おれが感覚的パターンを認識しないことによって、その物体は存在を否定されるわけだよ。つまり、この皿が存在するかどうかは、おれが決定しているんだ。おれが認識していれば、この皿は存在するし、おれが認識してなければ、この皿は存在しないんだよ。そうして、おれの認識とは、いま言ったとおり、言語によって生まれているんだ。だとすれば、言語がなければ世界は存在しないということになるじゃないか。」

「しかし、この皿をおまえが認識していなかったとしても、別の人が認識していれば、この皿は存在していることになるじゃないか? おまえだけで世界の存在を決定できるわけじゃないだろう?」

「そう。そこが、好みの問題だと言うのさ。確かに、客観的に見れば、別の人が認識していれば、この皿は存在していることになるかも知れない。でも、おれにとって存在しないものが、他人にとっては存在しているとしても、それが、おれにとって何の意味があるんだい? おれにとっては存在していない以上、他人にとって存在しようがしまいが、そんなことはどうでもいいじゃないか。それに、そもそも、他人にとって存在しているかどうかなんて、おれには決して分からんじゃないか。だって、おれには、その皿が見えていないんだからね。おれには見えていないものを、いくら他人が見えると言っても、おれは、それを信じるわけにはいかないよ。それじゃまるで裸の王様になっちゃうからね。でもまあ、確かに、自分には存在してなくても、他人にとっては存在するなら、それは存在することになるんだ、という客観的な考えも、もちろん成り立つよ。だから、好みの問題なのさ。おれは、自分にとって存在しないものは、いくら他人にとって存在していようとも、知ったこっちゃない、というわがままなタイプの考えの方が好みというわけだよ。裸の王様にはなりたくないんでね。」

「好みの問題ねえ。」

「そう。結論は決して出ないよ。どちらを選ぶか、だ。天動説と地動説と、どちらを選ぶか、という問題と同じだよ。」

「え? そりゃ、地動説に決まってるだろう? おかしな例えだな?」

「おいおい。それこそ、学者のおまえらしくもない先入観だぜ。天動説は、別に、地動説に論破されたわけじゃないぜ。高校の物理の先生が言ってたじゃねえか。おれは、物理なんてチンプンカンプンだったが、そういうどうでもいいことだけは覚えてるんだ。」

「そんことあったっけ? で、先生が何て言ったんだい?」

「だから、天動説は、別に、地動説に論破されたわけじゃないってことだよ。地球が太陽を回ろうが、太陽が地球を回ろうが、そんなことは相対的な関係に過ぎないんだから、どっちだっていいんだっていうわけさ。電車に乗っている人から見て、電車が前に進んでいると考えようが、電車の外の世界が後ろに進んでいると考えようが、同じことだろ? じゃあ、何で、天動説が捨てられて、地動説が採用されたかって言えば、単に、天体運行の予測計算が楽だったからだよ。天動説だって、火星の逆行運動だの年周視差だのといった天体現象を説明しようと思えばできないわけじゃないんだけど、その説明が、複雑極まりないややこしいものになっちゃうわけさ。つまり、天動説は、面倒くさかったんだよ。理由はそれだけだぜ。地動説の方が計算が楽だというだけで、べつに予測の精度が優れていたわけじゃないんだ。先生によると、精度だけなら、むしろ天動説の方が優れていたそうだよ。でも、学者たちは、計算が楽ちんで便利な地動説の方を選んだ。そうして、その地動説を前提に、ニュートン先生が大活躍しちゃったから、もう今更、天動説には戻れなくなったというわけさ。」

「へえ。あの先生がそんなこと言ったのか。」

「そうだよ。まったく、おまえは、クソ難しい方程式はせっせとノートに写してたくせに、こういう先生の無駄話にはまったく興味がなかったらしいな。」

「まあね。」

「まあね、じゃねえよ。それで、話を戻すとだな、要するにだ、裸の王様になりたいか、なりたくないか、という好みの問題だってことだ。自分が目にしていることよりも他人の言うことの方が信じられるという素直な心の人は、まあ、世界の存在を客観的に考えればいいわけだよ。一方、おれのように疑り深い根性の曲がった奴は、他人が何と言おうと、自分の目で見ていることだけが確かな世界だと主観的に考えるわけさ。おまえは、どっちがお好みかね?」

「どうかな。他人を信じたい気もするなあ。僕一人だけの世界というのは、ちょっと、さびしい気がする。」

「ふふ。おまえらしいな。べつに、どちらでもいいのさ。客観か、主観か、どっちが好きかというだけのことだよ。」

「でも、おまえのように、世界の存在を主観的に考えると、おまえ以外の他人の存在なんかどうでもいいってことになるんじゃないか?」

「そう。他人の存在なんかどうでもいい、というか、他人なんかそもそも存在しないことになる。だから、おれのような考えは、独我論なんて呼ばれたりするわけ。」

「おいおい。そりゃ、さすがにおかしいだろ? おまえは一人で生きているわけじゃないんだぜ?」

「ところが、ちっともおかしくないのさ。おれのような考えからすれば、他人の存在も、おれが決定することになるんだ。例えば、いま、おれの目の前におまえがいるよな?」

「いるよ。」

「そう。確かに、おまえという、一個の人間の形をした画像パターンを、あるいは、おまえの口から出てくる音声パターンを、おれはいま、目や耳で認識している。従って、おまえは、おれにとって存在する。けれども、おまえの画像パターンや音声パターンを、おれが何らかの理由で認識していなかったとしたら、おまえは、おれにとって存在しないということになるのさ。おまえという一個の人間の存在は、おれが認識しているかどうかで決定されるわけだよ。無論、おまえにしてみれば、ずいぶんふざけた話に聞こえるかも知れないが、論理的には、そういうことになるんだ。おまえという存在は、おれにとっては、いくつかの感覚的パターンの集合体に過ぎないわけだ。おまえから、肌の色や、形や、重さを取り除いたら、おまえという存在は消えてしまう。いくらおまえが、僕は存在する! と、おれに向かって抗議しても、おれは、そんな抗議は聞こえやしないんだから、全然知ったことじゃないわけさ。この世界を構成する物体は、それがこの皿であれ、おまえのような他の人間であれ、このおれの認識によってはじめて存在しているんだ。つまり、おれにとっては、おまえは、おれの認識によって生み出された幻と同じということになる。さらに言えば、仮に、おれの認識が、まったく架空の人物の幻を生み出したとしても、おれには、その人物が架空の幻かどうかの判別はできないことになる。おれの認識によって生み出されている以上は、その幻の存在を疑うことはできないからね。つまりは、いま目の前にいるおまえが、実は幽霊だったとしても、おれには、おまえが幽霊かどうかの判別はできないし、そもそも幽霊かも知れないという疑いさえ抱かないわけだよ。世界を主観的に考えると、他人の存在もまた、幻や幽霊と区別できない程度の、どうでもいいものになってしまうのさ。そして、そういう結論は、論理的には、別に、ちっともおかしくはない。けれども、おまえの言った通り、おれは一人で生きているわけじゃないからね、やっぱりおかしいじゃん、という反論が出るのも当然なわけだけど、でも、その反論の方がおかしいんだよ。確かに、おれは、一人で生きているわけじゃないけれど、でも、このおれ自身が、おれにとっては、やっぱり、おれの認識によって生み出されている幻に過ぎないかも知れないんだよ。おれ自身もまた、いくつかの感覚的パターンの集合体に過ぎないんだから、そういうおれ自身の感覚的パターンを、このおれ自身が認識しなかったなら、おれという存在は、この世界から消えてしまうんだからね。だから、おれが一人で生きているわけじゃない、なんていうことは、何の反論にもならないんだよ。おれも、単なる幻に過ぎないかも知れないんだから。」

「なんだか、ずいぶん、ややこしいな。おまえ自身も、おまえ自身の認識によって生み出された幻だって?」

「そういうこと。」

「でも、認識しているのは、おまえ自身じゃないか。そうだとすると、自分で自分を認識して自分を生み出しているということになるよ? 自分で自分を生み出すというのは、明らかに論理に反するぜ?」

「ところが、そうはならないのさ。」

「どうして?」

「そこが、面白いところさ。おれ自身を認識しているのは、おれじゃないんだよ。おれ自身を認識しているのは、おれ自身も知らないおれ自身なのさ。これが、世に言う認識主体というやつだよ。認識論の最大のテーマと言っていいだろうな。」

「認識主体?」

「そう。認識主体だ。おまえの言った通り、自分で自分を認識して自分を生み出すなんてことは、明らかに論理的におかしい。けれども、このおれ自身を認識して、このおれ自身の存在を生み出しているのは、このおれ自身とは別のおれ自身なんだよ。この、別のおれ自身のことを、認識主体と言うのさ。この認識主体が、世界を認識して、世界の存在を生み出しているんだよ。この皿であれ、おまえという他人であれ、あるいは、このおれ自身であれ、この認識主体の認識によって、はじめて存在しているというわけだ。おれにとっての全世界は、おれの認識主体が生み出しているんだよ。そうして、繰り返しになるけど、自分で自分を認識して自分を生み出すことなんてことは論理的にできないんだから、論理的帰結として、この認識主体というやつは、この世界の中には存在し得ない。この世界の中に認識主体が存在しているとすれば、認識主体が自分で自分を作り出すことになっちゃうからね。そんなことは有り得ない。そうすると、この認識主体というやつは、この世界の外にあるということになる。いいかい? 世界の外にあるんだよ。まあ、俗な言い方をすれば、この世のものじゃなくて、あの世のものというわけさ。」

「世界の外? あの世だって? それじゃ、宗教論じゃないか。」

「そりゃそうさ。宗教と哲学は切っても切れない関係にあるんだから。ついでに言えば、この認識主体が、さっきの客観的な世界観の立場から言えば、魂と呼ばれることになるんだぜ?」

「魂だって?」

「そうさ。世界を主観的に考える立場にとっての認識主体が、世界を客観的に考える立場にとっては魂になるんだよ。そうだな、おまえは客観的な世界観が気に入っていたから、認識主体などという哲学用語よりも、魂という方が分かりやすかったかな?」

「どっちも分かりにくいよ。」

「ははは。まあ、そりゃそうだ。さっきも言ったが、世界を主観的に考えるか、客観的に考えるかは、所詮、理由づけの違いであって、結論は同じなんだよ。天動説と地動説みたいなもんだ。認識主体と魂だって、言ってることは同じなんだけど、それぞれの理由づけの仕方が少しばかり違うというわけだよ。まず、おれ好みの主観的な世界観では、さっきも言ったように、この世界は、おれの認識主体が作り出している。この場合、世界が幻であろうがあるまいが、そんなことは、おれには関係ない。おれの認識主体が認識している以上、世界は存在していることになる。そして、この認識主体というやつは、論理的に、この世界の外にあるものだから、それがいかなるものかなんてことは、おれには決して知ることはできないわけだ。あの世のことなんか、おれには分からんからね。一方、おまえ好みの客観的な世界観では、たとえおまえ自身が認識していないものでも、客観的に、世界は存在すると考えるわけだ。おまえの目に見えていないものでも、他人が見えると言えば、それは存在する。それどころか、この世界に人間なんかいなくても、世界は初めから存在すると考えるわけだよ。おまえ自身の認識にかかわらず世界は客観的に存在するんだからね。世界は初めから確固として存在しているわけだ。でも、そう考えてしまうと、ちょっと困った問題が生じてしまうことになる。」

「問題?」

「うん。ほら、この皿だけれどね、色も形も重さも取ってしまったら、後には何も残らないと言ったよな?」

「うん。残らない。」

「けれども、客観的な世界観の立場からすると、何も残らないんじゃ困るんだよ。」

「どうして?」

「だって、おまえ、客観的な世界観では、おまえ自身の認識にかかわらず世界は客観的に存在すると考えるんだぜ? この世に人間なんかいなくても世界はそもそも存在するんだよ。そういう確固たる世界が、色や形といった感覚的パターンを取り去ったら、たちまち跡形も無く消えてしまうというんじゃ、主観的な立場と同じになっちゃうじゃないか。」

「そうか。なるほどね。」

「それでだ。客観的な世界観としては、この皿から色だの形だのといった感覚的パターンをすべて取り去ったとしても、それでも、そこには、そういう感覚的パターンを生み出している本体とも言うべき何かが残っているはずだ、と考えるわけだよ。」

「何が残ってるんだよ?」

「さあ、それは、誰にも分からないのさ。誰にも分からない何かが残ってるんだよ。カントは、これを、物自体と呼んだみたいだけどね。」

「物自体ねえ。」

「そう。物自体だ。すると、今度は、当然ながら、そういう物自体は、そもそも、何で存在するんだ、という問題が生じるわけだ。初めから存在するんだ、というのでは、答えにならない。その初めとはいったい何だ、ということになるからね。世界の初めを生み出すためには、論理的に、世界の生まれる前の存在がどうしても必要になるんだ。世界の初めを生み出す存在だ。これを、神と呼ぶ。」

「神だって?」

「そう。神だ。確固たる世界の存在を前提とする客観的世界観では、論理的に、世界の初めを生み出した神を必要とせざるを得ないんだ。まあ、この神は、宗教上のものじゃなくて、言わば、哲学的神とでも言うべきものだがね。もっとも、そういう神は、世界の初め以前の存在だから世界の外にあるということになる。そこで、当然ながら、それがいかなるものかは、この世界の中の人間には決して分からんというわけだ。だから、神はいるとも言えないし、いないとも言えない。でも、何処かにいてくれなきゃ困るというわけだ。」

「ふむ。」

「そして、客観的な世界観には、さらにもうひとつ、やっかいな問題が生じる。客観的な世界観では、世界は、初めからそもそも存在するものであって、人間の認識の有無で左右されるようなものじゃない。この場合、認識とは、世界に初めから存在する物体から生じる色とか音とか臭いみたいな感覚的パターンを、目、耳、鼻といった感覚器を介して脳に知覚させる作用として説明されることになる。つまり、世界から脳へのインプット作用だ。まあ、大抵の人は、認識のプロセスを、こんなふうに考えるんじゃないか?」

「僕もそう考えるよ。常識的な考え方だよ。」

「そう。常識的な考え方だな。世の中の大抵の人も、おまえと同様、客観的な世界観がお気に入りというわけさ。みんな、世界は確実に実在する、と信じている。だから、当然ながら、認識とは実在する世界から脳へのインプット作用のことだと考えている。けれども、この常識的な考え方が、かえって、やっかいな問題を生むことになったんだよ。主観的な世界観とは違って、客観的な世界観では、幻はあくまで幻であって、初めから確固として実在する世界とは明確に区別される。だから、幻を見ている本人にとってはそれがどんなに生々しい幻であっても、客観的には、そんなものは実体のない幻覚に過ぎないということで、そんな幻の存在なんかは無視されるだけだ。まあ、例えば、おまえが、いくら生々しい化物の姿を見たとしても、他の人がそれを見てないなら、あるいは生物学的にそんな化物がいるわけがないと判定されれば、そんなものはおまえの幻覚に過ぎないということになって、その化物の存在は無視されるというわけだ。なぜなら、幻覚というものは、おまえが勝手に作り出した認識だからだ。客観的な世界観では、この実在する世界と関係なしに勝手に認識を作り出すことなんか認めないんだ。そうでないと、世界が確固としたものにならないからね。つまり、幻の世界を作り出すというアウトプット作用は、決して認識としては認めてもらえないというわけだよ。認識は、あくまで、実在する世界から脳へのインプット作用としてのみ認められる。そうして、医学の常識に従い、当然ながら、この認識は、脳の中でなされているということになる。つまり、脳を認識主体と見るわけだ。要するに、主観的な世界観では世界の外にあるとされる認識主体を、客観的な世界観では、頭蓋骨の中に閉じ込めたわけだよ。この、頭蓋骨の中に閉じ込められた認識主体のことを、魂と呼ぶのさ。もちろん、宗教的な意味じゃない。言わば、哲学的魂というやつだ。世界から脳へのインプット作用としての認識しか認めない客観的な世界観では、論理必然的に、頭蓋骨の中に閉じ込められた認識主体、すなわち、魂を必要とせざるを得ないんだよ。そして、この頭蓋骨の中の魂が、世界を認識したり、自我を認識したりするというわけさ。ところが、ここで、やっかいな問題が生じるんだ。残念ながら、頭蓋骨を開けて脳みそをいくら調べても、そんな魂なんか、ちっとも見当たらないんだよ。脳細胞の知覚システムなんて、結局のところ、神経細胞間の電気信号のやりとりだからね。そうなると、逆に、客観的な世界観そのものが疑わしくなってくる。主観的な世界観の言うように、この世界は、所詮、幻に過ぎないんじゃないか、ということになりかねないわけだよ。だから、ますます、何が何でも、脳内に魂を見つけなきゃいけなくなるわけさ。デカルトのようにね。」

デカルトのように?」

「そう。デカルトは、魂の居場所を探し求めて、脳みそをほじくりかえして、松果体こそが魂の居場所だと考えたのさ。松果体って知ってるかい?」

「いや、知らない。」

「そうだろう? 医者以外は誰も知らないような器官さ。体内時計を調節するホルモンを分泌する器官だそうだけど、さすがに、魂の居場所ってわけにはいかないだろうな。でも、客観的な世界の実在を前提とする限り、脳内に魂の居場所を求めたデカルトの方法それ自体は、極めて正当だったわけだよ。人体の中で、魂と関係がありそうな場所といったら、医学的には、脳しか考えられないからね。そして、デカルトと同じ苦労を、現代の脳科学者も味わっているというわけさ。主観的な世界観では、世界の認識の問題は、ぜんぶ、世界の外の認識主体が勝手にやっていることであって、誰もその仕組みを知ることは出来ないというわけだから、理屈としては実に単純、というか、理屈にもなってないくらいなんだけど、その反面、現実の世界と幻の世界との区別がなくなってしまうという難点がある。一方、客観的な世界観では、現実の世界は客観的に確固なものとして初めから存在すると考える。そうすると、現実と幻の区別は明確にできるわけだが、その反面、そういう確固とした現実の世界を初めに生み出した神が必要になるし、さらに、そのような現実の世界を認識する脳内の認識主体、つまり魂も必要になる。世界を確固なものにした代償として、神と魂という実にやっかいな概念が必要になったわけだ。要するに、この神と魂は、主観的な世界観でいう認識主体をふたつに分割した概念に他ならないんだよ。主観的な世界観でいう認識主体は、世界を認識するというインプット作用だけでなく、認識を自由自在に生み出して世界を作るというアウトプット作用もできる万能者だ。客観的な世界観では、そのうちの世界を作るというアウトプット作用は神の役割、世界を認識するというインプット作用は魂の役割として、万能者である認識主体の概念をふたつに分割しているわけだよ。そして、そうすることで、幻との区別もつかない不確実な世界を、客観的な実在として構成することができるんだ。だから、どちらも、言ってることは同じさ。ぜんぶまとめて万能者たる認識主体とするか、役割に応じて神と魂とに分割するか、どちらをとるかは、結局は、好みの問題というわけさ。世界が所詮幻であっても構わないというなら主観的な世界観を選べばいいし、世界の実在を信じたいなら客観的な世界観を選べばいい。」

「好みの問題か・・・」

「そう。好みの問題だ。天動説か地動説かの問題と同じだよ。で、おまえは、どうやら、世界は実在するという客観的な世界観の方が好みみたいだから、論理的帰結として、おまえは、神と魂とを信じなきゃならんわけだよ。」

「え? 別に信じてないぜ?」

「そりゃ、宗教のことだろう? そうでなくて、哲学的な神と魂のことさ。客観的な、確固とした世界の存在を信じるんなら、おまえは、その時点で既に、哲学的な神と魂とを信じていることになるんだよ。そうでなければ、確固とした世界なんて崩壊しちゃうんだから。それとも、おれのように、主観的な世界観に転向するかい? 現実と幻の区別も出来ないような世界の方がお好みかい? 友人も、恋人も、それに、この自分自身さえも、自分の認識主体が作り出した幻に過ぎないかも知れないということを認めるかね?」

「おまえは、そんなことを認めてるのかよ?」

「ふふ。正直言って、認めたくはないな。実際、そんなことを考えながら生活しているわけじゃないしね。でもまあ、それが、主観的な世界観の論理的帰結である以上、取りあえず理屈としては認めるしかないってわけさ。」

「僕は、やっぱり、この世界は実在していると思う。」

「ははは。そりゃそうだろう。人造人間を造ろうというロボット工学者が、世界は幻だ、なんて言い出したんじゃ、飯の食い上げだぜ。」

「そう。人造人間・・・認識するロボット・・・ロボットが、この世界を認識するとすれば、ロボットも、神と魂とを信じていることになるのかな?」

「ふむ。客観的な世界観なら、まあ、そうなるだろうねえ。ロボットが、この世界を認識しているとすればの話だがね。」

「認識するさ、きっと!」

「まあ待てよ。水をさすようで悪いんだがね、おまえは、ロボットが認識するかどうかにずいぶんこだわってるけど、ロボットが認識しているかどうかなんて、たぶん、どう頑張っても確認できないんじゃないか?」

「どういうことだよ?」

「だって、客観的な世界観では、認識ってのは、他人の頭蓋骨の中の魂がやってるわけだぜ? で、その魂というやつは、今のところ、脳みそをどういじくりまわしても見つかってないわけだ。で、おれに言わせれば、見つかるわけがないんだよ。だって、もともと世界の外にあるはずの認識主体を、頭蓋骨の中に押し込めただけなんだからね。魂が見つからないんだから、他人が認識しているかどうかなんて確認の仕様がないだろう?」

「でも、それは、おまえの主観的な世界観を前提とした話だろう?」

「まあ、そうだ。だから、主観的な世界観がそもそも間違っているんなら、魂だって見つかるかも知れない。でも、主観的な世界観が客観的な世界観に論破されたわけじゃないんだぜ? おれに言わせりゃ、どちらも正しいんだよ。天動説と地動説だよ。主観的な世界観であれ、客観的な世界観であれ、説明の視点に違いがあるだけで、言ってることは同じはずなんだよ。そうすると、主観的な世界では、それがいかなるものかは決して知り得ないはずの認識主体が、魂として頭蓋骨の中に閉じ込められただけでたちまちその姿を現すというのは、あまりにおかしいだろう? さっきも言ったように、客観的な世界観が、主観的な世界観における認識主体をわざわざ神と魂とに分割しているのは、世界を確固としたものにするための論理的な概念操作に過ぎないんだ。言わば、世界から幻を排除するためのフィクションなんだ。神も魂も、認識主体の機能を分割したというだけのことで、認識主体の本質は何も変わっちゃいないんだよ。そうだとすれば、魂というやつは、脳をどういじくりまわしても見つかるはずがないんだよ。せいぜい、神経細胞間の電気信号のやりとりの仕組みが分かるだけさ。」

「ふむ。でも、それなら、その電気信号のやりとりこそが魂の正体なんだ、と言ってしまえばいいんじゃないのかい?」

「その通り。そう言い切ってしまうんなら話は別だ。でも、それは、魂を取り出して見せていることにはならない。人間が認識している時に観察される脳内の物理的な仕組みを取り出して、その仕組みを魂と呼んでいるだけだ。それは、魂の正体を見つけたわけじゃない。そうじゃなくて、魂そのものを否定していることになる。魂も神も存在しないし存在する必要もない、なぜなら、世界はビッグバンで物理的に生まれただけだし、人間なんて脳内の電気信号と遺伝子の設計図に従って動くだけの有機物に過ぎないからだ、というわけさ。まあ、いかにも唯物論的だけど、これはこれで、客観的な世界観の究極のタイプとしてちゃんと筋が通っている。そうすると、確かに、人間の認識だって電気信号のやりとりの仕組みですべて説明できるということになる。でも、説明はできるとしても、その電気信号のやりとりの仕組みによって人間が本当に認識しているのかどうかを証明することはできない。だって、認識しているかどうかなんて、認識している本人じゃなきゃ分からないんだからね。認識の客観的証明なんて、そもそも不可能なんだよ。それは、おれのような主観的な世界観を選んでいても同じだ。おれは、自分が認識していることを知っている。これは、おれにとって疑えない事実だ。けれども、おれの認識主体が世界の外にある不可知のものである以上、おれは、自分が認識していることを決して証明できない。おまえのような客観的な世界観でも同じことで、認識している魂そのものを取り出せない以上、おまえも、人間が認識していることを決して証明できない。」

「ふむ。魂なんかどう頑張っても見つからないから、他人が認識しているかどうかなんて確かめようがないというわけか・・・」

「そういうわけさ。」

私がこう言うと、S君は、急に黙り込んでしまった。そうして、テーブルに目を落として、じっと考え込んでしまった。うつむいて沈鬱な表情になったS君の顔は、やはり、ひどくやつれて見えた。私は、S君の思考の邪魔をしないように、ジョッキに残っていたビールを時間をかけて飲み干した。十分程も経っただろうか。S君は顔を上げると、私の目をのぞきこむような目つきをして、

「なあ、もう一度聞くが、魂なんか見つからないんだな?」

と言った。

「え? あ、うん。そう思うぜ。」

「絶対に?」

「おいおい。絶対かどうかなんて保証できんよ。まあ、おれの考えでいけばそうなるだろうって話だよ。」

「でも、もしそうなら、おれがいくら頑張って認識しているロボットを作ったとしても、叩けば音がするだけの太鼓との区別がつかないことになるぜ?」

「まあ、外見が同じなら区別がつかないだろうな。認識の証明なんて不可能なんだから。」

「おかしいじゃないか。」

「おかしくはないさ。論理的にそうなる。それに、ひょっとしたら、叩けば音がするだけの太鼓だって、世界を認識しているのかも知れないぜ?」

「太鼓が認識しているって? 馬鹿々々しい。」

「確かに、馬鹿々々しいさ。でも、それが、太鼓じゃなくて、ペットの犬だったらどうだい? 犬だって、頭をなでれば尻尾をふるぜ? あれは、世界を認識しているんじゃないのかね? それとも、叩けば音のする太鼓と同じで、単なる物理的な作用かい?」

「犬は、ちゃんと認識しているんじゃないか?」

「じゃあ、犬と太鼓の違いは何だよ? なんで、犬なら世界を認識していて、太鼓だとだめなんだよ?」

「そりゃ、犬は、どう見たって知能がある動物だからな。」

「じゃあ、カブトムシは?」

「カブトムシ? カブトムシねえ・・・どうだろう? まあ、カブトムシだって認識してるんじゃないのかねえ?」

「なぜ? カブトムシも知能がある動物かね?」

「え? だって、その、つまり、カブトムシも生き物だからな。」

「おいおい。生き物だから認識するのかい? こりゃまた、ロボット工学者らしからぬ問題発言だな。太鼓だって、もともとは生き物だったタヌキの皮だぜ?」

「でも、もう、生き物じゃない。死んでるよ。」

「じゃあ、生きたタヌキの腹鼓でどうだ?」

「もう。いい加減にしてくれよ。それじゃ、おまえは、太鼓が認識していることを認めるとでも言うのかい?」

「さすがにそりゃ無理だな。しかし、太鼓が認識していないと断言したりもしないよ。さっきも言ったけど、自分以外のものが認識しているかどうかなんて誰にも分からないということを言いたいのさ。太鼓であれ人間であれ、認識しているかどうかなんて、認識している本人じゃなきゃ分からない。いま、おれとおまえは、面と向かって話しているけれど、おまえには、おれがちゃんと世界を認識しているかどうかなんて、決して分からないはずなんだ。ひょっとしたら、おれは、叩けば音がする太鼓と同じで、実は認識なんかしてなくて、おまえの会話パターンにあわせて、あらかじめプログラミングされた会話を話しているだけかも知れないんだぜ?」

「馬鹿らしい。おまえはちゃんと認識しているよ。」

「何で分かるんだよ? おれの脳みその中の魂を見たことがあるってのか?」

「そんなもの見なくたって、分かるんだよ。」

「それじゃ理由にならんよ。」

「理由なんかないさ。そう信じてるからさ! 信じることに理由はいらないよ。」

「ほほう。ロボット工学者が、宗教家になりやがったな! でもまあ、確かに、おまえの言う通りだな。結局、そういうことになっちゃうんだろうな。魂を見ることが出来ないからには、他人が世界を認識しているかどうかなんて、そう信じてるかどうかという問題に過ぎない。犬が認識していると言えるのは、そう信じているからで、太鼓は認識なんかしていないというのは、さすがにそれを信じられないからというだけのことだろう。」

「じゃあ、ロボットは、どうだい?」

「おっと。またロボット工学者に戻りやがったな。忙しいやつだ。ロボットねえ。おまえは、当然、ロボットが世界を認識しているということを信じられるだろうがね、おれはまだ、半信半疑だねえ。」

「なぜ?」

「だって、おまえには悪いが、信じるに足りるだけの技術がまだないんだよなあ。まだまだ太鼓と似たり寄ったりのレベルだね。もっと、こう、何というか、人間っぽいやつというか、つまり、人間の脳の働きと同じような動きをするコンピュータなら、これは認識しているぞって信じられるんだがねえ。」

「脳機能の完璧な再現なんて百年かかっても不可能だよ。」

「いや、そんな完璧な再現なんてしなくていいんだよ。要は、信じられればいいんだ。」

「どうやったら信じられるんだよ? 人間どころか、犬猫の脳機能を再現するのだって無理なんだぜ?」

「そうだなあ。認識ってのは、つまりは、言語による世界の分割だからな。要は、ちゃんとした言語を持ってると言えるかどうかにかかっているんじゃないか? おれたちが、犬が認識しているということを信じられるのは、犬が、犬なりの言葉を持っているように見えるからだろう? 確かに、ワンワンという声は、それ自体は、人間からすれば言葉とは言い難いが、でも、おまえの言うように、言葉が、物体に対応する記号のことなんかじゃなくて、感覚的パターン相互の対応関係それ自体のことだとすれば、ワンワンだろうがニャーニャーだろうが、そんなことはどうでもいいわけだからな。言語的な記号の有無は関係ない。記号なんかなくてもいい。対応関係それ自体がありさえすればいいわけだ。問題は、そういう対応関係それ自体があると言えるかどうかだな。対応関係それ自体があると言えるなら、そこにちゃんとした言葉があることになるから、認識しているということも信じてもらえるんじゃないか?」

「でも、対応関係それ自体があると言えるような場合ってのは、どういう場合だよ?」

「まあ、少なくとも、今までおまえがやってきたような、画像パターンに対応する音声記号をスピーカーから発音させるという程度のものじゃ、だめだろうな。それじゃ、おまえの言う通り、太鼓と変わらないということになる。対応関係それ自体があるというためには、そういうあらかじめ設定された対応関係でなくて、もっと、意思的なものが必要なんじゃないか? 言わば、自発的な対応関係だよ。ほら、さっき、おまえは、カブトムシも認識してるって言っただろう? おまえは、カブトムシは生き物だからって言ったけど、でも、そんなことじゃないんじゃないか? そうじゃなくて、カブトムシが、意思的に、樹液に向かって行くからこそ、認識してるって信じることができるんじゃないか? カブトムシが意思的に樹液に向かって行く時、カブトムシの行動と樹液との間に、対応関係それ自体があると言えるからだよ。カブトムシには、音声記号のような言語はないけど、樹液に向かう行動パターンと樹液という物体との間に対応関係それ自体があるという意味で、ちゃんとした言葉を持っているというわけだ。おまえが、カブトムシも認識してると考えた理由は、たぶん、カブトムシがそういう言葉を持っていると考えたからだよ。」

「そうすると、ロボットが認識しているということを他人に信じさせるには、ロボットが何らかの意思的な行動をとっているところを見せればいいということになるな?」

「そうなるだろう。カブトムシと同じで、ロボットが意思的な行動をとれば、そのロボットは、対応関係それ自体という意味で、ちゃんとした言葉を持っていることになる。そうすれば、誰であれ、そのロボットが世界を認識しているということを信じざるを得ないさ。」

「ふむ。ロボットの意思的な行動か・・・どういう行動なら意思的かね?」

「そりゃ、おまえ、製作者さえ予想しなかったような行動に決まってるじゃないか。フランケンシュタインの人造人間みたいに、製作者に反抗して大暴れしたりすれば、もう言うことなしだな。」

「それだけは勘弁してもらいたいな。」

「ふふ。でもまあ、冗談でなく、製作者の予想に反した行動という点は不可欠だろう。だって、たとえロボットが意思的な行動をとったとしても、製作者があらかじめプログラミングしていただけだなんて疑いをかけられたんじゃ、結局、太鼓と同じことになっちゃうからね。」

「確かにそうだな・・・予測不可能だからこそ意思的だと言えるな・・・」

そう言うと、S君は、再び、唐突に黙り込んだ。そうして、うつむいたまま、何やらぶつぶつと独り言をささやき続けた。私は、S君の様子に、かすかながら不安を感じた。しばらくして、S君は顔を上げると、やはり私の目をのぞきこむような目つきをして、

「しつこいようだが、もう一度、聞く。魂は、決して見つからないんだな?」

と、何か悪いことを密談しているかのように、おどおどした口調で言った。私は、S君の気持ちを落ち着かせるつもりで、

「そう言ってるじゃないか。魂は見つからない。見つかっちゃおかしい!」

と、強く断定した。

「そして、魂は見つからないから、ロボットが世界を認識しているかどうかを確認することも不可能というわけだね?」

「そういうわけだ。ロボットが世界を認識しているかどうかは、それを信じるかどうかという問題に過ぎない。」

「よし! いいぞ!」

と、S君が、いきなり大声をあげた。

「おいおい。何だよ。どうしたんだよ?」

「え? いや、うれしくなっちゃってさ。」

「何が?」

「おまえと、こうして話していることが、だよ。」

そう言って。S君は、ほとんど飲んでいなかったジョッキのビールをぐいぐいと一気に飲み干した。

                 三

 それから半年ほどして、S君から電子メールが届いた。ごく簡単な内容で、ロボットに関する新しいアイデアがまとまり、助手をクビにならずにすむかも知れないというものだった。その新しいアイデアの内容までは書かれていなかったが、そのアイデアが「探索型認知システム」というものであることだけは教えてくれた。私のような機械オンチでも、その「探索型」という言葉で、S君のアイデアが、半年前の飲み会での話題をヒントにしたものだろうということは容易に想像できた。意思的な行動をとるロボットのアイデアに違いない。いよいよ、S君が、人造人間を造る! しかも、その画期的な業績に、私の馬鹿話が、少しは役に立ったのかも知れないのだ。私は早速、S君を飲みに誘う返信を送った。けれども、S君からの返信はなかった。さすがに暇がないのだろう、と、私も、べつに気にしなかった。そして、さらに半年ほどが過ぎた。私は、久しぶりにS君にメールを送ってみたが、やはり返信はなかった。電話をしても、留守番電話になるだけで、その後の連絡はなかった。私も、S君の研究の邪魔はしたくなかったので、それ切り、連絡するのを遠慮していたのだが、ある日、ひょっとして留学でもしたんじゃないのか、と思い付いて、大学の研究室に電話した。電話に出た女子学生らしい声の主は、私に、意外な事実を伝えた。S君が、失踪したというのであった。S君は、三ヶ月も前に、研究室に山積みの資料はもちろん、アパートの家財道具もそのまま残して、姿を消していた。実家の両親が駆けつけて、既に捜索願も出されているという。それだけでなく、電話の声の主は、S君に窃盗の疑いがかけられていることを、小さな声で付け加えた。S君が姿を消したのと同時に、研究室で製作されていたロボットも姿を消していたからである。研究室は、部外秘を守るために厳重に施錠され、その鍵を持っているのは助手以上の教員のみであった。このため、当然ながら、ロボット窃盗犯はS君に違いないということになった。もっとも、研究室では、ロボットの情報が外部に漏れることを恐れてか、あるいは、教授らの管理責任を問われることを恐れてか、ロボット窃盗の被害届けは出さずに、S君が研究のために外部に持ち出しただけという体裁を取った。おかげで、S君は、刑事犯として捜査対象となることは免れたが、家出人としての捜索対象であることには変わりなかった。当初は、ロボットをかかえて失踪するなどという突飛な行動をしているS君の行方など容易に知れると思われたが、それは、このロボットに関する警察の認識不足によるものであった。S君が行動をともにしているロボットは、高性能の二足歩行システムを搭載しており、走ったり踊ったりする機能こそ持たないが、その替わり、単調な歩行であれば人間と変わらないほど滑らかに歩くことができた。さらに、顔面や手足のような露出部分は特殊ゴムで覆われており、注意して見ないと、生身の人間の皮膚と区別がつかない。眼窩のカメラには眼球と瞳がはめ込まれ、口腔には白い歯が並んでいる。そして、おまけに、ロボットの胸は、ふわりと柔らかな丸みを帯びていた。ロボットは、女であった。このロボットが、服を着て、背中のバッテリーをリュックサックなどで偽装し、さらに帽子でもかぶっていれば、たまたますれ違うだけの通行人が、この女はひょっとしてロボットではないかなどと疑ったりすることを心配する必要はなかった。S君と、このロボットが、街を二人で歩いていても、恋人同士にしか見えないだろう。

「Sさんは、ロボットと駆け落ちしたんですよ。」

と、電話の声の主が、女子学生らしい声で恥ずかしそうに言った。 

 S君の行方は、杳として知れなかった。

                 四

 その後、私の脳裏から、S君の存在は徐々に薄れて行った。そして、そのうち、S君のことを思い出すこともなくなった。S君の存在は、私の認識から消え去っていた。S君は、もはや、私にとって存在しなかった。そのS君の存在を、この世界に復活させたのは、見ず知らずの差出人からのメールだった。メールのタイトルは「魂の居場所」。私は、迷わず、そのメールを開けた。そして、予想通り、それは、S君からのメールであった。

 メールには、次のような長い手紙が添付されていた。

 Sだ。久しぶりだね。もう、君も知っているだろう。僕は、研究室からロボットを盗み出して、逃亡したのだよ。窃盗犯だ。まさか、自分が犯罪者になるとは思ってもみなかったよ。けれども、これが現実だ。君に対してさえ、こうして、偽名でメールを送らなきゃいけない身分になってしまった。つまり、僕は、いま、別の人間として暮らしているんだよ。もう、Sではないんだ。けれども、後悔はしていないよ。まあ、Sなんていう記号は、僕にとっては、どうでもいいことだからね。僕と生活との間に、対応関係それ自体があればいいというわけさ。例の記号不要論だよ。覚えているかい? 今のところ、取りあえず食っていけるだけの仕事はあるし、住む家もある。別人としての生活にも慣れてきたよ。世の中には不思議な仕事をしている連中がいるもので、金さえ払えば、戸籍だの住民票だのといった別人として生きて行くための書類一式をちゃんとそろえてくれるんだよ。言わば、記号の取替え業者といったところだ。もちろん、犯罪だよ。でも、記号不要論の僕としては、名前という記号でがんじがらめになっている世の中の方がおかしいんじゃないかと思うんだけどね。いや、まあ、こんなくだらない犯罪論なんかどうでもいい。

 実は、君に、聞いて欲しいことがあってね、それで、メールしたんだよ。けっこう、お気に入りのアイデアなんだよ。まあ、その前に、ロボットのことを話しておかなくちゃいけないな。君も知ってるかも知れないが、いま、僕のそばにいるロボットは、僕の造った人型ロボットなんだ。以前、君と飲んだ時に、僕が人型ロボットを造っていることを話したことがあっただろう? あのロボットさ。L4型試作機というんだ。Lというのは、レディの頭文字さ。つまり、このロボットは女性なんだ。僕の作った四番目のロボットなんだよ。もっとも、一号機は二本足の機械に過ぎなかったし、二号機も両腕だけだったし、三号機はカメラの両目をはめこんだ首だけだったから、ちゃんとした人型ロボットとして完成させたのは、このL4型が最初だ。そして、たぶん、最後になる。つまり、僕の造った最初で最後の人型ロボットが、このL4型というわけさ。このL(僕は、彼女を、Lと呼んでいるんだよ)は、我ながら、なかなかの傑作なんだよ。まず、ほぼ完璧と言っていい二足歩行システムを備えている。これには僕も自信があるんだ。もっとも、静かに歩くだけなんだけどね。僕としては、べつに飛んだり跳ねたりするようなロボットには興味がなかったから、人間の歩行を再現することに専念したんだ。というのも、僕は、初めから、おしとやかな美少女として、Lを作るつもりだったからね。なぜかって? だって、君、フランケンシュタインの怪物みたいなのを作るのと、美少女を作るのと、どちらを選ぶかと言われて、フランケンシュタインの方を選ぶ男がこの世にいるかね? どうせ同じ苦労をするなら、少しでも楽しい方がいいからね。そうして、美少女にしてやっぱり大正解だったよ。もう、作業が楽しくて仕方がないんだからね。フランケンシュタインなんかとは訳がちがうよ。僕はそれこそ、夢中になった。できるだけ人間に近づけるために、顔面や手足には、わざわざ業者に頼んで、映画の特殊メイクで使ったりする特殊ゴムで肉付けまでしたんだよ。いや、実は、それだけじゃないんだ。実はね、乳房まで作ったんだ。だって、美少女を作るんだから、乳房はいらないというわけにはいかないじゃないか! 研究室の女子学生どもは嫌な目で僕を見ていたけど、そんなこと知ったことじゃないさ。両目のカメラを覆う目玉も作った。瞳は少し潤んだ感じにして、眼差しに愁いを含ませた。美少女の鉄則だからね。髪は三つ編みにして左肩の前に垂らしてみた。いかにも清楚だろう? そうして、肌は抜けるように白く、唇は淡いピンクで、口許はかすかに微笑んでいる。完璧だ。研究室で猥雑な話題に笑い転げている女子学生どもがサツマイモにしか見えないほどの美少女の誕生だよ。もっとも、問題は、その頭脳の中身だ。僕の研究は、この問題で足踏みしていた。画像や音声のパターン認識をさせることはできるけれど、言葉を理解させるということができない。たとえ美少女Lの体ができあがっても、その体にいのちを吹き込まないままじゃ意味がない。そこで、例の「探索型認知システム」の登場というわけだ。以前、君にメールしたことがあったね。告白しよう。「探索型認知システム」なんて、実は、でたらめなんだよ。いつぞや君と飲んだ時に君がくれたヒントをもとに、僕は、ある策略を思い付いたんだ。君も知ってる通り、あの時、僕は、例の新任教授から、助手の任期切れを通告されていた。もう、後がなかったんだ。もちろん、他大学に再就職口を探しても見たけど、他大出身の助手をわざわざ雇ってくれるところなんて見つからなかった。まあ、仮に再就職できたとしても、金食い虫のロボット研究に研究費が付くとは到底思えないしね。民間企業への就職も考えた。でも、どうせ産業用ロボットの研究に回されるだけで、言葉をしゃべるロボットの研究なんかさせてくれるわけがない。それに、僕は、やっぱり、精魂込めて造ったLと離れたくなかったんだ。そう。君には正直に言おう。僕は、Lと離れたくなかった! 僕は何とかして大学に残りたかった。けれども、教授は、人型ロボットの研究には何の関心もない。Lについても、何の評価もしてくれない。どうせ中身は産業用ロボットと同じ機械なんだから、バラバラにして学生の研究材料にでもすれば効率的だ、なんて言ってるくらいだ。このままじゃ、助手をクビになるのは確実だ。そこで、窮余の一策で、こうなったら、教授を騙してやろうと思ったんだよ。そうして、教授は、まんまと僕の策略にひっかかったというわけさ。あの時、君は、魂なんか見つからないから、ロボットが認識していることの証明もできない、認識しているかどうかは、それを信じるかどうかの問題だと言っただろう? そうして、認識していることを信じさせるには、製作者も予想しないような意思的な行動をロボットにやらせればいいという結論になった。そこで、僕は、その論理を逆手に悪用したのさ。つまり、ロボットが認識していることの証明ができないのであれば、ロボットが認識していないという証明もまた不可能なはずだと考えたわけだよ。そうすると、僕としては、僕のロボットが実際には認識なんかしていなくても、このロボットは認識しています、と言うだけでいいわけだ。だって、僕のロボットが認識なんかしていないということを、誰も証明できないんだからね。肝心なのは、その嘘を、相手に信じさせるということだ。そのためには、相手に、ロボットが予想もしなかった意思的行動をとるところを見せてやればいい。もっとも、本当にロボット自身の意思的行動である必要なんかない。あたかもそうであるかのように騙せばいいんだ。そうすれば、相手としては、このロボットは確かに認識している、と信じるしかなくなるはずだ。と、まあ、そういう策略を練ったわけだよ。もちろん、その策略を成功させるには、それ相応のお膳立てが必要だ。そこで、僕は、まず、「探索型認知システム」なる概念をでっちあげた。要するに、意思的行動を可能にするシステムというわけさ。従来型のシステムのままでは、いくらロボットに意思的行動をとらせたところで、せいぜい単なる故障かシステム異常に過ぎないということで片付けられてしまうからね。だから、それが意思的行動だと信じさせるためには、そういう事態が発生したとしてもおかしくないような、もっともらしいシステムを組み込んでいるということにしておく必要があるわけだ。そこで思い付いたのが「探索型認知システム」というわけだよ。意思的行動には予測不可能性が不可欠だという君の考えをヒントにして、僕は、ロボットが予測不可能な行動をとるような制御システム(予測不可能な行動の制御というのは既に論理矛盾しているけど、どうせでたらめなんだから、べつに構やしない)の概念をでっちあげた。そうして、この制御システムをロボットに組み込むことによって、ロボットが、複数の行動の選択肢の中から最適の選択肢を合理的に選ぶというのでなく、まったくランダムに、言わば非合理的な選択肢を選択することを繰り返しつつ、帰納的に感覚的パターン相互の対応関係それ自体(例の記号不要論だよ)を自ら探索して最適解を発見していくという自律的言語学習能力を獲得することができるはずだ、と、まあ、僕自身にも意味不明の壮大な嘘をついたわけだ。もちろん、理論的なお化粧を念入りに施して、見た目はいかにももっともらしい体裁にしたが、検証されれば即座にでたらめであることがばれる代物だ。けれども、検証される心配はなかったのさ。人型ロボットの研究なんかに何の興味も持っていない教授が、「探索型認知システム」などという聞いたこともない意味不明の理論を、わざわざ僕のために検証するなんてことは有り得ないからね。案の定、僕がこのアイデアについて教授に持ちかけてみたら、好きにしたまえ、と、ただの一言で決着したよ。僕が念のため準備しておいたペーパーを見もしなかった。どうせ今期限りでクビにするんだから、今更僕が何をやろうがどうでもいいと思ったんだろう。まあ、僕としては、願ったりかなったりだ。そこで、僕は、策略の次の段階にとりかかった。「探索型認知システム」のプログラムなんてそもそも存在しないから、Lのコンピュータには、従来型のパターン認識のプログラムを組み込んでいるだけだ。叩けば音がする太鼓と同様、皿を見せれば、『皿』と発音するプログラムさ。僕さえ黙っていれば、べつに誰にも分かりゃしないからね。そうして、僕は、それに加えて、こっそりと、教授を騙すための特別な行動をとるプログラムを挿入しておいたんだ。そして、いよいよ、「探索型認知システム」を組み込んだ(と嘘をついた)Lのお披露目の日が来た。研究室の学生たちを集めて、きちんと服を着せておめかしした美少女Lを歩かせたり、挨拶させたりした。もちろん、これだけでも、学生たちは大喜びさ。とりわけ男子学生には大好評というわけ。そりゃそうだ。僕だって思わず見とれたくらいなんだから。教授は、あてつけがましく見に来なかったけど、学生を呼びにやらせると、仏頂面でしぶしぶやってきた。さあ、ここからが正念場だ。僕はさりげなく、教授に、Lと握手するように頼んだ。学生たちがはやした。教授は、苦笑いしながら、Lの差し出した右手を握った。Lの右手が教授の手を握り返す。Lの潤んだ瞳が、教授の顔を見つめる。そうだ。それでいい。さあ、今だ、言え、L!

ハジメマシテ・・・センセイ・・・」

Lの言葉に、学生たちが、どっと沸いた。教授は、Lの右手を握ったまま、Lの瞳を茫然と見つめていた。僕は、策略の成功を確信した。我に返った教授が、僕に、

「なぜ、この子は、私が『先生』だと分かったんだね?」

と言った。僕は、待ってましたとばかりに、用意していた答えを言った。

「さあ、分かりません。僕も驚きました。先生の知的なご様子を見て、ロボットが自分で判断したとしか思えません。予想外です!」

予想外でも何でもない。握手にあわせてそう言うように僕がプログラムを組んでいただけだ。そして、Lは、立派に任務を果たしたというわけだ。その効果は覿面だったよ。教授は、Lが自ら「認識」していると信じたんだ!美少女Lは、教授のお気に入りになった。

「あの子は、どうかね? 元気かね?」

などと、機械に過ぎないLの体調を心配する始末さ。そして、僕の狙い通り、教授は、僕の解職を教授会であっさりと取り消した。空席のままだった助教授のポストが僕に与えられることも内定した。策略の目的は達成したわけだ。これで、安心してゆっくりと研究できる。でっちあげた「探索型認知システム」理論なんぞ、ちょっと間違いがあったので修正しますとでもごまかして放っておけばいい。Lも、当面は、システムが故障しましたとでも言って、点検と修理を繰り返しているふりをしていれば、いくらでも時間はかせげるし、そのうち本物の「探索型認知システム」みたいなものが実現すれば、それを組み込んでやればいい。と、まあ、僕は、多寡をくくっていたわけだ。ところが、君、予想外のことが起こったんだよ。本当の予想外だ。教授が、退職した前教授にも今回のLの画期的な成果を教えてやろうと言い出したんだよ。冗談じゃない。そんなことをしたら、僕の嘘がばれてしまう。僕は強硬に反対したよ。部外者に研究内容を明かすべきではないってね。僕を可愛がってくれた前教授を部外者呼ばわりしなければならなかった僕の苦衷を察してくれ。けれども、教授は、前教授が部外秘を漏らす心配はないと笑って取り合ってくれず、結局、前教授を研究室に呼んでしまった。前教授は、美少女Lを見て、以前と変わらず、にこにこしてうれしそうにしていた。僕はもう、泣きそうだったよ。そうして、当然ながら、前教授は、僕のでっちあげた「探索型認知システム」に興味を示して、僕に説明するよう求めた。僕は、ペーパーを前教授に渡して、理論上のミスがいくつか見つかったので修正中だなどと言い訳しながら、おそるおそる説明した。冷汗でシャツが背中にべっとりとはりついたよ。前教授は、僕の説明を聞きながら、黙ってペーパーに目を落としていた。そうして、僕のしどろもどろな説明が終わると、ペーパーから目を上げて、

「ふうむ。面白いねえ・・・どうだろう、S君。私はね、いま、M電器の顧問をやっているんだがね、このL4型のシステムを、うちの研究所で検証させてもらえんかね?」

と言って、僕をじっと見つめた。その前教授の目を見て、僕は確信したよ。ばれている! すると、話を横で聞いていた教授が割って入って、

「ああ、それはいい考えですね。是非、そうしましょう! M研と共同開発できれば、うちの研究室としても大助かりです。何せ、ロボットってやつは、実に金食い・・・いや、その、予算上の制約がありますからねえ。いい話だよ、S君、そうしよう!」

と、一も二もなく賛成してしまった。M研へのLの引渡しは、一ヵ月後と決まった。恩師を裏切った僕に、恩師が死刑宣告したというわけさ。僕は観念した。「探索型認知システム」がでたらめであることを前教授に告白して大学を去ろう、と決心したんだよ。

 まあ、ちょっと長くなってしまったけど、君に聞いて欲しいアイデアというのは、ここから先のことなんだ。大学を去ろうと決心した夜、僕は、荷物の整理でもしておこうと思って、誰もいない研究室に行ったんだ。研究室の蛍光灯をつけると、Lが、床を見つめて座っていた。ああ、まばたきもできる様にすればよかったな、これじゃ、Lは眠れない、などと考えながら、僕は、Lの顔を見つめた。見れば見るほど、美少女だ。僕が心に描いていた理想の少女だ。僕は、Lの電源を入れた。Lの姿勢制御システムが作動して、Lの背筋が伸び、Lが頭を上げた。そうして、Lの潤んだ瞳が、僕の目をじっと見つめた。

「おまえは、どうなるんだろう?」

と、僕はLに話しかけた。どうなるも何もない。「探索型認知システム」がでたらめと判明すれば、Lは、学生の研究材料にされるだけだ。Lの体は、二足歩行システム、ロボットアームシステム、画像識別システム、音声識別システムといった各システムごとにバラバラに分解されるだろう。Lの美しい顔は剥ぎ取られ、可憐な乳房は引きちぎられる。

「おまえは、死んでしまうんだよ。」

と、僕は言った。その時だ。Lが言ったんだ。

「シニタクナイ・・・」

信じてくれ。いや、信じなくてもいい。僕自身、信じられなかった。でも、確かに、Lは、そう言ったんだ! 幻覚だったのかも知れない。けれども、君は、あの時、言ったはずだ。認識主体が認識している以上、幻覚も現実に他ならないってね。僕は、確かに、Lの声を認識したんだ。他人がどう思おうが、僕の知ったことじゃない。そうだろう? 君なら賛成してくれるはずだ。

「そうか。死にたくないか・・・」

そう言って、僕は、Lの美しい顔に手をやった。特殊ゴムでできているはずのLの頬は、生身の人間のように、やわらかく、あたたかだった。僕は、もう、驚かなかった。幻覚でも何でもいい。たとえ世界中の人間がそれを認めないとしても、Lは、生きている! 僕は、いのちのあるロボットを作ったんだ! この瞬間、僕は、Lを盗み出すことを決心した。そして、そのための準備を始めた。M研へのLの引渡しが迫っていたから、大忙しだった。当面は、何処か遠い街に逃げのびて貯金を食いつぶして、それから後は、例の記号の取替え業者にでも依頼して別人として生きて行くしかないと覚悟を決めた。実行の夜、僕は、Lに新品の服を着せてやった。茶色いツイードのジャケットに真白なブラウス、グレーのロングスカート、茶色い革靴、そして最後に、茶色のチューリップ帽。おっと、僕のファッションセンスを非難するのは勘弁してくれ。これでもデパートでいろいろ悩んだんだからね。背中に背負い込んだバッテリーは、服の背中に穴を開けて、中身をくりぬいたバックパックでおおって隠した。着替え終わったLは、いかにも真面目な女学生という感じだ。そうして、僕たちは、一緒に並んで歩いて、深夜の大学の門を出た・・・まあ、それ以後の苦労話をする必要はないだろう。いま、このメールを打っている僕のとなりに、Lが座っている。僕がメールを打つのをじっと見ているよ。僕とLが、毎日、普通に会話していると言ったら、君は信じるかい? 君が信じようが信じまいが、僕は、毎日、Lと会話し、笑いあい、そして時には一緒に悲しんだりしている。Lの美しい瞳から宝石の粒のような涙がこぼれることだってある。Lは、生きている。ロボットに、いのちが宿ったんだよ。こういう僕は異常かね? 君は、僕を精神病院に連れて行くかね? 君はもう、忘れてしまったかも知れないが、ずいぶん昔、君が、石ころにも精霊が宿るんだから、ロボットにだってきっと精霊が宿るという意味のことを言ったことがある。覚えているかい? 僕は、君のこの言葉を、ずっと考えてきた。そうして、やっと、分かったような気がするんだよ。僕は思うんだ。あるもののいのちというのは、そのものの存在を信じることなんじゃないかってね。君の言う通り、世界の存在なんて、認識主体が生み出した幻かも知れない。友人も、恋人も、そして自分自身も、幻かも知れない。けれども、それじゃ、あんまり辛いから、人間は、世界の存在を確固なものにしたかったんだ。世界の存在を信じたかったんだ。友人や恋人や自分自身の存在を信じたかったんだ。その信じたいという願いこそが、いのちじゃないのか? いのちに実体なんかないんだよ。いのちは、自分が愛するものの存在を信じたいという願いのことだ。たとえ死者であっても、その願いがある限り、その死者は死んではいないんだ。たとえ石ころであっても、その石ころの存在を信じたいという願いがあれば、石ころにもいのちが宿るんだ。僕は、Lの存在を願っている。幻覚であれ何であれ、僕と一緒に生きているLを心から愛している。だから、僕にとって、Lには、いのちがあるんだよ。もっとも、Lをただの電子部品の集合体だと思っている人にとっては、Lにいのちはない。昔、君の言った通り、いのちは相対的だ。食料としての動物にはいのちはないけれど、それが愛するペットであればいのちがあるように、敵兵にはいのちはないけれど、彼を愛する家族にとってはいのちがあるようにね。人間は、愛するものの存在を守るために、世界の実在を信じ、世界を生んだ神を信じ、世界を認識する魂を信じることにしたんだ。そうして、そこに、いのちが生まれたんだ。愛が世界を生み、愛がいのちを生むんだ。いのちは、愛だよ。どうかね? 僕のこのアイデアに、君は、賛成してくれるかい? いや、きっと賛成してくれるはずだ。もともと君のアイデアなんだから。もっとも、残念ながら、君の意見を聞く方法が今の僕にはないんだけれどね。このメールに返信しても、僕には届かないんだよ。だから、返信は要らないよ。ではまた、いずれ。S

                 五

 この長い手紙の後、S君との連絡は絶えた。そして、S君の失踪から七年が経ち、S君は、死者になった。S君の言葉を借りれば、世の中は、S君の存在を信じたいという願いをなくしたというわけだ。S君が実際に生きていようがいまいが、世の中にとって、S君のいのちは尽きた。けれども、S君を愛する人々にとっては、S君のいのちが尽きることはないということになる。そして、S君を愛する一人である私は、いまなお、S君が生きていると思っている。S君は、何処か遠い街で、美少女Lとともに、一市民としての生活を送っていると信じている。この私自身の気持ちに素直であろうとする限り、どうやら私は、愛がいのちを生むというS君のアイデアに賛成しなければならないようだ。

 けれども、私は、S君の意見に全面的に賛成するわけではない。私がそう簡単に納得したら、S君だってつまらないだろう。S君。安心するのはまだ早いよ。

 S君。君は、Lと、毎日、普通に会話していると言ったね。そしてそれが、たとえ幻覚であっても、認識主体が認識している以上は現実なんだと言った。けれども、それは、君のいのちのアイデアと矛盾する。いのちが、愛するものの存在を信じたいという願いのことだと言うなら、そのように願っている君は、世界は幻に過ぎないかも知れないという主観的な世界観を否定しなければならないはずだ。たとえ君の認識主体が認識しているとしても、客観的には、幻覚は所詮、幻覚に過ぎないということになるはずなんだ。現実と幻覚とを明確に区別するからこそ、世界は確固として実在することができるんだからね。だから、君がLと毎日会話していることは、客観的な現実世界から見れば、やはり、君の幻覚だと言うしかない。君だって、それに気が付いているんだろう? でも、君は、Lとの幸福な生活を守るために、それが幻覚であることを認めたくないんだろう? けれども、もし、君が、それが幻覚であること飽くまで認めないというなら、君は、主観的な世界観を容認していることになる。そうすると、君の愛するLの存在自体が、君の認識主体の生み出した幻に過ぎないかも知れなくなる。それは、Lのいのちを奪うことを意味する。君は、Lとの幸福な生活の幻覚を守るために、Lのいのちを奪おうというのかい? まさか、そんなことはないだろう? もっとも、君が、Lとの幸福な生活の幻覚と、Lのいのちの両方をともに守りたいというのなら、唯一つだけ方法がある。それは、Lとの幸福な生活こそが現実なのであって、君とL以外の世界のすべての方が幻覚なんだと考えることだ。Lとの幸福な生活と、この現実世界とが両立しない以上、どちらかが幻覚でなければならない。君が現実世界を愛するなら、君は、Lとの幸福な生活を幻覚として認めるしかないが、君が、この現実世界よりもLとの幸福な生活の方を愛するというなら、君は、現実世界の方を幻覚だと考えればいいというわけだ。それによって、Lとの幸福な生活は幻覚なんかでなく実在のものとなり、君は、Lとの幸福な生活とLのいのちの両方を矛盾することなく守ることができる。但し、そのために君が支払うべき代償はずいぶん大きなものになるよ。君が、現実世界の方を幻覚だと考えるなら、それは、君とL以外の全世界の実在を否定することになる。それは同時に、君とL以外の全世界のいのちを否定することを意味する。つまり、君は、全世界を敵に回すことになるんだよ。いや、それだけでなく、この現実の世界を初めに作った神をも敵に回すことになる。君は、Lとの愛のためなら、全世界のみならず神とも戦うというのかい? それでもいいというなら、もう何も言わない。君たちの愛は本物だ。神をも畏れぬ愛が本物でないなら、この世に愛など存在しない。私は、君たちの愛を心から祝福しよう。けれども、その時、私の祝福は、もはや君には届かないだろう。私もまた、君にとっては幻覚に過ぎないのだから。        (了)

ハッピードリームランド

              一 勇者

 矢垣一郎は後悔していた。きっと春の陽気のせいだ。こんなゲームソフトに三千円も払って。ばからしいことをした・・・

 それは、会社帰りに駅前のゲームソフト専門店で買ったものだった。

  店長おすすめ品!

  仕事の疲れも癒されます

  夢と希望の冒険ロマン

そんなありふれた宣伝文句に、ついふらふらと手を出した。癒されたかったのである。が、アパートに戻って、たちまち後悔した。何で、こんなものを欲しくなったのだろう。狐にばかされた気分だな。まったく、無駄な買い物をしたものだ。

 矢垣は、ぶつぶつ言いながら、ソフトをゲーム機にセットした。ゲーム機の内蔵スピーカーからラッパが鳴りわたり、画面上にはサブタイトルが流れる。お決まりのありふれたオープニングだ。

  ハッピードリームランドは、天と地の境にあり、

  天界の門を守護する国である・・・

「天界の門ねえ・・・」

  そこへ、天界から追放された大魔王メフィストが、

  天界の門の鍵を渡すよう要求してきた。

  メフィストの要求を拒絶したハッピードリームランドは、

  メフィストの呪いにより、

  百年間の眠りにつかなければならなくなった・・・

「百年間の眠り、か。やれやれ、こりゃ、ほんとに失敗したなあ。」

 サブタイトルが終わると、画面上に、仙人のような老人が現れた。これまた、お決まりのパターン。画面上で、仙人が語りはじめる。

  おお 勇者よ

  やっと来てくれたか

  大魔王メフィストの呪いを解き

  ハッピードリームランドの

  エンゼル姫を救うのじゃ

  天界の門の鍵は

  エンゼル姫が守っている

「ぷっ。エンゼル姫?ずいぶん安易なネーミングだなあ。で、おれに、どうしろっていうわけ?」

矢垣が画面上の「次にすすむ」のボタンをクリックすると、

  大魔王の呪いの謎だ

  勇者よ 解くがいい

  数字の三とは 何だ

続いて、画面上にアルファベットが表示される。

  アルファベットを選択して、答えをローマ字入力してください。

  制限時間、三分です。

「え、なに?数字の三とは何だとは何だ?意味が分からん。」

カチカチと制限時間がカウントダウンされる。

  早く答えるのじゃ

  時間がないぞ

仙人が杖をふりふり、答えをせかす。

「だって、意味が分からんじゃないか!」

矢垣はあわてて「ヒント」のボタンをクリックした。

仙人は、いかにも情けない、といった表情になって、 

  やれやれ 

  では ヒントじゃ

  ヒントその一 牢獄

「は?」

  ヒントその二 言葉

「ことば?」

  やれやれ

  まだ 分からんのか

  勇者よ 

  おまえは 馬鹿じゃな

「むっ。何言いやがる。全然ヒントになってないじゃないか!」

  もうよい 答えじゃ

  数字の三とは 人間の罪じゃ

  罪は天地人の三元の間にあり

  罪を犯すのも贖うのも言葉じゃ

「・・・何だこりゃ?」

  次の謎だ

  勇者よ 解くがいい

  数字の四とは 何だ

「四?四って何だ。三が人間の罪なら、四は、ええと・・・」

  勇者よ

  もうよい 答えじゃ

「いや、ちょっと待てよ。考えるから。四は、三の次だよな。三が人間の罪か。罪と来れば罰だろう。罪と罰ドストエフスキイだ。答えは、罰!どうだ、当たりだろう。」

  勇者よ 

  おまえは 馬鹿じゃな

「むむっ!じゃあ、何だよ。」

  もうよい 答えじゃ

  数字の四とは 天界の門じゃ

  人間の罪の次に来たるもの

  すなわち神の国

神の国?何だこりゃ?まさか新興宗教の勧誘ソフトじゃないだろうな。馬鹿々々しい。何が、仕事の疲れも癒されます、だよ。ちっとも癒されないぞ。むかっ腹が立つだけじゃないか。これが店長おすすめ?まるで詐欺だな。」

  勇者よ

「何だよ。このくそじじい。」

  おまえは 

  呪いの謎を解けなかった

  罰として

  地獄の怪物と

  戦わねばならぬ

 

             二 地獄門

 荒涼漠々たる原野。黒金の甲冑に身を固め、腰には勇者の剣を佩き、矢垣は途方に暮れていた。

「どこだ、ここは?何にもないじゃないか。どうなってるんだ。夢でも見てるのか?さっきまでゲームをしていたような気がするんだが・・・それにしても、この鎧の重いこと!やれやれだ。おーい。誰かいませんかあ。おーい。」

「はあい。」

と、傍らから唐突に現れたのは、見たところ十五、六歳の美しい少女。少女はフードをかぶり、革ベルトを巻いた腰には短剣を帯びている。

「わっ!何だおまえは!」

「何だはないでしょう。いま、あんたが呼んだじゃないの。あたしはマープル。あんたの頼りになる従者よ。ゲームの説明書に書いてあったでしょう?」

「ゲームの説明書?すると、ここは、ゲームの世界なのか?やっぱり、夢を見ているんだな。こりゃ、夢だ。ゲームをしながら居眠りでもしているというわけだ。そういうことか。ふふん、なるほどね。」

「ちょっと、何が、なるほどね、よ。聞いてるの?私はマープル。あんたの・・・」

「はいはい。分かったよ。マープルね。ふうん、夢にしちゃ、ずいぶん、リアルな夢だな。まあ、いいや。おいこら、マープル。僕はこのゲームはつまらないのだ。つまり、早く、こんな夢とはおさらばしたいわけだよ。分かる?そういうわけだから、さようなら。僕は目を覚まします。明日の仕事の準備もあるしね。こう見えても忙しいんだ。」

「あらそう。じゃ、そうしなさいよ。」

「そうしますとも。ええと、つまり、目を覚ましたいわけでね、さあ、目を覚ませ・・・目を覚ませよ・・・おい、居眠りしている僕、目を覚ませ!」

「ぷっ。あんた、何やってるの?」

「うるさい。邪魔するな。ええと、つまり・・・どうやったら目が覚めるんだ?おいこら、マープル、僕は目を覚ましたいのだ。」

「だから?」

「目を覚まさせろ。」

「もう。あんた、さっきから、何、わけのわかんないこと言ってるのよ。ここはゲームの世界。そして、あんたは、ハッピードリームランドを救う勇者。あたりまえじゃないの。」

「いや、ちがうんだ。そうじゃないんだってば。僕はね、池袋の会社に勤める安月給のサラリーマンで、帰り道にゲームを買って、居眠りしてだね・・・」

「イケブクロ?どこよ、それ?」

「池袋だよ!東京の池袋!」

「あのねえ、あんた、夢でも見てたんじゃないの?寝ぼけてるの?そりゃ、勇者の役目は辛いでしょうけどね、現実から逃げちゃだめよ。人生ってのは・・・」

「うるさい!何が人生だ、小娘のくせしやがって。これは夢だ。夢なんだ!」

「まったく、いつまで寝ぼけてるのかしら。この世界が夢ですって?じゃあ、早く目を覚ましなさいよ。目を覚まして、その、何だっけ、トーキョーのイケブクロとかいう現実の世界にお帰りになれば?ありもしない現実の世界にね。」

「・・・」

「ほら、ごらんなさい。できやしないじゃないの。何がトーキョーのイケブクロよ。馬鹿々々しい。あんたは、ハッピードリームランドを救う勇者なのよ。それが、あんたの人生なのよ。そんな人生は嫌だなんて駄々こねても仕方ないじゃないの。これが現実なんだから。」

「これが現実?」

「そうよ。もう!まだ分かんないの?」

と、マープルが、いきなり矢垣の頬をひっぱたいた。 

「いてっ!何するんだ!」

「目を覚ましてやったのよ。さあ、ここはどこですか?イケブクロですか?」

「・・・」

「やっと分かったみたいね。あんたの生きている世界はここなのよ。ここから逃げたいなら自殺でもしなきゃ仕方ないのよ。でも人生は一度きり。がんばって生きていかなきゃ。そうでしょう?」

「し、しかし・・・」

「やれやれ。手のかかる勇者だこと。とにかく、自己紹介させなさいよ。あたしはマープル。あんたの頼りになる従者よ。あんたの怪物退治のお手伝いをするわ。まあ、地獄界の案内役といったところかしら。」

「・・・頼りになる従者?何を言ってるんだ。おまえは、ただの小娘じゃないか。」

「あら、そうよ。だって、その方がいいでしょう?あんたの好みにあわせたつもりなんだけど。それとも、筋骨隆々たる毛むくじゃらの大男の方がうれしいの?お望みとあれば、いますぐ変身しますわよ。変身オプションはいくらでもあるんだから。」

「ま、待て。分かった。娘姿の方がいい。あたりまえだ。ええと・・・それで?」

「それでって、何よ。あたしは、あんたの従者だって言ってるじゃないの。あれしろ、これしろと、あたしに命令すりゃいいのよ。命令しなきゃ、何もしてあげないわよ。」

「そうか。よし。では、マープルよ。ここはどこだ!」

「あら。ずいぶん、威張るのねえ。お殿様みたいじゃないの。」

「だって、おまえは僕の家来だろう。」

「そりゃ、家来ですけどね、あんただって、あたしが案内してあげなきゃ何にもできないんだから、もう少し遠慮したらどうなのよ。」

「そうか。じゃあ、マープルさん。ここはどこですか?」

「見たとおりの荒野よ。べつに地名なんてないわ。」

「おい。君も、ずいぶんな態度だな。ここが荒野だってことくらいは僕にだって分かってるよ。これからどうすればいいかって聞いてるんだよ!」

「あらあら。怒っちゃってさ。どこですかって言うから、そのとおりに答えてあげたのに。これから、あんたは、地獄の門を開いて、三匹の地獄の怪物を倒すのよ。」

「三匹の怪物?」

「そうよ。三匹いるのよ。たいへんね。がんばらなくっちゃ。」

「で、その三匹の怪物とやらは、どういう化物なんだ。」

「そんなこと、地獄門を開けなきゃ分からないわよ。とにかく、地獄門に行くわよ。ついて来なさい!」

「はい。」

 行けども行けども荒野は続く。この鎧の重さはどうにかならんのか。背骨が折れそうだ。ああ、足が痛い。豆だらけだ。手もだるい。のどもカラカラだ。もう、泣きそうだ。

「おい。マープル。」

「何よ。」

「疲れた。へとへとだ。」

「だから?」

「休もう。」

「もう。しっかりしなさいよ。あんた、勇者なんでしょう?」 

「勇者なんかじゃない。」

「勇者なのよ!まだ寝ぼけてんの?まったく、情けないわね。それじゃ、あたしが、ドラゴンに変身するから、あたしの背中に乗りなさいよ。地獄門まで空を飛んで行くから。」

「ドラゴン?」

「そうよ。変身オプションにあるのよ。変身しろって命じればいいのよ。」

「へえ。じゃあ、マープル、ドラゴンになれ!」

娘姿のマープルはたちまち、身の丈三メートルを超すような竜の姿となった。竜は、象をも頭から噛み砕きそうな牙がずらりと並んだ口から、ぼうっと紅蓮の火炎を吐くと、背中の翼をバサリバサリとはためかせて、

「さあ。勇者よ。我が背中に乗るがよい。」

矢垣は驚愕の余り腰が抜ける思いで、

「あ、あの・・・」

「なんだ。早く背中に乗らないか。もたもたするな!」

「ひゃあ。す、すいません。あ、あなたは、マ、マープル、さん、でしょう?」

竜は、口から炎をあふれさせつつ、

「いかにも!」

「あの、む、娘のマープルに戻ってください・・・」

竜は、その赤い眼で、ぎろり、と矢垣を睨みつけると、

「娘の方がいいのか?」

「は、はい。」

たちまち竜の姿は消えて、娘姿のマープルが大笑いしている。

 ようやく地獄門にたどりつくと、矢垣は息も絶え々々に、

「ああ、やっと着いた!」

その場にばったりと倒れ込んだ。

「ほらほら。寝てる場合じゃないわよ。門を開けなきゃ。」

「おまえが開けてくれ。もう動けない。くたくただ。」

「あたしが開けてどうするのよ。あんたが開けなきゃ意味ないのよ。もう!世話が焼けるわね。」

マープルに引きずられて、矢垣は、その黒々とそびえる巨大な門の前によろよろと立ち上がった。

「おーい。開けろ!おーい!」

「ぷっ。馬鹿ね。開けろってわめいたって開きゃしないわよ。あんたが自分で押し開けるのよ!」

「ああ、そうなの。」

矢垣は門扉に両手を突くと、

「よいしょ!」

びくともせぬ。

「えい!うん!だめだ。開かん。おい、マープル。おまえもぼけっと見てないで手伝えよ。」

「はいはい。さあ、行くわよ。よいしょ!」

「よいしょ!」

「えーい!」

「ううむ!」

「ふう。だめね。」

「だめだ。あきらめよう。」

「もう。あんた、なんでそう、情けないことばっかり言うのよ。」

「だって、開かないじゃないか。べつに好きで地獄に行きたいわけじゃないんだ。開かなきゃ開かなくてけっこうですよ。ふふん。」

「あ。そうか。なるほど。」

「何だよ。」

「あんた、いま、言ったじゃない。好きで地獄に行きたいわけじゃないって。つまり、この門は、地獄に落ちる者だけが通れるのよ。」

「だから?」

「もう。鈍いわね!要するに、あんたが地獄に落ちるようなことをすればいいのよ。」

「どこで?」

「ここでよ!」

「何を?」

「知らないわよ!何か、地獄に落ちるような悪いことをすればいいのよ!さあ、早く、何か悪いことをしなさい!」

「そんな、急に言われても。何をしろって言うんだよ。ここには、おまえと僕しかいないのに。まさか、おまえを・・・」

「あら。何よ、その目は。いやらしいわね。いま、何を考えたのよ。正直に言いなさいよ。」

「いや、べつに・・・」

「うそばっかり。最低!地獄に落ちるわよ!あ!今よ、いま!早く、門を押して!」

あわてて矢垣が門を押すと、扉はすうっと音もなく開いた。

「やっぱり!あんた、地獄に落ちるようなことを想像してたのね!最低!」

「いや、その、まあ、いいじゃないか。門が開いたんだから。で、これからどうする。」

「これからが、いよいよ怪物退治じゃないの。馬鹿。」

「馬鹿は余計だ。で、その怪物とやらはどこにいるんだ?」

「さあ。そのうち出て来るわよ。」

 地獄門を過ぎて歩くことしばし、大きな街にたどり着いた。石畳の道路を何台もの馬車が軽快に走り、物売りたちが店を連ねる市場は人々でにぎわっている。

「何だい、こりゃ。ふつうの街じゃないか。これが地獄?」

「そう。地獄。あの物売りたちも、あの恋人たちも、みんな、地獄の亡者よ。あんたもね!」

マープルが、きっと睨んだ。

「まだ怒ってるのか。悪かったよ。いい加減、機嫌直してくれよ。あ、ほら、ケーキ屋だよ。おいしそうだねえ。ケーキ買ってあげようか?」

と、その時、

「おお!これはこれは、誉れ高き勇者ではないですか!」

驚いて矢垣が振り向くと、福々しく肥満した立派な身なりの中年男が、くちひげをひねりながら満面の笑みを浮かべている。

「ええと、すみません、どなたでしたっけ?」

「おっほほほ。これは申し遅れました。誉れ高き勇者。わたしは、この街の市長のカイザルと申します。よくぞおいで下さいました。市民を代表して心から歓迎します。」

「あ。それはどうも、ご丁寧に。勇者の矢垣です。あははは。」

市長自らの歓迎に、矢垣はすっかり上機嫌であった。が、その傍らで、マープルが声なくつぶやいた。

「おでましね。第一の怪物。」

 

              三 市長

 その夜、市長の宮殿では、奢侈を極めた勇者歓迎晩餐会が盛大に催された。市の有力者たちはことごとく招かれ、口々に勇者を讃えつつ美酒に酔い、山海の珍味を飽食した。

「やあ。愉快ですな。誉れ高き勇者。わっははは。」

「やあ市長。ほんとうに。勇者の矢垣です。あははは。」

「おや。勇者。あの可愛らしいご家来はどちらへ?」

「ああ、あの小娘ですか。あれは、ほれ、あそこに。」

 マープルは、会場の隅で、ぶっとふくれ面をしていた。

「見っともない。べろべろに酔っ払って!相手は怪物だって注意してあげたのに!」

 市長は、マープルの様子をちらりと見ると、

「何か、機嫌が悪そうですな?」

「いやいや。まだまだ子どもですからねえ。お酒の香りに酔っ払ったんでしょう。あっははは。」

「ふうむ。そうですか。酔っているようにも見えないが・・・いやまあ、それはともかく、勇者、実は、ちょっと、折り入って相談があるんですがねえ。」

「ほう。この勇者に相談とは?」

「なあに、決して勇者のご迷惑になるような話じゃありません。きっと喜んでいただけると思いますよ。時に勇者、お酒はお好きですかな?」

「もちろん。」

「では、その、あちらの方は?」

市長は、舞い踊る美女たちに視線を送った。

「あっははは。そりゃ、もちろん!」

「それを伺って安心しました。さすがは勇者。器が大きくていらっしゃる!」

「いやいや、それほどでも。勇者ですから。あっははは。で、それが何か?」

「ええ、まあ、そこで、ご相談なんですがね、そういう人間としての楽しみを、勇者には思う存分堪能していただきたいと思いましてね。」

「いやもう、既に十分に堪能してますよ。」

「いやいや。そうではなく、これからも、末永く、永遠に、ということですよ。」

「永遠に?」

「そうです。今日も、明日も、明後日も、ずっと、毎日々々、この宮殿で、美酒と美女とを思う存分に堪能していただきたいと思いましてねえ。もし、勇者がこの街の守護者としてこの宮殿にとどまることを私と契約してくだされば、勇者に永遠の逸楽をご提供させていただきますが、いかがですかな?」

「ははは。そりゃあ、夢のようなお話ですねえ。しかし、毎日々々じゃあ、さすがに、飽きるでしょうなあ。」

「飽きる?美酒と美女に飽きる?この美酒に?あの美女たちに?まさか!勇者。わたしはね、これまで毎日毎晩数え切れないほど逸楽の夜を過ごしてきましたがね、ただの一度も飽きたことなどありませんよ。まあ、選りすぐりの美女たちを毎晩何人も相手にしていると、さすがにくたびれることはありますがねえ。」

そう言って、市長は、にたりと笑った。

「それはまた、うらやまし・・・あ、いや、しかし、永遠にと言ってもねえ、年老いてからは、さすがに、そういう楽しみは・・・」

「おやおや。さすがの勇者も年齢には勝てませぬかな?おっほほほ。でも、ご心配には及びませんよ。たとえ肉体が老いても、快楽を楽しみ続ける秘術があるのですよ。」

「秘術?」

「そうです。秘術と言っても、べつに、魔法なんかじゃありませんよ。少しばかり、医学的な処置を施すだけです。人間の体というのは、実に精巧にできてましてね、それだけで、永遠の快楽を楽しめるんです。」

「医学的な処置というと?」

「うふふ。たいしたことじゃありません。まあ、ドリンク剤を飲むようなもんですよ。それに、そんなことは、勇者が年老いてどうしても快楽を楽しめなくなってから考えればいいことじゃないですか。いまから何十年も先のことですよ。」

「そりゃまあ、そうですが・・・」

「さあ。勇者。どうですかな。私と契約してくださいますかな。永遠に、美酒と美女を堪能したいとは思いませんか。うふふふ。」

「永遠に・・・」

「そう。」

「美酒と美女を・・・」

「そうです。」

「た、堪能!」

「その通り!いや、ご立派!さすがは勇者。人として生まれたからには、逸楽を存分にむさぼらずして何の甲斐がありましょう。そうでしょう、勇者よ!」

「そ、そうだとも!」

「えらい!これで話はまとまりましたな。それでは、さっそく明日にでも、契約調印式をやりましょう。おやおや、勇者を迎える宴も、もはや乱痴気騒ぎになってしまった。どれ、そろそろお開きとしよう。勇者もお疲れでしょう。さっそく、あの者たちに、お休みのお世話をさせますから。」

そう言って市長が合図を送ると、舞い踊っていた美女たちがいそいそと寄り集まってきた。

「おまえたちに誉れ高き勇者のお世話を命じる。たっぷりとお世話をして差し上げるようにな。たっぷりとな。」

美女たちに手を取られてふらふらと立ち上がる矢垣に、市長は、にたりと笑いかけた。

「では、勇者。ご存分に。」

 美女たちに手を引かれながら、ふかふかの絨緞が敷き詰められた廊下を雲を踏むような心地で酔歩を運んでいくと、やがて大きな扉が開かれた。磨き上げられた大理石の床がつやつやと照り映えるその部屋の中心には、天蓋付きの豪華なベッドが据えられている。

 矢垣は、ベッドに倒れ込むように寝転んだ。雲の中に体が浮いているような心地よさだ。と、そのうち、何本もの細く嫋やかな腕が伸びてきて、矢垣の埃まみれの鎧やら、汗だらけの下着が一枚一枚はぎとられていく。

「ああ。いい気分だ。なるほど、飽きるわけがない・・・」

矢垣は半分眠りながら、

「あのねえ、お風呂に入りたいんだよねえ・・・」

が、美女たちの返事はない。

「ねえ、君たち、お風呂・・・」

やはり、返事はない。矢垣は、閉じかけた酔眼をぼんやりと開けた。

「わあ!」

目の前に立っているのは冷然たる表情のマープルで、

「この馬鹿!」

「な、なんだ、おまえ!」

「さっさと鎧を着けなさい!」

「び、美女は?」

「丁重にお引取り願いました。」

「なんで!」

「なんでですって?カイザルは怪物だって言ったでしょう!それをまあ、勇者々々っておだてられて、べろべろに酔っ払った揚句に、あろうことか色仕掛けなんかに引っ掛かって、見っともないったらないわよ!最低!」

「いや、その、僕はただ、美女の美しさを鑑賞したかっただけで、つまり美術的な・・・」

「お黙んなさい。馬鹿。あんた、あの美女たちが何か分かってるの?地獄の亡者よ!」

「だって、僕たちだって、亡者じゃないか。」

「僕たちって言わないでよ。亡者はあんただけよ。あたしは、しぶしぶついてきてあげてるだけなんだから。やれやれ。どうにもお馬鹿さんだから教えてあげるけど、あんたが美女だと思ってたあの亡者たちの本当の姿はこれよ!」

そう言って、マープルは、クロゼットの扉を開けた。そこには、肉が腐り落ち半ば白骨化した憐れな肉体をよじらせる数匹の異形の生き物たちがうごめいていた。

「これは・・・」

「美女よ。一緒にお風呂に入る?」

「可哀相に。ひどい姿だ・・・」

「そう。この亡者たちは、永遠の若さと美しさを手に入れたくて、カイザルに魂を売ったのよ。けれども、本当の姿はこれよ。この亡者たちは、自分たちが若く美しいままだと思い込まされているのよ。」

「思い込まされてる?」

「そうよ。いらっしゃい。からくりを見せてあげるわ。ほら、早く鎧を着けて!」

 マープルは、矢垣を寝室から連れ出すと、宮殿の医務室の扉の前に来た。

「何だ?医務室?」

「そうよ。その扉を開けて。」

矢垣が医務室の扉を開けると、ランプの薄暗い明かりの下で、大きな水甕が無数に並んでいるのが見える。

「何だ?」

「中に入って、よく見なさいよ。あの水甕の中にあるのは何よ。」

矢垣は医務室に入って、水甕をのぞきこんだ。

「わっ!これは、脳みそじゃないか。脳みそが水甕の中に浮いてる。」

「そう。カイザルに魂を売った亡者たちの脳みそよ。あの美女たちの脳みそも、その中にあるはずよ。脳みそに、電線がたくさんつないであるでしょう?その電線は、隣の部屋の大きなコンピュータにつながってるのよ。カイザルが、そのコンピュータにデータを入力すれば、憐れな脳みそたちは、ありもしない世界の幻を見るというわけね。あの美女たちも、その水甕の中で、永遠の若さと美しさの夢を見続けているのよ。本当の体はもう、腐り果てて、カイザルの操り人形にされているだけなのに。」

「カイザルめ。これが、医学的処置というわけか。許せぬ!行くぞ、マープル!」

「あら。はじめて勇者らしいことを言ったじゃない。」

 剣を手に、矢垣は市長室に突進した。

「カイザル!よくも可哀相な亡者たちを苦しめ辱めたな。この勇者が膺懲の鉄槌を下してくれる!」

「おや。勇者よ。どうなさいました?」

カイザルは椅子から悠然と立ち上がると、にやにやしながら矢垣の方へ歩いてくる。

「む。カイザル!覚悟しろ!やあっ!」

矢垣が剣で斬りつけると、剣は、カイザルの体をすっと通り抜けた。

「あ。これは幻じゃないか!カイザル、出て来い!」

幻のカイザルは、葉巻をくゆらせながら、

「あっははは、出て来るわけにはいきませんねえ。その途端にばっさり斬られちゃかなわんからねえ。」

「卑怯な!」

「ほほう。卑怯ですか?卑怯でけっこう。ちっともかまいませんな。わたしは勇者じゃないからねえ。ふふふ。それより、勇者よ、ゆっくり話し合った方がよさそうですな。どうやら、何か、大きな勘違いをしておいでのようだ。」

「勘違いなどしておらん。この怪物め!きさまが魂をむさぼる亡者たちの無念を思い知らせてやるから覚悟しろ。」

「はてさて。勇者ともあろうお方が奇怪なことを仰せだわ。わたしが亡者たちを苦しめていると?馬鹿々々しい。あの亡者どもは、永遠の若さと美貌を手にしたくて、自ら望んでわたしに魂を売ったのだ。わたしに魂をむさぼられながら喜んでいるのですよ。」

「黙れ!幻の喜びを信じ込ませているだけじゃないか!」

「幻?おっほほほ。いかにも、幻ですよ。だから何だっていうんです?幻であっても、あの亡者どもにとっては現実の喜びなのだ。いいですかな、勇者よ。世界など、所詮、脳の生み出す映像に過ぎないのですよ。感覚器から神経を介して伝わってくる電気信号を脳が解像しているだけのことだ。まあ、テレビと同じですよ。それも実に高性能なテレビですよ。何せ、画像や音だけでなく、味も臭いも肌触りまでも生み出すんですからね。人間というのは、まったく、たいした機械だ。電気信号さえ与えておけば、どんな世界でも生み出せる。感情も、ほんのちょっと、合成ホルモンを脳に与えればいいだけのことだ。永遠の快楽が欲しいなら、培養液に脳髄だけを浸して、そこにプログラムされた悦楽の電気信号と少量の快楽ホルモンを送り続ければいい。もっとも、文字どおり永遠に、というわけにはいきませんがね。脳髄そのものが死ねばおしまいですからね。けれども、自分が死んだかどうかなんて脳みそ自身にはどうせ分かりゃしませんからね。死んだと気付いたときには、もう自分は存在していないんだから、気付きようがないわけだ。おかげで、詐欺で訴えられることもないというわけですよ。おわかりかな、勇者よ。水甕の中の脳髄にとっては、幻と現実の区別など無意味なんですよ。現実と信じていることが、実は電気信号の幻に過ぎなかったとしても、そのことに気が付くことはない。確かなのは、脳髄が生み出す目の前の世界だけだ。それならば、幻であれ何であれ目の前の逸楽を大いに楽しもうではないか。誰しも、楽しい夢なら永遠に覚めないでほしいと願うだろう。どうだ、勇者よ。わたしにその魂を売れ。全世界の支配者になる幻を永遠に見続けさせてやろう。世界中のあらゆる美女を堪能し、あらゆる美酒美食を満喫したいとは思わぬか。」

「欲望の奴隷にはならぬ!」

「わっははは。その通り!欲望の奴隷だ。が、それのどこが悪い?なぜ、欲望を否定せねばならぬ。勇者よ。人の幸せとはいったい何だ。美しき恋愛にせよ、慈悲深き博愛にせよ、およそ人の願う幸せとは、所詮、おのれの欲望を満たすことに他ならぬ。もし世界中の人間がわたしに魂を売るというなら、わたしは全ての人間に逸楽の幻を永遠に見せてやることができるぞ。金が欲しいなら世界中の金銀宝石をくれてやる。好色な男には世界中の美女をはべらせてやる。清純な乙女には草花の香りにつつまれたおとぎ話のような世界を謹んで贈ろう。戦いを憎むものには微笑みに満ちた人々だけの世界を進呈しよう。人間の欲望の世界など、この宮殿の大型コンピュータなら、一瞬のうちにプログラミングして、電気信号に変換できるのだよ。世界中の人間がわたしに魂を売れば、世界中の人間が幸せになれる。それは、悪いことかな?」

「そんな世界は、きさまが一方的に見せているだけじゃないか!水甕の中で幻を見せられている脳みそたちは、言いたいことも言えず、行きたいところへも行けないじゃないか!」

「おやおや。勇者よ。だから、大きな勘違いをしていると言ったのだよ。わたしのご提供する欲望の世界は、そんな一方通行の安物ではありませんよ。水甕の中の脳髄が、何かを言いたいと思って声を出そうとすれば、脳髄から微細な電気信号が出ますからね、その電気信号をコンピュータの側で感知して、あたかも本物の声が出ているような幻を合成して脳髄に送り返してやるんですよ。すると、脳髄は、本当に声を出したように感じる。もちろん、それが相手のいる会話なら、相手の受け答えも合成してあげますよ。くだらない冗談であれ、愛のささやきであれ、あらゆる会話内容に対応できるように準備してありますからね。脳髄がどこかに行きたいと思ったときも同じですよ。足を動かそうとする電気信号を感知して、本当に足が動いているような感覚を合成して脳髄に送り返してやればいい。無論、風景も、街を歩く人々も、すべて合成して送り返す。すると、水甕の中の脳髄は、あたかも自分の足で世界中を歩き回っているかのように感じる。お分かりですかな。わたしのご提供する欲望の世界を、一方的な見世物みたいに思われては困りますな。脳髄は、水甕の中にいながらにして、友人や恋人と会話を楽しみ、世界中の観光地を巡り歩くことができるのですよ。もちろん、会話や旅行だけではない。脳髄の電気信号によってなされる行動はすべて、コンピュータによって合成されて、脳髄に送り返される。そこではもはや、現実と幻の区別など無意味です。脳髄にとっては、脳髄がいま認識している世界こそが現実なのです。水甕の中の脳髄は、自分が既に体を失った一個の脳髄に過ぎないなんてことには、ちっとも気が付くことなく、その脳細胞が崩壊するまで、お望みどおりの欲望の世界を存分に満喫できるというわけです。どうですかな。納得していただけましたかな?勇者よ。」

「・・・し、しかし、もし、そんな欲望の世界が嫌になったらどうするんだ!」

「おっほほほ。ご心配なく。その世界が嫌になったら、別の世界をご提供させていただきますよ。さっきも言ったでしょう。およそ人の願う幸せなど、欲望に過ぎない。財宝に囲まれた人生にうんざりして、貧しくも清らかな生活にあこがれるようになる、なんてことは、まあ、よくあることですな。たくさんの美女をはべらした淫靡な悦楽よりも、一人の清楚な乙女に愛されたい、なんて気持ちは、わたしにも実によく分かります。けれども、それも、所詮、形を変えただけの欲望に過ぎない。人間など、欲望の衝動に従って動くだけの機械に過ぎない。ある欲望から別の欲望へと好みが変わったなら、それにふさわしい欲望の世界の電気信号を送ってやればいいだけのことだ。」

「むむ・・・」

「勇者よ。どうですかな。わたしに魂を売りたくなったかね?」

「く、口達者なやつめ・・・」

矢垣の困惑した様子に、背後で控えていたマープルが、 

「どうしたのよ。早く、がつんと言い返してやんなさいよ。」

「だって、いちいちもっともなんだもの。納得しちゃったよ。」

「あきれた。勇者が怪物に説得されてどうするのよ!」

「盗人にも三分の理だ・・・」

「馬鹿!理屈で負けちゃうなら、理不尽を押し通すのよ。無理の前には道理もひっこむって言うじゃないの。」

「そんな無茶苦茶な・・・」

「ちっとも無茶苦茶じゃないわよ。人は、みんな、幸せになるためだけに生きてるの?欲望だけで生きてるの?ひょんなことで、理由もなしに、わけの分からない馬鹿なことをしでかしたりすることだってあるじゃないの。魔がさすってやつよ。」

「むむ。なるほど。人には魔がさすってことがある。確かに、理屈にあわない、わけの分からんことを突然やらかすことがある。マープル、おまえの言うとおりだ。人は、欲望のためだけに生きてるわけじゃない。あえて理不尽に踏み迷うこともある・・・ふむ、なるほど・・・おいこら、カイザル!きさまは、人間など欲望の衝動に従う機械にすぎないと言ったな。けれども、人は、理不尽に踏み迷うとき、そんなことを望んではいないんだ。望んでもいないものを、きさまは電気信号に変換することなどできない。きさまが水甕の中の脳みそに送り込める電気信号は、欲望の電気信号だけだからだ。きさまの作り出す幻の世界には、理不尽というものがない。すべての人間が、欲望に向かってひたすら突き進むことを前提にしている。けれども、人間は、突然、何の理由もなく、その欲望の歩みを止めることがあるんだ。理屈では分からぬ理不尽な衝動にかられて、望みもしないわけの分からないことをしでかすことがあるんだ。なるほど、きさまの言うとおり、人間は、欲望を実現するためにあくせくと人生を送っている。けれども、人間は、欲望の奴隷ではない。なぜなら、理不尽に踏み迷うことができるからだ。その時だけは、人間は、欲望の拘束から逃れて自由になれるんだ。理不尽の自由があるんだ。その自由を捨てて、欲望の奴隷として生きなければならないのなら、たとえ全世界の支配者になったとしても、それが、この勇者にとって、何の意味があろう!」

「・・・やれやれ、理不尽の自由とはね・・・非合理的な愚か者と話し合いをしても時間の無駄だ。愚かな勇者よ、あなたとは決して分かり合えないようですな。さあ、お望みとあれば、その剣で私を倒すがいい。倒せますかな?ふふふ。わたしは決して滅びはしない。欲望に群がる憐れな亡者どもの魂を永遠にむさぼり続けてやる。」

「黙れ!怪物め。この勇者の剣でその永遠の悪業の鎖を断ち斬ってやる!」

「おやおや。まだ自分の立場がお分かりでないようだ。惨めな勇者よ。おまえは、すでに、わたしに食われているのだよ。この宮殿は、わたしの胃袋なのだ。」

「な、何?」

「うわっははは。驚いたかね。わたしの腹の中で魂を溶かされるがいい。」

そう言うと、カイザルの幻はすっと消えた。

「やられた!おい、マープル!」

「何よ。」

「どうにかしろ!」

「もう。どうしろっていうのよ。」

「分からんから頼んでるんだ!わっ!何だ、このべたべたしたものは。天井から降ってくるぞ。」

「消化液ね。」

「ひゃあ。は、早く、どうにかしてくれ。魂が溶けちゃうじゃないか!」

「まったく。かっこ悪いわねえ。要するに、怪物のおなかの中ってわけでしょう。一寸法師みたいに、そこら中、剣で突っついてみたら?きっと痛がるわよ。」

「なるほど。」

矢垣は、壁といわず床といわず所構わずに剣を突き立てて、

「怪物め。参ったか。おや?マープル、何だこりゃ?宮殿が縮んできたじゃないか!」

「あら。ほんとだわ。あんまり突っついて刺激しすぎたのかしら?胃痙攣?」

「馬鹿!おまえのせいだぞ。わあ、どんどん縮む。」

「ちょっ、ちょっと何よ!そんなにくっついて来ないでよ!」

「だって、壁がどんどん押してくるんだから仕方ないだろう!」

「やだ。離れて!いやらしい。」

「そんなこと言ってる場合か!ううむ。このままじゃ潰されてしまう。おお、そうだ!マープル、変身だ。ドラゴンになって宮殿を炎で焼き払ってしまえ!」

「そりゃいいけど、あんたも丸焼けになるわよ。」

「そ、それは困る。うう。く、苦しい。マ、マープル、変身だ、丸焼けになっても構わん、火を吹け!魂を食われてたまるか!脳みそだけの奴隷なんてごめんだ!」

竜の姿に変じたマープルの口から噴き出された紅蓮の炎の中で、矢垣の意識は遠のいた・・・  

 はっと気がつくと、矢垣は、荒野の真ん中で倒れていた。重い体を起こしながら、

「ううむ・・・何だ、生きているのか?」

「あら。お目覚めね。」

「おお。マープル。カイザルはどうなったんだ?」

「分からない。あたしも気が付いたらここで倒れていたわ。」

「やっつけたのかな?」

「どうかしら。こうして二人ともピンピンしてるんだから、やっつけたんでしょう。それとも、水甕の中の脳みそになって、こんな夢を見ているだけなのかしら?」

「よしてくれ・・・」

「ぷっ。冗談よ。馬鹿ね。まあ、とにかく、こんな所でぼんやりしていても仕方ないわ。行きましょう。」

「どこに。」

「どこにって、決まってるじゃないの、第二の怪物をやっつけに行くのよ!」

「え。もう?どこにいるんだよ。」

「知らないわよ。旅をしてれば、そのうち出て来るのよ!いいから早く立って歩くの!」

 行けども行けども荒野は続く。

「ああ。疲れた。ねえ、休もうよ。」

「だめ!あんた、休んでばかりじゃないの。足が痛いだの、腰が痛いだのって、一日歩いたら三日はごろごろして休んでるじゃないの。怪物退治がちっとも進まないわ。」

「あ!」

「何よ。」

「ほら。あそこに家があるよ。あそこで一休みさせてもらおう!」

「家?」

矢垣の指し示す方向にマープルが視線を送ると、なるほど、遙か遠方の小山の麓に一軒の家が建っているのが小さく見える。たちまち元気になって足を速める矢垣の背中を追いながら、マープルがつぶやいた。

「おでましね。第二の怪物。」

 

              四 隠者

 その古びた家の前で、矢垣は勇者らしく容儀を整えると、

「おーい。頼もう!」

家内からの答えはない。

「何だ。留守か?おーい。誰かいませんか?こんにちは!」

ドンドンとドアを打ち鳴らした。

と、突然ドアがパッと開き、

「うるさい!修行の邪魔じゃ!立ち去れ!」

怒声の主は、ミイラのようにひからびた老人であった。

 矢垣は、あっけにとられたが、気を取り直して胸を張ると、

「どうも。勇者です。しばし休ませていただけませんか?」

「だめじゃ。去れ!」

「僕は、勇者ですよ。」

「だから何じゃ。」

「だから、その、少し休ませて下さいよ。」

「だめじゃと言うておろうが。勇者とやら、お前、馬鹿か?」

「むっ!こ、このじじい・・・」

見兼ねたマープルが、矢垣を力まかせに押しのけると、

「まあ!高徳なる隠者さまではありませんか!お目にかかれてうれしゅうございます!」

すると、老人の固い渋面は、たちまち柔らかい笑みにくずれて、

「何?高徳なる隠者?ほ、ほ、ほ。いかにも、わしは、隠者のダイバじゃが、お前さんは?」

「初めてお目にかかります。あたくしは、地獄の荒野を巡礼に旅するマープルと申す未熟者にございます。そして、これは、」

と、きょとんとしている矢垣に目配せしつつ、

「あたくしの下僕にございます。まったく貴賤の別も弁えぬ無知蒙昧の憐れな愚か者でして、隠者さまにもたいへんな失礼をはたらきましたようで・・・」

「そうであったか。よいよい。愚か者に罪はない。かえって知恵を誇る者の方が罪深いものじゃ。これ!愚か者よ。良きご主人にお仕えできて幸せと思うがよい。」

「はい・・・」

 隠者は、二人を家内に招じ入れた。部屋には、粗末なテーブルと椅子とが置かれている他には調度らしいものとてない。

「見てのとおりの殺風景じゃ。何のもてなしもできんぞ。」

「何をおっしゃいます。隠者さま。徳高きお姿を拝見できただけでも無上の喜びでございます!」

「ほ、ほ、ほ。マープルとやら、そなたはなかなか世辞が上手じゃのう。荒野の一凡夫に過ぎぬ老人をあまりからかうでないぞ。」

「いいえ!隠者さまの徳高きは、この広大無辺の地獄界でも第一と皆が申しておりますわ。ああ、あたくしどもがこうして隠者さまにお目にかかれたのも天界にいまします恐れ多き御方のお導きかも知れませぬ。隠者さま。私ども迷妄の地獄の亡者をお憐れみになって、どうぞ、貴き救いの道をお示し下さいませ。」

「ほ。そこまでの願いとあらば、よろしい!このダイバが修行の果てについに会得した亡者救済の秘法をば特別に施してやろう。」

「まあ!隠者さま!ありがとうございます!」

「では、準備があるのでな。しばらく、ここで待っておれ。」

そう言うと、隠者は奥の部屋へ入った。

「おい。マープル。」

矢垣がささやいた。

「何よ。」

マープルがささやき返す。

「おまえ、あのじじいのことを知っていたのか?」

「馬鹿ね。知るわけないでしょ。一見して隠者と分かったから、ありったけのお世辞をでたらめに言っただけよ。」

「隠者って、何だよ。」

「あんた、何にも知らないのねえ。隠者ってのは、地獄界にありながらも、天界の救いを求めて修行に修行を重ねている亡者たちのことよ。」

「ふうん。亡者なのか。」

「あたりまえでしょ。ここは地獄界なんだから、みんな亡者よ。」

「修行すると天界に昇れるのか。」

「そんなこと知らないわよ。とにかく隠者はそう信じてるのよ。」

「何だ、隠者が信じているだけのことか。じゃあ、もういいよ。帰ろうよ。修行なんかどうでもいいよ。あのじいさん、何だか薄気味が悪いし・・・」

「あんた、ほんとに馬鹿ね。あれが、第二の怪物なのよ!」

「え。そうなの?」

「そうよ!だから、あのダイバって怪物の秘法とやらがどんなものか、この機会に見極めてやるのよ。とにかく、あのじいさんの言うことに話をあわせるのよ。いいわね!」

「はい・・・」

 矢垣たち二人の前に戻ってきたダイバは、みすぼらしい破れ衣から絢爛たる法衣に着替え、腰には長大な破魔の法剣を佩き、これが先ほどのひからびたような老人と同一人物かと疑わせるほどの堂々たる風格で、

「待たせたのう。わしが日々修行しておる祭壇はこの裏山の頂上にあるのじゃ。付いてまいれ。」

 隠者の後に付いて裏山を登ると、頂上には展望台のような祭壇が土砂を固めて築いてあった。

「この祭壇の上で、日々、天界への祈りを捧げるのじゃ。さあ、上がるがよい。」

言われるまま階段を昇って祭壇に上がる。

「どうじゃな。よい見晴らしであろう。このあたりでは一番高い場所じゃからな。広漠たる地獄の荒野の果ての果てまで見晴るかすことができる。わしは、この神聖なる祭壇上に立って天界に祈りを捧げる度に、新たなる感動と戦慄とを覚える。それもすべて、日々の厳しい精進の賜物じゃ。生半可な修行では、祈りが天界に通じるはずもないのじゃ。見よ、この地獄界にうごめく愚かな亡者どもの有様を。欲望の赴くまま悪業三昧の爛れた日々を送って恥じるところもなく、そのくせ、いよいよ地獄の苦しみに堪えられなくなるや、悔い改めたと称して見え透いた空涙を流し、怪しげな呪文を唱えつつ大慌てで天界に救いを求めておるわ。何という厚顔!何という虫のよさ!わしは、そういう愚かな凡下の者どもの所業を最も憎む。そういう連中に、何で、救いがあるものか。いや、あってはならぬ!永劫、無間地獄の苦しみに苦悶し泣き叫ぶがいい!」

ダイバは怒りにふるえながら絶叫した。矢垣とマープルは驚いて、思わず後ずさりした。と、二人の様子に気付いたダイバは、

「あ、いや、これはまた、怒りのあまり、つい、年甲斐もなく激したわい。どうやら驚かせたようじゃな?」

「そ、そんなことはありませんわ。心に沁みるお言葉でございます。まことに、欲望に溺れる凡下の者どもの愚劣さ身勝手さときたら我慢がなりませんわね。吐き気がします。いっそのこと天の雷火で皆殺しにしたいくらいですわ!」

「ほう。マープル。そなたはなかなか救いの道の法理を弁えておるの。どうじゃ。そこの愚か者。おまえも少しは、わしの話が分かるか?」

「え?あ、僕?」

「おまえ以外に誰がおるか。」

「は。その、ま、まことに、あの凡下の者どもときたら、機関銃で皆殺しにしたいくらいですねえ。」

「ほんとにそう思っておるのか?頭の悪そうな顔をしおって。まあよいわ。では、早速、我が会得したる亡者救済の秘法を執り行うとするか。さあ、マープルよ、その場に跪け。」

「はい。こうでございますか?」

「そうじゃ。それでは、両手を胸の前で合わせよ。」

「はい。」

「目を閉じよ。」

「はい。」

「おう、そうじゃ。それでよい。これ、そこの愚か者!」

「え?あ、はい。」

「これから、マープルの魂を救済する秘法の儀式を始めるのじゃ。おまえは、この祭壇から降りよ。」

「あ。はいはい。」

 矢垣はあたふたと祭壇を降りると、壇上に目をやった。マープルが神妙そうに目を閉じて跪いている。その背後で、ダイバが、両手を天に向かって広げ、なにやらぶつぶつと祈祷を捧げている。と、ダイバは、おもむろに法剣を鞘から抜き放つと、跪いて瞑目しているマープルの傍らに立ち、マープルの白いうなじに視線を定めつつ、法剣をゆっくりと振りかぶった。

「な、何だ?」

矢垣の背中をすっと冷たいものが走った。マープルはと見れば、まるで催眠にでもかかったかのように微動だにせず跪いている。矢垣はあわてて剣を引き抜くと、

「マープル!」

ダイバに向かって剣を投げつけた。

「うむっ!」

ダイバは、飛んできた矢垣の剣を法剣で叩き落とすと、

「下郎!何の真似だ!」

「おい、ダイバ!その剣は何のつもりだ!」

「黙れ、下郎!神聖なる儀式に愚昧なる凡下が口を挟むな!」

「まさか、マープルの首を斬り落とそうとしていたんじゃないだろうな!」

「いかにも。この細い首を断ち斬るのよ。マープルの望みどおり、救いの秘法を施してやろうというのよ。わしが祈りを込めつつ自ら鍛えたこの法剣をもって、汚れなき乙女を汚れなきままに法悦の境地に導いてやろうとしておるのだ。きさまごとき凡下のおよそ知るところではないわ。」

「馬鹿な!首を斬り落とすことが救いというのか!マープル!目を覚ませ!」

「馬鹿め。マープルはもはやわしの術中じゃ。おまえの声など聞こえぬわ。」

「では、こうしてやる!」

矢垣は鎧の重さも忘れて飛ぶような勢いで祭壇上へと駆け上がると、渾身の力を込めてダイバに体当たりした。吹き飛ばされたダイバは祭壇の下に転げ落ちた。

「マープル!目を覚ませ!」

矢垣がマープルの頬をひっぱたくと、はっと、マープルが目を開き、

「あら。何よ?」

「逃げるんだ!」

「え?」

マープルはきょとんとしている。

「いいから、早く逃げるんだ!」

と、矢垣の背後で、

「下郎、血迷ったか。」

ダイバの冷やかな声がした。

 矢垣は、マープルを鎧の袖でかばいながら、

「黙れ!何が秘法だ。マープル!この偽隠者は、おまえの首を斬り落とそうとしていたんだ!」

「え?あたしの首を?」

「言語道断の偽隠者め。この勇者が許さんぞ!」

「ほ。許さぬとな?地獄界の惨めな亡者が何をほざくか。」

「黙れ!おまえこそ地獄の亡者じゃないか!」

「いかにも。わしは地獄の亡者の一人じゃ。それがどうした。わしとおまえとでは違いがないとでも言うのか?ほ、ほ、ほ。わしをいったい誰だと思うのか。わしはダイバ!広大無辺の地獄界において最も天界に近き誉れ高き隠者なるぞ!なるほど、我が肉体はおのれら凡下と似てはおろう。が、内なる魂は似ても似つかぬわ!わしは、この魂を清浄に保たんがため、ひたすら修行に勤めて一切の肉体の欲望を滅してきたのじゃ。何で、わしとおのれらとが同じであり得ようか。なるほど、わしは亡者じゃ。おのれらと同じ姿の亡者じゃ。いやむしろ、断食行で痩せひからびたわしの体は、おのれら飽食の亡者どもの豊かな肉づきに比べればはるかに惨めで醜くかろう。わしの貧しき庵は、おのれら亡者の中で最も貧しき者の破屋よりもさらに寒々しいであろう。が、構いはせぬ。そんな肉体の喜びなど、おのれら凡下にくれてやろう。そのかわり、わしは、魂の喜びを手にする。おのれら蒙昧なる賤民が逸楽の爛れた夢をむさぼる間も、わしは天界の門へと至る救いの道を爪を剥がし血を流しながら一寸々々虫のように這い進み続けたのじゃ。より多くの修行に精進した者の魂は、より大きく神に報われる誉れを与えられているのじゃ。わしが晴れて天界の門の扉をたたき天の御使いに祝福される様を、おのれら賤民どもは無限奈落の地獄の底から指をくわえて見ているしかないのじゃ。そのわしと、おのれら愚昧の亡者とが同じじゃと?寝ぼけたことを言うな!おのれら無知蒙昧の賤民ごときに、救いの道の何たるかが分かってたまろうか。なるほど、わしは、いま、マープルの首を打ち落とそうとした。それこそが救いになるからじゃ。およそ地獄の罪業は肉体の欲望から生ずるものよ。ならば、その肉体を滅してやることが無二の救いではないか。救ってくれと頼むから、首を打ち落としてやろうとしたまでよ。それのどこが悪い?許すも許さぬもあるまい。」

「・・・」

絶句した矢垣に、マープルが、

「あら。あんた、また、説得されちゃったの?」

「ううむ。困った・・・」

「馬鹿!あいつは、このあたしを殺そうとしたのよ!あんなやつ、問答無用でぶった斬っちゃいなさい!死んだほうが救いだって言うんだから、あんたがあいつを救ってやればいいじゃないの!さあ、早く、ぶった斬りなさい!」

「そ、そんな無茶苦茶な・・・む、いや、待てよ、なるほど・・・マープル、おまえの言うとおりだ。おい、じじい!」

「何だ。愚鈍の賤民。」

「きさまの汚らわしい魂を、この勇者が救ってやろう。ぶった斬ってやるから、おとなしく我が剣の錆となるがよい。」

「下郎。気でも狂ったか。」

「黙れ!偽隠者!おのれの首のみは大事なのか。語るに落ちるとは、きさまのことだ!おのれ一人も救えないくせに、何が救いの秘法だ。なるほど、きさまは、地獄界に氾濫する欲望を憎んで、それこそ血の滲むような修行に精進したんだろう。けれども、その修行の果てにきさまの得たものはいったい何だ。おのれひとりが神に選ばれて天界の門をくぐり、地獄界でなお欲望に溺れてもがき苦しむ亡者の憐れな姿を高見の見物で笑ってやりたいという、ただそれだけのことじゃないか。きさまは、復讐したいだけだ。地獄界の亡者に復讐したいんだ。いや、地獄界そのものに復讐したいんだ。なぜ、そんなにまで地獄界を憎むんだ?きさまは、口では地獄界を憎みながら、本当は、この地獄界が好きでたまらないんだ。地獄界を好きでたまらないからこそ、自分を受け入れてくれない地獄界が憎いんだ。きさまは、欲望にまみれた地獄界を愛しているんだ。欲望の罪業にもがき苦しんでいるのは、きさま自身だ!きさまの説く救いの道など、失恋したもてない男がやけくそになって、片想いの女の悪口を言いふらしているのと同じじゃないか。そうでないというなら、さあ、きさまの救いの秘法とやらで、さっさと自分の首を打ち落としてみろ!できないだろう!できるはずがないんだ。きさまの救いの秘法など、天界の名を借りておのれの復讐心を満足させているだけだからだ。きさまは、欲望の地獄界にふられたんだ。そうして、嫉妬のあまり、今度は、天界という絶世の美女に無理やり求婚を迫っているんだ。そんな身勝手な情けない男のプロポーズを、絶世の美女が、はいそうですか、と受け入れるとでも思っているのか。図々しいにも程がある。きさまは、欲望に溺れながら四苦八苦して生きている地獄界の亡者たちを嘲り笑うが、その亡者たちは、少なくとも、欲望に溺れている自分の無様な姿を知っているんだ。きさまのように、欲望に恋焦がれているくせに欲望を憎んでいるふりをしたりはしないんだ。まして、きさまのように、欲望に復讐するために天界の救いを求めたりはしないんだ。亡者たちは、ただ欲望の罪業から逃れたいという、それだけのために天界の救いを求めているんだ。きさまの言うとおり、欲望に溺れる亡者たちには天界の救いなどないかも知れない。けれども、そういうきさまは、その亡者たちよりもさらに、天界の門から遠くにいる! 」

「・・・この賤民めがよくもほざいたものよ。迷妄に血迷うその汚らわしき肉体を我が法剣で真っ二つに斬り割いてくれるわ!」

「斬り割きたければ斬り割くがいい!けれども、この汚らわしい肉体から流れ出る生臭い血が、きさまのご自慢の祭壇にたっぷりとしみ込むぞ!それでもいいなら、さあ、斬り割け!」

「こ、この・・・」

「斬り割けないだろう!地獄の亡者たちを見下すための聖なる祭壇だからな。きさまは、この祭壇から天界に祈りを捧げていたんじゃない。地獄界に向けて憎しみの言葉を投げ付けていただけなんだ。そんなきさまの声が、天界に届くはずがない。いや、そもそもきさまは、天界など信じてはいないんだ。きさまの信じる神とは、おのれ自身で築いたこの祭壇のことじゃないのか!」

「だ、黙れ!ふん。こんな祭壇など、いつでも造り直せるわ。広大無辺の地獄界、乙女の肉体など掃いて捨てるほど転がっておるからのう!」

「何だと?」

「ほ、ほ、ほ。奈落の業火にのたうつ愚鈍の賤民よ。おまえに教えてやろう。その足元の砂を見よ。」

「砂?」

矢垣は、足元の砂に目をやった。ただの白い砂である。

「この砂がどうした!」

「その砂は、わしが法剣をもって祈りとともに首を打ち落とした乙女たちの骨よ。」

「な、何?」

「賤民。聞くがいい。腐臭に満ちたこの汚濁の地獄界において、唯一残された純粋無垢なるもの、それが汚れなき乙女の肉体よ。その汚れなき肉体をば粉砕し、その骨肉をもって天界へと通ずる聖なる祭壇の砂となしたのよ。この山は、幾万の乙女たちの汚れなき骨肉をば、わしが踏み固め突き固めして築き上げたものじゃわい。」

「こ、この山は、乙女の骨肉だというのか?」

「そうよ。汚濁の地獄界における唯一の清浄地じゃ。地獄界と天界とを結ぶ聖なる山じゃ。乙女らは、その清浄の骨肉を我が聖山の砂として喜捨したというわけじゃ。まこと有り難き功徳じゃのう。ほ、ほ、ほ。」

「ゆ、許せぬ!もはや容赦せぬ。おい、マープル!」

「何よ。」

「ドラゴンに変身だ!この惨めな化物の救いがたき魂を、おまえの炎で焼き滅ぼせ!」

たちまち竜に変じたマープルの口から火炎が噴き出された。

「ほ。小賢しい。」

マープルの吐き出した炎の塊は、ダイバが呪文とともに閃かせた法剣に薙ぎ払われて霧散した。

「ふふふ。そんな弱々しい火では、わしの髪の毛一筋も焦がすことはできぬぞ。わしを焼き滅ぼしたいなら天の雷火でも持って来い!」

そう叫ぶや、ダイバは、法剣の刃を閃かせつつ突進してきた。

「わっ!」

間一髪で身をかわした矢垣は祭壇から転げ落ち、マープルは宙に舞い上がった。

「ううむ。とてもかなわん・・・」

地面に伏した矢垣の眼前には、白い砂が一面に広がっている。はっとして矢垣は身を起こすと、上空のマープルに向かって、

「マープル!山を焼け!この山は乙女らの骨肉だ。この山ごとダイバを焼き滅ぼせ!」

「いいけど、あんたも丸焼けよ。」

「え。またか・・・ええい、構わん、焼き尽くせ!」

マープルが空中を旋回しながら山の斜面に向かって火炎を噴き出していくと、骨肉の山はたちまち紅蓮の炎に包まれた。と、見る間に、山を被う炎は竜巻となって螺旋を描きつつ宙空天高く昇り、天地の間にそびえる一本の巨大な炎の柱となった。

「ああ、天の雷火だ・・・」

炎熱の中で、矢垣の意識は遠のいていった・・・

 気が付くと、例によって、荒野の真ん中に倒れていた。矢垣は、重い体を起こしつつ、

「助かったらしい・・・」

「そうらしいわね。」

「ダイバをやっつけたのかな?」

「あたしに聞かないでよ。あたしもいま気が付いたんだから。多分やっつけたんじゃないの?天の雷火がダイバに落ちるのを見たわ。」

「そうか、あれはやっぱり、天の雷火だったのか。幾万の乙女たちの祈りが天界に通じたのかも知れないなあ・・・」

「ぷっ。何よ。ずいぶん信心深いこと言うじゃないの。隠者にでもなりたくなったの?」

「隠者?ごめんだね。僕は欲望にまみれた亡者なんでねえ。」

「ほんとに汚らわしいわね。」

「こいつ。そんな憎まれ口をたたいていると、ほんとに汚らわしいことをやるぞ。」

「あら。やってごらんなさいよ。ドラゴンの火で黒焦げにしてやるから!」

「分かった分かった。まあ、ダイバもやっつけたみたいだし、それじゃ、いよいよ最後の第三の怪物を退治しに行くとするか!」

「あらあら、ずいぶん威勢がいいわね。その前に、あんた、ちょっと自分の顔を御覧なさいよ。」

そう言ってマープルは、手鏡を矢垣に手渡した。

「何だ。目やにでもついてるのか?」

「馬鹿ね。よく見なさいよ。そこにあるのは誰の顔よ。」

「ははは。何を言ってる。誉れ高き勇者の顔じゃないか。」

「そう。それが、第三の怪物・・・」

「何だって?」

 

               五 影  

 矢垣は、手鏡に映った自分の顔にしげしげと見入りながら、

「で、この怪物をどうしろというんだよ。」

「やっつけるのよ。」

「鏡の中の自分を?」

「馬鹿ね。いくらなんでも、鏡の中に入っていくわけにはいかないじゃないの。そのうち、向こうから出て来るわよ。あら。そう言ってる間に出て来たわ!」

「え。ど、どこに?」

と慌てて矢垣は辺りを見回して、

「何だ。誰もいないじゃないか。」

「どこ見てるのよ。怪物はあんたの足元にいるじゃないの。」

「な、何?」

ぎくりとして矢垣が視線を足元に落とすと、矢垣の足先から伸びた影がひらひらと地表から剥がれ始めている。

「ひゃあ。か、影が!」

 ひらひらゆらめく影は、ゆっくりと起き上がると、徐々に丸みを帯びていき、やがてもう一人の矢垣となった。もう一人の矢垣は、鎧兜ではなく紺のスーツにネクタイを締め、剣ではなく鞄を手に提げていた。

「やあ。勇者。始めまして、というべきなのかな?」

そう言って、影はにやりと笑った。

「お、おまえは、何だ!」

「見りゃ分かるだろう。ご覧のとおり、僕は、君の影だよ。つまり、君だ。」

「何しに出て来た!」

「おやおや。えらい剣幕だな。出て来ちゃいけないのかね?」

「あたりまえだ。影め。」

「なぜ?」

「なぜも何もあるもんか。おまえは影だからだ。影は影に戻れ。」

「ほほう。影だから影に戻れ、ですか。こりゃまた、ずいぶんと説得力にあふれるセリフだねえ。我ながらがっかりするよ。」

「何だと?影の分際で何を言いやがる!」

「影の分際と来たか。すると、何かね、君は、君のほうが僕より偉いとでも言うのかね?」

「あたりまえだ。おまえは影じゃないか。僕がいなきゃ、おまえは存在しないじゃないか。僕の方が偉いに決まってる!」

「やれやれ。君は、僕のことを影だというが、君だって、僕から見ればただの影さ。」

「くだらんことをごちゃごちゃ言いやがって!見ろ!」

と矢垣は、両手をパンパンと打ち鳴らし、

「影に過ぎないおまえに、こんな真似ができるか!僕には、れっきとした体があるのだ。恐れ入ったか。影め。さっさと地べたにへばりつけ!」

「れっきとした体?ばかばかしい。これを見たまえ。」

そう言うと、影は、パンパン、と手をたたいて見せた。

「手をたたくことくらい、僕にもできますがねえ。と言うことは、僕にも、れっきとした体があると言うわけだ。ふふふ。」

「な、何だ?おまえは影だろう。何でおまえに体があるんだ?おかしいじゃないか!」

「ははは。べつにちっともおかしくはない。僕が手をたたく姿が君の目に映り、その音が君の耳に聞こえたというだけさ。そんなことは、体があることの証拠でも何でもない。君が目を閉じ耳をふさいでいたなら、僕が手を鳴らしたって何の意味もないからね。君がやったことも同じさ。君は、いま、手を打ち鳴らして、体があることを証明してたみたいだけど、それだって、君の耳に聞こえた音、君の掌の感じた痛みに過ぎないじゃないか。君が目を閉じ、耳をふさぎ、痛みを感じない麻酔注射でもしていたら、君は、自分の体があることをどうやって証明するのかね。目に見え耳に聞こえるから、それを信じることができるだけだろう。音や痛みや光の認識がなければ、君の体なんかどこにもありはしないのさ。では、認識とは何かね。影さ。音も痛みも光もみんな君の影だ。影がいるから君は存在できるんだよ。鏡に映った自分の影を見てはじめて、自分の存在を信じることができるに過ぎないのさ。」

「・・・」

「分かったかね。確かに、僕は君の影だがね、僕の方がよっぽど君なんかより偉いのだよ。」

「こ、こいつ・・・」

言い返す言葉が見当たらずに歯がみする矢垣に、マープルが、

「もう。またまた説得されちゃったわけね。」

「こ、こりゃもう、問答無用でぶった斬るしかないな・・・」

すると、影は、

「え?僕をぶった斬る?ははは。いま言ったばかりじゃないか。君は、影がいなくちゃ何にもできないのだよ。存在することさえできないんだ。僕をぶった斬ったら、君もたちまち消え去るよ。それでもいいのかね?まさか、そこまで馬鹿ではあるまい?」

「こいつ、言いたい放題言いやがって!問答無用だ。マープル、ドラゴンになって、こいつを焼き払ってしまえ!」

「え?だって、そんなことしたら、あんたが消えてなくなっちゃうんでしょう?いくらなんでも、そんなことできないわよ。」

「むむ。じゃあ、どうすればいいんだよ。」

「知らないわよ。あんた勇者でしょう。自分でどうにかしなさいよ。」

「冷たいやつだ。うん?待てよ。マープル。おまえには、僕が見えているんだよな。」

「あたりまえよ。」

「なあんだ。そうか。おい、影!」

「何だね。」

「おまえは、僕が影なしには存在もできんと言いやがったな。残念でした。このマープルが証人だ。おまえなんぞいなくても、このマープルが僕の存在を証明してくれる!」

「君・・・」

「なんだ!影!恐れ入ったか!」

「君は、馬鹿だな。」

「むっ!何が馬鹿だ!」

「マープルが見ているものも、君の影ではないか。君の姿が見えなくなったら、マープルはどうやって君の存在を証明できるのかね。君の周りにいる者も君の影を見ているに過ぎないのだよ。君の親兄弟も、君の友人も、職場の上司も同僚も、地下鉄の改札の駅員も売店のおばさんも、みんな、君の影を見ているだけさ。彼らは君の影を見て、君の影に向かって話しかけているだけだ。そして君もまた、彼らの影を見ているだけだ。他者の存在など、証明不可能なんだよ。君の周りの人間関係なんて、影と影とのつきあいに過ぎないんだ。そうして、そういう影同士の人間関係の中で、君は、喜んだり悲しんだり、あれこれと思い悩んだり、ぶつぶつ文句を言ったりして日々を過ごしているというわけだよ。君という人間の実体など、どこにも存在しない。君の存在なんて、影と影との関係に過ぎない。そして、それが、君のすべてだ。君から影を取ったら、後には何も残りはしない。君は、僕を影だと言うが、君こそ影そのものなのだよ。」

「僕が影そのものだと?」 

「そうとも。君のその体も、君が頭で考えることも、みんな影だ。君という実体なんかどこにもないんだよ。ひょっとして君は、君という人間から一切の影を取ったとしても、何か透明の形のない実体だけは残るとでも思っているんじゃないかね?ふふふ。残念ながら、そんなものはどこにもない。君から影を取れば、君は完全に消える。無になる。いや、君だけじゃない。この世界のすべてが、影を取れば消えてしまうのだよ。世界に実体などないのだ。世界は影の集合に過ぎない。認識の作り出した幻に過ぎないのさ。」

「何だ、カイザルみたいなこと言いやがって!」

「カイザル?ああ、そうか。君は、カイザルやダイバをもう知っているのか。カイザルもダイバも、まあ、僕から見れば、世界のことがちっとも分かっちゃいないね。いいかね、君、僕がいま言ってることは、カイザルなんかの言う世界のことじゃないんだよ。勘違いしないでほしいな。カイザルの言う世界は、脳髄が感知する世界のことだ。確かに、脳髄に電気信号を送れば、脳髄にとっての現実の世界が現れる。その時、脳髄の感知している世界には、無論、実体はない。けれども、脳髄自身は、存在している。この世界が、脳髄の電気信号にすぎないとしても、脳髄自身は電気信号では有り得ない。脳髄は疑いようのない実体としてはじめから存在しているんだ。脳髄の存在を疑い得ない以上、脳髄を培養液に浮かべた水甕も、脳髄に電子信号を送るコンピュータも存在していることになる。コンピュータを据え付けた宮殿も存在している。そうやって、どんどん拡大していけば、結局、世界のすべてが存在していることになる。要するに、カイザルは、この世界の存在を疑っているわけではないのだよ。脳髄の感知している幻の世界は、あくまで幻の世界であって、現実の世界じゃないんだ。現実と幻の区別ははっきりしているんだ。ただ、水甕の中の脳髄だけが、現実と幻の区別がつかなくなっているだけだ。けれども、僕がいま言ってる幻の世界というのは、水甕の中の脳髄にとっての幻の世界のことなんかじゃない。この世界そのものが幻だと言っているんだよ。脳髄さえも幻に過ぎない。お分かりかね?」

「脳髄さえも幻なら、世界を認識できないじゃないか。世界は消えちゃうじゃないか。」

「すると何かね、君は、世界は脳髄による認識で生まれるとでも思っているのかね?」

「おまえがそう言ったんじゃないか。世界は実体のない認識の幻なんだろ!」

「そのとおり。世界は認識の幻だよ。けれども、その認識の幻が脳髄によって生み出されているとは一言も言わなかったはずだよ。いいかね、脳髄が世界の認識を生み出しているという考え方はね、世界の認識がどのように生み出されているかについて、まず世界の実体が存在することを前提にして、その世界の実体を脳髄が電気信号によって知覚するメカニズムとして便宜的に説明しているに過ぎないのだよ。まあ、そういう便宜的な説明のことを自然科学と呼ぶんだけどね。けれども、自然科学が前提とする世界の実体など、実は、どこにも存在しない。世界は認識の幻に過ぎない。そして、その場合、その世界の認識を生み出しているのは、脳髄ではないんだ。なぜなら、世界の認識を生み出しているのが脳髄だとすれば、その脳髄自身を生み出しているものは何なのかが答えられなくなるからね。これは明らかに矛盾だ。世界は認識の幻だと言いながら、脳髄だけは特別にはじめから実体を持っているなんていうのは、論理的に破綻している。幻の虚無の世界に、脳髄だけがふわふわ浮かんでいるなんて、あまりにも馬鹿げているだろう?従って、世界の認識を生み出しているのは脳髄では有り得ない、というわけだよ。分かったかね?まあ、こんなことは、認識論の初歩的議論なんだけどね。」

「じゃあ、世界の認識とやらを生み出しているものは何なんだよ!」

「さあね。分からんね。」

「何だ、偉そうなこと言って、結局分からないんじゃないか!」

「おやおや。分からんことを正直に分からんと言っただけなのに、ずいぶんだな。世界の中で生きている人間には、世界の外のことまでは分からんよ。世界の認識を生み出しているものが何かということは、世界の外の問題だ。世界の中で生きる僕に分かるはずがないだろう。僕があれこれ考えても、僕の思考力は、決してこの世界の範囲を超えることはできない。なぜなら、僕の思考自体が、認識に過ぎないからだ。認識によって、認識である世界を超えることはできないからね。たとえば、君は、四次元空間を認識できるかね?そんなことは絶対に不可能だ。人間に世界の外のことは決して分からない。もっとも、世界の外のことを分かったつもりになっている種類の人たちもいるがね。まあ、そういう人たちのことを狂信者と言うのさ。君の知っているあのダイバなんかは、まあ、その典型だね。天界がどうしたの、救いがどうだのと、分かりもしないことを独り合点して分かった気になって、そのくせ、結局、この認識の世界から一歩も出ることができず、挙句の果てに、幾万という乙女をさらって来ては首を斬り落とし続けた。カイザルといい、ダイバといい、まったく、馬鹿としか言いようがないな。世界なんぞ、所詮、影に過ぎないということが、ちっとも分かっていないんだからね。現実と幻の区別なんかそもそも無意味なのさ。何でそんな区別が生まれたのか、むしろ、その方が不思議だね。僕は、どうも、夢に、その原因があるんじゃないかと思うんだけどね。夢から覚めると、夢の方がぼんやりして、目の前のこちら側の世界の方がはっきりしているだろう?リアリティの程度が違う。そこで、こちら側の世界の方が現実で、夢の世界は幻だ、ということになったんじゃないかと思うんだけどね。けれども、それは、単なる錯覚に過ぎないんだよ。夢も現実も、認識の幻であることに何の違いもないんだ。目が覚めて、こちら側の世界の方がリアリティがあるのは、当然なんだよ。なぜなら、いま、こちら側の世界にいるんだから。夢の世界にいる時は、夢の世界の方がリアリティがあるはずなんだよ。けれども、夢の世界のことを思い出している自分は、いま、こちら側の世界にいるんだから、決して夢の世界のリアリティを思い出すことはできない。リアリティの強弱は、その時、どの世界にいるかによって左右されるというわけだよ。そう考えると、現実の世界も夢の世界も、全く区別がなくなる。いや、区別がないというだけじゃない。現実の世界と夢の世界の区別がないということは、同じような世界が、無限に存在し得るということを意味するんだよ。認識の幻である世界は、無限に存在し得るんだ。無限に存在する世界!僕は、その無限に存在する世界の中で、いま、たまたま、この世界を認識しているだけというわけだ。どうだい、君。世界が無限に存在するなんて、実に愉快じゃないか!」

「べらべらといい気になりやがって・・・おまえの独り言はもうたくさんだ!」

「独り言?あっははは。君はうまいことを言うね。そのとおり。独り言だ。この世界は僕の認識の幻だからね。僕以外のすべての他者は、みんな幻だ。僕が誰に何を話しかけようと、それは幻に向かって話しかけているだけだ。僕は永久に孤独というわけだ。君も、ようやく、僕の言うことを理解してくれたようだね。僕は君の影、君は僕の影、というわけだ。同じ影同士、仲良くしようじゃないか。」

「仲良く?お断りだ!いったい何をしようってんだ!いったい何が目的なんだよ!」

「だから、言ったじゃないか。僕は、君と仲良くしたいだけなんだよ。つまり、君に僕の影になってほしい、とまあ、そういうわけだよ。」

「おまえの理屈では、僕はおまえの影なんだろう!じゃあ、もう、用は済んだじゃないか!」

「おっと、これは、僕の言い方が悪かったね。君に僕の影になってほしい、というのはだね、つまり、文字どおり、地面にへばりつく影になってほしいということなんだよ。君も僕の影に過ぎないのだから、僕の影になったって、べつにいいだろう?」

「こ、断る!」

「あっははは。そうだろうね。でも、もう遅いよ。君は、自分も影に過ぎないことに納得しちゃったんだから。ほら、君の足元を見たまえ。」

矢垣がはっとして足元を見ると、自分の足がぺらぺらに薄くなっている。

「わっ!」

「あっははは。もうすぐ、君の体は紙のように薄くなって、地べたにへばりつくんだよ。僕の影になるんだ。」

「ちくしょう!マ、マープル!」

「何よ。」

「何よじゃないだろう。影になってしまう!」

「そうね。ぺったんこになっちゃうわね。」

「ば、馬鹿!あいつを焼き払え!」

「だから、そんなことできないってば!あんたが消えちゃうじゃないの!」

「あっははは。君も往生際が悪いね。早く僕の影になりたまえ。そこのマープル君も僕がちゃんと面倒見てあげるから安心したまえ。」

影がそう言うと、マープルは、きっと、影を睨みつけて、

「何ですって?あたしが、あんたみたいな影法師の従者になるわけないでしょ。馬鹿じゃないの?」

「何だと?やれやれ、従者までこんな馬鹿であったか。」

「お黙り!あんたが影だか本物だか知らないけど、あたしの仕える主人は、」

とマープルは、既に首までぺらぺらに薄くなってゆらゆら揺れている矢垣に目をやって、

「あの馬鹿ひとりなのよ!」

「ほう。この小娘が。君も地べたにへばりつく影になりたいのかね?」

「やれるもんならやってごらんなさいよ!」

すると矢垣が、ぺらぺらになった紙のような体を揺らしながら、

「マープル!おまえまで影になることはない。僕は消えても構わん。そいつを焼き払え!」

「で、できないわよ!あたしはあんたの従者よ。あたしが影にされたら、影になったあんたの従者になってあげるわよ!」

「マープル!主人の命に逆らうのか!そいつを焼き払え!」

「いやよ!」

「マープル。もういいんだよ。そいつの言うとおり、僕も影に過ぎないようだ。所詮影に過ぎない身なら、消え去ったとしても何の悔いがあろう。けれども、おまえは違う。そいつの言うように、僕は、おまえの影を見ているだけかも知れない。おまえは僕の認識が生み出している幻に過ぎないのかも知れない。でも、僕には、おまえは本物の生身のマープルなんだ。おまえまで影にされてしまったら、僕はこの世界に悔いを残すぞ。マープル、おまえは、主人を苦しめるのか!」

「だって・・・」

「おやおや。美しき主従愛だ。」

そう言って冷笑する影に、矢垣は、

「黙れ!影!愛などという言葉をおまえが口にするな!おまえの言うとおり、なるほど僕は影だろう。僕とマープルの関係も影と影とのつきあいに過ぎないのだろう。けれども、その影こそが、僕にとっては本物なのだ。僕は、そうやって生きてきたんだ。そうやって生きることしかできないんだ!たとえ、この世界が、おまえの言う無限の幻の世界の中のひとつに過ぎないとしても、僕は、いま、この世界に生きている。この世界に生きているからには、この世界の存在を疑うことなんかできない。世界を受け入れてはじめて、生きることができるんだ!おまえは、世界を受け入れようとしない。おまえは生きてはいないんだ!おまえには、いのちがない!あのどうしようもない悪党のカイザルやダイバでさえも、少なくとも、この世界を愛していた。彼らは生きていた。けれども、おまえは、この世界を愛するどころか、この世界の存在を信じることさえしないじゃないか。この世界を信じないおまえに、世界を語る資格はない!さあ、マープル!主人の最後の命令だ!いのちの温もりを知らぬこの憐れな怪物を焼き払え!」

竜に変じたマープルの口から紅蓮の炎が噴き出されるのを見届けると、矢垣の意識は遠のいた・・・

 気が付くと、またしても、荒野の真ん中に倒れている。

「ううむ・・・」

「お目覚め?」

「おお。マープル!影にされずにすんだのか?」

「見りゃ分かるでしょ。地べたにへばりついちゃいないわよ。」

「口の減らないやつだ。まあ、しかし、良かった。危うく影にされるところだった・・・」

矢垣は、目の前の自分の黒い影法師に目をやった。影の言葉が、ふいに思い出された。

「永久に孤独、か・・・」

「え?」

「あ、いや、影がそう言ってたから・・・」

「・・・あんたも孤独なの?」

「僕が?ぷっ。おまえみたいなうるさい従者がくっついてるのに、孤独なわけないだろう。むしろ孤独になりたいくらいだね。」

「・・・ほんとにそう思ってるの?」

「何だよ、おい。そんな恐い顔して。冗談だよ。怒ったのか?」

「べつに・・・」

「何だよ、ぷりぷりして。へんな奴だ。しかし、マープル、こりゃ、いったい、どうなってるんだ?怪物と戦った後は、いつも、こうして荒野に倒れている。気が付いたら何にもない。」

「三匹の怪物たちは、きっと、大魔王メフィストのつくった幻だったのよ。勇者の心を迷わせるための罪の罠・・・」

「むむ。なるほど。そういうわけか。しかしまあ、とにかく、三匹の怪物はやっつけたわけだ。で、これからどうなるんだ?」

「これから、あんたは、ハッピードリームランドにかけられた大魔王の呪いを解くわけ。そして、エンゼル姫を救い出して、百年間閉ざされている天界の門の扉を開く・・・」

「これからがもっとたいへんじゃないか。」

「あたりまえじゃないの。三匹の怪物と戦ったのは、あんたが大魔王の呪いの謎を解けなかった罰なんだから。これで、やっと、エンゼル姫を救いに行けるのよ。」

「やれやれ。やっとスタートラインというわけか。じゃあ、早速、出発しよう!」

「出発しようって何よ。行くのはあんただけよ。あたしのお供は、ここでおしまい。」

「何だって?」

 

              六 出陣

 矢垣は思わず叫んだ。

「だめだ!一緒に行くんだ!」

「無茶言わないでよ。従者マープルの出番はここで終わりなの。説明書に書いてあったでしょう?ここで、さよならよ。」

「説明書が何だ!さよならって、おまえ、それでいいのか?」

「馬鹿ね。そういうことになってるんだから、仕方ないじゃないの。三匹の怪物をやっつけたら、従者の出番はもうおしまい。後は消えてなくなるだけ・・・」

「消える?おまえが消える?」

「そう。それが、ゲームの世界のプログラムが定めたあたしの運命だもの。心配しないで。あたしは平気よ。はじめから分かってたことなんだから。」

そう言ってマープルは、にっこりと笑った。

「・・・連れて行く。」

「え?」

「おまえをハッピードリームランドに連れて行く!」

「無理よ。あたしは・・・」

「そう。おまえは従者マープルだ。従者の出番が終わったら消えてなくなるんだろう?それでは、たったいま、おまえの従者としての任務を解こう。いまから、おまえは、ただの小娘のマープルだ。ただの小娘に過ぎぬマープルを消すようなプログラムは組まれてはいないだろう?」

「馬鹿ね。そんなことしたら、プログラムが壊れちゃうわよ・・・」

「プログラムが壊れたらどうなるんだ?」

「知らないわよ。世界がおかしくなっちゃうんじゃないの?」

「ははは。世界がおかしくなるのか。それもいいじゃないか。プログラムの定めたつまらない運命など、この勇者の剣で断ち斬ってやる。たとえこの天地が崩れようと、僕は、おまえをハッピードリームランドに連れて行くぞ。これからは、説明書には書かれていない旅の始まりだ。」

「・・・」

「何だ、マープル。泣いているのか?めそめそするな。晴れの出陣に涙は禁物だ。」

「泣いてなんかいないわよ。馬鹿。」

「そうそう。そういう減らず口がおまえには似合う。さあ、罪の罠に迷う地獄の荒野はもはや尽きたぞ。いざ行かん、ハッピードリームランドへ。天界の門を押し開けるんだ!」

「あらあら。威勢がいいわね。でも、ハッピードリームランドは、遠いわよ。ドラゴンの背中に乗って行く?」

「ドラゴン?馬鹿言え。おまえと歩いて行くよ。」      

                            (了)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Y氏の弁明

                 一
 昼食を終えて事務所に戻った中村に、電話番をしていた若い女事務員が、
「先生。刑事弁護の依頼の電話がありました。」
と、いつになく興奮した面持ちで言った。中村は、不機嫌そうに眉間にしわを寄せながら、
「ふん。刑事か・・・」
と、小さくつぶやいた。刑事弁護は、もうけにならない。
「で、どんな?」
と、中村が面倒くさそうに聞くと、女事務員は、
「それが、先生、先生とはT大法学部の同期生なんだそうですよ、その人が、逮捕されたから弁護してほしいんですって! 誘拐ですって!」
と、好奇心を押さえかねるように早口で言った。
「同期生?」
「そうなんですよ。Yさんって人です。ご存知ですか?」
「Y? 同期生といっても何百人もいるからねえ。語学のクラス分けが違えば、名前も分からんよ・・・」
そう言って、中村は二十年前の記憶の糸をたぐり寄せようとして、はっと思いついた。二十年も昔に戻る必要などなかった。何のことはない、つい、一年ばかり前に会ったばかりである。
 一年前、中村が法律顧問をしている学習教材メーカーのR社が主催した立食パーティーで、来賓の一人として社長と歓談していた中村のグラスに、いかにも卑屈な態度でビールを注いでいた中年男がいた。それが、Yであった。中村は、その中年男が大学の同期生であることなど知らなかったのだが、社長が、ビールを注いでいるその中年男が中途採用したYという総務課長であること、そして、T大法学部出身であることを中村に告げた。T大法学部の名が出たことで親近感を持った中村が、
「おや。YさんはT大法学部ですか。私もT大法学部なんですよ。ゼミは何を?」
と聞くと、その中年男は、卑屈な笑いを浮かべて、
「いえ、私は、その、中退でして、ゼミは受けてないんです・・・」
と、小さな声で言った。
「あ。あ、そうですか、それは失礼・・・」
気まずくなった場を取り繕うように、社長が、
「いやね、先生。このYはね、せっかくT大法学部なんていう名門に入学しながら、学費が都合つかなくなって中退しちゃったんですよ。せっかくT大法学部に入学したのにですよ! もったいない。まったく、貧乏ってのはつらいですなあ。同じT大法学部なのに、先生のように弁護士になってエリート街道まっしぐらというお人もいれば、このYみたいに中途で挫折して、うだつの上がらない課長どまりの者もいるんですからねえ。まあ、私だって、こう見えても、貧しさの中から這い上がってここまで来た男ですからね、貧乏の苦労は知ってるつもりですよ。そこで、まあ、このYの境遇にも大いに同情しましてね、中途採用に応募してきたYを迷わず採用した、とまあ、そういうわけですよ。まあ、慈善事業というわけじゃないが、世の中への御恩返しってところですかな。あっはっはっは!」
と、まくしたてた。おかげで、ますます気まずい雰囲気になってしまった。社長の世の中へのご恩返しのために中途採用されたYは、口許に卑屈な笑いを残したまま、うつむいて黙っていた。中村も、無表情になって黙っていた。せっかくの熱弁が逆効果でしかなかったことに気付いた社長は、たちまち不機嫌になって、ちっ、と舌打ちすると、
「おい! Y! そんな辛気臭い顔をしてたんじゃ、先生に失礼だろう。ほら、先生のグラスにビールがないじゃないか。まったく、気の利かない・・・おや、あそこにいるのは、M銀の副頭取じゃないかな、こりゃ、挨拶しておかなくちゃ。ちょっと失礼。」
と言って、逃げるようにしてその場から去った。後に残された中村も、もはやYとの共通の話題もないと見切りをつけて、
「じゃあ、Yさん。今後ともよろしく・・・」
と言って、その場を去ろうとした、その時である。Yが、思いがけず口を開いた。
「先生。私を覚えておいでですか?」
「は? いや、その、失礼ながら、覚えては・・・」
「そうでしょうね。そりゃそうです。でも、私は、先生のことをよく覚えています。先生と同期なんですよ。講義では、いつも、先生の後ろの席に座っていました。実は、先生のとるノートをこっそりと覗き見してたんです。先生は、いつも、完璧なノートをとってましたからね。」
「え? あははは。いや、それは気が付きませんでしたねえ。そうですか。Yさんは、私と同期なんですか。それならそうと、はじめに言ってくれればいいのに!」
「いえ、そんな、私ごときが・・・でも、本当に、懐かしい思いです。どうぞ、今後とも、よろしくお願いします。」
そう言って、Yは、手に捧げ持っていたビール瓶をテーブルに置くと、おどおどした手つきで中村に名刺を渡した。中村も自分の名刺をYに渡しながら、
「まあ、何かご相談ごとでもあったら、うちの事務所においでください。」
と、微笑んで言った。すると、Yは、しげしげと、中村の名刺を見つめながら、
「ええ。是非、中村君のお世話になります。」
と言った。中村君? 中村は、態度にこそ出さないが、さすがに不愉快であった。こんな男に君付けで呼ばれる覚えはない・・・
 一年前のことを思い出して、中村は、不愉快になった。むっつりと黙り込んだ中村に、女事務員が、
「あれ? 先生? Yさんのこと、ご存知ないんですか?」
と、落胆したように聞いた。
「え? いや、知ってる。」
「じゃあ、早く弁護してあげなくちゃ! お友だちなんでしょう?」
「友だち? いや、そんなんじゃない。名前を知ってるというだけだよ。で、Yが何をやらかしたって?」
「もう。ですから、誘拐ですよ! 未成年者誘拐で逮捕されちゃったのよ!」
「ふん。未成年者誘拐ね。で、Yは犯行を否認してるってわけか。」
「そりゃそうでしょう。わざわざ、うちに依頼してきてるんですから。」
「面倒だ。断ろう。」
「え? 断るんですか? だって、お友だちなんでしょう?」
女事務員がそう言うと、中村はいらいらして怒鳴った。
「だから、友だちなんかじゃないんだよ! そんな金にもならんことをやってる暇なんかないんだ! 事務所の賃料だって滞納してるってのに!」
 中村がP弁護士事務所のいそ弁(居候弁護士)を辞めて独立し、自分の小さな事務所を持ってから三年が経っていた。T大を卒業してから司法試験に合格するまで六年かかった。友人たちが次々に合格していく中で、T大在学中はストレート合格まちがいなしとまで言われていた自分だけが最後まで取り残された。原因は分かっていた。中村が、受験テクニックを磨こうとはしなかったからである。中村は、教授たちの難解な論文を読み解くことに没頭する一方で、友人たちのように受験予備校に通って一点でも多く点数を稼ぐための答案作成技術を習得することには全く興味が持てなかった。受験テクニックの必要性を理解していなかったのでなく、いや、その必要性を痛切に感じながらもなお、点数稼ぎの作文のおけいこなどやってられるか! と意固地になった。そうして落第を繰り返し、さすがに独自の受験テクニックらしきものが否応なく身についたおかげでようやく合格できた時には、もはや合格の喜びなどなく、むしろ勉強部屋に閉じこもって人生を空費してしまったことへの徒労感さえ感じた。もっとも、友人たちに大きく出遅れはしたが、T大法学部卒という肩書きのおかげで、中村は、業界大手のP弁護士事務所に就職できた。しかし、その後、何年経っても、下働き以上のことはさせてもらえなかった。できない奴、というレッテルが、いつのまにか背中に貼られていた。同僚弁護士たちは、彼を、便利な雑用係程度にしか見ていなかった。中村君は学者向きなんだよねえ、彼に実務は任せられないよ、という所長の酒の席での不用意な一言を伝え聞いた中村は、年来の憤懣をついに破裂させて独立を決意すると、文字通り、P事務所を飛び出した。預金をはたいて雑居ビルの一画を賃借して小さな個人事務所を開設し、短大を卒業したばかりの若い女事務員を一人雇った。無論、得意先の開拓などは自分で一から始めなければならなかった。離婚や借金整理といった飛び込みの相談を待っているだけでは多寡が知れている。中村は、女事務員を電話番に残して、一日中、営業活動に駆けずり回った。そうして、いくつかの中小企業の法律顧問の口をやっと見つけた。学習教材メーカーのR社も、そのようにしてようやく見つけた得意先のひとつであった。けれども、それだけでは、事務所の維持費を捻出するのが精一杯であった。一年前のR社のパーティーで、社長が、エリート街道まっしぐらなどとお世辞を言っても、中村には皮肉にしか聞こえなかった。エリート? 中村は、心の中で自嘲していた。毎日々々、事務所の賃料を心配しながら営業に走り回っている自分がエリートなら、この世はエリートだらけじゃないか・・・けれども、そういう中村も、Yから君付けされれば、やはり不愉快だったのである。中村は、自分の腹の中に潜り込んでいたエリート意識という寄生虫が、Yによって、口からズルズルと引きずり出されたような気がした。そうして、居たたまれずに、Yに背を向けて、その場を去った・・・
 中村に怒鳴りつけられて、若い女事務員はしょげてしまった。女事務員は、
「すみません・・・」
と言って涙ぐんだ。中村は、
「いや、いいんだ。怒鳴ったりして悪かったね。で、Yは、いま、どこにいるんだい?」
と、言った。すると、女事務員は、涙で潤んでいたはずの目をたちまち輝かせて、
「それがね、先生、Yさんね、K署の留置場にいるんですって! だって、逮捕されちゃったんだから! ニュースでやるかしら? きっとやるわ。だって、誘拐なんだから。うちの事務所はじまって以来の大事件よ!」
と、胸の前で手を合わせながら小娘のようにはしゃいだ。中村は、またもや怒鳴りつけそうになったが、ようやくその衝動を抑えて静かに言った。
「誘拐事件は、そう簡単にニュースになったりしないよ。K署ならすぐ近くだから、これから、K署に行って、Yに会って断ってくる。何せ、何かあったら相談にのると言っちゃったからな。謝らなきゃいけない。しかし、まさか、刑事弁護を依頼してくるとは思わなかったよ。」
「なあんだ。やっぱり断っちゃうんですか?」
女事務員が、がっかりした顔で言った。
「そう言ってるだろう。で、そのまま、会社を回ってくるからね。五時を過ぎたら、今日はもう帰っていいよ。じゃあ、電話番、よろしく。」

                 二
 K署では、顔見知りの警部が応対した。警部は、煙草を吸いながら、
「昨日、自宅アパートで逮捕したんですがね、もう、逮捕直後から、中村先生に電話させろって言い張ってねえ。あんまりうるさいから、今日、取調室から先生の事務所に電話させてやったってわけですよ。あいつは、先生のお知り合いですか?」
と、言った。中村は、警部の吐き出す煙に顔をそむけながら、
「大学が同期なんです。もっとも、私は全然覚えてないんだけど。」
と言うと、警部は、そんなことは既に調べがついているらしく、
「T大法学部を三年で中退してますな。入学年度は先生と同期ですよ。中退後、職を転々として、二年ばかり前にR社の総務課長になっていますね。先生が法律顧問をされている会社だ。ふふ。先生とYとは、ずいぶん縁がありますな?」
と言って、にやりと笑った。
「関係ありませんよ! それに、私は、今回の依頼は断るつもりなんです。」
中村がそう言うと、警部は、
「ほう。まあ、Yなんぞの弁護をしたって、一文の得にもなりゃしませんからね。先生も、それどころじゃないってわけですな。」
と言って、再びにやりと笑った。
 K署の接見室で、中村は、一年ぶりにYと再会した。接見室に入ってきたYは、金網越しに中村の姿を見ると、満面に喜色を浮かべて、
「先生! 来てくれたんですね!」
と、叫ぶように言った。中村は、表情を厳しくして、
「いや。違うんです。申し訳ないが、あなたの依頼をお断りしに来たんです。」
と、言った。Yの表情がたちまち曇った。いや、むしろ、怒りを帯びて険しくなった。
「何ですって? 断る? じゃあ、いったい、何しに来たんです? 断るんなら電話一本でいいじゃないか。ぬか喜びもいいところだ。馬鹿にしてるよ!」
「いや、そんなふうに悪くとらないでください。いつぞや、あなたに、何かあればうちの事務所においでになるよう言ったことを思い出しましてね、それで、ちゃんとお会いしてお詫びしようと思ったんですよ。本当に申し訳なく思います。いま、私には、あなたの弁護を引き受ける余裕がないんです。民事の仕事だけで精一杯の状態なんです。それに、私は、もともと、刑事弁護はあまり経験がないんですよ。」
「ふん。なるほどね。つまり、貧乏人の弁護なんかやってられないってわけですか?」
「いや、そうじゃない。いま言ったように・・・」
と、中村が言いかけると、Yが、突然、
「中村君!」
と、強い口調で言った。中村は、ぎくりとした。すると、Yは、急に表情を緩めて、
「ふふ。中村君。同期生に向かって、嘘はよそうじゃないか。」
と、言った。
「嘘?」
「そうとも。君は、嘘をついている。貧乏人の弁護なんかやってられないと、どうして本当のことを言わないんだい? 本当のことなんだから、べつに、僕は、怒りゃしないよ。ちゃんと分かってるんだ。一年前、君は、僕に君付けされて、一瞬、むっとした顔をした。自分じゃ気がついていないんだろうがね。そうして、僕の名刺をろくに見もせずに、ポケットにねじ込んだ。僕は、ちゃんと見ていたんだよ。だって、僕は、あの時、わざと、君を君付けで呼んだんだからね。エリート街道まっしぐらの君が、どういう反応をするか観察するためにね。ふふ。」
Yの言葉を聞きながら、中村は、自分の顔が恥ずかしさで紅潮していくのを感じた。そして、怒りが込み上げて来た。
「嘘なんかじゃない! 確かに、私は、君に君付けされた時、不愉快だった。けれども、私は、エリートなんかじゃない!」
中村がそう言うと、Yは、可笑しそうに、
「ふふ。どうして、そんなにむきになって、エリートであることを拒否するんだい?」
と、言った。
「拒否? べつに、好きこのんで拒否してるわけじゃない。私は・・・」
と、中村が言いかけるのを、Yが遮った。
「いいや、君は、好きこのんで拒否してるのさ! あの時、君は、僕に君付けされて、さぞかし不愉快だっただろう。でも、それ以上に、君は、僕に君付けされて不愉快になった自分自身のエリート意識を嫌悪したんだ。僕は、ちゃんと見ていたんだよ。君は、僕の名刺をポケットにねじ込んだ時、そんな自分の行為に、はっと気付いたような顔をして、見る見るうちに顔が真っ赤になった。今の君のようにね。ふふ。そうして、まるで逃げるように慌ててその場を去って、パーティーが終わるまで、僕の視線を避けるように会場をこそこそと逃げ回っていた。あの時、僕は、確信したんだよ。君は、自分がエリートであることを自ら拒否してるんだってね。そうでなきゃ、僕から逃げ回る必要なんか何処にもないんだからね。社長の言う通り、エリート街道まっしぐらの顧問弁護士です、という顔をして、偉そうにしていればよかったはずだ。そうだろう?」
中村が反論できないでいると、Yは、満足げな顔をして、
「まあ、とにかくね、君は、あの時、僕に、何かあったら助けると約束したんだからね。僕を助けるのは、当然の義務だよ。君に、僕の依頼を断るなんて自由はないんだよ。既に、契約は結んでるんだからね!」
と、言った。中村が、呆れたような顔をして、
「契約だって? あんなもの、契約にはならない。弁護依頼は、準委任契約であって・・・」
と言いかけると、Yが、それを遮った。
「おっと、中村君、法律の講義はたくさんだ。ふふ。僕だって、いちおう、T大法学部で勉強したことがあるんだよ? 忘れたのかい? 弁護依頼が準委任契約だろうが請負契約だろうが、そんなことはどうでもいいんだよ。僕が言ってるのは、そんな民法上の契約のことなんかじゃない。君と僕との道義上の契約のことさ。」
「道義上の契約?」
「そう。道義上の契約だよ。三年前、君は、P事務所を飛び出しただろう? 僕はちゃんと知っているんだよ。以前勤めていた会社で、P事務所の所長を接待したことがあるからね。その時、たまたま、君のことが話題になったのさ。所長は言ってたよ。君の資料整理能力は抜群で、ずいぶん重宝してたってね。でも、君は、そういう下働きが不満だった。そうして、P事務所所属弁護士というエリートの地位を投げ捨てて、結局、中小企業を駆けずり回らなきゃいけないはめに陥った。そうだろう? 所長は、君のことを、馬鹿な奴だと笑っていたよ。けれども、その時から、僕は、君のことが頭から離れなくなった。エリートを拒否したという君に、興味がわいたんだよ。もっとも、僕は、君と親しかったわけじゃないから、会いに行くなんてことまではしなかったが、意外なことに、君の方から僕に近付いてきた。法律顧問の口を求めてR社にやってきた君をロビーで見かけた時には、思わず声をかけそうになったよ。R社の法律顧問になれた時には、よっぽど嬉しかったみたいだね? 君が会社から出て行く時の後姿は、まるでスキップしているように見えたもんだ。ふふ。でも、君を法律顧問にしようと総務部長に強く進言したのは、何をかくそう、この僕なんだよ。総務部長は、別の候補の若い女弁護士の方がお気に入りだったからね。知らなかっただろう? 君は、僕にいくら感謝しても足りないくらいだ。そうだろう? 僕は、廃業寸前の無能な弁護士である君を、わざわざ助けてやったんだからね!」
中村は絶句した。無能呼ばわりされても何も言い返せなかった。R社の顧問料は、中村にとって、もっとも重要な収入源だった。いま、R社の顧問料が打ち切られれば、もはや廃業するしかない。中村が呆然としてYを見つめていると、Yが、にっと白い歯を見せて笑って見せた。中村が、はっとして我に帰ると、Yが言った。
「ふふ。どうやら、納得してくれたみたいだね。僕は、君を、ずっと見守って、助けてきたんだよ。そろそろ、君が、僕を助けてくれてもいいんじゃないか? 君の番だ。それが契約だからね。」
中村は、いらいらして言った。
「見守ってきた? 冗談じゃない! 誰もそんなこと頼んじゃいない。そんな訳の分からない契約を結んだ覚えもない。君が勝手にやっただけじゃないか。R社の顧問の件については、そりゃ、感謝するよ。でも、私には、何の義務もない! いったい、君は何だ! どうして私にまとわりついてくるんだ!」
「おやおや。怒ったのかい?」
と、Yは、にやにやしながら言った。
「そう。君の言う通り、僕は、勝手にやったのさ。無能な君が困っているのに、それを見て見ぬふりはできなかったんだよ。君の好きな民法で言えば、事務管理ということになるかな? 事務管理では、確か、本人の意思に反するおせっかいをやいた場合でも、本人の得た現存利益を償還する義務はあるんじゃなかったっけ? いくら勝手にやったことでも、それ相応の義務が生じることは、民法だってちゃんと認めてるんだ。ましてや、君と僕との道義上の契約においては、君は、何が何でも僕を助ける義務があるんだよ。」
「だから、そんな道義上の契約なんて、知ったことじゃないって言ってるんだよ!」
「もう。君も分からん人だなあ。この道義上の契約はね、当事者の意思なんて関係ないんだよ。正直言うと、僕だって、何も好きこのんで、こんな面倒くさい契約を君と結んだわけじゃないんだよ。でも、君が、選ばれたんだから、仕方ないんだよ。」
「選ばれた?」
「そう。君はね、選ばれたんだ。僕も、選ばれた。そうして、選ばれた者は、お互いに助け合わなきゃいけないというわけさ。そこで、まず、僕が、君を助けた。今度は、君が、僕を助けるわけだ。もし、その次があるなら、また僕が君を助けるというわけ。」
「選ばれるって、誰が何を選ぶんだ?」
「ふふ。知りたいかね?」
「いいから、もったいぶらずに早く言え!」
「おやおや。教えてもらう立場のくせにずいぶん偉そうだな。まあ、いい。それじゃ、君に教えてあげよう。僕たちは、エリートとして、神に選ばれたんだよ。」
「何だって?」
「エリートだよ。べつに、金持ちとか、特権階級とか、そういう意味じゃない。神に選ばれた者という意味の本物のエリートだ。僕たちは、エリートなんだ。エリートは、お互い、助け合わなきゃいけないんだよ。神に選ばれた同志なんだ。」
そう言うと、Yは、瞬きもせずに、金網越しに中村の顔をじっと見つめた。中村の反応を待っているかのようであった。中村は急に疲労を感じた。これ以上の会話は、無意味だ。精神異常者と無駄話をしている暇はない。今日も、これから三件は会社を回るつもりなのである。
「じゃあ、そういうことで、失礼するよ。あなたの弁護はお断りする。」
と、一方的に話を打ち切って席を立とうとする中村に、Yが震える声で叫んだ。
「中村君! 同志を見捨てるのか!」
中村は何も答えず、そのまま席を立った。
 接見室を出ると、廊下の隅にある喫煙場で、警部が煙草を吸いながら待っていた。
「おや。終わりましたか。」
「ええ。」
「で、受任を断ったわけですな?」
「ええ・・・」
「ふむ。まあ、それが正解でしょうな。厄介な事件だし・・・」
「厄介な?」
「おや? お断りになった事件に、興味がおありですか?」
「いや、べつに・・・」
「ふふ。じゃあ、まあ、お手数でした。」
と言って、警部は、煙草を揉み消すと、そのまま立ち去ろうとした。中村は、
「あの、ちょっと。」
と、警部を呼び止めた。
「何です?」
「あの、Yは、その、精神状態が・・・」
と、中村が言いかけると、警部は、うんざりしたような顔をして、
心神喪失とでも言いたいんですか? 弁護士ってのは、すぐこれだからなあ。何でもかんでも心神喪失で無罪放免だ。心配しなさんな。あいつは、まともですよ。すぐに自白するでしょうよ。インテリってのは、すぐ落ちるからね。いや、まあ、こんなことは、先生には関係ないことでしたな。弁護人を断ったんだからね。じゃあ、失敬。」
警部のがっちりとした後姿を見送りながら、中村は、
「まともじゃないんだよ・・・」
と、つぶやいた。
                 三
 K署を出た中村は、かっと照りつける太陽の光りに目がくらんだ。この暑さの中、汗だくになって会社回りをするかと思うとうんざりしたが、それでも、予定していた三件のうち二件の会社訪問は何とか済ませた。もっとも、収穫はなかった。そうして、もう、やる気がなくなってしまった。疲れている。今日はもう、やめだ。中村は事務所に戻った。
 事務所のドアを開けると、女事務員が、ばたばたと机の上の小物を隠した。
「また、マニキュア遊びか?」
中村がそう言うと、女事務員は、
「すみません・・・」
と、素直に謝った。
「ふん。まあ、いいよ。どうせ、仕事もないしね。」
そう言って、中村は、来客用のソファに倒れるように横になった。
「先生、今日は、もう、出かけないんですか?」
「そうだ。疲れた。少し早いけど、今日はもう終わりだ。君ももう、帰っていいぜ。」
「Yさんはどうなったんですか?」
「え? Y? ふん。断ったさ。ずいぶん気にするんだな?」
「そりゃ、先生が活躍するチャンスかも知れないんですから・・・」
そう言うと、この若い女事務員は、かすかに頬を赤らめた。
「ふふ。心配してくれてありがとう。でも、Yにかまっている暇なんかないからね。それで、おれの外出中、べつに何もなかったんだね?」
「いえ。先生が出かけた後すぐに、R社の総務部長から電話がありました。」
中村はどきりとした。
「R社だって?」
「はい。先生が戻ったら、総務部まで電話してほしいとのことでしたけど・・・」
「ばか! それを早く言えよ。」
 ソファから起き上がると、中村は、R社の総務部長に電話した。
「ああ、先生。面倒なことが起きちゃったんですよ。」
電話口の総務部長は、開口一番、そう言った。中村は、すぐに、その面倒なことの予想がついた。Yのことに決まっている。もっとも、Yから個人的に弁護依頼されたことまでR社に報告する義務などなかったから、中村は、何も知らないふりをした。
「面倒なこと?」
「そうなんですよ。うちのYがね、ほら、総務課長のYですよ、あいつがね、昨日、警察に逮捕されちゃったらしくて、で、今日の昼過ぎに、社に警察が来て、Yの机やらロッカーやら捜索して、Yの私物を根こそぎ持って行ったんですよ。」
「なるほど。で、警察は、何と言ってました?」
「はあ、それが、令状を見せられたんですけど、未成年者略取誘拐だとかで、でも、詳しいことは何も分からないんです。」
「分かりました。すぐにそちらに伺います。」
電話を切った中村は、女事務員に、
「おい。R社に行って来る。遅くなるから、君はもう、帰れ。」
と言って、R社に急いだ。
 R社の社長室で、中村は、社長と総務部長のふたりと善後策を話し合った。
「とにかく、早いとこ、Yをクビにしなきゃいかんのだ! 懲戒免職だよ!」
と、社長が、いらいらした口調で言った。すると、総務部長が、
「でも、社長、就業規則では、逮捕されただけじゃクビにはできませんよ?」
と、おどおどしながら反論した。
就業規則? そんなもん、どうだっていいんだよ! 学習教材メーカーの従業員が誘拐犯なんてことになってみろ、イメージはガタ落ちだ! 総務部長、おまえは、それでもいいってのか!」
「まさか、それでいいなんて思ってませんけど、でも、就業規則上は・・・ねえ、先生? そうでしょう?」
総務部長に意見を求められた中村は、
「ええ。確かに、総務部長のおっしゃる通りです。R社の就業規則上は、現行犯とか明白な証拠があって有罪が明らかだと言えるような場合でない限り、被疑者段階の従業員を懲戒解雇することはできませんし、たとえ起訴されても、判決確定までは休職扱いになるだけです。」
と、言った。社長は、ちっ、と舌打ちして、
「まったく、面倒な規則を作ったもんだ。あれは、クビにした前の総務部長が作ったんだよな。余計なことしやがって。あいつは組合に甘い顔ばかりする腰抜けだったからな。規則が邪魔なら、いっそのこと、規則を変えちまえばどうなんだ?」
「それは、社長、いますぐというわけにはいきません・・・いろいろと、手続きが必要ですし・・・やはり、組合との折り合いもつけませんと・・・」
と、総務部長が、禿げ上がった額の汗をハンカチで拭きながら言った。
「じゃあ、どうするんだ! もういい! とにかくクビにしろ! 先生、就業規則を無視してあいつをクビにしたら、どうなりますかね?」
就業規則を無視して懲戒解雇しても、合理的理由がないということで、解雇は無効になります。Yとしては、従業員としての地位を確認する訴えを起こすでしょうね。慰謝料を請求してくることも考えられます。」
「ふむ。裁判になったら勝てますかな?」
「和解に持ち込むのならともかく、勝つのは難しいでしょう。」
「和解ねえ・・・お、そうだ。おい、総務部長!」
「は?」
「つまり、和解だよ! Yに、いくらか金を渡して、今すぐ依願退職させろ!」
社長がそう言うと、総務部長は、
「いえ、それが、その、Yは、総務課長でしたので・・・」
と言いかけたが、中村の顔をちらりと見て、困惑したように言いよどんだ。
「何だ! はっきり言え!」
「はあ。つまり、その、Yは、総務部の内情に通じておりまして・・・例の、W市の教育長への賄賂の件を・・・」
「知ってるってのか!」
「知ってるどころか、直接の担当者です。」
「何だと?」
「ですから、その、相当の見返りをやらないと、おとなしく依願退職に応じるなんてことは、ちょっと難しいかと・・・もし、警察でこのことをしゃべりでもしたら・・・」
「まったく、何てこった! 何であいつにそんなこと任せたんだ!」
「は、申し訳ございません! でも、あの時は、社長もそれでいいと・・・」
「え? そうだったか? ええい、うるさい!」
社長は、いらいらした手つきで煙草に火をつけると、天井に向けて思い切り吐き出した。ふたりの会話を黙って聞いていた中村が、社長に、
「賄賂というのは、どういうことです?」
と、不審げな顔をして聞いた。社長は、
「いや、まあ、先生には関係ないことですよ。」
と言って、無理に笑おうとしたが、頬をひきつらせただけだった。
「でも、賄賂と聞こえましたが?」
と、中村がさらに聞くと、社長は、
「だから、先生には関係ないって言ってるだろう! 余計な口を出さんでくれ!」
と、苛立ちを隠さずに叫んだ。総務部長が、慌てて割って入り、
「いや、その、先生、つまりですね、W市内の全部の小学校に、我が社のパソコン用教材を納入したことがあるんですけどね、その際に、W市の教育長に、ちょっとした便宜を図ってもらったことがありましてね、それで、まあ、お礼をしたというわけでして・・・」
と、おどおどした口調で言った。禿げ上がった額一面が、汗の水滴で覆われていた。
「つまり、贈賄したというんですか!」
「ええ、まあ、つまり、そうですね。そういうことになりますかね。それで、その担当者がYでしてね、Yが、直接、教育長に現金を渡しましてね、まあ、つまり、そういうことなんですよ・・・」
総務部長の額から、膨れ上がった汗の水滴がくずれて、目に流れ込んだ。総務部長は、目をしょぼしょぼさせながら、しわくちゃになったハンカチで汗を拭った。
「それは、いつのことです? 私が顧問になる前の話ですか?」
「いえ。そうですね、先生が顧問になって、二ヶ月ばかり経った頃ですね。」
「それはどういうことですか! 私が顧問になった後に、贈賄なんかやったんですか!」
と、中村が怒りを露わにして言うと、社長が、煙草の煙を吐き出しながら、
「そうですよ。先生が顧問になった後ですよ。何か問題でもありますかな?」
と、開き直ったように言った。
「何ですって? 問題あるに決まってるでしょう! 法令遵守のために、私は、この会社の顧問をやってるんですよ!」
「ふん。先生。先生は、どうやら、ご自分の役割をちっとも分かっておられないようですな。私が先生に高い顧問料を払っているのは、べつに、我が社を清く正しい会社にしてもらうためなんかじゃありませんよ。確かに贈賄はしましたよ。でも、それが何だって言うんです? まさか、告発するつもりですか?」
「いえ・・・私には守秘義務があります・・・」
「ふん。それなら、この件に関してはもう口を出さないでもらいたいな。私はね、贈賄だろうが何だろうが、利益を生むことなら何だってやりますよ。たとえ法に反することでもね。そのために先生を雇ってるんだ。法令遵守ですって? 馬鹿々々しい! 法を守るだけなら、先生なんか必要ありませんよ。法の抜け道を探すのが、先生の役割なんですよ。黒を白と言いくるめるのが先生の仕事なんだ。法令遵守なんて分かり切ったことを我々に説教する暇があるなら、その前に、贈賄が贈賄でなくなるような理屈のひとつも捻り出してもらいたいもんですな!」
「弁護士の私に、法を破る片棒を担げと言うんですか!」
「法を破る? 破るんじゃない。その反対だ。法を破らないために、その抜け道を探せと言ってるんですよ。先生、法律ってのはね、先生の考えてるような立派なもんじゃないんだよ。はっきり言えば、法律なんて、金持ちが貧乏人をだます道具だ。私はね、生活保護を受けていたくらいの貧乏人の生まれだから、よく分かるんだよ。貧乏人がどんどん生まれることはほったらかしのくせに、生活保護なんぞというお恵みをちょいとばらまいてやれば、貧乏人どもは泣いて喜ぶとでも思ってるんだよ。で、実際、貧乏人どもは、金持ちのお恵みを有り難がって、金持ちのためにせっせと年貢を納めてるってわけだ。法律ってのはね、金持ちが作って、貧乏人に守らせるってだけのことなんだよ。そんなもん、何で、この私が、有り難がって守らにゃならんのかね。法律を馬鹿正直に守って生きていたら、私は、死ぬまで惨めな貧乏人のままだったよ。私はね、これまで、何度も法律の抜け道をかいくぐって来た。そのおかげで、まあ、それなりの金持ちになった。法律を貧乏人に守らせる側になった。お恵みをばらまく側になった。先生。世の中ってのはね、そういう仕組みになってるんだよ。一部の選ばれた人間が、法令遵守する大衆どもを支配するってわけだよ。しかも、大衆どもは、自分が支配されてることに気が付いてないんだからねえ。朝三暮四の猿と同じだよ。まったく、誰が思いついたかのか知らないが、世の中ってのは、うまく出来てるじゃないか。違うかね、先生?」
「しかし、民主主義では、法律は・・・」
と、中村が言いかけると、社長は、手を上げてそれを遮った。
「民主主義? 本気でそんなもんを信じてるのかね? 民主主義だって、馬鹿な大衆を有り難がらせるお恵みなんだよ。実際には、大衆どもを支配する道具に過ぎないんだ。おまえらが自分で作った法律なんだから、ちゃんと守れ、というわけだよ。で、大衆どもは、見たこともない法律を自分が作ったことにさせられて、馬鹿正直に法令遵守しているわけだ。大衆どもに法律なんか作れるわけがない。作る機会さえないんだからね。民主主義だろうが何だろうが、法律を作って世の中を動かしているのは、結局、一部の選ばれた人間なんだよ。私が、議員や役人どもにどれだけの金をばらまいたと思うんだね? 連中は、えさを投げられた犬ころのように喜んで私に協力したよ。おかげで、こうして商売繁盛というわけだ。ふふ。まったく、世の中というのは、有り難いもんだ。貧乏人にとっちゃ地獄だが、支配する側になりさえすりゃ好き放題できる楽園だ。で、まあ、先生も、もちろん、こちら側の人間なんだから、我々の楽園を守るべく、法律を駆使してもらいたいというわけだよ。分かってもらえたかな?」
「分かりません! 私は、こちら側の人間なんかじゃ・・・」
と、中村が言いかけると、社長が、急いで遮った。
「おっと! そこまでだよ、先生。その次の一言を口にすると、私は、不本意ながら、先生をクビにしなきゃいけなくなるんでね。それは、先生もお望みではないはずだ。先生の事務所が火の車だってことくらいはちゃんと調べがついてるんだ。ふふ。まあ、頭を冷やして、私の話を聞いた方が身のためだよ? 私は、先生のためを思って言ってるんだ。いいかね、先生、まさかとは思うが、もし、仮に、先生が、自分がこちら側の人間ではない、などと思っているとしたら、それは、たいへんな思い違いだよ? 先生の今の地位は、全部、我々のおかげなんだからね。T大法学部卒という輝かしい学歴も、弁護士という名誉ある肩書きも、全部、我々のおかげだ。大学制度も、弁護士の免許制度も、いや、この世のあらゆる制度は、我々が、我々のために作ったんだからね。それによって、我々は、選ばれた者に対する恐怖と服従を大衆どもに叩き込んだんだ。人間てのは、猿山の猿と同じで、絶対にかなわない相手に対してはひたすら従順になるからね。先生はね、そういう馬鹿な大衆どもを支配するために、我々が丹精込めて作り上げた芸術作品みたいなものなんだよ。その作品が、生みの親である我々を裏切るなんてことは許されないんだよ。そうだろう? そんなことをすれば、それこそ、自滅だ。あのYと同じことになる。あいつは、我々を裏切ったんだよ。学費がなくなったからT大法学部を中退するなんて、裏切りもいいところだ。どうしても学費がないなら、馬鹿な女の二、三人でも騙して金を引き出すくらいのことはして卒業にこぎつけるのが、我々に対する親孝行ってもんだ。その程度のこともできずに、親を裏切るような真似をしたから、今は、あのザマだ。中途採用の安月給でこき使われて、しまいには、誘拐で刑務所入りってわけだ。私はね、あいつを初めて見たとき、腹が立って仕方がなかったんだよ。せっかく、こちら側に来れるチャンスがあったのに、自分で棒に振りやがった。それで、あいつを中途採用することにしたんだよ。世の中の有り難い仕組みに反抗したらどんなに惨めなことになるかを、あいつに思い知らせるためにね。ふふ。どうかね、先生、分かったかね? もし、仮に、先生が、自分がこちら側の人間ではない、などと本気で考えているなら、それは、我々を裏切ることになる。もっとも、先生には、そんな裏切り行為はできやしないんだけどね。どうせ、先生は、今の地位を捨てられないんだからね。T大法学部卒の学歴も弁護士免許も捨てて、Yのような惨めな男になることができるかね? できないだろう? ふふ。我々の着せてやった温かい服にぬくぬくとくるまりながら、裸で木枯らしに吹かれてふるえている貧乏人を憐れんで涙するなんて、それこそ、へどが出るような偽善だ。何のかんの言っても、先生は、こちら側にいたいんだよ。それが、先生の本音なんだよ。そうだろう? 先生?」
そう言って、社長は、煙草に火をつけると、天井に向けて、ゆっくりと煙を吐き出した。
自らの熱弁に満足げに煙を吐く社長の横顔を見つめながら、中村は、次の一言を言い出しかねていた。言えば、クビになる。かつて怒りにまかせてP事務所を飛び出したことが思い出された。あの時、おとなしく下働きを続けていれば、汗だくで営業に駆けずり回るような馬鹿な苦労はしないで済んだだろう。大手弁護士事務所に所属するエリート弁護士として安穏に生活していることだろう。けれども、それでいいのか? 社長の言うように、それが、おれの本音なのか? いや、おれは、やはり・・・と、中村が次の一言を言うために口を開こうとした時、総務部長が、恐る恐る社長に言った。
「あの、社長、それで、その、Yの件なんですが・・・」
社長は、たちまちいらいらした顔つきになって、
「だから、いくらか金を渡して依願退職させるしかないだろう!」
と、怒鳴った。
「し、しかし、その、W市の件が・・・」
「だから、その分、口止め料を少しばかり上乗せしておけ!」
「では、その、いかほど?」
「ふむ。あいつに、家族はいなかったな?」
「はい。五年ほど前に離婚して、今は一人です。」
「ふん。じゃあ、どうせ刑務所に入ってるんだ。金なんか使い道もないだろう。そうだな、まあ、二百万、いや、百万くらいやっとけ!」
と、社長が言った時、ふたりの会話を黙って聞いていた中村が口を開いた。
「一千万だ。」
「あ?」
社長と総務部長が、ぽかんとした顔で中村を見た。
「一千万なら、たぶん、Yも依願退職に応じるでしょう。」
中村がそう言うと、総務部長が慌てて言った。
「一千万ですって? そんな、いくらなんでも・・・」
「いや。一千万は必要です。Yが訴訟を起こせば、R社は確実に負ける。慰謝料も取られる。R社が訴訟に要する費用も丸損になる。しかも、不当解雇が裁判沙汰になれば、Yの誘拐事件まで表に出て来て、どっちにしろR社のイメージはガタ落ちです。組合も黙ってはいないでしょう。その上、Yが退職に不満でやけになって贈賄を暴露すれば、もはや致命傷です。Yが金を渡した実行犯だとしても、Yには情状の余地もあるし、単に幇助にとどまる可能性だってないわけじゃない。けれども、あなた方は、主謀者として、悪くすると実刑をくらう。実刑までいかなくても、経営陣が有罪になれば、株主が黙っていない。無論、贈賄するような会社の学習教材を使う学校なんて何処にもない。それだけのリスクを、Yの退職届け一枚で、全部回避しようというんですからね。一千万なら、安いくらいですよ。社長。利益を生むことなら、あなたは、何だってやるんでしょう?」
中村がそう言うと、社長が、いぶかしそうな目で中村を見据えながら、
「先生。何やら、まるで、Yの代理人にでもなったような口ぶりですな? 今の言葉は、先生が、こちら側の人間として言ったことですかな? それとも・・・ 」
と、言いかけた。中村は、にやりと笑って、それを遮ると、
「お察しの通りですよ。私は、今、Yの代理人として話している。私は、こちら側の人間なんかじゃない! 私をクビにするというなら、好きにすればいい。」
「馬鹿なことを・・・」
と、社長が、憐れむように言った。
「その通りです。私は、馬鹿なんですよ。今頃気が付いたんですか? 私には、黒を白と言いくるめるような曲芸はできませんよ。」
「ふん。けっこう。お望み通り、先生は、たった今、クビだよ。しかしまあ、先生の言うことはもっともだ。確かに、一千万でリスク回避できるなら、まあ、高くはない。」
「では、Yには、私が伝えます。Yが依願退職を承知すれば、こちらから連絡しますよ。そういうことでいいですね?」
「先生。後悔するよ? 考え直すなら今のうちだがね。」
「後悔には慣れてますんでね。」
「ほう。Yのように、こちら側から、あちら側に転落してもいいのかね?」
「Yのように? Yには、べつに、こちらもあちらもありませんよ。」
「じゃあ、何だと言うのかね?」
「あいつは、エリートですよ。神に選ばれたそうですよ。ふふ。」
社長は、きょとんとした顔をした。
「じゃあ、失礼。」
そう言って、中村は、社長室を出た。廊下を歩いていると、社長室から、何やら社長の怒声が響き、総務部長の泣き声がそれに続いた。
                 四
 R社を後にした中村は、Yに会うためにK署に向かった。帰宅するサラリーマンをすし詰めにした電車の冷房は、エコ・キャンペーンで、ほとんど効いていなかった。蒸し風呂のような電車の中で、中村は、押し合いへし合いしながら無言でつり革にしがみついている人々の汗だくの無表情な横顔を見て、不思議な思いがした。なぜ、この人たちは、黙っているのだろう? 毎日のことで慣れているから、もはや苦しくないんだろうか? いや、苦しいに決まっている。息をするのも辛いくらいだ。でも、みんな、黙って耐えている。目的地に着いて、ほっと開放される瞬間を待っている。けれども、実は、この電車が目的地に着くこともなく永遠に走っているだけだとしたらどうなんだろう? それでも、この人たちは、目的地に着くことを信じて、黙って耐え続けるんだろうか? どうも、そんな気がする。目的地なんかないということに気が付いていたとしても、それだけは言ってはならないという暗黙の了解があって、みんな、気が付かないふりをする。そうして、黙って耐え続ける。永遠に・・・などと、中村が、身動きもできずに気が遠くなりそうな頭でぼんやり考えていると、単調なレール音だけが繰り返される電車内の何処かで、はああ、あっついなあ! と、おどけた声が聞こえた。誰もが何も聞こえなかったかのように無表情でいる中で、中村は思わず微笑んでいた。そうだ。黙っている必要など何処にもない。
 K署に着くと、中村の電話を受けていた警部が出迎えた。
「まったく、先生にゃ困ったもんだよ。受任しないんじゃなかったんですか?」
「それが、急に気が変わりましてね。」
「やれやれ。今、Yは、取調べ中ですからね。接見はできませんよ?」
「けっこうです。待ちますから。」
「さあ、待つと言ってもねえ、いつ終わることやら。何せ、あいつ、先生に受任を断られた途端、黙秘ときましたからねえ。意外と強情な奴ですな。ふふ。」
「じゃあ、せめて五分でもいいから、接見させてくださいよ。私は、受任することを彼に伝えたいだけなんだから。」
「ふむ。まあ、どうせ取調べも埒があきませんからな。接見交通権を妨害されたなんて先生にごねられても面倒だしね。ふふ。じゃあ、まあ、受任したことを伝えて、せいぜい奴を喜ばせてやってくださいよ。」
 接見室に入ってきたYは、金網越しに中村の姿を認めると、喜びを露わにして、
「先生。必ず戻ってくると思ってましたよ。」
と、言った。
「先生なんて呼ぶのは、もう、よしてくれ。時間がないから、単刀直入に言おう。私は、君の依頼を受けることにしたよ。」
「そんなこと、分かってるさ。」
「それと、もうひとつある。R社が、退職金として一千万円用意するそうだ。」
「一千万?」
「そう。一千万だ。いちいち言わなくても、君には、その意味は分かるだろう?」
「さあ。どうせ、慌てて、僕をクビにしたがってるんだろう? 就業規則では僕をクビにできないからね。でも、僕のクビ切り代にしちゃ、ちょっと奮発しすぎじゃないかな。」
「とぼけちゃいけない。W市の件があるだろう?」
「ふふ。何だ、君も知ってるのか。なるほどね。そういうわけか。しかし、それにしても、あの社長が、よく一千万も出す気になったもんだな。」
「交渉したのさ。」
「君が?」
「他に誰がいるんだね。おかげで、私は、顧問をクビになった。」
「おやおや。ずいぶんと無理したもんだな。それじゃ、君は、明日にも廃業だろう?」
「そうとも限らんよ。」
「何で?」
「君から弁護料をもらうからさ。」
中村がそう言うと、Yは、白い歯をにっと出して笑った。
「いいだろう。もし、一千万が手に入れば、全部、君にやるよ。」
「全部なんていらない。規定の料金で十分だよ。もっとも、君を無罪にした時には、それとは別に成功報酬を頂くことになるがね。」
中村がそう言うと、Yは、急に浮かない顔になって、
「僕を無罪にする?」
と、言った。
「そうさ。当たり前だろう?」
「でも、僕は、無罪じゃないかも知れないよ?」
「え? どういうことだね? まさか、君・・・」
中村の困惑した顔を見て、Yが、首を振った。
「そうじゃない。僕は何もしていない。けれども、無罪になるとは限らないと言ってるんだよ。僕がいくら否認したって、事実認定は裁判官が勝手にやるんだからね。本当のことなんて、結局、誰にも分からない。」
「それはそうだが、だからこそ、弁護するんじゃないか。君が否認している以上、私は、弁護人として無罪を主張するよ。」
「有罪の主張はしないのかい?」
「え? 有罪の主張? それは、どういう意味だい? 無罪を主張する一方で、有罪を認めて情状か責任能力の喪失で切り抜けようって意味かい? そんな二本立ての主張は、無罪の主張と矛盾するから戦術的にだめだね。もっとも、あくまで無罪を主張しつつ、有罪判決が出されてしまう万一の場合に備えて、情状や責任能力の喪失について弁論でそれとなく触れておくというなら、まあ、それなりのメリットはあるし、そういう戦術なら、私も考えている。まあ、君に嘘をついても仕方がないから、この際、正直に言うけど、私は、君の責任能力には大いに疑問を持ってるからね。」
「疑問?」
「そう。神に選ばれたエリートなんて考えは、ちょっと、理解し難いからね。」
中村がそう言うと、Yは、ひどく落胆した様子で、
「じゃあ、君は、僕たちがエリートであることを信じられないのかい?」
と、言った。
「そう。信じられない。誰だって、そんなこと信じないよ。」
「だって、現に、君は、エリートとしての行動をとったじゃないか!」
「エリートとしての行動?」
「そうさ! R社の顧問料を捨てて、僕の弁護人になったじゃないか!」
「それは、その、つまり、R社の汚いやり方が気にくわなかったからさ。君の弁護人になったのも、一千万目当てだよ。勘違いしないでほしいな。」
「いや、違う。」
「違う?」
「そうだよ。全然違う。僕には分かるんだ。言っただろう? 僕と君は同じなんだよ。R社の汚いやり方が気にくわなかっただって? だから飛び出したって言うのかい? そうじゃない。君は嘘をついてる。君は、そんなかっこいい男じゃない。君は、R社から逃げ出したんだよ。昔、P事務所から逃げ出したようにね。君には、何処にも居場所がないんだよ。逃げるしかないんだ。なぜだか分かるかい? それは、君が、無能だからだよ。無能と言っても、べつに、君が馬鹿だと言ってるんじゃない。社会生活に適応する能力がないと言ってるんだよ。君には、P事務所の資料整理係として下働きに徹する能力もなく、R社の顧問におさまって金もうけに徹する能力もない。でも、だからと言って、弁護士なんか廃業してサラリーマンとして満員電車に詰め込まれて黙々と生きていく能力だってないだろう? 要するに、君は、生活能力において何の取り柄もない無能者なんだよ。普通の人が普通にやってることが、君にはできないんだ。だから、君は、逃げた。そして、ここに来たんだ。一千万のために僕に会いに来たんじゃない。単に金が欲しいなら顧問を続ければ良かったはずだ。一千万なんて、君がここに来るための口実に過ぎない。君の来る場所は、もう、ここしかなかったんだ! 君は、僕と同じなんだ。僕たちは、この世界の何処にも居場所がないエリートなんだよ。エリートとして、神に選ばれたんだ! 君がここにいるという、この不条理な事実こそ、その何よりの証拠じゃないか!」
そう言って、Yは、中村の目をじっと見つめた。中村は、ふっと目をそらすと、
「つまり、無能なエリートというわけかい?」
と、自嘲気味に言った。
「そうじゃない。エリートは、そもそも無能なんだよ。この世界に適応できないんだ。神が、僕たちから、世界に適応できる能力を奪ったんだ。だから、エリートは、逃げる。居場所を探して逃げ続ける!」
「それで、君は、留置場に逃げ込んだというわけかね?」
中村が皮肉をこめてそう言うと、Yは微笑んだ。
「ふふ。言うじゃないか。無能と言われて怒ったのかい? いいことだ。君は、図星を突かれると不機嫌になる癖があるからね。君は、心の底では、僕に同意してるんだよ。」
「同意なんか・・・」
してない! と、中村は言おうとしたが、言葉にならなかった。
「ふふ。まあ、いいさ。確かに、僕は、逃げ回った挙句に、こんな留置場に放り込まれてしまった。どうやら、行き着く所まで来てしまったらしい。もう、何処にも逃げようがないからねえ。で、僕は、考えたんだよ。そろそろ、逃げるのはやめようかってね。」
「逃げるのをやめる? じゃあ、どうするんだ?」
「決まってるじゃないか。戦うのさ。」
「戦う?」
「そう。戦う。こうして、目の前に同志が来てくれたからね。」
「それは、私のことかね?」
「君以外に、誰がいる? 戦う時が来たんだよ。戦場は、もちろん、法廷だよ。君にふさわしい死に場所だろう?」
「死に場所とは何だ。縁起でもない。私は、何としても君の無罪を勝ち取ってみせるさ。そう、そこで、君の被疑事実だがね、私は、未成年者略取誘拐ということしか知らないが、それでいいのかね?」
中村がそう言うと、Yは、眉間にしわを寄せて、
「そうだ。僕は、半年前から行方不明になっている十九歳の女子大生を誘拐したという疑いで逮捕された。取調べの様子だと、どうやら、ユキちゃんを殺した疑いもかけられてるようだ。」
と、言った。
「ユキちゃん?」
「行方不明になっている女子大生だよ。僕は、ユキちゃんと呼んでいた。取調べの刑事によると、僕は、行方不明になる前のユキちゃんと最後に接触した人間なんだそうだよ。確かに、僕は、半年前、ユキちゃんが行方不明になったという日に、ユキちゃんと一緒にいた。甲府までデートしに行ったんだよ。いや、デートじゃない。一緒に逃げたんだ。つまり、駆け落ちだよ。」
「駆け落ちだって?」
「そう。駆け落ちだ。四十男と十九歳の美人女子大生との駆け落ちだよ。信じられないかね? いや、まあ、君が信じようが信じまいが、事実なんだから仕方がない。」
「すると、君たちは、つきあっていたのかい?」
「いや。つきあってなんかいないさ。」
「じゃあ、何で、いきなり駆け落ちなんてことになるんだね?」
「それが、僕自身にも、何だかよく分からないのさ。とにかく、ユキちゃんの方から、一緒に逃げよう、と言ってくれたんだよ。」
「で、君は、承諾したわけだね?」
「そういうわけさ。本当に、いい子だった。ユキちゃんと出会ったのは、一年前、T市の駅裏にあるMというスナックだよ。ユキちゃんは、そこでアルバイトをしていたんだ。まあ、未成年だから、いつもはウーロン茶を飲んでたけど、たまには、お付き合い程度にビールを飲むくらいのことはしてたよ。そうして、中年男どもの愚痴を、真面目な顔して、うんうんとうなずきながら聞いてくれるんだよ。人気者だったよ。僕も、ユキちゃんの大ファンだった。ユキちゃんが勤め始めてからは、ユキちゃんに会いたくて、週に一度はMに通うようになっていた。会いたくて会いたくて、我慢できないんだよ。一目でもいいからユキちゃんの笑顔を見たいんだ。それだけでとても幸せになれたんだ。子どもの頃の初恋と同じ気分なんだよ。その女の子が、自分の机の前を横切っただけで、どきどきする、あの気持ちだよ。僕は、ユキちゃんが相手をしてくれるまで、いつも、二、三時間はねばった。人気者だったから、僕のところまでは、なかなか来てくれないんだよ。で、来てくれても、せいぜい五分くらい話をしておしまいだ。けれども、それで全然構わない。それだけで僕は満足だった。この五分のために、僕は一週間を生きていた。あの店の扉を開いて、ユキちゃんが、いらっしゃいと言って微笑むのを見た瞬間、つまらない人生のことなんか忘れることができた。たまに客が少ない日に当たると、一時間もユキちゃんと話をできることがあった。うれしいんだけれど、何を話して良いやら分からず、つまらない仕事の愚痴みたいなことばかり話して、ああ、もっと気の利いた話題がないのかと情けなくなったもんだよ。それでも、ユキちゃんは、ちっとも退屈したような様子を見せずに、うんうんと話を聞いてくれて、そういう時のユキちゃんは、あの大きな目で僕のことをじっと見つめていて、その目を見るともう僕はたまらなくなって、この人のためなら何でもやる、どんなことだってやる、死んでもいいという気持ちになったものだよ。あの日も、そんな客の少ない日だった。ずいぶんと寒い夜だった。店の扉を開けると、カウンターでグラスを拭いていたユキちゃんが、いつもの笑顔で、いらっしゃいと言ってくれて、カウンターの一番端に座った僕の隣の席に来て、水割りを作ってくれた。僕が寒そうにしていたからか、ユキちゃんが、不意に、僕の右手を取って、冷たいね、と心配そうな顔で言った。ユキちゃんの手は、小さくて、柔らかくて、温かだった。僕は、ユキちゃんの手を思わず握った。ユキちゃんは黙って、そのままでいた。ずいぶん長い間、そうしていたような気がするけど、たぶん、実際には、一分にもならないだろう。僕がはっと我に返って手を離しかけると、ユキちゃんが、僕の右手を頬にあてて、あったまったね、と言ってにっこり笑った。僕は、うん、とだけ言った。それだけ言うので精一杯だった。たぶん、あの時、僕は、酒も飲んでいないのに、真っ赤になっていたはずだ。しばらくして、店の扉が勢い良く開いて、どやどやと団体客が入ってきた。店中が急ににぎやかになって、それこそドンチャン騒ぎで、ユキちゃんもそのせいで店中を大忙しで駆け回って、僕はまあ、ほったらかしになったんだけれど、ユキちゃんは、僕のそばを通る度に、わざと僕の背中にひじをぶつけたり、僕の耳を引っ張ったりと、小学生みたいないたずらをしてきて、僕はそれだけで、もう十分に幸せだった。ドンチャン騒ぎは二時くらいまで続いた。そうして、また、静かな店に戻った。残っている客は、僕と、もう一人、見たことのない若い客がいるだけだった。若い客は、遅番の女の子と奥の席で何やら熱心に話し込んでいた。ユキちゃんは、カウンターの裏で、団体客の残した洗い物をせっせと片付けていた。ママが、遅番の女の子に、後はよろしくね、と言って帰ったので、ああ、もう今日も終わりだな、と思って、洗い物をしているユキちゃんに勘定を頼むと、ちょっと待って、すぐに終わるから、と言って笑った。僕は、洗い物をしているユキちゃんの横顔を、酔った目でぼんやりと眺めていた。洗い物を済ませると、ユキちゃんが、僕の隣の席に座った。僕があらためて勘定を頼むと、ユキちゃんは、ちらっと横目で、遅番の女の子が若い男と相変わらず話し込んでいるのを確かめて、まだ、いいよ、と小声で言って微笑んだ。そうして、手が冷たくなっちゃった、と言って、僕の右手を握った。僕は、ユキちゃんの手を握り返した。そのまま、ずっと離さなかった。ユキちゃんは、真面目な顔で、じっと僕を見つめていた。僕は、遠くへ行きたい、と言った。ユキちゃんが、また逃げるの? と言った。ユキちゃんは、僕がT大を中退してから何度も転職を繰り返していたことも、それが原因で妻と離婚したことも知っていた。僕は、うん、と言って笑った。ユキちゃんは黙っていた。そうして、不意に、一緒に逃げる? と言った。驚いてユキちゃんを見ると、僕をじっと見つめていた。僕は、うん、と言った。何のためらいもなかった。あとさきのことなんか何も考えなかった。すると、ユキちゃんが、いいよ、と言って、にこにこ笑って、それから打ち合わせをした。僕が先に店を出て、コンビニの曲がり角でユキちゃんを待って、それからタクシーに乗って、というような段取りを決めた。遅番の女の子たちに聞こえないように小声でひそひそと相談した。逃げる先は、べつに何処でも良かった。初めに出た地名が甲府だった。それで甲府に決めた。いたずらの相談をする子どものような気分で、実に楽しい時間だった。それから打ち合わせ通り、僕は店を出て、コンビニの曲がり角でユキちゃんを待った。コンビニからはジングルベルが流れていた。しばらくして、ユキちゃんが、白い息を吐きながら走ってきた。ユキちゃんは、大丈夫、ちゃんとごまかして来たよ、あの二人つきあってるんだよ、と言って笑った。それからタクシーに乗って、朝までやってるT駅前のカラオケボックスに行った。僕が二十年も昔のヒット曲を歌うと、ユキちゃんは、その歌聞いたことがある、などと言って面白がっていたけど、そのうちユキちゃんは途中で眠り込んでしまった。僕は、始発までの一時間ばかり、甲府に着いてからのデートコースの計画を立てた。まずは昇仙峡に行くことに決めた。T大生の頃、当時つきあっていた女の子と昇仙峡に行ったことがあって、とても美しいところという記憶があった。ユキちゃんも喜ぶだろうと思った。昇仙峡の土産物屋に水晶細工が売られていたのを思い出して、僕は、ユキちゃんに、水晶のアクセサリーでも買ってあげようと思った。考えつくのはそんな他愛のないことばかりで、お金のこととか仕事のこととか、そんなことは、これっぽっちも考えなかった。始発の時間になったので、ユキちゃんを起こして、駅に向かった。ユキちゃんは、まだ半分眠っているといった感じで、僕の腕に抱きついて歩いていた。列車の中でも、ユキちゃんは、僕にもたれて眠り込んでいた。甲府駅に到着すると、ユキちゃんが眠そうな目をこすりながら、トイレに行ってくる、と言うので、改札で待ち合わせることにした。そうして、それきりだ。いつまで待ってもユキちゃんが来ないから、僕は、ユキちゃんの携帯に電話した。けれども、何の連絡もなかった。僕は、駅中を探し回って、ようやく、ユキちゃんはT市にひとりで戻ってしまったんだろうと諦めた。ユキちゃんにとっては、ほんのいたずらのつもりだったんだろう。それで、甲府まで来てしまったことに今更ながらに驚いて、こっそり帰ってしまったんだろう。僕はそう考えて、ユキちゃんにお詫びのメールを入れて、それきり、もう、店にも行くことはなかった。けれども、あの日から、ユキちゃんの足取りは途絶えているそうだ。僕は、ユキちゃんの最終接触者というわけだ。そうして、最近になって、昇仙峡の山中で、ユキちゃんの着衣が発見されたらしい。着衣には、水晶のブローチが付いていて、そのブローチを売った土産物屋の店員は、僕に似た背格好の中年の男が若い女に買ってやったことを覚えているそうだ。被疑事実について、僕が知っているのはこれだけだよ。どうかね? 僕は、ユキちゃんを誘拐して殺した犯人かい?」
「どういう情況証拠があるにせよ、君が否認する限り、私は君の無罪を主張する。それに、検察も、そんな程度の情況証拠しかないなら、君の犯行を立証することなんかできやしないよ。第一、ユキちゃんが死んだかどうかさえ、まだ分からないじゃないか。」
中村がそう言うと、Yは、微笑んだ。
「そう。情況証拠だけならね。けれども、僕が、もし、自白したらどうかね?」
「何だって?」
中村は驚いて、叫ぶように言った。
「自白って、どういう意味だね? まさか、犯行を自認するってのかい?」
「そう。自認する。」
「馬鹿な!」
「そう怒らないで聞いてくれ。自白すると言っても、今すぐじゃない。もし、ユキちゃんの遺体が発見されればの話だ。今、昇仙峡の山中を、県警が捜索しているそうだよ。」
「それで、ユキちゃんの遺体が見つかったら、何で、君が自白なんかしなきゃいけないんだよ。君は、何もやってないんだろう?」
「そう。僕は、何もやってない。」
「じゃあ、何で、そんな馬鹿なことをしなきゃいけないんだ!」
「だから、言ったじゃないか。戦うためだよ。」
そう言って、Yは、かすかに微笑んだ。
「戦うため?」
「そう。戦うためだ。でも、僕が無罪になるために戦うんじゃない。僕は、法廷という場所を利用して、神に選ばれたエリートとして戦うんだ。法廷闘争だよ。裁判自体が目的じゃないんだ。裁判なんて、所詮、裁判官を説得できるかどうかのゲームだからね。それも、やたらと面倒くさいルールで縛られたゲームだ。でもまあ、そのルールのおかげで、結論が正当化されて、万一それが冤罪でも、警察官も検察官も裁判官も責任を負わずに済むわけだ。そうすると、裁判制度なんて、要するに、責任回避のシステムに過ぎないということになる。裁判で出された結論が真実というわけじゃないんだ。そうでなくて、それは、誰も責任を負わずに済むように、ルールに従って論理的に組み立てられたフィクションに過ぎないんだ。けれども、それがいつの間にか、論理的に正しい以上は、それは真実である、とされてしまう。裁判で有罪になった以上は、その被告人が本当に犯罪をやったかどうかとは関係なしに、真犯人とされてしまう。実に奇怪だよ。論理なんて、元々、結論を正当化して責任逃れするための道具に過ぎなかったはずなのに、結論が本当に正しいかどうかなんて神にしか分からないはずなのに、いつの間にか、論理が神に取って替わって、その結論が真実かどうかを判定するんだ。論理が、神になるんだ。その挙句には、いくらでたらめな思いつきでも、優秀な弁護人が論理のお化粧に成功しさえすれば、凶悪犯が無罪放免になってしまう。まったく馬鹿げた話だ。真実の判定権を神から奪ったりするから、こんな馬鹿々々しいことになったんだよ。でも、まあ、神が法廷に出て来て、これは真実、これは嘘、なんていちいち判定してくれるわけでなし、人間が真実の判定権を神から奪い取ったのも仕方ないじゃないかって開き直るしかないわけだ。もっとも、神以外に真実を知っている人間が一人だけいる。犯人だ。犯人だけは真実を知っている。だから、犯人に良心の呵責さえあれば、弁護人の舌先三寸で凶悪犯が無罪放免になるなどという馬鹿げた事態が生じることはなくなるわけだ。犯人自身が、良心の呵責に耐え切れずに罪を認めるはずだからね。けれども、残念ながら、その良心自体が、フィクションに過ぎない。神から真実の判定権を奪ったために、人間は、良心というフィクションまで作り出したんだ。そして、それによって、論理的な真実というフィクションの欠陥を補おうとしたんだ。神が罰する替わりに、犯人自らの良心が自らを罰するというわけさ。実に滑稽なフィクションだとは思わんかね? この滑稽極まる論理に誰も疑いを抱かないのが、僕には不思議でならないよ。良心の呵責を感じるような人間なら、そもそもそんな犯罪を犯さないだろうってことくらい、三歳の子どもでも分かるんじゃないかね? みんな、良心というフィクションに騙されているのさ。人の心には良心と呼ばれる美しい感情があって、罪を犯した者は、その良心の呵責に耐え切れずに、罪を悔いて真実を語るようになるはずだ、などという馬鹿げたことを真面目な顔して信じている。そんな美しい良心のある人間がいるとすれば、それは、本気で神を信じている熱狂的な信仰者だけだよ。何せ、あの世で神に罰せられるんだからね。けれども、論理こそが真実だと信じている人間には、そんな美しい良心があるわけがない。あったとすれば、そもそも、犯罪なんかするわけがない。神にかわって自らの良心によって自らを罰することができるほどの意志の強い人間が、犯罪なんかを犯すわけがないんだよ。それでも、みんな、良心というフィクションを信じている。犯罪者は、たまたまその時に限って、良心が曇っていたんだろうと無理やり理解しようとする。蛍光灯じゃあるまいし、神に匹敵する良心がそんなふうに点いたり消えたりするんじゃたまらないよ。滑稽もいいところだ。けれども、みんな、その滑稽さに気が付かないふりをしているんだ。なぜだか分かるかい? そう考える方が、安心できるからだよ。どんなに凶悪な人間でも、その心の奥底には、ひとかけらの宝石のように、良心なるものが輝いているはずだと思いたいんだ。けれども、そんなものはどこにもないのさ。凶悪犯だけでなく、どんな人間の心の奥底をほじくりかえしたって、そんな宝石なんかどこにも見つからない。どんなに善良な人間だって、いつ、どこで、冷酷無比の凶悪犯に変貌するか分かりゃしないんだ。それこそ、たまたま今のところは、犯罪者になっていないというだけのことさ。そうして、今のところ犯罪者にならずに済んでいるのは、そんな宝石のような良心のおかげなんかじゃない。単に、損得勘定の結果なんだ。言わば、損得勘定こそが、神を持たない人間たちの良心なんだよ。自分の欲望と他人の犠牲とを天秤にかけて損得勘定しているだけなんだ。多寡が一万円の遊ぶ金欲しさに人一人殺せば、まともな人間なら良心の呵責を感じる。けれどもそれは、本当は、良心の呵責なんかじゃないんだよ。一万円の遊ぶ金と他人の命とを天秤にかけてみて、相手に損をさせすぎたという損得勘定の後悔に過ぎないんだ。そんな暴利をむさぼったりしたら、もう、誰とも商売ができなくなってしまうというわけさ。だから、相手がちっとも損をしないなら、良心の呵責なんかどこにも生じない。愛する我が子を無惨に殺された父親が犯人を殺して仇を討とうとする時、餓死寸前の赤ん坊を抱えた貧しい母親が札束をストーブにくべているような大富豪の財布からこっそりミルク代一万円を盗むという時、そういう時に、良心の呵責を感じると思うかね? 感じるわけがない。相手に何の損もさせていないんだからね。良心なんて、所詮、損得勘定に過ぎない。そうして、他人の犠牲よりも自分の欲望の方が価値が高いなら、良心はむしろ犯罪を正当化するんだ。この憐れな父親母親の行為を、憎むべき犯罪として糾弾できる人間が果たしてどれだけいるかね? 少なくとも僕にはできない。いや、むしろ賞賛するだろう! これこそ損得勘定に過ぎない良心の抱える致命的な欠陥だよ。良心が犯罪を賞賛するんだからね。けれども、神を持たない人間は、その欠陥に目をつぶるしかない。神にかわって、論理的な真実だの損得勘定の良心だのというフィクションを信じるしかないんだ。人間は、神のかわりに、フィクションの神を作り上げたんだよ。言わば、人造の神だ。そんなものは神とは呼べない。偶像崇拝だ。神を持たない人間は、知恵をしぼって、神のかわりになる偶像を作り上げたというわけさ。そうして、こんな偶像が、にょきにょきと、至るところにそびえているんだよ。正義だの、平和だの、自由だの、平等だの、ありとあらゆる有り難い偶像が作り出されて、みんな、黙って、それを拝んでいるというわけさ。けれども、現実の世界には、そんな有り難いものなんか何処にもない。論理的には実現可能なはずだという理想郷の夢を見せられているだけだ。それでも、みんな、その論理的な可能性にかすかな望みをつないで、実現するはずもない理想郷の到来を待ち続けながら、ひたすら沈黙を守って偶像の前にひざまずいているんだ。実に巧妙なシステムじゃないか! 奴隷を管理するシステムとしては完璧だよ。いつかきっと良いことがあるから、それを期待して黙って働きなさいというわけだ。そして、その良いことは、結局、永遠に来ないんだ。良いことが実現すれば、奴隷どもは解放されるんだからね。奴隷主が、そんなことをするわけがない。奴隷は、永遠に奴隷でなければならない。そのためには、偶像が立派であればあるほどいい。そして、ピカピカと金色に光り輝いてそびえ立つ無数の偶像を、法律と制度で一部の隙もなく組み合わせて、天に達するほどの巨大なバベルの塔を築き上げたというわけだ。そうして、塔の上では、奴隷主たちが、偶像を設計した大勢の神官どもを従えて、塔に向かって拝み続ける無数の奴隷たちを見下して満面の笑みを浮かべているというわけだ。中村君。君は、せっかく、この塔の上まで登りかけていたのに、自ら飛び降りてしまったんだよ。足の骨を折るかもしれないのに、いや、死んじゃうかも知れないのに、パッと、飛び降りちゃったんだ。そうだろう?」
「R社の社長が、君と似たようなことを言ってたよ・・・」
「ふふ。そうだろうね。あの社長は、決して悪い人じゃない。むしろ、良い人だよ。」
「あいつが良い人だって?」
「そうさ。良い人さ。少なくとも、正直な人だ。彼と僕たちは、きっと良い友人になれたはずなんだ。けれども、彼と僕たちとは、決定的に違うことがある。彼は、人間に選ばれたけれども、僕たちは、神に選ばれてしまったんだ。社長は、エリートじゃない。エリートは、神に選ばれた者のことだからね。僕たちのように、神によって、世界に適応する能力を奪われた者のことだ。だから、君は、塔から飛び降りた。塔に適応できなかったからだ。でも、社長は、今のところ、バベルの塔の立派な住人だ。彼が、エリートであるはずはない。けれども、彼は、自分がエリートになることを恐れている。」
「恐れている?」
「そう。恐れている。彼と話をしているとよく分かるんだ。彼は、バベルの塔の住人としての自分の能力が、神によっていつ剥奪されるかと戦々恐々としているんだよ。神は、突然、何の前触れもなく、いかにも理不尽な仕方で、能力を奪う。彼は、それをよく知っているんだ。だから、懸命になって、自分がバベルの塔の住人であることを、自分に言い聞かせているんだよ。決して、神に能力を奪われるような隙を作らないためにね。」
「隙を作らないために?」
「そうさ。突然、神は能力を奪いに来るんだよ。時々、新聞で、立派な地位にある人が、どういうわけか、文庫本なんかを万引きして人生を棒に振る記事を目にするだろう? ああいう記事を見る度に、僕は、ああ、この人も、神に能力を奪われたんだな、と納得するのさ。一流企業のエリートみたいな人が、きっと幼少の頃から猛勉強して一流大を出て、美しい嫁さんをもらって、子どもたちも利口で素直で、将来はアメリカ留学でもさせようか、なんて話題が食卓に上るような、そういう絵に描いたような幸せをようやく実現した人が、ある日突然、一冊四百円ぽっちの文庫本を万引きして、折角築き上げてきた地位も名誉も根こそぎ台無しにして家庭を破滅させるんだ。きっと、この人も、用心に用心を重ねて生きてきたはずなんだ。決して不幸の落とし穴にはまらないように、転ばぬ先の杖を何本も用意して、そろり、そろりと歩いてきたはずなんだ。そうして、やれやれ、もう大丈夫だろう、もう安心だと思った途端に、神に能力を奪われるんだよ。そういう用心を嘲笑うかのようにね。神は理不尽だ。いや、理不尽だからこそ、神なんだ。世間から見れば、いかにも馬鹿な男に過ぎない。けれども、僕は、この男を笑うことはできない。むしろ、ぞっとする。決して見てはいけないものを見てしまったような恐怖感にとらわれて戦慄する。昔、修学旅行で、阿蘇の火口を覗き込んだ時の恐怖感に似ている。火口の奥底から何か目に見えない力が働いて、くらくらと目まいがして、すとんと落下するような錯覚を覚えて、その瞬間、はっと気が付いて、さあっと血が引いていく、あれだよ。あの時の戦慄だ。たぶん、万引きした時の男も、あの目まいに襲われていたんだ。目に見えない力が働いて、ふらふらと文庫本をポケットに入れたんだ。そうして、はっと気が付いた時には店員に取り押さえられていたわけだ。これはもう理屈じゃない。損得勘定の良心では説明できない。魔が差したとしか言い様がない。けれども、それは、魔が差したんじゃなくて、実は、神のしわざだったのさ。人間どもは、神を殺したつもりになってバベルの塔の上でいい気になっているけれど、実は、神は、死んだふりをしているだけで、こっそりと、エリートを選んで、ある日、突然、その能力を奪うんだよ。憐れなる我がエリート君は、瞬時にして、すべてを失う。僕たちのようにね。ふふ。そうして、それによって、神は、人間どもを戦慄させるんだ。社長は、貧乏人から叩き上げて来ただけに、そういう神のしわざの恐ろしさを経験から知っているのさ。だから、自分だけはそんな隙を作るまいと必死になったんだ。そうして、神によって能力を奪われたエリートたちを、バベルの塔の掟に逆らう愚かな裏切り者として徹底的に蔑んだ。僕を徹底的に馬鹿にしたようにね。エリートが理不尽な行動をとるのは、エリートが単に馬鹿だからであって、神のしわざなんかじゃないと信じたかったんだよ。神のしわざなどという不条理を認めることは、それこそ、論理的なフィクションである偶像崇拝の危機だからね。エリートの万引きを、嘘でもいいから、とにかく何とかして論理的に説明して見せなければいけない。どうしても説明できなければ、精神異常とでも誤魔化して、後は知らんぷりするしかない。偶像崇拝を守護する神官たちは大忙しだよ。次から次へと、エリートどもが、不条理な愚行を繰り返すんだからね。言わば、これは、神のゲリラだよ。エリートは、神のゲリラ部隊というわけさ。自分の人生を棒に振って、自分の人生を神に捧げて、偶像崇拝に対するゲリラ攻撃を仕掛けているというわけだよ。そうして、僕も君も、神に選ばれたエリートだ。だから、逃げ回っているだけじゃだめなんだ。戦わなければいけないんだ。戦うべき時が来たんだよ! 君がバベルの塔を飛び降りたように、僕は、理不尽にも、こんな留置場に放り込まれてしまった。僕が、いつまで経っても逃げてばかりで戦おうとしなかったから、神がしびれを切らしたんだよ。それで、もうどこにも逃げられない留置場なんかに僕を追い込んだんだ。だから、僕は、戦うことにした。いや、僕はもう、戦うしかないんだ。僕は、戦うために、自白する。偶像崇拝バベルの塔に反逆する。これだけの情況証拠がそろっていて、僕の自白があれば、僕は、有罪になるだろう。僕が本当の犯人かどうかなんて、そんなことは関係ないんだ。真実の判定権は、神でなく、論理にあるんだからね。論理的な真実として、僕は、有罪にならなければならないはずだ。それが、バベルの塔の鉄の掟だ。だから、その掟に従い、僕は、論理の偶像の下では有罪であることを自ら認める。けれども、その一方で、僕は、神の下では無実であることをあくまで主張するつもりだ。無実だけれど、有罪を認めるんだ。無実の罪を認めるという不条理が、論理の偶像によって正当化されてしまうという矛盾を、バベルの塔の下で鎖につながれている奴隷たちに見せてやるんだよ。それこそ、論理の自殺だ。偶像崇拝の神官どもは困惑するだろう。彼らは、どうにかして僕の不条理を論理的に説明せねばならない。そして、論理の偶像の正しさを証明して、奴隷どもを安心させなければならない。神官どもは、僕の有罪の自認と、無実の主張とを、矛盾なく説明しようとするだろう。そのためには、どちらかを否定すればいい。僕の有罪の自認を否定するなら、僕の自白なんか信用できないとして、僕を無罪にするだろう。そうして、論理の偶像が、いかに寛容で慈悲深いかを証明して奴隷どもに涙させるだろう。逆に、僕の無実の主張を否定しようとするなら、僕の自白は信用できるとして僕を有罪にすればいい。そうして、論理の偶像が、いかに公正にして峻厳であるかを証明して奴隷どもを震え上がらせるだろう。だから、僕は、そのどちらの企みも失敗させなければならない。僕は、無実であり、かつ、有罪でなければならない。」
「無茶だ! 無罪を主張しつつ、有罪を自認するなんて、そんな矛盾する主張が通るもんか。君の自白は、虚偽の自白として片付けられるだけだ!」
「いや。そうはならないのさ。」
「どうして?」
「僕の自白が虚偽かどうかは、誰にも分からないからだよ。」
「だって、虚偽じゃないか! 君は何もしてないんだから!」
「そう考えるのは、君が、僕という人間を初めから信用しているからだよ。法廷では、僕のことなんか誰も信用していない。自白の供述調書が信用できるかどうかだけが問題なんだ。見た目さえちゃんとした供述調書なら、それが虚偽かどうかなんて、誰にも分かりゃしないよ。そうして、ちゃんとした供述調書は、刑事たちが作ってくれるはずだよ。迫真のドラマチックな供述調書をね。その供述調書に、僕は、素直に署名するつもりだ。自白の任意性を争うつもりはないからね。」
「それじゃ、君が有罪になるだけじゃないか!」
中村がそう言うと、Yは、中村の目を見つめながら言った。
「そう。僕は有罪になるだろう。けれども、ただの有罪じゃない。無実であり、かつ、有罪でなければならない。それによって論理の矛盾が生まれるんだからね。だから、君は、僕の弁護人として、無実の僕が、論理によって有罪にならなければならないという矛盾を主張しなければならないわけだ。つまり、君は、最終弁論でこう言うんだよ。被告人は、絶対に無実なんだけれども、これだけの証拠があるからには、弁護人としても、論理的な真実として有罪を主張することにしましたってね。」
「何だって? そんな馬鹿々々しい弁護はできないよ!」
「やるんだよ、中村君! 君は僕の弁護人だ。依頼者である僕のために全力を尽くすのが弁護人の義務だろう? いや、弁護人の義務だの何だの、そんなことはもうどうでもいい。君は、神に選ばれたエリートとして、僕とともに戦わなければいけないんだ! 君がやらなければ、僕には、何処の誰とも知れない国選弁護人が付くことになるだろう。そうして、そいつは、どうせ、僕が心神喪失だと主張して無罪を獲得しようとするに決まってる。僕の弁明は、狂人のたわ言として抹殺されてしまうんだよ。それこそ、バベルの塔の神官どもの思うつぼじゃないか! 弁護士だって、所詮、神官どもと同じ穴のむじななんだよ。僕たちエリートの反乱を鎮圧するために、奴隷主たちによって作られた操り人形に過ぎない。論理という糸で操られる人形だ。けれども、君は違う! 君は、バベルの塔を裏切った。手足に絡みつく論理の糸を噛み切って、バベルの塔から飛び降りた。僕を弁護できるのは、裏切者の君しかいないんだよ!」
「お断りだ! そんなことをして、いったい何が変わるっていうんだ。君の言うバベルの塔は、そんなことじゃ微動だにしないよ! 君は、訳の分からない主張をした挙句に、誘拐殺人の凶悪犯として刑務所に叩き込まれるだけだ! ただの犬死じゃないか!」
中村がそう言うと、Yは、微笑んだ。
「そう。犬死かも知れない。けれども、僕の弁明が、鎖につながれた奴隷たちの沈黙を破るきっかけにならないとは限らないじゃないか。生まれながらの奴隷は、自分が奴隷であることに気が付かない。僕は、奴隷に奴隷であることを気付かせたいんだ。奴隷の安逸に満足している者は、僕の弁明に耳を塞ぐだろう。余計なおせっかいをやくなと怒り出すかも知れない。けれども、僕は、おせっかいをやく。彼らのためではなく、僕自身のために、僕は、彼らの安逸に火を投じる。そうして、ただ一人でもいい、奴隷の安逸など御免だ! と声を上げる者があれば、その声で、バベルの塔の土台は、ほんのかすかながらも揺らぐんだよ。いや、誰一人として声を上げないかも知れないが、それでもいいんだ。沈黙する奴隷として生き長らえるより、自由なエリートとして犬死する方を僕は選ぶ。僕の戦いは、損得勘定じゃないんだよ。それを、ユキちゃんが、僕に教えてくれたんだ。居場所がなくて逃げ回っていただけの僕のところに、ユキちゃんが、天使のように舞い降りてきて、僕に手を差し伸べたんだ。僕は、その手を取った。そうして、天使の手を取った途端、僕は、もはや何処にも逃げようのないこんな場所に放り込まれた。逃げずに戦え、という神の命令を、天使が僕に伝えに来たんだよ。神を持たない僕には、神の声を聞くことができない。だから、神は、わざわざ、ユキちゃんという美しい天使をこの地上に降して、僕に神の命令を伝えさせたんだ。神を持たない僕でも、ユキちゃんのあの小さくて柔らかい手の温もりを信じることはできる。損得勘定の良心しか持たない僕でも、ユキちゃんのあの美しい瞳に見っともない姿をさらしたくはない。だから、僕は、もう逃げない。神に選ばれたエリートとして戦って犬死する。死刑になったって、べつに構やしないよ。無罪放免になったところで、どうせ、僕の居場所なんて、この世界の何処にもないんだからね。奴隷にもなれず、バベルの塔の住人にもなれず、ふらふらと世界の果てを漂って野垂れ死するだけだ。どうせ無益に死ぬことには変わりなくても、戦って犬死する方が、少なくとも野垂れ死なんかよりは美しいじゃないか。僕は美しくありたい! 美しく犬死するエリートの姿をユキちゃんに見てもらいたいんだ。まあ、そういうわけだよ。中村君。分かってくれたかい? いや、君なら分かるはずだ。」
「分からんよ! そりゃ、君は、犬死したって自己満足できるかも知れんがね、君を犬死させるために訳の分からない弁護をしなきゃいけない私はいったいどうなるんだ。そんな弁護をすれば、私の弁護士生命もおしまいだよ。」
「ふふ。君の弁護士生命なんて、とっくの昔に終わってるじゃないか。いまさら何を言ってるんだね。君にも、もう、逃げ場所なんかないんだ。僕と一緒に美しく死ぬしかないんだよ。まあ、君も、天使の手を握れば分かるさ。」
「天使の手? あいにく、そんなチャンスに恵まれたことはないし、恵まれたくもないね。とにかく、君の考えは分かったよ。けれども、正直言って、私は、君の望むような弁護をやってのけるだけの自信はないよ。まあ、いずれにしろ、ユキちゃんの遺体が見つかったらの話だろう? それまで、ちょっと、考えさせてくれ。」
「構わんよ。どうせ、君は、ここに戻ってくるんだからね。」
そう言って、Yは、にっと白い歯を見せて笑った。
                 五
 中村が接見室を出ると、警部が、煙草を吸いながら待っていた。
「おや。やっと終わりましたか。五分という約束だったはずですがねえ。ふふ。」
「ええ。ちょっと、ややこしい話になりましてね・・・」
「ほう。すると、やはり、お断りになるわけですかな?」
「いえ、まだ、留保しています。」
「おやおや。そりゃまた、ご苦労なことですな。」
「警部さん。ちょっと聞きたいことがあるんですがね。」
「何です?」
「誘拐だけでなく、殺人についてもYを取り調べているそうですね?」
「ふふ。別件逮捕とでもおっしゃりたいんですかな? べつに取調べというわけじゃない。行方不明者の着衣が発見されたんでね、まあ、誘拐の関連事項としてちょっと聞いているだけですよ。」
「でも、遺体が発見されれば、殺人に切り替えるつもりでしょう?」
「そりゃまあ、当然、そうなるでしょうな。」
「当然って、ちっとも当然じゃありませんよ。自殺とか事故の可能性だってあるし、遺体はきっと白骨化してるでしょうから、他殺かどうかの判別も困難なはずでしょう?」
「ほう。すると先生は、若い女が、雪深い真冬の山中で服を脱ぎ捨てて、全裸で自殺したとでもおっしゃりたいんですかな? まあ、絶対に有り得ないとは言わないが、常識はずれですよ。遺体が見つかれば、他殺以外には考えられませんな。」
そう言って、警部は、短くなった煙草の火を灰皿の隅に押し付けた。
「でも、たとえ他殺にせよ、その犯人がYと決まったわけじゃないでしょう? 情況証拠しかないんだから。ひょっとしたら、Yは犯人じゃなくて、別の真犯人がいるかも知れないとは考えないんですか?」
中村がそう言うと、警部は、揉み消した吸殻を灰皿にポイと捨てて、
「考えませんな。」
と、無表情に言った。
「先生。我々はね、そんなことを考えちゃならんのですよ。犯罪があれば、とにかく何が何でも、疑わしい犯人を捕まえる。それだけが、我々の役割なんですよ。そいつが真犯人かどうかなんて、我々が判断することはできない。それを判断できるのは裁判だけです。そうでなきゃ、そもそも裁判なんて必要ないということになりますからな。」
「でも、その裁判がでたらめだったら、Yはどうなるんです?」
「どうなるって、べつに、どうもなりゃしませんよ。でたらめだろうが何だろうが、判決が確定すれば、それが正義ですからな。一件落着ですよ。先生、正義ってのは、取調室なんかにあるんじゃなくて、法廷にあるんですよ。でたらめな裁判のせいで凶悪犯が無罪になろうが、無実の人間が死刑になろうが、それが正義である以上、もはや我々の知ったことじゃありませんな。我々は、疑わしい犯人を捕まえるという我々の役割をちゃんと果たしただけですからな。でたらめな裁判の責任を我々のところに持ち込まれても迷惑なだけですよ。我々は、べつに正義の味方じゃないんでね。ふふ。」
そう言って、警部は、新たに煙草に火をつけると、煙をゆっくりと吐き出して、
「ああ、先生。それはそうと、ちょっと、面白いことがありましたよ。」
と、言った。
「面白いこと?」
「そう。面白いことですよ。逮捕時にYの自宅で押収した日記帳にね、W市の教育長に贈賄したっていう記述があったんですよ。」
「え?」
「R社がW市の小学校に教材を一括納入した際に、W市の教育長に多額の賄賂を贈ったようですな。教育長のサインの入った領収書のコピーまで添付して、贈賄の経緯が実に詳細に書いてありましたよ。まるで、誰かに読まれることを予想していたかのように理路整然とね。おまけに、あいつのレコーダーには、社長命令として贈賄を指示する総務部長の声がしっかりと録音されてましたよ。言ったでしょう? あいつはまともだって。ふふ。まあ、今頃、R社の社長室に捜査員が踏み込んでいるはずですがね。そう言えば、先生は、R社の法律顧問でしたな? まさか、証拠隠滅に手を貸したりはしてないでしょうな?」
そう言って、警部は、にやりと笑った。中村は、憮然とした表情で、
「私は、もう、R社の顧問じゃありませんよ。じゃあ、失礼。」
と言って、警部に背を向けた。
 K署を出ると、中村は、思わず溜息をついた。これで、一千万の話もパーだ。こりゃ、いよいよ廃業だな・・・などと考えながら、暗澹たる気分で事務所に戻ると、事務所の電気が点いていた。不審に思いながらドアを開けると、女事務員が、
「先生! お帰りなさい。」
と言って走り寄って来た。
「何だ。帰れと言っただろう?」
「だって、気になっちゃって。」
「ああ、R社のことかね。顧問をクビになったよ。おれも、もう、おしまいだな。」
中村はそう言って、どすん、と音をたててソファに横になった。
「違うわよ。R社のことなんかじゃないわよ。Yさんのことよ。」
「Yのこと?」
「そうよ。やっぱり、断っちゃうんですか?」
「何だ。まだ、そんなこと気にしてたのか。まあ、引き受けるつもりで会いに行ってきたところなんだがね、何せ依頼内容が無茶だし、どうせ弁護料も・・・」
と、中村が言いかけると、女事務員は、
「じゃあ、引き受けるんですね! やったわ! 活躍のチャンスよ、先生!」
と、ひとりではしゃいで、ソファに横になった中村の鼻先に右手を突き出した。
「何だね?」
「お祝いの握手よ!」
「だから、まだ、決めたわけじゃないんだよ・・・」
と言って苦笑しながら、中村が手を伸ばした時、中村の脳裏に、Yの言葉が閃光のように走った。天使の手。はっとして、中村が女事務員の手を握るのをためらっていると、女事務員は、いたずらっぽい笑みを浮かべて、
「もう。ほら、握手!」
と言って、宙に迷っている中村の右手を強く握った。        (了)