宰相と便所のネズミ

 楚の人、李斯は、便所のネズミが汚物を食らい人犬におびえる一方、官倉のネズミはたらふく粟を食らい人犬も眼中になかったのを見て、卒然として人生の奥義を悟り、「人の価値はその居場所で決まる」として己れのあるべき居場所を探し求め、ついに始皇帝の治める大秦帝国の宰相にまでのぼりつめた。と、いうのが、史記列伝の伝えるところである。が、これは少し事実とは違うらしい、という異論がある。

 類書によると、事実は、こうである。官倉の貧しい小役人に過ぎなかった若き李斯は、みぞれの降る凍えるような冬のある日、便所に行って、そこで汚物を食らう痩せこけた便所のネズミを見つけた。猫にでも弄ばれたのか、右の前足が痛々しく傷ついたそのネズミは、ほとんど動くこともできずに死にそうに見えた。こころ優しい李斯は、そのネズミを拾い上げると、ふところに入れて温めてやった。ネズミは、ようやく体が温まったのか、李斯のふところの中をごそごそと動き回った。李斯はくすぐったくて微笑みながら、官倉の中に戻った。官倉の中には、その年収穫された粟が山と積まれてある。李斯は、上役のいないスキを見はからって、ふところから便所のネズミを取り出すと、そっと、粟の山に放ってやった。ネズミは李斯をふりかえると、あたかもお礼をするかのように、ちょっと頭を下げると、たちまち粟の山の中に姿を消した。李斯は、満足した。これで、あいつも、便所で飢えて凍え死ぬような惨めな死に方をすることはあるまい。せっかく、天から授かったいのちではないか。あたたかい官倉の中で、おなか一杯粟を食べるがいい。おまえがいくら食べたところで、この巨大な官倉の粟が減ることはない。文字通り、腐るほどある。遠慮はいらぬ。と。

 その翌日のことである。昨夜のうちに、みぞれは雪となって官衙を白く覆った。李斯は、白い息を吐きながら、便所に行った。そして、再びそこで、右の前足が傷ついたネズミが汚物を食べているのを見た。あいつではないか!? 李斯は、信じられなかった。なぜ、戻ってきた。死にたいのか。李斯は、再び、ネズミを拾い上げようとした。が、ネズミは、チュッと鳴いて、李斯の手をすり抜けて便所の奥へと逃げ去った。その時である。李斯は、はっとした。すべてがわかったような気がした。あのネズミは、戻ってきた。つまり、あのネズミは、生まれながらの便所のネズミだったのだ、と。いかに温かく豊かな官倉に連れて行っても、彼は、元の場所に戻るのだ。なぜなら、それが彼の生来の居場所だから。便所のネズミは、所詮、便所のネズミに過ぎない。それを無理やり、豊かであたたかい官倉に連れて行っても、彼にとっては、単に迷惑で面倒なことでしかなかったのだ、と。そして、若き李斯は、卒然として悟ったのである。人もあのネズミと同じことである。ひとは、本来あるべき場所に、戻らなければならない、と。

 人の居場所は、はじめから決まっているのだ。便所のネズミは、便所で生きて死ぬ。官倉のネズミは、官倉で生きて死ぬ。便所のネズミが官倉に連れて行かれても、かえって苦しいだけなのである。人も同じだ。居場所が人の価値を決めるのではない。人の価値は、はじめから決まっている。本来いるべき居場所も決まっている。が、多くの人が、運命のいたづらで、その居場所を間違っているのである。我々は、もともとあるべき居場所に、戻らなければならないのだ。人生の旅路とは、居場所を探すことではなく、本来の居場所に戻ることだったのだ。便所のネズミは、便所に戻れ。官倉のネズミは、官倉に戻れ。そうして、決して、便所のネズミを官倉に連れて行ってはいけない。それは、便所のネズミにとって幸福どころか、単なる迷惑に過ぎないのだから。逆に、官倉にいるべきネズミが、何かの拍子に便所に落ちたとしても、彼は、必ず、官倉に戻ろうとするだろう。汚物を食らいながら、便所のネズミたちとくだらない話題でげらげら笑っているような日々を過ごして満足することは決してない。なぜなら、そこは、彼のたましいの故郷ではないが故に。彼は自分の居場所に必ず戻る。彼の故郷に必ず戻る。必ず!

 と、楚の人、李斯は悟るや否や、官倉の頭の悪い上役に辞表をたたきつけ、大儒荀子に弟子入りすると、学は以て已むことなく刻苦勉励、一世の大才韓非と首席を競い合い、藍より出でて青となり、法家思想を究め、大秦帝国の官僚となって青雲直上、ついに宰相となって位人臣を極めた。

 後年、咸陽の都で一、二を争う豪商が、宮廷で李斯と面談した。大臣どもに賄賂を贈って巨富を得ていると噂され、皇族からも一目置かれるほどの豪商であった。かつて楚の下級官吏に過ぎなかったという李斯の前身を知る豪商は李斯を侮り、李斯が宰相の衣冠姿で現れるのを目にするや、「閣下はもともと楚国の官倉の小役人だったとか。それがいまや大秦の宰相様とは!そんなご立派な着物を着ていたら動きにくいでしょう! 」と言って、見下したように笑った。李斯はしずかに微笑んで、こう応えた。「いや、わたしは、あるべき居場所に戻ってきただけです。あなたも、そんなご立派な着物はさっさと脱いで、あなたのほんとうの居場所に戻るがよろしかろう。そうだな。巴蜀の奥地の流刑地などはどうか。少なくとも、この神聖なる宮廷は、おまえごときの居場所ではない」と。豪商は震えあがった。    (了)