モネ 「日傘をさす女」 幸福の一瞬の閃光


この瞬間のためなら死んでもいい。

人生に一度あるかないか、そういう一瞬の光景を、モネはカンバスに写し取った。

日傘をさす女。

モネの最初の妻カミーユが、逆光の影となってモネに悲しげな微笑みを投げかけている。傍らには幼い息子ジャンが無垢な紅い頬をして立っている。風が吹き抜ける。そして青い空。そして輝く白い雲。そして燃え立つ草花。それを見ている画家モネの視線そのままに、その一瞬は切り取られ、カンバスに写し取られた。

 

カンバスから溢れ出る光!

が、その輝く光の影となって画家に視線を投げかける最愛の妻。

貧困にあえぐ画家モネは、この最愛の妻カミーユを幸せにすることができなかった。

苦労をかけっぱなしだった。

そして貧困と病苦のうちに若くしてカミーユは逝った。

何一つとして、いっさい、モネは、彼女の愛に応えてやることができなかった。

無能な男。甲斐性無しのダメ亭主。これに尽きる。

が、この無能な男には、ひとつだけ、希有な才能があった。

光をカンバスに写し取るという、神業を持っていた。

男はその空前絶後の自らの特技を駆使して、妻の姿をカンバスに描いた。描き続けた。男の絵は売れなかった。売れても二束三文だった。それでも男は最愛の妻を描き続け、そうして或る晴れた夏の日の散歩の途中、モネは、生涯にただ一度だけ訪れる至上の一瞬に邂逅し、その一瞬をあやまたず、余すところなくカンバスに写し取った。

天才。という言葉は、この瞬間の画家モネのためにある。

神はこの無能な男に、この一瞬の小さな光景をカンバスに写し取らせるために、ただそれだけのために、画家としての天賦の才を与えたのである。

そしてこの世に生まれたモネ畢生の名画、「日傘をさす女」。

近代絵画の最高傑作と言っていい。

この一瞬の光と影を写し取ったカンバスに満ちあふれる人生の愛おしさと、その反面にひそむ悲しみの深さはどうだ。追っても追っても追いつけず、抱き留めても抱き留めてもすり抜けてしまう、そういう決して永遠に自分のものにはできない、あまりに儚い幸福が放つ一瞬の閃光。いま、まさに今、この手でしっかりとつかんでおかなければ永遠に失ってしまうことがわかっているのに、わかっていたはずなのに、この手でつかんでいたはずなのに、この手からこぼれて永遠に見失ってしまった幸福の遠い記憶。そういう人としての喜びと悲しみとが、一瞬の光と影によってカンバスに写し取られている。

 

この絵の前で、人は立ちつくすであろう。自らが見失ってしまった一瞬の至福の記憶を脳裏に探し求めて、モネの視線でカミーユのベールの奥の悲しげな瞳をじっと見つめるであろう。そして幸運な人は、脳裏にかすかに残っていたその一瞬の記憶の残像に回帰するであろう。懐かしい人、こよなく愛した人の笑顔をはたと思い出すであろう。そして彼は思うであろう。「ああ、おれは、なんてバカだったんだ」と。

 

印象派は、19世紀サロンを支配する新古典派、アカデミズムへの反発から生まれた。神話世界の神々を描くのではなく、人間がこの世でこの目で見たものを描くのだ。ビーナスではなく、女を描くのだ。なるほど新古典派の超絶技巧で描かれたギリシャ神話の神々は美しく文字通り神々しい。磨きこまれた大理石のように白く滑らかな肌で完璧なプロポーションの女神が天使とたわむれる光景は見る者をして恍惚とさせる。それにくらべて、印象派の描く女はどうだ。そのへんにいるふつうの女じゃないか。そう。そのとおり。そのへんの女そのままなのだ。モネの妻カミーユも、無論、ふつうの女だった。が、女神を描く新古典派の画家には、このカミーユの微笑は描けない。この瞬間のためなら死んでもいいという、そういう「永遠の一瞬」は描けない。なぜならこの人生を生きるのは、神ではなく、人間だからだ。神は、「永遠の一瞬」を知らない。「永遠の一瞬」を知るのは、その深い喜びと悲しみとを知るのは、この娑婆苦土で愚かな煩悩に苦しみもがきながら懸命に生きる惨めな人間にのみ許された特権なのだ。

 

カミーユが逝った後、モネは元パトロンの妻を後妻にする。カミーユの存命中から関係をもっていたとも伝わる。モネは、その後、「日傘をさす女」と同じモチーフの絵を数枚描くが、いずれも習作に終わった。そのいずれも、モデルの顔は描かれていない。モネは、もはや二度と、死ぬまで、あの日の一瞬のカミーユに出会うことはできなかったのである。

いや。訂正しよう。その人生の最期の時に、すでに失明して光を失っていたモネの目には、あの晴れた日のカミーユが見えていたであろう。きっと、そうであろう。あの逆光の影となって悲しげに微笑んでいたカミーユが。

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そしてあの夏の日から150年後の日本で、僕は、「日傘をさす女」を、パソコン画面で見ている。まるでこの目で見た光景であるかのように。

山下達郎僕らの夏の夢」を聞きながら。